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一考 | ボジョレー・ヌーボー

 予約をしてまで、航空運賃が加算された高価なボジョレー・ヌーボーを飲みたいとは思わない。しかし、横須賀さんの写真展会場で出されたヌーボーは美味しかった、宇野さんもいけると頷いておられた。バーテンに銘柄を訊いたのだが、知らないメーカーだという。一箇月ほどして、友人からさまざまなヌーボーを飲ませていただいた。個別の解説を書くのが代価である。不味いので有名なジョルジュ・デュブッフからノンフィルターのジャン・クロード・ジャンボン、マルセル・ラピエール、トラン、ジャン・ポール・セル、モラン、さらにルイ・テットやドメーヌ・シャサーニュ等々、約二十種類である。そのうち、トランのヌーボーで盃が止まった。同社は数種類のヌーボーをボトリングしているが、友人の店には三種類のトランのヌーボーがあった。そのなかに「ラ・パレイユ」というボトルがあった。横須賀さんの写真展で馳走になったヌーボーはこれである。高級品であることが興味の対象にはならない、しかし旨いものには尽きせぬ興味が湧く、あとはその「ラ・パレイユ」だけを一本まるごと馳走になった。

 晩年の横須賀さんはかなり貧していた。従って、彼と食事にいくのは松屋、飲みにいくのは和民と決めていた。しかし、彼と盃を重ねると和民のワインが輝きを増す、酒とはそういうものである。彼がですぺらへ現れたとき、一番安いワインを所望なさったが、そのシチリアのキャンティーネ・セッテソリと最高級のフォンテーヌ・ガニャールのモンラッシェ'89に感心なさっていた。そこが彼らしいところであり、それ故に気をつかう。例えば、日本酒の磯自慢だが、生酒を五度以下で五年以上寝かせたものを八百円で売っている。ワイルドターキーは94年のボトルを七百円で売っている。共に一万円を軽く超える値で取引されている。過日、水谷さんがラフロイグ30年の味が他店と違うとご指摘なさった。当然である、ヴィンテージが異なれば値にも五万八千円から一万八千円の差が生じる。そしてヴィンテージはラベルには記載されていない、香味で確認するしかない。味をききわけるに際し、観念的な操作でことにあたってはお仕舞いである。体験的にきたえた眼と鼻と舌を通じて選別する職人に徹することが必須である。蒸留所が全焼した2000年以降のターキーとそれ以前のターキーを峻別できないひとにターキーは不向きである。70~80年代のコルドンブルーを識っているひとに現今のコニャックは淡麗辛口に過ぎて飲まれない。それでも飲むならアーリーランテッドを除いてなにもない。ラベルではなく、香味で飲む、文句があるなら口でこい、である。
 かかるご託を並べるのは他でもない。このところ酒の整理が続いている。インポーターがウィスキーを、銀座の某酒店がワインを買いにやってくる。持っていてもしかたなく、店の売値に色を付けるというので、自宅の高級ワインを処分している。このようにして、こだわりがまたひとつ消えてゆく。さて、新宿ではなにを売ろうか。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月20日 05:15 | 固定ページリンク




一考 | 直リンク

 おきさんへ
 直リンクのおはなし、興味深く拝読。例えば、kame.despera.comなら龜鳴屋へiwana.despera.comなら「かわべ」の河崎徹さんのサイトへ飛ぶわけですね。なにかしらおもしろそうですね。しかしリンクを張られた方にしてみれば、「ですぺら」では浮かばれないでしょうね。河崎さんではないですが、「今はやりの自殺願望の人達のホームページで、ワシにいっしょ に死んでくれ、という事」になりそうです。悪意が悪意として通じる相手でなければ直リンクはとても張られません。
 悪意の申し子(オーメン)のようなひとならともかく、大方は根は生真面目で、気取りや形振りを構うようなひとばかりですから、到底無理ですね。畠山某のような反社会性人格障害もしくは反社会性適応障害のひとが主宰するサイトを探さなければ駄目ですね。
 畠山で思い出しましたが、能代の蔵元喜久水酒造の縄文能代と喜三郎は旨い酒です。縄文能代は穏やかな吟醸香、喜三郎は義侠の縁や侶を連想させるような男酒で、香味はまったく異なります。他では福島の大七・生貯蔵、愛知の義侠、富山の吉の友のにごり、福井の梵・ときしらず、広島の金泉・万葉、それに前述の焼津の磯自慢・生貯蔵を加えたあたりが私の好きな酒です。ただ、ウィスキー同様、年々味は変わりますから、飲んでみないと分かりません。明石の時は毎年、新酒に解説とランキングを付してお客に配っていたのですが・・・こちらは胃袋と直リンクのはなしでした。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月21日 06:31 | 固定ページリンク




おき | 直リンク

一考様。
実は、単なる転送機能ですので、サイトURLさえ指定できれば何処へでも直リンク可能です。
ただし転送した後の設定には2つあり、1つは素直に相手側の真のURLを表示するもの、
もう1つは図々しくも自分側のアドレス(まやかしURL)を表示し続けるというものです。
いずれにしても、一時的にせよ相手の商標、立ち位置を乗っ取るわけですので、
悪意を悪意として、善意までをも悪意と茶化して笑い飛ばす程の間柄でなければ、
なかなかリンク指定をできるものではございません。

さてわたくしの方も舌と胃袋のリンクを。閉店間際の「蕎麦 三日月」で飲んだ酒は、福井の「白龍」でした。
誤植ではありません。ポピュラーな銘酒「黒龍」にほど近い、同じ九頭竜川の水で作る「白龍」との事。
本気か冗談か?パチもんちゃうか? しかし好奇のリンク先には、喩えブラクラでも飛んでみるのが性。
店にすすめられるまま常温で飲むその純米は、まさに米を食むかのごとき、ふくよかな旨み。
インターネットで調べてみれば、酒米栽培には決して条件のいい環境とはいえぬ福井にて
自らの田で「山田錦」を作り、また自ら居酒屋を営みつつ、醸し供する酒。
我が意を得たり!と感心しました。斯くして戻る元を失いつつ味覚のリンクで福井に飛ばされたのです。



投稿者: おき    日時: 2006年07月21日 09:52 | 固定ページリンク




一考 | ADSLについて

櫻井さんへ
かっきーさん家のADSLが不安定で困っています。
詳しくは書きませんが、建物の構造上、最悪の配線になっています。スプリッターを最端末にしか付けられないのです。
次回はハブを入れる予定です。できることはすべて試みるつもりですが、質問をふたつ。

スプリッターからADSLモデムまでのモジュラーケーブルまたは壁面モジュラー端子からスプリッターまでのモジュラーケーブルをLANケーブルに置き換えるためのアダプタが売られていますが、この場合のLANケーブルはノイズに有効でしょうか。

ADSL用のノイズフイルターが売られています。中身はフェライトコアだと思います。名称はどちらでもよいのですが、こちらも有効でしょうか。

お忙しいところ恐縮ですが、他になにか方法があればご教示ください。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月21日 17:03 | 固定ページリンク




高橋貞雄 | 足穂への旅


1972年の4月私の編集発行となる「銀河系」に40枚ほどの<星は時間を捨てる 稲垣足穂頌>を発表しております。山形の新聞記者を止め、上京し、雑誌の編集者となり傍ら、幾つかの同人誌やマイナー誌の第三文明に表現の場を作り上げていきました。1971年から1973年は高円寺時代とも言えるこの時期に、宮沢賢治を主軸に三島由紀夫、高橋和己、太宰治、島尾敏男、吉本隆明、志賀直哉、坂口安吾へ取り組んでいます。1975年には編集者として稲垣足穂からの一通の葉書。「小生の新旧作の中から、みんなが余り知っていないようなものを探し出されて新編集と言うことになれば可能性もあるかと存じます。」(昭和48年7月4日)この便りに勇気を得て「多留保集」(潮出版社)シリーズの編集に携わっています。その後数多の多留保の本の解説、1990年には著作「タルホ逆流事典」へとタルホの宇宙へ浮遊していきました。一昨年亡くなられた種村季弘さんからは、タルホへ取り組みを強く勧められ、そしてその様子は、水魚の如しと言う話がありました。



投稿者: 高橋貞雄    日時: 2006年07月21日 22:35 | 固定ページリンク




如月 | 『東京タワー』が放送延期

フジテレビのドラマ『土曜プレミアム 東京タワー~オカンとボクと、時々、オ トン~』の放送が当分延期されることになったそうです。楽しみにしておられた 方には申し訳ありません。新しい放送日程がわかりましたら、またご案内致しま す。



投稿者: 如月    日時: 2006年07月22日 09:32 | 固定ページリンク




りき | 平井功訳詩集オフ会、おつかれさまでした。

昨晩お集まりいただいた皆さん、
ありがとうございました。

平井功訳詩集、ですぺらに委託させていただいてます。
発行人のぷひぷひさんが詳細は書かれると思いますので。

他委託先については現在検討中です。おまちください。



投稿者: りき    日時: 2006年07月22日 10:04 | 固定ページリンク




一考 | 端折り

 おきさんが「世界離散、ですぺら」で「なお『ですぺらのホープ』書き込みは内容・文体ともに明らかに店主と特定しうるもの。その謂われは、ご本人とご関係者以外は知る由もなく、ぜひ店にてご本人よりお確かめ下さい」と書き込みなさったが、掲示板の書き込みと活字とでは微妙に違えている部分がある。掲示板では、当事者以外には分からないように間合いを外す、もしくは内容を一部端折っている。この手法は絢子さんから学んだもので、真意を知られたくないので意図してひとを煙に巻くのである。
 例えば、先にグザヴィエル・ゴーチエの「シュルレアリスムと性」で、「平凡社ライブラリー版には旧版の『訳者後記』も収められている。六十年代の思想的激動の一端が垣間見られる傑出したエッセイである。また『訳者後記』に出てくる『君』は若くして縊死した大槻鉄男さんのことである。セリーヌやブルトンやシュペルヴィエルの名訳を遺したフランス文学者にして詩人。七十年代、私の京都時代は彼と共にあった」と書いた。下って「離散について」で「七九年一月十四日の友の死」と書いたのは大槻鉄男のことである。七年前に明石から埼玉へ引っ越した時、杉本秀太郎さんからミカン箱一杯の原稿や書簡が送られてきた。なかはすべて大槻の資料であり、私が持っていても仕方がないので杉本さんへお送りした大槻の遺稿も含まれていた。実は大槻のシュペルヴィエル訳を上梓しようとして、杉本さんと渡辺淳一さんに大槻の思い出を書いていただこうと思ったのが、その遣り取りの発端であった。しかし、送られてきた他人の書簡を読んでその気はなくなった。ずいぶんと私が悪者になっている。悪者になるのは一向に構わないのだが、そのまま出版すれば大槻さんのせっかくの推敲が誤解されかねない状況であると判断したからである(この部分も、この後のはじめも説明を端折る)。
 ひとが死ねば私こそが友人であったと、各人各様に信じ、思いこむのである。だからこそ、「いかように託けようとも、人に存在理由はありません。ならば、友も同様にして、『私は友であった』と著した瞬間に、友は指の間から砂粒のように零れ落ちて行きます。『友であった』かどうか、逝った他者の真意を推し量るなど、欺瞞以外のなにものでもなく、もし仮に友たりえたとしても、相方の死と共にすべてのかかわりは消滅します。さればこそ、友の存在を退けるのが本音なら、友の死を悲しむのは建前ということになりましょうか。自らに対する偽善を厭うなら、暫時友は切り捨てて行くのが自らへの、ひいてはその友への唯一のはなむけであり餞別になりましょう」と書いた。
 ひとりが長く書き込みを続けていると、多くの書き込みが互いにリンクしあうことになる。さればこその端折りである。また、友の死で傷つき悲しんでいる虚無主義者は絵にならない。そのような側面は活字ならともかく、掲示板には似合わない、と勝手に思い込んでいるのである。

 「再度山公園の修法ヶ原池、もしくは網走湖の呼人浦あたりが似合いの場かと心得ます」と書いた。網走湖の呼人浦には小さなキャンプ場があって、私のお気に入りである。そして国道を挟んで向かいの丘の上には網走の監獄と北方民族博物館がある。建て替えられた旧監獄であって博物館になってい、網走刑務所ではない。そして修法ヶ原池の北西には再度山学院がある。通称再度少年院と呼ばれていた施設である。廃校ではなく、「昭和四十二年に廃止された」と書いたので分かるひとには分かる筈である。昭和九年に竹馬学園再度山林間学校として完工、戦時中は抑留敵国人収容所となっていたが、昭和二十二年に建物は法務省少年院に寄付された。次いで、昭和三十七年に神戸学園に譲渡されて竹馬学園は解散、現在ではくすのき会ひふみ園となっている。足穂の小説に出てくる諏訪山の金星台はこの再度山への登山道の入り口にあたる。堀も塀も格子もないすこぶる特異な少年院で、いわば脱走が勝手なわけだが、同じような施設がかつて静岡にもあった。神戸、静岡共に、学院長(このような名称は使わない)は同一人であり、そのご子息がですぺらのお客さんである。ただし、この少年院への出入りは修法ヶ原池からではない。平野から上る428号線、通称有馬街道からである。その理由は平野の下祇園町と荒田町三丁目に少年鑑別所と家庭裁判所が道を挟んであるからである。鑑別所は通称「ごろいけ」といい、青い丸屋根の壮麗な建物だった。
 上記書き込みのすこし前、「南柯書局設立の理由はこれまで誰にも語らずにきたのだが、金曜日には喋らせていただこうかと思っている」と書いた。私は問われれば、どのようなことでも受け答えする。しかし、訊かれもしないのであれば、言いたくないことも多少はある。書きづらいことを暈かして書くのは当然である。季節遅れのボジョレー・ヌーボーを書いたのも同様で、店にはバーテンやソムリエが多くやってくる。まったく頓珍漢なご意見ばかりで普段は黙って拝聴している。だが、デュブッフは中味を偽ったことが発覚してもっか係争中だし、ワイナリーやネゴシアンが異なれば香味が違うのは当たり前。ブルゴーニュであればこそ、白のヌーボーならまだしも、ボジョレー地区の赤についての一般論など聞きたくもない。その困惑を書くのに、十箇月ほど日をずらしたまでのはなしである。

 また、詰らぬことを書いてしまったようである。飲み屋の掲示板でありながら、酒について書けば、かならず人生航路(後年は人生幸朗・生恵幸子コンビ)になる。そこで、おきさんの「白龍」についても身勝手な一言。先日、「黒龍」の大吟醸をかさねさんへお持ちした。ポピュラーな点では双方似合いである。酵母が同じでそれがまず気に入らない。九号酵母を楽しむなら香露か通潤を飲めばよいのであって、どうして福井の酒でなければならないのか。そもそも「黒龍」が私は嫌いである。吟醸酒はしっかり造っているが、あの蔵元の二級酒は飲まれたものでない。「シチリアのキャンティーネ・セッテソリと最高級のフォンテーヌ・ガニャールのモンラッシェ'89に感心なさっていた。そこが彼らしいところであり」と横須賀さんについて書いたが、その「彼らしいところ」が肝要だと思っている。同じ福井の「梵」は吟醸や古酒は当然、もっとも安価な「精選」が滅法旨い。山形の「樽平」や岐阜の「三千盛」と共に熱燗にして飲まれる数少ない酒のひとつである。名のポピュラーではなく、味わいのポピュラーを意識して広島の「金泉・万葉」を紹介した。例えポピュラーな酒であっても、人口に膾炙しないものがいいに決まっている。「黒龍」や焼酎の「百年の孤独」のような中味が伴わない酒が跋扈すればこそ、日本酒や焼酎は店に置くのをやめようと思っている。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月24日 23:13 | 固定ページリンク




一考 | 第一回塵芥賞発表

 過日、「私刊本二点」で「不興をこうむり、窓際でさびしく余生を送る編輯者、手形の遣り繰りで女房をすら質屋に預け、孤閨にうち沈む出版者、いじけ僻むだけが編輯者の末路ではないのです。出版社、取次、書店の役目は終わりつつあるのです。時代はこれから大きく変わります。鎌野さんや土屋さんに倣い、私刊本をみんなで造ろうではありませんか・・・そのような私刊本専門の書評サイト、私刊本を対象とした『塵芥賞(ちりあくたしょう)』のような権威や権力を恫喝する文学賞を設けようではありませんか」と書いた。
 そして、平井功訳詩集オフ会で愉快な発言が飛び交った。曰く、出版社は蛮勇社がよかろう、あとは野となれ山となれ叢書等々である。ネット関連の出版は自分の著したものが大半を占める。他人が著した稿となったその瞬間から、それは編輯であり出版である。龜鳴屋とはひと味違う版元に育ってほしいと願う。そこで、プヒプヒさんとりきさんに敬意を表して、今回の蛮勇に第一回塵芥賞を授与することになった。危急存亡のですぺらを顧みて賞金はつかない。だが、すき焼き食べ放題が賞品である。トロフィーはひろさんが勘案、授賞式は拙宅の庭園にて執り行われる。おふたりさん、日時と招待客ならびに持ち込み客を決めてください。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月24日 23:44 | 固定ページリンク




一考 | こまぶり

 おきさんと酒を飲みながら魚について話し合った。隣のかさねさんはカサゴが好物らしいが、そのカサゴにはじまって十数種類の魚にはなしが及んだ。もっともカサゴとはいっても、カサゴ科にはメバル、ソイ、メヌケ類などが属し、釣り人に好まれるガシラ、アカメバル、ホゴなどが含まれる。そしてガシラとクロメバルは刺身が旨い。
 この時期は海川を問わず、一年のうちでもっとも魚が美味である。九日解禁の釧路のサンマと鳥取・島根のアゴのはなしに興がひかれた。五島列島から能登半島にかけての日本海側では「飛魚」のことを「あご」と呼ぶ。「あご」はシーボルトが紹介した長崎の方言がそのまま定着したものである。関西ではトビ、三重ではウズ、紀州ではフルセン、焼津ではマイオ、富山ではタチョ、また石川ではツバクロともいう。
 春先のハマトビウオにはじまって、初夏にはツクシトビウオやホソトビウオなどが北上してくる。ホソトビウオを丸トビ、ツクシトビウオを角トビと呼ぶ。山陰での名称は丸アゴ、角アゴである。兵庫・鳥取・島根では丸アゴは焼いて、角アゴは刺身で頂戴する。カサゴと違って脂肪分が少ないので加熱すれば身が硬くなる、従って煮つけには向かない。
 角トビの刺し身にその魚卵をまぶしたものをこまぶりといい、いたく珍重される。イクラと同じように醤油漬けにしたものをトビッコというが、こまぶりでは生を用いる。京都では鮒の洗いに魚卵をまぶし、長野では鯉の洗いに魚卵をまぶす、それと同じ調法である。地域によっては穴子の洗いに魚卵をまぶして食するところもあり、それもまた珍味である。
 アゴの子の煮付は、昆布で取った出汁に濃口醤油一と薄口醤油一、味醂二の同割にショウガを加えて煮る、水から煮ると臭みが残るので要注意である。鯛の子の煮付けは花のように開かせるために敢えて強火にするが、アゴの場合は卵が破裂しないように弱火でコトコト煮付けるのがコツである。
 最近はラーメンの出汁に多用されるので、隠岐の「割りあご」が東京で有名になったが、平戸の焼あご、出雲の野焼、三宅島の揚げ団子、.伊豆七島のくさや等々、調理法は多種多様である。兵庫県の香住にも野焼が売っている。脂の品の佳さとかすかな甘味が身上である。包丁の金気が野焼きに移るので手でちぎって食べるのが通。この作法は他の練りものにも共通しているが、例外もあって、料理人の世界では仙崎かまぼこには柳刃が必要とされる。

 明石から日本海側の久美浜のキャンプ場まで、深夜なら車で三時間かからない。従って週末はいつも出掛けていた。青海島から若狭までを股に掛けてのキャンプ場巡りであると同時に、磯魚を珍味佳肴を求めての彷徨であった。
 角トビは地場では安い、大きなものでも百円以下で入手できる。こまぶりも、香住の漁師に教わった食し方なのだが、これがアイラ・モルトによく似合う。スコットランドで“Briny”(塩辛い)と言われるヨード香とこまぶりの磯臭さ、そのコレスポンドンスが堪らない。もっとも、出雲地方には、昔からアゴ用の「地伝酒」と呼ばれる独特の酒がある。ただし、地伝酒は濃厚すぎて飲用には適さない。一時期生産が途絶えていたが、野焼はもとより島根の郷土料理には欠かせない調味料として最近復活された。
 地伝酒で思い出したが、モルト・ウィスキーとワインにはワサビと酢の物が合わない。ワサビはウィスキーの熟成年数を読めなくする。アリル・イソ・チオシアネート(アリルカラシ油)の峻烈な匂いと辛味が舌の熱くなる部位を狂わせるのである。ウィスキーやコニャックは熟成年数が若いほど舌の先が熱く感じる。ひとによって差違があるが、およそ13年から15年で舌の中央部が、それ以上の長期熟成品になればなるほど舌の奥の部分が熱くなる。一方、酢はもともとは醸造酒を酢酸発酵させてつくる、従ってタンニン(渋み)が酸味に化けてゆくワインの微妙な熟成過程が判りにくくなる。早いはなしが、ヴィンテージが読めなくなるのである。従って、酢を用いるなら甘酢を、ワサビでなくショウガ醤油もしくは薬味にショウガが使える種類の刺身がウィスキーやワインには適している。さもなくば、いっそ酢味噌なら洋酒の香味を味わう邪魔にならない。
 先ほどからカサゴやアゴの刺身について触れてきたのも、私はそれらの刺身を酢味噌で頂戴するからである。前述の三宅島の揚げ団子も、トビのタタキに味噌、生ショウガ、大葉などの薬味を加え、すり鉢で擦って団子にしたものを油で揚げる。
 つくねに限らず、アゴはそのままフライにもするが、間違えてもタルタルソースは使われない。アゴにとどまらず、ヒラメであれ、カレイであれ、白身魚のフライには和辛子を薄く溶いたものが相応しい。極端に薄く溶くところがミソである。瞞されたと思って試していただきたい。タルタルソースやマヨネーズなどという塵みたいなソースで魚の味、言い換えれば磯の香を壊さないでいただきたい。どうあってもタルタル状が、とおっしゃる向きは擦った長芋や細かく切ったオクラを少量のせて食べていただきたいのである。(つづく)



投稿者: 一考    日時: 2006年07月27日 05:10 | 固定ページリンク




一考 | 八島について

 前項のしゃばしゃばの和辛子については亡くなった中島らもさんも、神戸三ノ宮の居酒屋「八島」に関するエッセイのなかで繰り返し述べている。八島で彼と面識を得たわけではないが、同時期に入浸っていたらしい。モルト会で大浦さんから指摘されて気づいたのだが、中島らもさんと私は「八島」の同窓生だったようである。八島と京都の労働会館については当掲示板で書いた気がするのだが、検索で出てこないので改めて書く。
 八島は昭和四十年から四十六年にかけて、山本六三と日参した飲み屋である。記載した年次はあくまで山本さんと日参した季節を指している。山本さんは私よりかなり年上なので八島への出入りは古く、私にしてからが、中学生時代から居続けたジャズ喫茶「バンビー」の牢名主ともいうべき小原さんや下中さんに連れられて八島へは出入りしていた。他方、現代詩神戸研究会の詩人たちとも繁く通っている。過日、神戸の季村敏夫さんに往時の詩人たちの消息をお訊きしたのだが、ことごとくがはかなくなられていた。
 山本さんは水曜会(マラルメに敬意を表して一日ずらしていた)を、私はやや遅れて土曜会を催していたが、八島ではそのメンバーのいくたりかが一緒だった。やかんへ放り込んで直火で温める二級酒が五十五円、「あか」と称する一級酒が六十五円、塩辛が十円、冷や奴が二十円、湯豆腐が三十円、もっとも高価な品が百八十円の肉豆腐と肉葱炒めだった。喰いたいが高くて注文できないその肉葱炒めに対する恨みつらみを中島らもさんは著している。彼は納豆ひとつを注文し、あとはポケットのなかの硬貨を握りしめる、そして銚子を一本注文するごとに硬貨を手から落としてゆくのである。掌に金がなくなったとき、その日の人生が終わるのである。
 山本さんは生鮨(キズシとの言い方は関西、東京ではシメサバ)、私は烏賊の塩辛が専らであった。四、五人で塩辛を囲んでの酒盛りである。塩辛には長いものや短いものが混じっている、箸で摘まんだ烏賊が長いと、ひとに悪い気がしてそっと戻すのである。若いときは暇はあるが金がない、十円の肴で四時間でも五時間でも酒を飲み続けるのであった。絵描きの武内さん(「世界のライト・ヴァース5 神様も大あくび」の挿絵を担当)や詩を書いていた岩田さんなどもそのころの飲み仲間だった。
 八島で忘れられないのが六十五円の赤出汁つき天丼である。天丼とはいいながら、厚さが一センチほどのぶよぶよのメリケン粉のせんべいに干しエビが三匹と僅かな玉葱と紅ショウガが入った、すこぶるシンプルな掻き揚げである。収入はことごとく本代で消えてゆく、従ってこの一日一膳の天丼が私の食生活のすべてだった。四十歳代半ばまで体重が五十から五十三キロを前後していた理由はこのような若いときの粗食にあったと、勝手に思い込んでいる。
 中島さん同様、百八十円の肴は私にも手が出せなかったが、七十円の玉子焼きと魚フライはごくたまに馳走になった。玉子焼きは中がじゅくじゅくで大根おろしの替わりにてんこ盛りの紅ショウガが付く、魚フライには水のごとく淡い和辛子がどっぷりと掛かっている。その潤沢さが、ひとのこころを豊かにし仕合せをもたらすのである。紅ショウガで二時間、玉子焼きで二時間の世界である。中島らもさんが書き綴っているのもそこのところである。
 今も八島は同じ場所で営業をつづけている。どうやら、赤出汁つき天丼は二百八十円に値上がりしたようである。天丼を喰いたいとは思わないが、あの魚フライでまずい燗酒を飲みたいと思っている。

  あま酒のくがだち酒のたぎち酒鏡花小史に酒たてまつる  吉井勇

(この稿つづく)



投稿者: 一考    日時: 2006年07月27日 20:16 | 固定ページリンク




一考 | バンビーについて

 前項の小原さんや下中さんについてひとこと。彼等は「バンビー」を中心に神戸モダン・ジャズ倶楽部を主宰してい、アート・ブレイキーを神戸へ呼んだ張本人のひとりであった。伝説の興行師神彰がアート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズの日本公演を企んだのが昭和三十五年、翌年の正月に東京、大阪、神戸と、九日間にわたって演奏会が催された。メンバーは アート・ブレイキー(ドラム)、リー・モーガン(トランペット)、ウエイン・ショーター(テナーサックス)、ボビー・シモンズ(ピアノ)、ジミー・メリット(ベース)、ビル・ヘンダーソン(ヴォーカル)の六人の黒人だった。中学二年生の私は下中栄子さんに連れられて国際会館の小ホールへ聴きにいった。ファンキーとかバップとかビートとか、聞きなれない言葉が飛び交うなかでジャズの洗礼を受けたのである。
 彼女は私が小学四年生のときから面識がある。福原、三ノ宮を問わず、バー街では知られた存在で、いつも女王様のように振る舞っていた。百万$をはじめ、ビクター、石、山、大$、やながせ、アカデミー、北野クラブ等々、いろんな店を紹介し、挙句に浮世風呂(今のソープランド)で酒を飲む癖を私に植え付けたのも彼女であった。アート・ブレイキーを境に急速に親しくなるのだが、それは夙成を認めたからなのかもしれないと、いまにして思っている。
 中山手通一丁目の喫茶店「にしむら」の裏手のアパートに「バンビー」の寮があって、そこでジャズの特訓を受けた。学んだというよりは、いいおもちゃにされたと言ったほうが正確かもしれない。いずれにせよ、当時開盤されたブルーノートの詳細を覚えさせられたのである。ですぺらではジャズを流しているが、私はジャズと映画のはなしは避ける。ワイン同様、ジャズについて語るひとは自らの好悪すなわち薀蓄を傾けるに終始する。個人の好き嫌いやジャズについての概説や一般論など聞きたくもないのである。私が訊きたいのは、そのひとの生き方にジャズがどのような響影をもたらしたのか、もしくはジャズが招来させたであろう個人の搏動についてである。これは文学においても同様である。

 彼等から私が最初に学んだのは「ワンステップ」という生き方だった。ダンスでいうステップなのだが、人生は一度きり、なにごとも一度きり、かかわり(愛情や友情)も一度きりという、アドリブを地で行くような刹那的かつ無責任な生き方だった。例えば一緒に飲んでいても、「それではこれで」のひとことを残して無情に立ち去る。酒を飲むに意味がなければ、飲まないことにも意味はない、要するに理由はいらないのである。気候が変わり、季節が移り、海も山もかたちを変えてゆく。ひとの存在もそれと同じで、生まれ落ちた瞬間から立ち枯れてゆく風景のようなものである。一切の種に永遠はない。そのような「ワサビのように峻烈な」生き方を彼等は中学生の私の身体に刻み込んだ。これがジャズなのだ、とばかりに。
 過日、「『神戸の残り香』成田一徹」で「触れれば傷つき、火傷するような熱い日々を送っていた」と書いたが、その遠因は福原に限らず、彼等から学んだ「ワンステップ」にもある。きっと、あの前後に価値観の瓦解が、私の敗戦体験があったように思う。
 「にもある」の意は「推定」であり、助動詞の「らしい」と同義である。思案をいくら重ねても分からないものは分からない。いかように判断を下しても、それらは一応の算定であり、仮の判定でしかない。だからこそ、同じ趣向のはなしを二度三度と蒸し返し綴り直すことが人生であり文学なのだと、そうした重語法的エポケーそれ自体が私の信仰告白なのかしらん。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月27日 23:11 | 固定ページリンク




蛮勇社社主 | 「平井功譯詩集」通販および書店取扱い

割り込み恐縮です。
「平井功譯詩集」通販フォームができました。html記法不慣れなため物凄く不恰好ですが、こちらからお願いします。
http://d.hatena.ne.jp/puhipuhi/00010101

また神保町の書肆アクセス(http://www.bekkoame.ne.jp/~much/access/shop/)に五冊置かせてもらえました。
価格は通販・アクセスどちらも1500円です。(通販の場合は送料込み)


>一考様
塵芥賞ありがとうございます。と言って喜んでいいのでしょうか……おまえの本は塵芥も同然であると言われてるような気がしないでもありませんが…… まあともかく塵も積もれば山になるよう地道に続けていきたいと思います。
バーベキューのお誘いもありがとうございます。ただいま「某」メンバーと相談しておりますが、おそらく九月以降になろうかと思います。



投稿者: 蛮勇社社主    日時: 2006年07月27日 23:38 | 固定ページリンク




一考 | 平井功と塵芥賞

 先日、佐々木幹郎さん来店、「塵芥賞を勝手に決めちゃったの」と言われてしまいました。実は塵芥賞は佐々木幹郎、宇野邦一、それと私の三人で選考の予定だったのですが、今回ばかりは私の独断で決めちゃいました。
 「権威や権力を恫喝」しているかどうかが選考基準なのですが、蛮勇社社主ならびに「平井功譯詩集」の編者ははなから権威、権力の持ち合わせがないのですから、選考の対象外なのです。これは澁澤さんや種村さんについても同じことが言えます。彼等は権威、権力からはのらりくらりと逃げ回っていましたから、アイドルにはなりえても学者にはなられなかったのです。と、ここまで書いて、編者には権威、権力の持ち合わせはないまでも、志向はあるのではないかと、後方をヤジが飛び交っています。
 で、選考の対象外ならひとりで決めても差し障りはなかろうと、また最初からあじゃらに拵えた文学賞なのですから薬味に孤憤の情(ですぺら)が必要になります。薬味でも妻でもあしらいでもよろしいが、なにかしら添えものがなければ冗談と怨念とが双方向になりませんもの。
 今までいくつかの出版社を興しては潰し、また乗っ取られてきたのですが、常に平井功「驕子綺唱」の開板が念頭にありました。この間の消息は先日平井功訳詩集オフ会にて少しくお喋りいたしました。それ故、ここで申し上げたいのは、今回の「平井功譯詩集」の造本体裁を覧てこれはとても私には造られないと思ったことなのです。平井功に限らず、対象に執心があると、かくも簡略な出版には踏み切れないものなのです。出版人にとって、造本それ自体が評価の唯一の顕わし方だと、そのような思い込みが私のなかにしぶねく残っていたのです。言い換えれば、彼等が拵えた「平井功譯詩集」に世代の断絶を覚えると共に、爽やかなやっかみを感じたということになりましょうか。しかし、それで結構、その軽みが彼等のいいところであり、軽薄さこそが次世代のメディアを、文化を形成してゆくのだと諒解しています。
 選者のひとりの宇野さんが佛蘭西へ外遊なさるので、八月早くに授賞式を済ませたかったのですが、九月以降のようですので、予定変更です。塵芥賞ですからそれもよし、あれもよし、なんでもよしでございます。授賞式はですぺらでも結構、「まあ、いいから飲みましょうよ」で締め括ることができれば幸いに思います。

追記。宇野邦一さんの予餞会は八月九日です。みなさんのご参加を願います。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月29日 21:44 | 固定ページリンク




高橋貞雄 | 足穂の星へ

1972年4月私の発行となる「銀河系」に原稿40枚ほどの<星は時間を捨てる 稲垣足穂頌>の評論を掲載しております。このころ山形の新聞社を辞め上京し、雑誌編集に携わり、高円寺時代と言える1971年から1973年の間に宮沢賢治を主軸に三島由紀夫、高橋和巳、太宰治、島尾敏雄、吉本隆明、志賀直哉、坂口安吾に取り組み、幾つかの同人誌や月刊誌第三文明に表現していきます。                        一昨年亡くなられた、種村季弘さんに足穂への取り組みを勧められ、大変喜んだとの話を聞いております。足穂の宇宙を浮遊する喜びであったのでしょう。 



投稿者: 高橋貞雄    日時: 2006年07月30日 21:14 | 固定ページリンク




一考 | 夢の王国

 高橋貞雄様
 ご返事おそくなり恐縮です。気儘な掲示板ですので、ご容赦いただきます。
 繰り返しますが気儘です。何時もひとに託つけての身勝手な発言ばかりで、掲示板として形式内容共に体はなしていないと、自ら承知致しております。
 はじめた当座はそうでもなかったのですが、半年もしないうちに意思表示の了知は諦めました。掲示板とは名ばかりで実体はブログです。それ故、海馬の涎などと嘯いているのです。

 貴兄の発行になる「銀河系」を存じ上げないので、当然「星は時間を捨てる 稲垣足穂頌」は未読です。高橋康夫さんの高円寺時代はAGEの清水弘子さんからお聞きしたような記憶もあるのですが、なにも覚えていないのです。彼女の岡田時代になるのかもしれませんが、覚えは曖昧で、やはり75年以降ということになります。
 高橋康夫さんからは数冊の書冊を頂戴しましたが、北一輝や正宗白鳥を除き、大半は少年文学に関する論攷です。「TBS調査情報」へ連載された「夢の王国」や「アサヒグラフ」連載の「少年小説の世界」は楽しく読まさせていただきました。彼は私の子供嫌いをご存じだったので、その歪な部分への呼びかけだったのかもしれません。
 少年時代に対して私は嫌悪感しか持っていません。従って、自らをなつかしむ気持ちがないのです。同様に、親としての自覚に欠けますから、逆に親が亡くなってもなんの感慨も抱かれないのです、ひとの生は新陳代謝に過ぎないと。それと比して「のらくろ」「少年探偵団」「ああ玉杯に花うけて」等、少年時代の郷愁をそそる<夢の王国>について語る彼の目は輝いていました。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月31日 13:47 | 固定ページリンク




一考 | 富ノ澤麟太郎の雑誌

 りきさんへ
 父の遺品を整理しに神戸へ行った折り、実家で私が使っていた机の引き出しに入っていたものを八つのダンボール箱に詰めて持ち帰りました。そのなかから、富ノ澤麟太郎の「流星」と大正十四年五月号の「文芸時代」がでてきました。後者は富ノ澤の追悼特集号です。
 横光利一編による「富ノ澤麟太郎集」を入手する前に蒐めていた雑誌の一部と思われます。「流星」は大正十三年十月の「改造」に掲げられましたが、商業誌に載ったはじめての作品だったと思います。「文芸時代」は横光利一以下、六名が執筆、中井繁一と古賀龍視の文章がよかったように記憶します。いずれも十代のころのコレクションです。もしお持ちでなければご一報ください。
 実は昔、蛸に関する文献を二十冊ほど蒐めたことがあって、内一冊に感心させられました。もっかその新書を探しているのですが、まだ見つからないのです。店の維持費で五十万、百万といった単位のお金が必要で蔵書を売り払い、残部は一万冊を切りました。それにも拘らず、相次ぐ転居で資料の整理がままならず、私の頭のなか同様、乱雑に犇めき合っているのです。



投稿者: 一考    日時: 2006年08月02日 22:43 | 固定ページリンク




薫子 | 壮行会?

 ですぺらの大切なお客様で、店主の友人でもある宇野邦一さんと牧子さんが8月末から1年間の予定でパリに行かれます。
しばしのお別れになりますので、8月9日(水)19時よりお二人を囲んで飲みましょうの会を催したいと思います。特に会費制にはいたしません。
よろしくお願いいたします。



投稿者: 薫子    日時: 2006年08月04日 04:12 | 固定ページリンク




薫子 | 八月のですぺら

俗に「にっぱち」と申しますが、ですぺらはその「ぱち」に突入しております。
夏休みなぞ取っていられません。
ということで、ですぺら八月も通常通りの営業であります。
皆様のお越しをお待ちしております。



投稿者: 薫子    日時: 2006年08月04日 04:15 | 固定ページリンク




一考 | 明石蛸

 餓えに魘されて、このところ食い物に関するはなしが続いた。それ故か、季村敏夫さんからいまが旬の明石蛸が送られてきた。夫婦で営む太寺三丁目の山下魚店からのご送付とあるが、徒歩一分のところに私は住んでいた。81年から82年までは枝吉だったが、82年から85年までは太寺三丁目、89年から99年までは太寺一丁目と、明石の東端で点々と借家住まいを繰り返していた。あの頃は東京から作家が訪ねてくると、山下魚店と二丁目の角のミニコープへ走っていたのである。また、兵庫県水試場長で、後年神戸市立須磨水族館へ移られた蛸学者の井上喜平治さんも太寺に住んでおられた。
 それにしても、なぜ山下魚店の蛸なのかが不思議である。神戸から明石界隈の魚屋には精通している。仕入れの用があって、明石屋やかねきなど名の通った店とはほとんど取引があった。それは酒屋も同様である。季村さんが住む多聞台にもいい魚屋が一軒ある。とここまで書いて思いだした。先日、ながらみ書房から歌集「ジャワ・ジャカルタ百首」を上梓された南輝子さんから、私が太寺に住んでいたのを聞かされたのだと思い当たった。彼女とは十代からの付きあいであり、私を「ワンタン」を呼ぶ数少ない友のひとりである。彼女なら、明石時代のことをよくご存じである。
 蛸がやってきたのは嬉しい。どのようにして食させていただこうかと、もっか調法を思案中だが、薫子さんはぶつ切りのバター炒めがいいと言う。しかし、蛸の訪ないにはなにかしら下心があるに違いない。おそらく彼がかかわる雑誌への執筆依頼であろう。季村さんのことだから、題目は割烹やバーではあるまい。震災もしくは神戸の古書店、新刊書店、出版社、古裂、古道具屋、おそらくその辺りだろうと思う。それは後日のはなしとして、蛸については書いておきたいことがある。
(つづく)



投稿者: 一考    日時: 2006年08月04日 20:37 | 固定ページリンク




一考 | タコヤキ屋三十軒

 蛸といえば、かつて種村季弘さんが「怪人百面相綺譚 または、渡辺一考とは何か」のなかで、
「拙訳のオスカル・パニッツア『三位一体亭』を本にしてくれたとき、私は広島の旅先から当時西明石に住んでいたこの人の寓居にサインをしに訪れたことがある。そのときにご馳走になったタコの吸盤のさしみが滅茶苦茶にうまかった、などということを思い出すとまた話が長くなる。
 しかしこのときの話に出たタコヤキのことだけはどうしても書いておかなければならない。タコヤキを食いにいこうというのである。こちらはすでにタコの吸盤で満悦しているので丁重に辞退すると、『いやうまいんです』と何とかという店の名をあげていきり立つように言った。西明石には三十軒のタコヤキ屋がある。それをしらみつぶしに食べあるいて叩き出した結論というのが、これであった。ああタコヤキ屋三十軒」
と著された。
 種村さんご指摘のとおり、明石へ引っ越して真っ先に調べたのが、たこ焼き屋から明石蛸の歴史に至る蛸あれこれであった。
 「たこ焼き屋は商売である」とは言いながら、三十軒のたこ焼き屋の風味はさまざまに異なる。まず、蛸の大きさが違う、メリケン粉(薄力粉)とじん粉(浮粉)の比率が違う、粉と出汁の比率が違う、つけ汁の出汁の取り方が違う、つけ汁の味付けが違う、つけ汁の薬味が違う、さらに焼く鍋の材質が違う、火力と焼き方が違う、「などということを思い出すとまた話が長くなる。」しかし、これを書いておかないと家庭でたこ焼きを作るのはかなわない。また、たこ焼きの一部を俯瞰できれば、食するときの居住まいも変わってこよう。
 種村さんに倣ってたこ焼きと書いたが、明石のそれは明石焼きであり、地元では玉子焼きと称する。玉子焼きを焼く銅製の器具を鍋と言うので、鍋一枚、鍋二枚とのあんばいで注文する。明石駅前の大明石町にある老舗「松竹」 はよく知られた玉子焼き屋だが、その筋向かいにも玉子焼き屋がある。日曜日と祭日のみ営むほとんど知られていない店だが、そこのスペシャルヴァージョンには巨大な蛸が入っている。通常の四、五倍はあろうかと思われる活蛸が中央にでんと鎮座している。
 駅から見て、「松竹」の手前を右に曲がれば「お好み焼き道場」がある。そこの玉子焼きは明石全体の玉子焼きのセオドライトのようである。文芸評論でいう伊藤整のようなもので、それ以下なら駄目、それ以上でなければならない一種の水準器となっている。生地を何度か加えながら焼くのでひとつひとつが大きくてやわらかい。つけだしは昆布で常温、甘くなく辛くもない、要するに少量の醤油と味醂のバランスがよく塩が控えめに用いられているのである。姉妹店に「酒道場」があり、蛸の天麩羅、鯛の子の煮付け、鯛のあら煮、太刀魚の刺身、鱧の湯引きなど、明石ならではの肴が豊かである。また「酒道場」で玉子焼きの出前をたのまれる。地元ではひろく知られているが、週刊誌などで取上げられたことが一度もない、いわば隠れた名店なのである。店名は伏せるが、屡々東京のマスコミで取上げられ、観光客が玉子焼きと蛸の関東煮を求めて列をなす店があるが、あれは明石でもっとも不味い店である。
 次にじん粉だが、小麦粉でんぷんを精製したものを本浮粉(うきこ)と呼び、さつまいもでんぷんで代用した物を浮粉と呼ぶ。ここで用いるのは当然本浮粉だが、主たる特徴は加熱しても固まらないところにある。従って、玉子焼きのふわふわした食感を出すに重要な役割を果たしている。片栗粉やコーンスターチも同じでんぷんだが、そちらは水になじみにくく焼き加減にムラが生じて味が落ちる。明石の魚の棚の中島商店、中村商店、白川南店などで売っていて、ネット通販でも購入可能である。メリケン粉とじん粉の比率は八対二からはじめ、徐々に同割にまで持っていく。最初から同割だとまるく焼くのに苦労させられる。
 粉と出汁の比率は簡単である。じん粉は小麦のでんぷん質のみで出来ているが、小麦粉には蛋白質(グルテン)が含まれるため、熱をかけると固くなる。その固くなる限界点まで、出汁で薄めるのである。前述したように玉子焼きは「ふわふわした食感」を楽しむのであるから、たこ焼き屋は柔らかさの限界を競い合う。割烹の出汁巻きに思いを巡らせていただきたい。柔らかくなければ大阪の、もしくは縁日の屋台のソースたこ焼きになってしまう。それは玉子焼きとは似て非なるものである。
 つけ汁の出汁の取り方だが、昆布、かつお、いりこ等を用いる。間違っても東京式の鰹節だけの白出汁はやめた方がいい。蕎麦や饂飩と玉子焼きは異なる、あくまで、薄めの吸い物を念頭に置いていただきたい。昆布とかつおのどちらが勝っても駄目で、そのバランスはセンスと言うほかない。酒ならともかく、吸い物のような根元的な香味のセンスを言葉で言い表すのは至難である。インスタントの粉末出汁を用いるなら、味の素のほんだしがいい、シマヤだと焦げ付いてしまう。ただし、味の素は味にえぐみがあるので量を控えめに。いりこだしだとヤマキなのだが、インスタントの粉末出汁は総じて塩とアミノ酸が強い、慎重な取扱いが必要である。
 玉子焼きが熱いのでつけ汁は常温で、そして薬味は三つ葉にとどめをさす。念のためにいっておくが、玉子焼きのなかは蛸だけである。
 玉子焼きの鍋は銅製の厚板鍋に限られる。鋳物は熱伝導が悪いので鍋に熱ムラが生じ、ふわふわには仕上がらない。安福保弘さんが打ち出す玉子焼工房か、大阪の甲野製作所の鍋がお薦め。共にネット通販での入手が可能である。

 末尾に当文章の構造式を書いておく。言明、つまり命題を分解していくと、最後には、これ以上分解すると命題にならないような命題に到達する。蛸の場合は「蛸は軟体動物門頭足綱八腕形目に属する動物の総称である」もしくは「蛸は食品である」ということになろうか。その原子的命題から出発して、「そして」「あるいは」「ならば」「でない」といった論理演算を潜って、しだいに複雑な命題を構成するに至る。その過程がおはなしである。命題とは、なんらかの主張を表した記号の組合せであり、主張そのものであると同時に、主張を成立させる状況の集合であるとも言える。後者の場合、命題の主語が人名であろうがなかろうが、そのものの棲息環境、謂わば人生そのものだと言えようか。そして原子的な命題が内包する棲息環境と複雑な命題のそれとでは状況が異なる。さらに言えば、状況それ自体が環境に即して壊れたり喪われてゆくこともありうる。要するに、命題は主張を成立させる状況の集合であるにとどまらず、時として喪われてゆく状況をすら内包する。言い換えれば、意味内容や表象から遠く逸脱してゆくそのものの影や分身、時として遺影すらもが含まれているのである。
(つづく)



投稿者: 一考    日時: 2006年08月04日 21:38 | 固定ページリンク




一考 | 引用と剽窃

 太寺に住んでおられた井上喜平治さんの著書が見つかった。その本を紹介したくて「タコヤキ屋三十軒」を書いたのだが、数十年ぶりに繙いた「蛸の国」と闇雲と掴み合っているうちに惹きずりこまれ、それこそ蛸の国を逍遥うことになってしまった。書き手すなわち井上さんと蛸との出身成分(家柄)が相互に嵌入しあい、どこまでが井上さんの信念で、どこからが蛸の考え方なのかが判然としない。異なる価値判断が交錯しながらひとつの意見と見紛うばかりに表明される。そのような書物を名著という。名著であればこそ、つづきを書くのは読み終えてからにしようと思った。

 「蛸の国」を紹介しようとすれば、引用の誘惑に駈られる。しかし、著作権継承者の許可を得ないで引用すると碌な結果を招きかねない。先日来、友がブログで訳詩を引用した、引用というよりは好意にもとづく紹介であり佐藤春夫を髣髴させる可惜しい鑑賞文である。しかるに、著作権を盾に取って遺族は応じようとしない。インターネットなどと称するいかがわしいところに身内の作品が軽々に載せられたことが、遺族には堪えられないのである。一方、ひとがらを存じ上げるがゆえに、友の苦衷、困惑は察するに余りある。
 当掲示板でも、過去に遺族や著作権継承者とのあいだで悶着があり、あらぬことを誣いられて書き込みの削除の已むなきに至った。専横であり踰越であって、公人の私物化だと異議を唱えても双方にかみ合うところなく水掛け論に終わる。パソコンを使うひとと使わないひととの間柄は想うよりも疎遠である。印刷機が発明されたときもそうだったが、新たなメディアが認められ、それなりの文化を育成するには七、八十年の年月が掛かる。インターネットが固有の価値や様式を創出するのは次の次の世代あたりであろうか。
 仕事柄、いくたりかの作家の書冊を上梓してきたが、遺族とのお付き合いは何時もぎこちない、うまく行ったためしがないのである。継いでいるのは血脈のみで、詩精神の場にあっては何人といえども赤の他人である、それが諒解できるひとなら削除など端から命じてこない、と私は信じている。どうやらそうした考え方が遺族のお気に召さないようである。この血脈に関しては私なりの意見の用意があるが、ここでは繰り返さない。

 引用に関しては日頃から細心の注意を払っている、もしくは払っているつもりである。引用は著作権の切れた作品もしくは存命している知己の作品と劃定している。「存命している知己」に限るのは謝れば済むことだし、「著作権の切れた作品」に関しては後は野となれ山となれ、である。そして「作品」に限るのは、やはり水掛け論は避けたいからである。主張を手早く伝えるために、時としてひとは駄洒落をとばし、意味内容や表象から外れたお喋りをする。というよりも、日常の会話とはそのようなものなのである。従って、あのひとがこう言った、このひとがこう言ったとの伝聞を私は採らないし信じない。論旨を咀嚼し適確に判断するような聞き手や話し手がそこらじゅうに居るとは思われないからである。
 伝聞で思い出したが、貴方はこう言った、ああも言ったと過去の贅言を知己から指弾されることも度々である。そのような時はアドレス帳の項目を「知己」から「頓痴気」に書き直している。余談ながら、この書き直しは二度と覆らない。
 当掲示板での書き込みに限ってだが、極力引用は避けている。活字なら編集者が責を負ってくれるが、ウェブサイトではそうはいかない。管理人とはいい酒を飲みたいのであって、紛争地への共同出兵はお断りしたいものである。従って、引用ではなく自分の言葉に置き換えて書くように努めている。言い換えれば剽窃に汗を流しているわけだが、意地無地の生じないように、念には念を入れているのである。



投稿者: 一考    日時: 2006年08月07日 20:01 | 固定ページリンク




一考 | 小咄

 塵芥賞の受賞者と金光さん、玲はるなさんが平井功の詩集を拵えているらしい。先日、せっかくの集まりだったのだが、厨房が忙しくて私ははなしもできなかった。その折り、フライパンを振り回しながら、価値判断を構造主義的に歪曲した小咄を考えていた。

 料理人の腕は包丁で決まる、要するに包丁を研ぐ伎倆がそっくりそのまま調法に反映されるのである。料理に対する知識は調理の現場ではなんの役にも立たない。なぜかと言うに、知識は一貫性や確証性を基礎にするが、料理に用いる材料は変化相が決まっているわけではない。例えば、羅臼の鮭とウトロの鮭、日高の鮭では食感から味わいまでがまったく違う。また、ときしらずのように同じ鮭でも季節によっておもむきを異とする。要するに、じかに材料にあたって味をききわける以外、手立てがないのである。食材の硬さによって、用いる包丁の刃の角度が違ってくる。大工道具ほどではないにせよ、さまざまに研ぎすまされた包丁がどうしても必要になるのである。
 同様に、文筆家の腕は鉛筆で決まるのではないだろうか。足穂が景品の鉛筆を禿びるまで使っていたのはよく知られたはなしである。原稿用紙も名古屋の「作家」へ応募してきた反故の裏面を使っていたと聞く。景品の鉛筆なら納得がいくが、足穂が三菱鉛筆(かつての真崎鉛筆)のユニを愛用していたでははなしがおさまらない。三菱財閥や逓信省御用達といった官製の影がちらちら付きまとう鉛筆でお伽話風のしゃれた幻想譚や「彌勒」のようなアナーキーな私小説など書けようはずがない。
 三菱にとどまらず、トンボであれコーリンであれ、ブランド品でプロレタリア文学は書けないだろうと思うのだが、どなたかゴシップ通の方に、大杉栄や小林多喜二がどこの鉛筆を使っていたのかを調べていただけないだろうか。
 もしも、文筆家の腕が鉛筆で決まるとするならば、パソコンについても同じことが言えないだろうか。マイノリティの文学を語るに際し、ウインドウズで打ち込みましたでは、面を張るか向こう臑を蹴飛ばしたくなる。ウインドウズで文学を語るとなれば、渡辺淳一や村上春樹のようなベストセラー作家に劃られる。これからの時代はさような細かい気配りが必要とされるのである。



投稿者: 一考    日時: 2006年08月08日 21:03 | 固定ページリンク




おき | 裏視線

一考様。枯れ木も山の賑わい。涎も受ける砂場がなければなりますまい。

「三菱鉛筆(かつての真崎鉛筆)」とお書きになっているので、
確信犯なのか、何らかの反語表現なのか、わからないのですが、
三菱鉛筆は過去も今もひとときたり、三菱財閥ではありません。
日本における鉛筆のパイオニアでありUNIはユニークの謂い。
逓信省へ納入成功した事が、飛躍の転機というのは事実ですが。
一方でかつて三菱グループ入りの誘いを断った伝説があります。

またPC史を知る者の視線からみればマッキントッシュの方が、よっぽど官僚的ともいえます。
WINDOWS&IBM-PC/ATの世界の方が相当なアナーキーワールドでもあるのです。

パチもん、という言葉があります。
語源を調べるとどうも「こんパチぶる」PCの「パチ」をとってパチもんだそうで。大阪発か?
ところで、現在IBMの現在のPCシェアは芥子粒の如し。ノートはレノポに売り払いました。
要するにパチもんワールドがPC/ATのハードウェアレイヤーの世界の現実の風景なのです。

プロセッサレイヤーでみてみましょう。ん?同じメモリアドレスに複数のアクセス方法がある!
(旧)インテルプロセッサの「論理的汚さ」には、唖然とするやら少々可笑しくなるやらでした。
互換性(俗世)を捨てるかわりに、コマンド体系が断然美しい旧モトローラプロセッサは見事。
大衆の情念を巻き込む政治の世界がPC/AT,理想主義の学者根性がMAC、とも言えます。

ましてOSレイヤーで語るなら、MACもWINDOWSも、安易すぎる「剽窃」でしかない。
そのレベルたるや、五十歩百歩であり、今更目くじらたてて差別化するような差はありません。
真の革命とクリエーションは、パロアルト研の真の天才たちによってなされました。
金余りのXEROXが、それを活かしきれなかったのも歴史の皮肉と言えるのです。

ちなみに味はともかく白龍は9号酵母ではありません。
酵母も味も一定していません。書生的酒でございます。
もしや新潟の白龍酒造との混同をされていないか、と。

料理の包丁の件は全面的に賛成いたします。なかなか研げず、
歯欠けばかりの毎日ですので。



投稿者: おき    日時: 2006年08月09日 01:17 | 固定ページリンク




一考 | 斜視線

 おきさんへ
 ちなみに私はUNI(ユニ)の愛用者で、原稿はいつも鉛筆書きです。だって、消しゴムが使えるのですもの。
 創業者の家紋「三鱗」が先に商標登録されたことや三菱財閥からの誘いを断わったことも存じ上げております。正確には眞崎鉛筆製造所ですね。第一、足穂が「お伽話風のしゃれた幻想譚や「彌勒」のようなアナーキーな私小説」を書いていた頃にはUNIブランドは誕生していません。
 音楽の歴史が楽器の歴史でもあるような、そうした歪曲が文章にも応用できないかなと思ったのです。つまり、小咄です。
 ご指摘のとおり「MACもWINDOWSも五十歩百歩」ですから、マイノリティの文学を語るに際しマックを使えとは書かなかったのです。ウインドウズで動くOS10.4.8やインテルマックで動くXPが平和に共存する時代ですから、なにも言うことはないのです。 ただ、あまりのシェアの高さをちょいと揶揄してみたかったのですが、例題が悪かったようですね。パロアルト研については詰らぬ文献ですが、少し集めて読みました。
 IBMはともかく、「パチもん」のはなしには興味があります。私が子供の頃の福原は縮の七部袖にステテコか股引、それとラメ入りの腹巻きが正装でした。ヤクザからテキ屋、蝦蟇の油売りからバナナの叩き売りに至るまで、いわゆる香具師のスタイルですね。あの股引の朝鮮語がPachiで、当然そこからきたものと思っていたのです。
 関西では「パッチもん」なのでしょうが、バッタ商品もしくは人称代名詞としても用います。「ゴン太」や「ゴンタクレ」の意もあって、広義な意味でのデスペラードですね。ただ、それでははなしが古すぎます。これからは大阪発の「こんパチぶる」でいくとしましょう。

 白龍が香露酵母でないことも、メールがあってすぐ分かったのですが捨て置きました、済みません。新潟の白龍酒造と間違えてはいません。黒龍の純米大吟醸が香露酵母だったと記憶するのですが、こちらも確認はしていません。そして白龍の生貯蔵酒の香りが黒龍の吟醸酒とよく似ていたものですから、早とちりしたようですね。
 昔は七号、九号、十一号、十二号位しかなかったのですが、義侠酵母にはじまって、いまでは数百種類の吟醸酵母があります。もっとも国税庁には数千種類あるそうで、その内の数種類は飲ませていただきました。ただ、昨今は純米吟醸酒にはまったく興味をなくしました。興味をなくしたのはいいのですが、吉田酒造にご迷惑をお掛けしたのであれば、謝罪しなければなりません。
 以上、取り敢えず。



投稿者: 一考    日時: 2006年08月09日 05:45 | 固定ページリンク




一考 | DNSサービス

おきさんへ
ところで、so-netから北品川通信なるメールあり。

ドメインの初期登録料 3,990円
同じく年額基本料 3,990円

ドメイン管理(DNS)サービス 月額525円

プラスドメインメールアドレスサービス
1アドレスにつき月額315円

と書かれていました。「ひやあーっ」でございます。
安く済みましたことに感謝。モルト・ウィスキーを一杯おごりますよ。



投稿者: 一考    日時: 2006年08月09日 06:09 | 固定ページリンク




一考 | なまづ

 moonさんへ
 お誉めにあずかり恐縮。
 神戸の季村敏夫さんからのご依頼で、「なまづ」というミニコミ誌に連載をはじめます。お題は神戸の古本屋ですが、ご指名があって、黒木書店と俳文堂だそうです。ともに書くことはいくらでもあるのですが、旨く書けますかどうか、例によってまったく自信がないのです。
 神戸の出版史を語るに俳文堂は欠かせません。また、江戸俳諧の今日を作ったのは神戸の古本屋と出版社です。大正末期から昭和にかけてが神戸の出版の全盛期だったと思うのです。
 ミニコミ誌ですから余部はないと思いますが、そちらへはお送り致します。ご笑覧いただければ幸いです。



投稿者: 一考    日時: 2006年08月09日 06:46 | 固定ページリンク




moon | (無題)


「なまづ」をお送り下さるとの事、ありがとうございます。
 ただ、鯰料理なら兎も角、貴兄の書かれた文のみ拝読出来れば嬉しい
ので、態々送っていただかなくても此方か彼方へアップして戴ければ幸
甚に存じます。俳文堂さんとは殆どお付き合いがなかったのですが、黒
木さんと貴兄との話は面白いのがありそうですね。楽しみにしておりま
す。



投稿者: moon    日時: 2006年08月09日 11:26 | 固定ページリンク




おき | ぱちの探求。

一孝様。
含みのある論評を為されている通り、ぱちもん=コンパチPCというのは俗説・都市伝説の類です。
なぜならIBM-PC/ATとそのコンパチ機の誕生以前からこの言葉は使われていたのですから、
「足穂の三菱鉛筆」同様、歴史の遠近をねじまげた小噺の装飾子に過ぎません。

「ぱちる」=「取る・盗む」の表現がもとより関西地方にあるとの説がもっとも真面目な語源説ですが、
こういう時にこそ覗いてみたい権威の力、広辞苑・平凡社大百科辞典・大辞林等々、
錚々たる辞書には、残念なら項目設定はもとより、文章表現としても一切見いだされません。
権威と優雅と標準を重んじる観点からは、言葉自身の存在を無視されるような俗語なのです。
その中で唯一、項目掲載をし、怪気炎を吐いているのが「通信用語の基礎知識 電算用語 技術俗語篇」。
以下、引用します

 「パチる」分類:コンピュータ>用語・俗語>技術>技術スラング
  ◇近畿以西の方言で”取る”の意。類義語に”ペチる”がある。いわゆる関西弁の一。
  ◇プログラミングの世界では、例えばLinuxで他のディストリビューションで使っているパッチを
   必要に応じて「パチってくる」という言い方をする。
  ◇受注が途絶える二八(にっぱち)にベンチャー経営者が陥りがちな精神状態。
    やけっぱちな状態を指す。

腹巻きのラメ刺繍とは、全く違う文脈で、Patchが語源となるジャーゴンもあるようです。
また、3つめは、当然、即興で拵えた親父ギャグでございます。



投稿者: おき    日時: 2006年08月09日 14:45 | 固定ページリンク




高遠弘美 | 暇なのでいろいろと

一考さま。
ご無沙汰してをります。いつも拝読してをります。
横から差出がましい書込みをいたすやうで、お許しを願ひます。
「ぱち」について、私は「パッチ」=股引は知つてゐましたが、あとの言葉は知りませんでした。暇にまかせて、日本国語大辞典第二版を眺めてゐましたら、以下の項目にぶつかりました。これと関係のあることなのでせうか。ご教示を賜りたく。

「ぱち」=1「嘘、虚言」2「偽物」
「ぱちもの」=「時計・指輪など、金銀の細工物の贋物をいう、てきや仲間の隠語」〈「隠語輯覧」1915〉

なほ、「パッチ」の項目には「朝鮮語のba-jiから」として「股引のこと。関西では木綿・絹製ともにいうが、江戸では絹物類のみをいう」として十七世紀後半の例から載つてゐます。
「語誌」として以下の説明がありました。
「1 朝鮮語ba-jiは(イ)男性がはくズボン状の服(ロ)女性がt∫i-ma(スカート)の下にはく下着をさす。
 2 十八世紀頃には日本語として定着していたようで、京阪では、股脚の長い物ほ「パッチ」といい、旅行用の短い物を「股引」といった。江戸では宝暦(1751-61)の頃から流行し始め、木綿製を「股引」、縮緬・絹製を「パッチ」と読んで区別した」

熟語として「パッチを穿く」があり、
「1 軍隊で上官から叱られる意にいう」として「真空地帯」の例が載つてゐますが、興味深いのは2と3と4でせうか。
「2 (わらじをはく」の言い換えか)逃げる意の、盗人・やくざ仲間の隠語」
「3 (「下駄をはく」の言い換え)中間にたって値段を上げ利益をとる。うわまえをはねる」
「4 他人の作品を無断で翻案製作する意の、映画界の隠語」



投稿者: 高遠弘美    日時: 2006年08月09日 16:05 | 固定ページリンク




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