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血   一考   

 

 タイトルは同様、しかるに当掲示板は旧掲示板を総括するものでなければならない。それが私の生き方である。自分に対してすこぶる真摯な興味を抱きつづけているが、それは他者の介在があっての自分であって、他者という鏡もしくは投影を介さなければ自分は霧散してしまう。言い換えれば、他者の存在がかろうじて自分を存在せしめているのであり、他者と自分は私の内にあって等価なものとして並列に存在している。並列を重んじるが故の掲示板であって、ブログではそれが成り立たない。
 この消息は読書と似ている。高遠弘美さんとはなしていて感心させられるのは、知識が必ずしも自己確立の手立てになっていないというところである。知識の「ち」は血ではないかと私は信じている。読み解くとの行為を伴わなければ、それは情報でしかなく、その情報を骨肉化しようとするところから知識がはじまるのだと心得ている。従って読むだけでは困るのであって、それをどのように咀嚼し、いかに体得したかの表明が必要になる。読み解くのが個であればこそ、当然その表明はオリジナルなものになる。もし独創でなければ未だ個に至っていないということになる。
 書きもしない手合いが述べ立てる口舌ほどさかしらなものはあるまい。興味がもてないとか詰らないとか、好悪だけでの判定はなにものをももたらさない。思うに、テキストを非難する前にそのテキストを読み解く自己の能力に疑いを抱いたことがあるのだろうか。いっそ、取るに足りないのは私ですと宣うほうがよほど潔い。書物と自己の二つの概念を結合して両者の関係を表す言葉が端から欠落しているのである。
 「一篇の作家論を読んで対象たる作家が詰らないと思ったとき、詰らないのは書き手の方なのであって、決して俎上に載せられた作家ではない。逆に対象たる作家がきらきら輝くとき、光彩を放っているのはエッセイを著した側なのであって、こちらも俎上に載せられた作家ではない。『問われるのは切り口である』などとよく言われるのはそのあたりの消息を指している。なにを採択するかに問題があるのではなく、いかに料理するか、その調烹に力点が置かれねばならない。なぜなら、対象になにを取りあげるかは好悪の問題であり、それは「自由意志」のなせるわざに過ぎない、翻って調烹には書き手の気質がありのままに露されるのである」
 上述の表明がなされている読書家にあっては、読めば読むほどに繙けば繙くほどに、書物におののき平伏するの他手立てはないのである。読書はどこまで行ってもおのが空(うつお)や疎(あばら)を填めるものではない。書物の毒を煽り読書家の怖ろしさを識る高遠さんにとって読書は自己喪失への旅立ちであって、決して自己の擁立ないしは確立に至るものではない。間違いなく彼の内では、夥しい書物と著者と自分とが並列に存在しているのだと思う。引用の作法を顧みるに、高遠弘美にとって最大の他者は書物であり読書であり言葉そのものであったと思う。三歎に値する友とはこのことをいう。


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2007年03月28日 03:54に投稿された記事のページです。

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