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田中隆尚先生の痛恨事   安保大有   

 

 田中隆尚先生は最晩年、著作選集の出版を強く望まれ、そのため遺言を三度作成された。いかにも往生際が悪いとの印象は免れない。これにはわたしにも責任の一端があるので事情を記録しておきたい。
 平成十一年の秋も深まった小春日和の日だったと記憶する。鵠沼の田中邸で先生の遺言公正証書が作成されようとしていた。二度目の作成であった。わたしは証人になるよう依頼されて立会ったが、内容を確認したのち署名捺印することを拒否した。同時に、先生に、公証人に対して作成請求を取り下げるとの意思表示をするよう勧めた。先生はその場で公証人にその旨の意思を表明し、遺言の作成は見送られた。
 遺言の内容はこうであった。先生は遺産のすべてを有限会社H事務所に遺贈し、同事務所は、先生の「撰集」全二十巻(予定)と歌集全二巻(予定)を出版し、先生の兄隆行氏の作品集と書簡集を出版するほか、書籍資料と遺品を一般の閲覧に供し、資金的に可能であれば先生の「続・撰集」を出版する責に任ずる。
 何はさておき問題は、はたしてH事務所には誠意をもって責任を果たす用意があるかどうかであった。それはO書店のH社長の名前を冠する事務所で、H氏夫人が代表取締役になっていたが、折からO書店は経営が行き詰って資金繰りに窮しており、先生の遺産は「撰集」などの出版資金になるどころか、その事務所をトンネルとして同書店の債務の弁済に回されて消える危険があった。
 O書店の経営が行き詰った直接のきっかけは、取次店T社に出版部数を偽って申告したことが発覚した結果、同社から密かにペナルティを科せられるに至り、本を作れば作るほど出版費用分が赤字になる状態が続いたことにあったようである。その情報は先生にO書店を紹介したK氏からすでに先生の許に寄せられており、同書店の経営状況についての情報を考え合わせると、その命運がほどなく尽きることは目に見えていた。
 日本の書籍流通業界は二大取次店であるT社とN社によって支配されているといってよい。取次店にはほかに取扱量が格段に落ちる中堅一社と群小四十社があるが、シェアを合わせても二割に満たない。T社とN社は問屋ではあるがただの問屋ではない。元はといえば同じ国策情報会社であった。戦時中にその規模が肥大化していたため、敗戦後GHQによって分割された。もともと情報管理と情報処理を専門とする会社であったところへ、日本の再販制度がその種の能力を要求する制度であったから、たちまち書籍流通業界を席捲してしまった。そのT社からペナルティを科せられたことは業界における死を意味する。事実、O書店は翌年初秋に倒産した。
 先生はその日、公正証書の作成請求を取り下げはしたものの、H氏に寄せる好意的評価を変えたわけではなかったようである。いずれにせよ、氏から電話で取り下げの理由を問われると、いずれ会って説明すると回答し、取り下げは自分の本意ではないといわんばかりに説明役をわたしに依頼した。
 同じ年の瀬も押し詰った寒い日だったと思う。先生と姪御のTさんと一緒に鵠沼海岸駅に近いイタリア料理店でH氏に会った。わたしから証人として署名捺印することを拒否し、先生に請求取り下げを勧めた上記の理由をあからさまに説明した。氏の名誉のために付け加えておくと、氏はT社のペナルティの件を認めたほか、会社の経営状態が思わしくないことも認め、そのことは先生にも告白した上での遺贈話であると反論した。氏はさらに、田中邸を遺贈されても「撰集」などの出版費用を賄うに止まり、氏の利益は残らないとも反論した。すると先生は、それでは出版費用の見積書を出してもらうことにしようと提案され、また、前年に貸した百五十万円は氏が『茂吉秀歌』を出版する際の頭金に充当しようと提案された。先生がH氏にもO書店にも未練を残しておられることは明らかであり、わたしの役割はそこまでだった。H氏が引き取ったあと、帰りに田中邸で話をしようと誘われたがお断りした。
 わたしが証人に指名されたのは、最初の遺言にも関わっていたからだと思う。先生は初め、遺産を藤沢市に寄付することを望まれ、市と合意した上でその趣旨の遺言を作成された。まだ姉上満尾久美子氏が存命だったころに始った話であるという。先生の語るところでは、記念館を建てて書籍資料、遺品、諸家の書簡類を保存し、一般の閲覧に供することが寄付の条件であった。著作選集の出版は条件に入っていなかった。わたしはその考えに賛成し、先生の遺志を実現するために努力することを約束していた。しかし親族からその条件で寄付するのは安売りに過ぎるとの異論が出たそうで、先生が三千万円の支払いを要求したところ藤沢市が拒否していた。
 条件の追加にわたしは賛成しかねたが、あえて止めはしなかった。藤沢市の出方がどうなろうといずれ遺言自体は有効でありつづけるからである。ただし反対する理由は説明した。親族からの異論は短慮に過ぎる。記念館の建設はその後の維持管理費用を伴う。少なく見積っても年間二千万円は下るまい。つまり十年で元は取れることになる。それに自治体は条件の追加を極度に嫌う。行政の安定性が失われるからである。また、自治体が寄付を受け容れるのは田中家や先生の事績もさることながら、行政的に見て市民福祉の向上に役立つという判断による。そういった説明を理解されたかどうかは知らぬが、先生は実際に金を要求して拒否された。
 二度目の遺言作成が見送られた日も同じ理由からさほど心配はしなかった。出前の鰻重とTさんの手料理を御馳走になりながら、こんな話をしていた。ーー先生はここの土地が坪八十万円に評価されているから二億四千万円の価値があり、それを丸々資金に使えると思っていませんか。それは間違いです。税金がかかります。かからないのは藤沢市に寄付したときだけです。個人に贈与すればざっと六十五パーセントの税金がかかります。相手に残るのは八千四百万円に過ぎません。切り売りはいけませんが、先生が売った場合はどうでしょうか。昭和十年代の初めにこの土地を父上が買ったとすれば、売るための費用が百万円かかると見てざっと計算すると、税金は四千五百万円になります。先生の手許に残るのは一億九千五百万円です。いっそのこと先生が存命中に売って著作選集の出版も記念館の建設も一挙にやってのけてはいかがですか。考えるのが面倒なら大手の建設業者に売ることにして、両方とも実現できるような計画書を出させればよいのです。ただし記念館を維持する費用は捻出しなければなりませんね、レストランを組み込むなどして。
 先生がぽつりといわれた。
「君も仕事をまとめるなら、七十歳までにしたまえ」
 痛恨の一言であった。
 三年後、先生の訃報を追うようにTさんから、先生が三度目の遺言を作成しておられたことを知らされた。二度目のものとほぼ同じ内容で、遺贈の相手は友人宇野宏氏となっているという。ついては会って相談したいことがあるとのことだったがお断りした。わたしの役割はH氏に取り下げ理由を説明した時点で終わっていた。Tさんには、もはや法定相続人といえども遺言執行者の許可なしには遺品に触れることさえできないこと、遺言の無効を主張して争うには執行者の財産管理上の非行を立証する必要があることを説明するに止めた。


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2007年03月28日 20:37に投稿された記事のページです。

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