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光文社の「BRIO」九月号で新宿二丁目にあった「ナジャ」が四ページで取りあげられている。吉田好男、金子國義、四谷シモンさんの座談とママだった古田真理子さんのインタビュー記事が掲げられている。文中で吉田さんが、自殺した資生堂の杉山登志さんを思い起こしている。「リッチでないのにリッチな世界などわかりません ハッピーでないのにハッピーな世界などえがけません ウソをついてもばれるものです」との名コピーを遺したひとで、横須賀功光さんの親友でした。真理子さんも杉山さんのことを書かれているのですが、横須賀さんが預かった杉山さんの猫が、もとをただせば、真理子さんの家からもらい受けた猫だったということを知りました。ちょいと無断で引用します。
彼は私の家からもらい受けた猫を飼っていたんですが、海外出張のため、写真家の横須賀功光さんに預けたんです。帰国後、すぐ引き取ろうとしたけれど、横須賀さんはあまりの可愛さに「もう少し預かっていたい」と言い、杉山さんは承諾、すぐ後で、杉山さんは自ら命を絶ちました。「あの時猫をすぐ返していれば家で独りじゃなかった」と横須賀さんは悔やんでいました。
このアビシニアンのはなしは横須賀さんから何度か聞かされました。そして昨日、ご子息の安理さんからアビシニアンを返したくなかったのは私でしたと伺いました。そのアビシニアンが死んだのは1976年。「ナジャ」の楽屋話のひとつでしょうが、このところ写真集の件もあって、横須賀さんをよく思い出すのです。
二丁目の「ナジャ」はその後三丁目に移りました。状況劇場にいらした安保由夫さんが店主で頑張っていらっしゃいます。この度、営業日・料金などを一新されたので、紹介させていただきます。
無休(日・祭日も営業)
18:00~2:00(日曜日は16:00~22:00)
ボトルセット・・・1000円
チャーム・・・500円
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/morikuni/nadja1.htm
http://www.kisseido.co.jp/column/nadja.html
りきさんへ
十日間ほど、六時からの出勤がつづきました。間村さん絡みの仕事がふたつ片付き、やっと肩の荷が下りました。月末にあと一本ですが、こちらは鷹揚にかまえていても大丈夫です。それにしても、私のように才能も学歴もなにもない法螺吹き人間には大変です。毎日十時間ほどパソコンとにらめっこして、十五枚が限界でした。間村さんはもっか難産の真っ最中、ひとの不幸ほど愉しいものはありません。「ざまあみろ」を肴にこれからひとりで酒盛りです。
恋を語らず何を語る?という世の中ですが、 このコピペを必ず5つのスレに書き込んでください。 あなたの好きな人に10日以内に告白されます 嘘だと思うんなら無視してください。 ちなみにあなたの運勢が良かったら5日以内に告白&告白したらOKされます
皆様、こんにちは。
現在発売中の「ユリイカ 2005年8月号
http://www.seidosha.co.jp/eureka/200508/
特集*雑誌の黄金時代 紙上で見た夢」に、
私の作品が2ページ載って居ります。
筆名、平岡靖生。題名、「かえる賛」です。
御笑覧戴ければ幸甚です。
夏はあの世とこの世の橋渡し
回路が開きますね
皆様の御活躍を!
【ははのちち】 HP
http://www10.plala.or.jp/EUREKA/
【ははのちち】 BLOG
http://blogs.yahoo.co.jp/eureka_blog
13日(土)午後7時より、ですぺらにて真夏の鍋パーティを催します。
ブタ鍋の予定。お酒はビール、ワイン、焼酎などを用意いたします。
会費はお酒を飲まない方は3000円、飲まれる方は4000円、ものすご~く飲まれる方は5000円。ものすご~く飲んだかどうかの判断は私がしますので、うまくごまかして下さい。どなたさまでもお気軽にご参加下さいませ。
海外旅行用海外専用GSM携帯電話のご紹介です。世界180カ国以上で使用可能。 DOCOMOのFOMAカード、VODAFONEのUSIMカード、または、現地のコンビニなどで購入できるプリペイド型SIMカードを挿入して、使用できます。詳細は、 http://www.deedeegsm.com/または http://openuser1.auctions.yahoo.co.jp/jp/show/auctions?userID=takatakabkk&u=takatakabkk http://openuser.auctions.yahoo.co.jp/jp/user/deedeegsmcom をご覧ください
経済評論家の内橋克人氏は「東証一部の上場企業に限っても、82兆円が現金預金として眠っている。今年度も16兆円増える見込みで、企業は過剰マネーの投資先に頭を抱えている。民営化で郵貯・簡保資金が民間市場に流れ込んでも設備投資には回らず、利回りの有利な運用先を求めて米政府証券など海外に流れるだけ。国民の資産不安定な投機マネー市場におびき出され、高い海外リスクにさらされる」と著している。
330兆円の郵貯の行き先は、どうやらどこにもなさそうである。民営化すれば、たちどころに破綻するのは目に見えている。一方、郵貯は財政投融資の原資の過半を占めている。運用先は政府金融機関等を通じて対民間投融資、事業特別会計・日本道路公団等への政府事業建設投資、地方公共団体への貸付または地方債の引受等に大別される。ところが、その運用先はどこもかしこも赤字である。政府が元利払いを保証しているので、郵政公社は理屈の上では黒字である。だが実体は770兆円、国民一人あたり640万円の借金があり、その金数は郵貯が回りまわって化けたものである。郵貯はとっくの昔に不良債権化し、腐臭を放っている。金をじゃぶじゃぶ使った政治家や官僚が悪いのか、運用の手立てをなにも持たずに、すべてをお上に委ねた郵政公社が悪いのか、なにも考えない脳天気な預金者(国民)が悪いのか・・・そんなことを今更言ってみても、なにもはじまらない。
郵政公社の窓口業務がなくなれば、地方の町村の経済機能は成り立たなくなる。当然、現行のシステムは縮小して国民の税金で維持すべきである。縮小としたのは民間銀行のある都会では不要だからである。現在、特定郵便局は19000局、簡易郵便局は4500局を数える。特定郵便局は19000局の内、3000局を残し、他は簡易郵便局へ衣替えすべし。それだけで、年間2000億円の人件費が浮く。ついでに、利子は民間銀行のそれと同じくし、ペイオフを1000万円に設ける。前述したように、今の世の中、利子が稼げるような運用先はどこにもない。元金保証で利子がつくような預け先があること自体がおかしい。
とは言え、郵貯・簡保の健全な落としどころは自然消滅以外ないように思われる。消滅が目的なら国有化でも民営化でも賛成である。
http://shinsho.shueisha.co.jp/toranomaki/010821/
ポリティカルなはなしには興味があるが、現実の政治にはなんら興味が抱けない。小泉首相が振り回す二元論は特にいただけない。さりとて、全特やJPUや全郵政のご用政党には嫌悪感すら覚える。既得権益にしがみつく今の民主党は10年前の自民党そのものではないか。今回の自民党の造反組のやくざの親分のような立ち居振る舞いには嘔吐がでる。彼等に対立候補を立てることによって、自民党ははじめて政権維持政党から政策集団に変わろうとしている。ことの是非はともかく、17年ぶりに自民党へ投票しようかと思っている。
せっかく片づいたと思った原稿の書き直しを命じられた。私は才能の持ち合わせがないので、頻繁に突っ返される。今回の原稿は13回書き直した。だからこそ、編集者の許可が下りるまで何度でも書き直す。書き直すことによって、対象との距離の取りようが分かってくる。もしくは対象への理解が深まるのではないかと思っている。
エッセイとは妙なもので、書き込めば書きこむほど、描いた対象のうちに書き手の気質のようなものが穿り刻まれていく。対象がなんであれ、それら相関者から書き手の内面が逆照射されるのである。手に負えない対象を相手にすれば書き手の至らなさが、コンプレックスの不在に立ち会えば、書き手の人目をはばかる劣等感や負い目が剥きだしにされてしまう。対象にかこつけて自らのことを著すのが文学であろうから、当然といえば当然である。しかし、そこにエッセイの妙味が、そして怖さがある。妙味とは対象に導かれて書き手がみずから関知しない新たなディメンションに到達してしまうことである。怖さの方の説明はいたって簡単で、自分の化けの皮が剥がされることであろうか。そのどちらであるにせよ、対象にかこつけて自らのニヒリズムを頓着なしに書き綴るしかない。
繰り返しになるが、一篇の作家論を読んで対象たる作家が詰らないと思ったとき、詰らないのは書き手の方なのであって、決して俎上に載せられた作家ではない。逆に対象たる作家がきらきら輝くとき、光彩を放っているのはエッセイを著した側なのであって、こちらも俎上に載せられた作家ではない。「問われるのは切り口である」などとよく言われるのはそのあたりの消息を指している。なにを採択するかに問題があるのではなく、いかに料理するか、その調烹に力点が置かれねばならない。なぜなら、対象になにを取りあげるかは好悪の問題であり、それは「自由意志」のなせるわざに過ぎない、翻って調烹には書き手の気質がありのままに露されるのである。
種村季弘さんは「時計」のなかで「時計=ユートピアに対する私たちの好き嫌いもまた、まさに自由意志のなせるわざなのである・・・それなら、いっそ自由意志のレンズを通して見ることをやめてしまえばどうなるか。そのとき時計なら時計は、時間計測器として私たちを拘束する悪しき機械でも、永久運動の模造物として恐怖と魅惑を同時に発生させる装置でもない、ただの無意味なオブジェとして、そこらにごろんと転がされ、しかもそうして無意味なオブジェと化した瞬間からいよいよ謎めいた表情を帯びはじめる・・・いまや自由意志を蝉脱して謎と化したオブジェとしてよみがえるのである」と著している。自由意志がもたらすものは「自由」に悖反するものであって、巧みにひとをあざむくものである、と種村季弘は示唆する。怖ろしい言葉である。
で、前述の書き直しである。面白くないとの意見が返ってくるのは読んでいただけた証拠、もしくは期待をかけられた証拠である。忝く思っている。
平凡社から種村季弘さんの「断片からの世界」が上梓された。単行本未収録を中心にした美術ラビリントスである。腰巻に、覗き、集合論、変幻、妖怪画家、からくり、漫遊記、太母、空壜、練糞術師、仮面、架空紀行、贋物、輪、狂画人、解剖学、魔法、西日、トポス、迷路、没落、箱、夢、歩行者、との言葉が記号のように記されている。「私は」との主辞のあとにやってくる「何々である」との賓辞を一定の方向にどこまでも拡張してやまない、といった風情がそこに見て取れる。そしてそれらの言葉自体が種村さんの文学の方法論を示唆していることに気付かされる。畸型、傀儡、人外への偏愛と自在なアナロジーによって、種村さんには「韜晦」との文言がしばしば冠せられる。しかし、種村さんはなにひとつ包み隠していないし、晦ましもしない。「韜晦」を口にした瞬間、種村さんはたやすく抜け出して、間のぬけた念を押すはめになりかねない。賓辞の数だけ繰り返し念を押しても無駄である、すでに我々は種村さんの詭計に嵌められている。向こうの方が一枚も二枚も役者がうえで、尋常の手立てが通じる相手ではない。
種村さんは二者択一のような対立的・図式的なものの考え方を否定するかと思えば、サディスム=マゾヒスムのような安易な弁証法的統一をも等しく拒む。前者は葛藤、つまり情念とのクリンチをもたらし、後者は個々の項目の異質性や多義性を視界から簒う。プラトンのイデア界と感性界、ライプニッツの可能界と現実界、カントの叡知界と現象界、またはデカルトによる物心二元論等々、哲学史上もっとも影響力を持ち続けているのが二元論である。種村さんはそれら二元論をすり抜ける術を編み出したようである。万物の根源を水と定め、航海術に通じた種村さんは、ランタンの下で航海日誌を書き綴るに余念ない。遺された百冊を超える日誌にはヤコブの杖やアストロラーベの使用法から血湧き肉躍る冒険譚までがところ狭しと置かれている。臍を噛むのを承知のうえで、八幡の薮知らずに誘い込まれる、そこにこそ種村文学の醍醐味がある。
二十歳からお世話になっている新宿の文壇バーが今月で閉店する。どうやら家賃の更新料が工面できないようである。はなしでは取り敢えず新宿の店は閉めるが、他の町で再起をはかられるとの由。しかし、こういう稼業では箱物を失うのは致命的である。新規の出店には金がかかる、店の改装に1000万円、運転資金に2000万円は最低必要である。件の文壇バーは平成元年にゴールデン街から三丁目に移ったのだが、当初の資金は3000万円だったと聞く。ですぺらはその金額をはるかに超えて、なお赤字である。従って、再起の難渋は十二分に理解できる。
羞ずかしいはなしだが、平成元年まで私は薬物中毒だった。何もできないことからくる不安感、仕事に対する自信のなさ、対人関係における恐怖心、自身の情緒不安定などが私を薬物に走らせた。その店がゴールデン街にあった頃、薬で呆けた私の頬にひっきりなしにマダムのビンタがとんだ。苦い思いだが、一方では感謝している。おそらく、Y・Nさんとマダムのおかげで少しはまっとうな人間になったかと思う。ですぺらがオープンした時も、マダムはかつての飲み仲間を多勢引き連れて来られ、エールを送ってくださった。
60年代後半から70年代にかけて熱かった新宿を代表したバーがまた一軒消えてゆく。失いたくない文壇バーである。
かつて自身を束縛したメビウスリングのような運命も、いつかはそれが己を救ってくれた良き思ひでとなっている事に気付く・・・。
私もそんな一人。名前こそ名乗らないがどうかお体に気を付けて。
それではまたどこかで会いましょう。
「書き直し」で書こうとしたのは論じる側と論じられる側との両義性についてである、と書いても通じないので具体的に書く。民主党や社民党の幹部が異口同音に今回の政変を自民党のコップのなかの嵐という、個とか政策といった発想がなにもなく、組織のことしか念頭にない岡田克也氏や菅直人氏にはそうとしか見えないのであろう。他者を論じるときには、必ずや自身の化けの皮が剥がされる。ひとは自らの頭脳水準でしかひとをはかられない。
今回の民主党の若手議員に対する締め付け、拘束は凄まじいものだったと聞く。郵政民営化に賛同する民主党議員は約80名、それらの意見をことごとく無視し、対案すら提出せずに反対を強いる、そこに独善的かつファッショな組織の匂いを嗅ぎつけたのは私だけではあるまい。先頃、郵貯の縮小をはじめて口にしたが、縮小に伴う人員整理をどうするのか、官から民への資金の流れをどのように設えるのか、またもや具体論はなにもない。民営化しなければ、郵政公社の職員は公務員である。公務員の首を切るためには法律が必要である。JPUや全郵政をはじめ、官公労に支持される政党にそのような法律は作られない。それよりなにより、公務員の首を切るための法律など、国会で承認されるはずもない。掛け声だけで国民をたぶらかすのはいい加減にしろ、といいたくなる。
衆院選マニフェストの「政策各論」で予算の無駄遣いを洗い出し、3年内に歳出10兆円を削減するとある。しかしながら、小泉首相は3年間で10兆円を超える削減をしてきた。歳入が40兆しかないのに、70兆の金を使う政府も政府だが、小泉氏が首相になる前年に組まれた歳出は87兆であった。財政改革の大元は人件費の削減にある、だからこそ民営化しか手立てがないのである。
「投票」で書いたように、郵貯・簡保の縮小や郵政民営化の必然性は当事者を含むみんなが諒解している。郵政公社の職員たちは地方経済の疲弊や利便性を口にするが、郵便のネットワークや郵貯の維持は廃案になった「郵政民営化法案」に明記されている。にもかかわらず反対するのは保身以外のなにものでもない、公務員という身分の保障が安逸な夢が棄てられないのである。
「特定郵便局は19000局、簡易郵便局は4500局を数える」と書いた。19000局のうち地方の町村にあるのはわずか2000余局、他は都会にある。この十年で北海道の人口2000人を切る町村にすらコンビニが開店したのを確認した。それらコンビニにATMを設置すれば郵便局の存在意義は半減する。どうしようこうしようと煩悶する前にどのような手立てがあるかを考察するのが、政治家の仕事ではないだろうか。われわれ一般人はたかだかネットの情報しか持たない。政治家、それも政権を担当するひとたちの情報網には畏るべきものがある。第一に国会図書館は国会議員のために設けられた専用図書館ではないか。
今回、自民党が義理と人情にまみれた政権維持政党から政策集団に変わろうとしているのはみものである。昔からの支持母体である郵政一族を切り捨ててまで政策を完うしようとするのは健気ですらある。だが、郵政民営化の裏で着々と進められている自民党の構造改革に着目したい。ポスト小泉を狙っていた平沼、亀井、高村、古賀、加藤、麻生各氏のような、いわゆる中二階が討ち死にし、大幅な世代交代が行われそうである。郵政民営化がもたらす次の問題は民間過剰債務の戦略的なカットであり、その処理は旧世代には無理である。金融調査会や財務金融委員会の若手のお出ましを願わねばならない。小泉首相が描く戦略に興味を抱いている、12年ぶりに政治がおもしろくなってきた。
テレビ東京系国民投票型バラエティ『OUT PUT』(日曜25:00)のMCをつとめる、千里愛風が、哀愁をおびた『I LIKE THE WAY/恋』で、8月17日にデビューしました。とってもいい曲で、おもわずホッとしたくなります。 愛風(まなか)ちゃんも「誰もが経験したことがあるような、恋愛のせつなさや大切さを素直に歌っています。世代に関係なく色々な方に聴いてもらえたらうれしい」とコメント。アレンジが80年代を彷彿させるものなの で、世代による抵抗感はさほどないはずです。 http://birthday-energy.co.jp/のBIRTHDAYにてまなかコラムがありますので、興味をもたれたらぜひみてください。
北海道のコンビニでは既に簡易郵便局が併設されていると、北海道から複数のメールを頂戴しました。北海道のコンビニといえばセイコーマートとセブンイレブンです。早速調べましたが、結構ありますね。どうも失礼致しました。
8月15日から選挙情報の老舗である「選挙でGo」さんが復帰、大歓迎です。
Make Peaceさんはじめ、選挙の情報源として他の追従を許さないサイトを紹介しておきます。
http://homepage3.nifty.com/makepeace/
http://jiyuto.exblog.jp/
http://lovelysakura.way-nifty.com/sakura/
沖山さんへ
http://a.chakuriki.net/chakuwiki/index.php?title%E5%AF%8C%E5%B1%B1
上記アドレスは「各県の噂を持ち寄ることにより、ご当地のイメージを明らかにするプロジェクト」だそうですが、その中の「北海道の噂」は「ご当地の踏み絵」といった類いでは傑出、中身の正確さは保証します。ただし、温泉には触れられていません。「溜池通信」のかんべえさんの紹介です。
http://a.chakuriki.net/chakuwiki/index.php?title=%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93
このままでは郵貯は破綻するということは、少しでも政治や経済に興味を持つひとなら分かっている。郵貯のほとんどは定額貯金で、その九割以上が国債で運用されている。定額貯金の利回りは解約オプションを考慮すれば国債利回りにほぼ等しい。調達金利が運用利回りと同じなら、永遠に利ざやは稼げない。どなたが経営に当たろうと、早晩破綻するのは目に見えている。
貸借対照表が読めないひとは下記のアドレスの下段を見ていただきたい。口座の残高を口座数で割れば、民主党がマニフェストでいう総額規制がいかにナンセンスな政策であるかが分かる。そして、民営化をあと二年待てば、国鉄の二の舞になることも明らかである。
http://www.yu-cho.japanpost.jp/disclo/siryou/index.htm
http://www.yu-cho.japanpost.jp/disclo/siryou/7475.htm#747506
官邸主導の政治こそが唯一責任のとれる政治だと思う。官邸ではなく、自民党の側に総理をしのぐ権力者やフィクサーが常にいたからこそ、政策の与党への丸投げや談合政治がまかり通ってきた。談合のなかを漂流するあいだに、政策それ自体が曖昧になり、責任や決定の所在が分からなくなる。ポスト小泉になった途端にもとの自民党にもどるのではなんの意味もない。だからこそ「中二階」にはお引き取りを願いたいのである。
それにしても、小泉首相になってはじめて、官邸主導の政治がわが国にもたらされた。民主党にいちばん見習ってほしいのはその一点である。政策決定があやふやであり、支持団体の意向を気にし、総花的なことを言っているあいだは政権政党にはなれない。おそらく、次回の総選挙で民主党は最大の政党になると思う。しかし、民主党が政権を担えば日本の経済は破綻する、経済界はそれを許さないに違いない。
小泉首相の非協調路線の結果、自民党が四分五裂になれば、民主党も細分化される。その時にならないと、政策集団は生まれない。私が願っているのは、談合政治の元凶である現在の政党が壊れて、政策集団に生まれ変わることである。はからずも、小泉純一郎氏はその種蒔きを試みたのである。
次回選挙の議席予想。コメントを添えると果てがなくなるので、数字のみ掲載します。
定数 - 480
自由民主党 249(212) 200~210
公明党 34 31~33
自由民主党(造反組) 37 7~10
民主党 175 190~210
日本共産党 9 7~9
社会民主党 6 3~4
自由連合 1 1
無所属 3 2~3
こういうHPもあります。
http://www.geocities.jp/dokodemodoa_jp/
突然の投稿をお許しください。解散総選挙に向けて皆様に申し上げたき事がございます。それは
小泉首相と取り巻きについての懸念です。
まず、第一に公約違反、小泉首相の言辞を借りれば「公約違反は大したことではない。」だそうです。国債発行は何としても30兆円枠を堅持すると言っておきながら守られていません。そもそも30兆円枠という根拠が分かりません。要するに経済オンチが適当な数を上げたのでしょうか。それから、「誰がなんと言おうが私は靖国に終戦記念日に行く」と豪語して置きながら、実行されていません。こんな事は公約すべきことではないと思います。なんて常識的な事すらわきまえない人なんでしょう。また、靖国参拝はアジア諸国との国際問題化して関係が冷え込み、外交が手詰まり状態です。「1内閣1閣僚」といいながら、田中真紀子氏を更迭しました。総裁選では母親を慕うかのように田中真紀子氏を頼り、協力を得ておきながら都合が悪くなると切り捨てて、己だけいい思いをする。身勝手にも程があります。内閣では適材適所の人事を行うべきなのです。「特殊法人をゼロ」という事も口先だけです。そもそも特殊法人がすべて無用なわけではありません。天下りや税金の無駄使いの特殊法人がいらないということです。
第二に「米国政府の日本政府に対する年次改革要望書」です。ご存知ない方が多いと思いますが、これはアメリカが日本の政策決定に関して、指令する事柄が記されており、毎年送られてくるもので
す。小泉政権の従米体質により日本政府は日本独自の日本国民のための経済政策をとることが強
く制約されています。日本がアメリカの植民地であり、日本政府はアメリカ政府から見れば一地方の行政府にしか過ぎないというのでしょうか。郵政民営化にしろ法改正のほとんどがこれに従ったものです。国民の知らぬところでこんな恐ろしいことが起きているのです。米国政府の日本政府に対する年次改革要望書」はアメリカ大使館のホームページにアクセスして日本語で読むことができます。
第三に小泉首相の盟友と言われる山崎拓氏の前代未聞の「変態疑惑」で、週刊文春」(2002年5月2/9日号)が掲載した、元・愛人女性Sさんによる告発によると、ホテルではAVビデオを大音量で流すこと、「俺は議員じゃなかったら、絶対AV男優になるんだ」と発言したこと、2度の妊娠中絶を経験したSさんに「女というものは、堕ろせば堕ろすほどセックスがよくなるもんだ」と暴言を吐いたこと、さらに、氏が「飲尿プレイ」を好んだこと、Sさんの母親を交えた、俗にいう「親子丼プレイ」を要求したことです。変態と変人は変同士で盟友というのでしょうか。こんな人たちに日本の未来を任せていいのですか。また、ネット上では小泉首相の若い頃の良からぬ疑惑も飛び交っていますが、ご自分でお調べください。
第四にイラク自衛隊派遣です。開戦前にイラクが大量破壊兵器を持っていたとする不確かなアメリカの情報を元に、国連中心の政策を謳いながら、国際社会の観点からも、国連憲章上からも、違法なものでありながら、アメリカ様のご機嫌取りだけで戦争を支持し、国民に対して説明責任を果たしませんでした。結局、大量破壊兵器などなくイラクの軍事力などアメリカの比ではありませんでした。その後、小泉首相は、イラク自衛隊派遣では非戦闘地域であり、戦争は終わったなど嘘をいい強行しました。しかし、イラクの自衛隊宿営地には迫撃弾が何度も打ち込まれ、車両も爆弾攻撃を受けました。外交官やジャーナリストなどが武装勢力に処刑され日本人犠牲者が出ています。これで非戦闘地域や戦争終結のはずがありません。これは内戦・抵抗戦という状態です。
第五に北朝鮮との拉致・核問題です。支持率に陰りがでるや、訪朝し拉致問題について交渉し、一部の被害者とその家族の来国を実現したが、それからはまるで関心なし、経済制裁もピョンヤン宣言もどこかへ忘れてしまったようです。核の脅威にいたっても大事な安全保障問題なのに関心なし。工作員に国民を拉致されようがミサイルで脅されようがどうでもいい考えで国家・国民の安全と平和が守られるわけは無いのです。
第六に解散のきっかけになった郵政民営化問題であるが、そもそも国民から出た事ではない。小泉氏の昔からの持論に過ぎず、性急な必要性は無い。行政改革は必要だが、本丸といって郵便局に責任をすべて転嫁して、それさえすればすべて良しと言うのはごまかしであり、おかしい。それにこれは「米国政府の日本政府に対する年次改革要望書」のアメリカ政府の対日要求そのものです。財政投融資の財源とはいえお金を集めるのが悪いのではなく、その使い方が悪いのである。無駄な公共事業や特殊法人を廃止して、官庁の非効率な制度を改革するのが重要である。財政立て直しも必要である。日本の経済発展を明治から支え、インフラ整備や国民の貯蓄・保障に多大な貢献をし日本の文化的財産でもある郵政を儲け至上主義の営利会社にするなどもっての外ではないか。ほかにもありますが本件ではこのぐらいにして、後は読者の方にゆだねます。
小泉首相は国民を騙し、日本を独裁して、自分のエゴを実現することで満足している変人である。ぶっきらぼうで他人事のような言いぶり。都合が悪い事はすべてマル投げ。小泉首相の言動を批判したり、自省を求めたりすると『抵抗勢力』のレッテルを貼られる。衆参議院の採決にまつわる反対派への締め付けや制裁は異常で非常識です。意見のひとつも許さずにこれが民主主義でしょうか。自殺者まで出ています。自己中心的で偏執的な性格である事は疑いありません。これ以上国政を任せたら明るい将来はなく、きっと後悔するでしょう。皆様は是非この事をよく検討され反小泉の行動をしていただきたい。ご同意の方々がこの事実をお友達や知人に伝えてネットワークを広げて政党を超えて、世論の力で正しい政治を発現しようではありませんか。マスコミは事実を伝え、いたずらに小泉政権を賛美しないようにしていただきたい。
追記
小泉首相のマニフェストにはそれまで予定されていた、サラリーマン増税が選挙の餌のために否
定されている。まったくサラリーマンを馬鹿にしており、馬脚を現したとしかいえない。郵政民営はほかの問題のすり替え。政権公約のポイントは全ていままで求められ課題に挙がりながら、やらずにごまかしてきた事ばかりで、飴と鞭の選挙対策でしかない。新党も出てきた事だし、皆さんここで新しい政界を国民の手でつくりましょう!!
最後に素晴らしい未来がこの国と皆様に訪れる事を願望してやみません。
坂本さんへ
貴方の書き込みは個人への誹謗中傷以外のなにものでもありません。そして、貴方の書き込みのどこを索しても、学問としての政治は見当たりません。「政治研究者」と書かれていますが、単なるゴシップ大好き人間としか私には思われないのです。私が管理人なら即刻削除するのですが、当掲示板は管理人と私の二人三脚で維持されています。従って、書きたくもない反論を少々。
時事的なことを書けばこのような書き込みもあろうかと思っていましたが、それにしてもなにを仰言りたいのかがまったく分かりません。坂本さんの頭のなかでは小泉首相とその取り巻きについての罵詈雑言が即「政治」のようですね。貴方自身が「そもそも30兆円枠という根拠が分かりません」と書いておられるように、なんら根拠を持たない公約が守られようが、守られまいが、どうでもよろしいではありませんか。
靖国参拝にせよ、田中真紀子氏の問題にせよ、世は移ろいます。その時、そう思ったからもしくはそう言ったからを理由に、政治家が固着した概念を持とうとするならば、それこそが独善や独裁の母胎になるのであって、もっとも避けねばならない事態でしょう。政治家であれなんであれ、私は理念や節操を持った人間を信用しないのです。
「米国政府の日本政府に対する年次改革要望書」は少なくとも当掲示板をご覧の方ならみなさんご存じでしょう。民主党桜井充議員の「郵政民営化は米国の意向を受けての改革ではないか」との8月2日の参院郵政特別委員会で発言がことの発端だと思います。下記サイトで愚にもつかない暴論が書かれていますが、貴方のお仲間なのでしょうか。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu100.htm
郵政民営化が、金融市場の開放を求める米国の利害と一致していようがいまいが、それが国民にとって必要な改革であるかどうかとは、なんの関係もないと思います。それでなくとも、日本の公的年金や郵貯・簡保の資産運用業務に参入するために設立された外資系信託の閉鎖、解散、買収が相次いでいます。ピー・エヌ・ピー、ユー・ピー・エス、ドイチェ、クレディ・スイス、そして米国金融最大手のシティグループのシティトラストは今年十月ですべての業務を閉鎖し銀行免許を返上、全面撤退することになりました。
話ついでに、サンフランシスコ条約(第1条 (b) )によって日本の主権が承認されたのは1952年4月28日、その講和会議に続いて、サンフランシスコ郊外のプレシディオ陸軍基地で日米安全保障条約が締結されました。この二つの条約をもって日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰したのですが、その独立の日以来、「日本がアメリカの植民地」になったのだと私は堅く信じています。
公人の概念が私にはよく分からないのですが、とりあえず「議員や公務員など公職にある人」ということにしておきましょう。一方、私人とは野に下ったひとを言うのであって、公務員でなかった私などは一般人と言うのが正しく、私人とは申しません。で、その公人と一般人との差違は私生活があるかないかだと思うのです。従って、公職にある山崎拓氏の私生活が暴かれるのは仕方がないのかもしれません。しかし、貴方自身が書かれておられるように、それらは「疑惑」にしか過ぎないのです。『週刊文春』『東京スポーツ』双方との告訴合戦も裁判の途中で和解してしまい、灰色決着が付けられました。書かれたことが事実であるのなら、『週刊文春』はどうして最後まで戦わなかったのでしょうか。貴方は文章の末尾でマスコミは事実を伝えていないと非難しながら、山崎拓氏の件に限ってはマスコミを信じられるのですか、その根拠は奈辺にあるのでしょうか。
ギリシャ悲劇からシェイクスピアに至るまで「親子丼プレイ」ごときはいくらでも描かれています。「親子丼プレイ」や「飲尿プレイ」のどこが、「前代未聞」なのでしょうか。それこそネット検索してください。いずれにせよ、貴方の書き込みは単なる魔女狩りです。山崎拓氏の性癖への嫉妬心が「小泉政権のダークサイド」を書かせたのであればご同情申しあげますが、そうでないのなら貴方の品位を疑います。
北朝鮮に関しては経済制裁はなんら意味をなしません。なぜなら、韓国や中国が援助額を増やすだけだからです。悲しいことですが、恫喝外交には恫喝以外に有効な手立てはないのです。イラクであれどこであれ、戦地への自衛隊派遣によって実戦訓練を積んでいただいた上で憲法を改正するの他、拉致問題の解決方法はないのではと愚考します。韓国、中国、ロシアとの断交を覚悟で北朝鮮を海上封鎖するか、もしくは消費税を十パーセントに上げてその金数を身代金として北朝鮮へ支払うか、方法はかなり限定されます。そしてなによりも、国民の総意が必要になります。
ひとの言動を非難するのは容易いのですが、問題は対案を生み出すことだと思います。都合の悪い事はすべて政治家に丸投げするのではなく、国民ひとりひとりが考え、方策を編み出し、世論を喚起し、そして政治家に進言する、それが国民の責任であり務めなのではないでしょうか。貴方や私のような脳天気な人間が拉致を誘発させ、「国家・国民の安全と平和」を脅かしているのではないでしょうか。
第六はすでにお答えしました。
小泉首相は歴史に名を残す名宰相だと思います。大臣の任命に際し一本釣りを敢行し、派閥を形骸化させました。また政策集団への脱皮に異を唱えた代議士にかつてなかった締め付けや制裁を加え、刺客をはなちました。道を造れとか橋を造れといった地方の権益を覆すために、立候補者を官邸で決め、落下傘候補を増やしました。既得権益を守るために汲々とする派閥や地方組織や支持母体を壊すことが、貴方のいう「騙し」であり「独裁」だとするなら、貴方が佳しとするのは田中角栄のような金権まみれの政治家なのでしょうか。
澁澤龍彦や種村季弘が文学の世界に現れたトリックスターであったように、政治の世界にも後れ馳せながら小泉純一郎というトリックスターが誕生しました。渡辺喜美氏のホームページには下記のように書き込まれています。
小泉総理は自民党や連立与党の要求に耳を貸すべきではない。思った通りの非妥協路線を貫けばよい。その結果、連立が壊れたり、自民党が分裂の危機に瀕したりすることがあっても良いではないか。「永田町のハルマゲドン」の後には「政界ビッグバン」が起こるのだから。
貴方の文章は「新党も出てきた事だし・・・素晴らしい未来がこの国と皆様に訪れる事を願望してやみません」で閉じられています。貴方はきっと大樹の会の関係者なのでしょうね。まあ、そんなことはどうでもよろしい。ここは「素晴らしい未来」を信じるような方が出入りなさる掲示板ではございません。「素晴らしい未来」を「素晴らしい地球」を望むなら、まず、人類を滅ぼすための算段を致さねばならないのです。
9月11日の総選挙で貴方の一票が日本国民を救う
郵政民営化
ある所にハゲタカがいました、ハゲタカは弱い者や困った人、困った
会社を見つけると殺してして食べてしまいます。
世界中にはハゲタカのような怖い虎や狼やライオンがいっぱいいます、
長いこと景気が悪く赤字がいっぱい溜まったハゲタカや虎達はみんな
お腹がぺこぺこでもう死にそうです。
ある日のことです、狼が云いました
「日本の郵政牧場には丸々と太った美味しい羊がいっぱいる、あの羊を
腹いっぱい食べたい、なにか良い知恵はないかな。」
郵政牧場では村の人たちから羊を預かって飼っていました。
村の人たちの生活はけして楽ではありませんが、老後の生活を支える
年金に不安があるので、少しずつお金を節約して買った羊を一番安全
な郵政牧場に預づけて飼ってもらっています。
ハゲタカや狼達は郵政牧場へ行って、牧場の周りに柵があるがこれで
は自由に中に入れない、それに羊が運動不足になる、周りの柵を取る
ように牧場の持主に要求しました。
牧場の持主は村人の代表に相談しました、郵政牧場の周りにある柵を
取り除きハゲタカや狼に頼んで羊に運動をさせて元気な羊を育てる、
更に元気な羊にするために牧場のことを全部ハゲタカや狼に任せた方
が良いと考えて、郵政牧場民営化を提案しました。
村人の代表達は牧場の周りの柵をなくて大切な羊が迷子になったり狼
に食べられてしまったら大変だと云って反対しました。
牧場主はハゲタカや狼がお腹をすかして今にも死にそうだと云う事は
隠して、この郵政牧場改革は今すぐに必要だからと言い出して、村の
人達全員参加の総選挙で決める事にしました。
牧場主は羊の運動や牧場のことは全部ハゲタカや狼に任せる事も隠し
て、元気な羊を育てる郵政牧場民営化に賛成か反対か決めてもらう事
にしました、反対している人を石を投げて追い出してしまいました。
郵政牧場の羊は村の人みんなの老齢年金の元になる財産であると同時
に、羊の持主の老後の生活をささえる大切な個人の資産です。
郵政牧場には村人の万が一の時の蓄えが預金や保険で350兆円もあ
ります。
これはハゲタカや狼達が溜めた赤字4年分に匹敵します。
あなたはこの郵政牧場民営化に賛成ですか反対ですか。
9月11日の総選挙で貴方の一票が日本国民を救う
もっと詳しい話しはこちらにあります。
郵政民営化とは、郵政ロックフェラー化
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/yuuseiminneika.htm
年金未納の公明党が積極推進する法案
人権擁護法案の恐ろしさは下記アニメを御覧ください
http://homepage2.nifty.com/save_our_rights/jinken001.swf
実践株式情報
http://www.aixin.jp/AJI0.htm
かつて、某新聞社で働いていたとき、書籍の印刷を知り合いのところで出来ないかと伺いをたてた。許可を得てかなり安く見積もったのだが、大手印刷会社からこの仕事は10円でやろうとの横やりが入った。はなしはあっけなく頓挫し、それ以降理由の何如を問わず、便宜をはかるのは止めた。私がいいたいのは企業談合がなくなれば、生き残るのは大手だけで、中小の企業はすべて潰されるということである。ことの是非は問わない、事実関係を述べているまでである。
85年のプラザ合意を持ち出すまでもなく、日本は米国との貿易摩擦を避けるため、常に内需拡大を迫られてきた。その結果、上下水道、都市公園、産業廃棄物処理場などの生活関連投資、もしくは地方空港、新幹線、道路整備など、多くの公共事業に多額の金を投じてきた。そこで問題なのは、地方の政治・経済は依然としてインフラ頼みだという点と、審議会が役所の追認機関になってしまっているとの点である。道路関係四公団民営化推進委員会の猪瀬直樹氏や大宅映子氏などは数少ない例外であって、官僚たちは意のままになる学者をしか集めない。まあ、そんなこともどうでもよい。問題は「インフラ頼み」にある。
自民党は長いあいだ、地方支部から推薦された候補者を党本部が公認してきた。地方が欲したのは「利権」であり、必要としたのはそのための「しがらみ」だった。そうしたボトムアップ型の手法がもたらしたものは、世襲議員の横行と若手の新人の排除であった。その間に、民主党は枝野幸男氏のようなすぐれた若手を落下傘候補として陸続と地方に送り込んでいった。得票率において、民主党が自民党を追い上げていった理由はそこにある。このままでは自民党は解体する、との危機感を小泉首相が抱いたのは当然であった。しかるに、自民党の地方支部の幹部は既得権にしがみつき、仕切ってきたのは俺たちなのだと、ことここに至ってなお平気で官邸に楯を突く。談合体質が身に染みこみ、ボトムアップ型思考に馴らされたひとたちは、個々の意見の折衷にこそ平和があり、個々の意見を少しずつ取り込むことによって責任から逃れられる、それこそが民主主義だと信じているのである。時代が変われば理念も変わる、世界には掃いて捨てるほどさまざまな民主主義がある。そしてさまざまな民主主義がなければ困るのである。これこそが民主主義だというような固着した概念が生み出された瞬間、それは繭を脱ぎ捨ててファシズムに変態する。
実体は「郵政関係者の、関係者による、関係者のための郵便事業」であるにもかかわらず、先だって坂本氏は「日本の経済発展を明治から支え、インフラ整備や国民の貯蓄・保障に多大な貢献をし日本の文化的財産でもある」と著していた。そのような「俺たちが」といった意識、言い換えれば我田引水こそが騙しであり、独善であり、エゴそのものであることに気が付かない。自民党の地方支部の幹部と同根の選民意識がふんぷんと臭うではないか。今回、小泉首相は民主党に倣い、地方支部のゴリ押しを無視し、多数の若手の落下傘候補を戦いに送り込んだ。それが奏功するかどうか、9月11日は近い。
2007年には団塊の世代の大量退職がある。民間企業は退職引当金を長年かけて積み立ててきたが、政府も自治体も公社もひっくるめて公務員にはそれがなにもない。信じられないほど深刻な問題なのだが、これまでだれも手をつけずにきた。郵政民営化を急ぐ理由のひとつであると同時に、公務員のまま退職を迎えたい人々にとってはなんとかして逃げ切りたい歳月なのである。その鬩ぎ合いを演じているのが今回の選挙である。
全国の地方自治体も同じ問題を抱えている。国の後年度負担を信じて自治体が借りた金額が70兆円を超える。それに団塊の世代の退職金が加わっただけで多くの自治体は借金地獄に陥る。国も地方も「橋や道路を造って」どころでなくなるのである。
この前の参院選挙で「一区現象」が起きた。民主党が都市部に落下傘候補を立て、多くの議員を誕生させた手法である。今回、小泉首相はその選挙手法を踏襲した。そうして選ばれた議員は従来のように政府と地元をつなぐ仕事はしなくなる。国会議員の意識が変わり、国政に専念するようになる。国会議員が国政のエキスパートになることによって、地域の政治家は地域の政治に責任を持たなければならないようになる。陳情能力ではなく、個々の政治家の政策能力が問われるようになるのである。臼杵市長の後藤国利氏はその間の消息を「小泉手法は分権に向けた頂門の一針だ」と看破する。今回の選挙に関してこれ以上的確な文言はないように思う。
さて、私は小泉首相のファンでもなければ、自民党の支持者でもない。と言うよりは、自民党が大嫌いである。その自民党を内部から壊そうとしているひとがいる。最初は冗談だろうと思っていたのだが、やがてそうでないことに気づいた。だから一度ぐらいは自民党に投票してもいいと思ったのである。繰り返すが、私は自民党の崩壊に一票を行使するのであって、再生に一票を行使するのではない。民主党の内部から民主党を、共産党の内部から共産党を壊そうとするひとが現れたら、同じ理由で支持したい。
上記のような書き方をしないとなにも通じないことに気付かされた。身内からすら、私が自民党のシンパであるかのごとく言われて愕かされた。あえて苦言を呈しておきたいが、文章というものは全体を読まないとなにごとも判断してはならない。断片を取上げてどうのこうのと言われるのは不愉快である。いわんや、その砕片を好き嫌いの定規で計られては堪ったものでない。当掲示板がツチノコの糞か海馬の涎かはともかくとして、理解を欲しての掲示板ではない、だからこそ、誤読は覚悟の上である。しかし、自民党の支持者であるかのごとく曲解されるといたたまれない。要は私の書き込みはなにひとつ読まれていないと言うことではないか。この件をこれ以上書くと繰り言になるのでやめる。
前述したごとく、大方のひとは好き嫌いを判断の中心に置く。好き嫌いがないわけではないが、私は私自身の好悪を信じない。その理由は複雑なので稿を改める。私はプラトン主義者だが、それは弁証法的想像力に興味があるのであって、プラトンのいうイデアにはなんの興味も抱かれない。イデアが多姿性のものであれ、単姿性のものであれどうでもよく、また物の形や姿、形式や種類がいかようなものであれ、私は意に介さない。だから「美学」とか「高踏派」とか「様式」とか「ダンディスム」とか、固着したものや丸ごと捉えることを強いるようなものを遠ざける。分かりやすく例えれば、日夏耿之介や吉田一穂や伊東静雄や宮沢賢治などの作品にいかがわしさを覚えるのである。念のために言っておくが、不信感を抱くのと読書を楽しむのとはいささか領域が異なる。「いかがわしさを覚える」からといって必ずしも拒否し、否定しているわけではない。
先日「理念や節操を持った人間を信用しない」と書いた。前項の「丸ごと」と「理念」は通底する。そして理念を必要とし、また内包せざるを得ないとの理由で国家、民族、宗教、国民、社会、家庭、伝統、自己同一性といった概念そのものに危機感を抱いている。サディスムとマゾヒスムの例を持ち出すまでもなく、フロイトは気ぜわしい二者択一や安直な弁証法的統一によって、二項対立のあいだの垣根をこともなげに跳び越えてしまう。異質性の立証ないしは自立や関係の多義性を考察するのではなく、二項対立を相互補足性、弁証法的単位性として捉える。その統一されてしまうことの怖ろしさを私は言っているのである。「理念」が「理念」の名のもとに個々の異質性や多義性を剥ぎ取り、掻っ攫ってきたのが人類の歴史である。歴史とは個の蹂躪の謂いであり、簒奪の繰り返しそのものではなかったか。私はいかなる理由においても拘束や束縛されるのは勘弁願いたいのである。私は弁証法のアンビギュイティの世界を心おきなく彷徨いたいと願っている。個に生きる人間にとって、国家や国民は厄災しかもたらさないのである。
moonさんへ
励ましのメールを忝く読ませていただきました。私の悪しき癖で、ついつい、書いてはいけないことを書いてしまうのです。
先日も常連の某作家の過去の女関係を客から聞かされ、「だからどうなのよ」と声を荒らげてしまいました。また某翻訳家の翻訳を、あれは昔に流行した作家で云々と註釈を入れられ、君とははなしが成り立たないと気色ばみました。誰が誰と付き合おうが、流行した作家であろうがなかろうが、私の知ったことではないのです。そのようなゴシップは文学とはなんのかかわりもないのであって、仮にゴシップを述べるのであれば、そのゴシップ自体がそのひとの文学観と交点を持つように抽象化されなければなりません。
文学観であれ、歴史観であれ、世界観であれ、それらの外側にたって、対象的に眺め、理解しようとするのであれば、私は御免蒙ります。どのような見方をするにせよ、見るひと自身が世界を構成する一部分であり、世界観を形成する人間もまた現実の世界の動きに巻き込まれて存在するしかないのです。従って、自分自身の主体的なあり方、言い換えれば、文学観であれ、歴史観であれ、世界観であれ、それらの内側にたっての理解でなければ話にも何にもなりません。
大体が、歴史と世界観などは両義的なものとして捉えなければどうにもならないではないですか。歴史的現実のなかから世界観が生まれるのですが、その世界観は常に歴史をつくりかえてゆくではありませんか、少なくとも歴史には事実とか真実といった客観性は存在しないのです。
種村さんに時計とユートピアの両義性について考察した「時計」(『澁澤さん家で午後五時にお茶を』学研M文庫所収)と題するエッセイがあります。「幾何学的秩序の魅惑と同時に全体主義の恐怖が支配」するユートピアの二律背反は、城と牢獄の両義的関係についても成り立つ、と種村さんは予断します。「外敵を寄せつけない城は、囚人自身以外の何人も立ち入れない牢獄と同一のトポスに立っている。同じ場所が、主人にとっては城となり、奴隷や囚人にとっては牢獄となる」種村さんが注意を喚起しているのは、ものごとは一筋縄ではいかない、一義的な判断を下してはならないということです。
先日「私は弁証法のアンビギュイティの世界を心おきなく彷徨いたいと願っている」と書きましたが、それは澁澤さんや種村さんを念頭に置いての文言です。文学は資料でも史料でもないのです。主体的・実践的契機として捉えなければ、どこまで行っても文学とは平行線なのではないでしょうか。間村俊一さんがとても素適な俳句をつくられました、無断掲載です。
またしても弁証法的秋の暮れ
櫻井さんへ
「以下選挙期間中につき省略」とは洒落ています、ご厚志に感謝。実はあの数値に移動があり、コメントを添えて第二弾と思っていたのですが、本日締め切りの文章が二本あって間に合いませんでした。それにしても、プロパガンダのお相手はできません。かなり抽象化したつもりだったのですが、時事問題の困った部分が露呈したようです。
會利さんへ
宇野さんの「眼と深淵」と拙稿を抱えて、横須賀さんがいま帰られました。「射」についてここまで書き込まれたものはないと、大層お喜びでした。残された写真を見てたちどころにあれだけ明晰な文章をお書き下さったことに、私からも感謝です。これで横須賀さんの作品集は重みを加えました。発行は11月19日ですが、展覧会場での発売が書店より先行します。写真展へはぜひご一緒致しましょう。なお、念のため当方で校正しましたが、「計量」以外は問題ありませんでした。
まずは自己紹介ってことなんだけど、ここに書くと色々長くなっちゃいそうだからとりあえずCocoaのHP見てね。かなり自己満?なサイトだけど、Cocoaがどんな女の子かって分かってもらえると思うので。 写真もいっぱい載せてみたので、良かったら見てねぇ~!! http://g-space.jp/~flyhigh/
昨夜というよりは今朝、帰宅途次の櫻井さんのはなしがむやみに面白かった。オタクにとって文学は資料以外のなにものでもない。文学の意味内容に立ち入ってしまうとオタクでなくなり専門家になってしまう、オタクたるもの書物の表層に踏みとどまらなければならない。
帰宅後、産経ニュースの一報に目を通す。郵貯の口座数が六億に近く、その10パーセント強が1000万円を超えた違法貯蓄であり、20パーセント強が1000万円の口座である等々。郵政公社の資料編を訂正し、わかりやすいグラフに仕立て、民間の銀行口座との差違を詳しく述べていた。
わが国の人口がいつの間に六億になったのかなあと思いつつ、民間企業なら株価操作や粉飾決算で逮捕者が出るのに公社は無責任でいいなあと思いつつ、日本人の民度を考慮すれば選挙によって民意を問うことだけはしてはならないのではないかと思いつつ、やけ酒を喰らう。
知己のサイトはほとんどが休止した。選挙期間中はどのような表現が公職選挙法142条に該当するかが分からないからである。当掲示板も某政治家秘書から指摘された部分を削除した。もっとも、当掲示板はアナーキズムのプロパガンダを専らとする、従って142条は糞食らえである。
2007年問題の派生は1947年から予測されていたのであって、なにを今更である。91年からのわずか16年のあいだに団塊世代の退職金を工面しなければならないのである。年金や保険の負担を軽減するために早期退職を勧め、正社員を減らし派遣社員を増やすのは序の口、諸団体の民営化がたとえうまく行ったところで、年金制度に多大な混乱をもたらすのは必定である。
この件に関し、ホリエモンが非凡な意見を述べていた。既に破綻したものを誰が弄くろうがどうにもならない。そして国民の過半数は現状の年金制度にそっぽを向いている、第一、もっとも大切な自分の老後を国まかせにするとはなにごとぞ。そこでホリエモンさんに一言、フジテレビを買収する金があれば、自民党を買い取っていただけまいか。選挙に立候補するような柔なことはせずに、日本国のオーナーに直接なるべきではなかろうか。
この四年間に政治の世界でいかなる改革が行われてきたか、「表層に踏みとどまる」のを潔しとするひとたちは理解しない、理解しようともしない、否理解する必要もないのである。個々もしくは地域の利権に拘泥するイラクや日本のような国の民、言い換えれば、現状を諾い、精神のあり様を保持しようとする保守反動の輩が心底から求めているのは独裁者である。王様にとって唯一の財産は国民、従って専制君主は民を大切にする。ことここに至っては、中国の経済圏に取り入ってマルティニーク島やバージン諸島のような海外領になるか、もしくはアメリカにお願いして五十一番目の州に格上げしてもらうのがもっとも賢明な方策ではないだろうか。
先だって理解を求めないと書いたので、なおさらのこと註釈は入れたくない。従って註釈ではなく、だめ押しを一言。時事問題に関し、言いたいことの大略は述べた。そして意見が合う合わないはそのひとの勝手である。ただし、意見の相違を私は黙視しない。考えのないひとの考えを私は思考や思想として認めない。そのためにこそ「現状を諾い、精神のあり様を保持しようとする保守反動の輩」と書いた。「保守反動の輩」すなわちものを考えないひとは、私にとって敵である。そいうひとが過半数を占めたとき、日本はアメリカの五十一番目の州になるしかないのであって、決して冗談で書いたのではない。そして、それはそれでよいと思っている。ただし、私はアメリカという国を積極的に嫌っている。従って、私が生きているあいだは困る、迷惑なのである。
ここからはおまけである。靖国問題は小泉ひとりの問題ではない。戦争責任を戦犯にのみ押しつけて、安穏を決め込んできたわれわれ全員の問題であろう。昨今「講和条約十一条の誤訳」とか「侵略」という文字がポツダム宣言に含まれていないとか喧しいが、「目を覚ますのはあなた」で書いたようにサンフランシスコ条約と日米安全保障条約の受諾を交換条件に日本は独立を与えられた。素直に認めるのがいやなら、サ条約に調印した四十九箇国を相手に戦争をすればよいではないか。
たとえ百回謝罪しても新たな悪口雑言があれば、百一回目の謝罪をしなければならない。責任転嫁や暴論が繰り返されるから謝罪を繰り返すしかしかないのだが、同じ謝罪が五十回も繰り返されると、その謝罪をいかように信じればよいのか分からなくなってくるのは当然である。
なにを差し置いても、戦争責任に対するわが国の統一見解を出すべきである。自らの意見を持たない、その曖昧さが諸外国につけいる隙きを与えているのである。国家として民族としての統一見解をこじつけなければ外国とコミュニケートしようがないではないか。そのこじつけが理念であり、理念のない政治などあろうはずがない。なにも政治に限らない、他者との接点は強牽、詭弁の繰り返しのなかからしかうまれてこない。それが嫌なら首を吊るしかない。
前述した暴論によって、わが国にあってはしばしば大臣の首が挿げ替えられる。「談合政治」で書いたように、ここにも政党が政策集団でない弊害が顕れている。
8月中旬から、小サイトおよび掲示板がサーバー・ダウンしておりましたが、このほど復旧いたしました。
みなさん、どうぞ、倍旧のご贔屓を。
(先日渋谷のシネマライズでみた犬童一心映画『メゾン・ド・ヒミコ』がとてもおもしろかったので、当面、歴史棚上げでそれについていろいろ書いてみようかな…、なんて風にも思ってます。)
マゾヒスムに関するユニークな論攷として、ジル・ドゥルーズ『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳)、河野多恵子『谷崎文学と肯定の欲望』、種村季弘『ザッヘル=マゾッホの世界』の三冊が七十年代に相ついで上梓された。ユニークと著した理由は、クラフト=エビングが論じたサディスムとマゾヒスムの相互補足性、弁証法的単位性を不当として否定した点にある。クラフト=エビングの著書が狹隘な諸前提のうえに成立したひとりよがりの心理類型学の典型であったにもかかわらず、これら三冊の書物が現れるまでは疑いを持たれずにきたのである。その内、ドゥルーズと河野多恵子の著書に関しては宇野邦一さんがエッセイを著されている。ぜひお読みいただきたい。
ウィーンの精神医の『性の心理学』の公刊が一八八六年、ドゥルーズの原著の公刊が一九六七年である。実に八十年の間、サディスムとマゾヒスムは並置の接続詞「と」によって無批判なまま、一種の依存関係に置かれてきた。その依存関係への反論としてドゥルーズはひとつの艶笑談を紹介している。某所でマゾヒストがサディストと出会う、千載一遇のチャンスとばかりにからだを痛めつけてくれと願うのだが、サディストは取り合わない。生贄に快感を感じられてしまっては、サディストとしての立場がなくなる。鞭を振るう側もふるわれる側も、共にマゾヒスムの世界の住人でなければ困るのであって、どこまでいこうがサディスムの世界とは無縁なのである。
サディスムとマゾヒスムの問題に関して、クラフト=エビングもフロイトも気ぜわしい二者択一や安直な弁証法的統一によって、二項対立のあいだの垣根をこともなげに跳び越えてしまう。二項対立にあって大切なのは、双方の異質性や多義性を知ることであると先日書いた。サディスムとマゾヒスムにあって、性徴と性格はことごとく一致しない。従って、それらが対置されるに至った条件、主と従、または支配と服従の関係を明らかにし、それからの解放を導くための二項対立でなければならない。ところが、クラフト=エビングもフロイトもふたつの異なる概念を一枚のコインの裏表であるかのように錯覚してしまう。そのような虚構に迷い込ませてしまうところに二項対立の危うさがある。いわば、弁証法の魔のような隙間にクラフト=エビングもフロイトも陥ったのである。
ドゥルーズと種村さんの著書がクラフト=エビングの「サディスム=マゾヒスム」とのどんぶり勘定に鉄槌を下したと書けば手数はかからないが、はなしはそれで終わらない。二元論的対立を肯うがごとき身振りを演じながら、徐々に視点をずらせていく、その転移もしくは転位によって、二元論がもたらす虚構が、また不毛が赤裸々にされていく。ドゥルーズの著書にあっては、そうした志向的内在が、並置されたそれぞれの項目の自立をうながしていく。雨後の筍のようにひしめきあう二項対立、ありとある弁証法が仲良くあるいは仲悪しく共存するなかにあって、それら全体を蓋う球形の宇宙のようなものが、やがて立ち顕われる。否定するでもなく肯定するでもなく、二項対立をまるごと呑み込んでしまう開かれた場、開かれた言語にあって、乾枯した殻を脱ぎ捨てて解放された個々の項目は独自の問題を提起する。その辺りの消息はこと細かく書かない、書物を直接読んでいただきたいからである。
ここで書いておきたいのは、種村さんは『ザッヘル=マゾッホの世界』(平凡社ライブラリー)を著すに際し、先行するドゥルーズの著書から多くを負っているということである。言語体験としての世界体験、離郷体験や流浪がもたらす未決の宙づり状態、あるいは生きかたそれ自体が一種のだまし絵であるかのようなマゾッホの演劇性等々である。「サドにスピノザ思想が、推論的理性があるとするなら、マゾッホにはプラトン主義が、弁証法的想像力がある」とはドゥルーズの卓見だが、そのドゥルーズと種村さんとのあいだには、「イデアを拒否する変則的プラトン主義」との共通項がある。「白痴的アナーキスト」でも触れたのだが、洋の東西を隔てて同時期に、畸型や倒錯の内部に身をひそめながら二項対立からの遁走を試みたところに、ひとつの時代の要請を感じるのである。
種村さんに関するエッセイを書くに際して、頭を離れなかったのは二元論である。二元論でも、二項対立でも、葛藤でも一向に構いはしないが、ひとがものごとを考えるときに二元論なしではほとんど不可能に近い。ヘルメスやトリックスターについて考えるときにも、遁れようと思っても二元論からは遁れられない。その二元論からの解放を試みた最初の作家が澁澤龍彦であり、種村季弘でなかったかと思い続けてきた。歴史と社会の存続の基盤である二元論的思考の拒絶はひとをアナーキーな場へ誘う。そのアナーキズムの有りようが、澁澤龍彦と種村季弘ではずいぶん異なる。その差違を的確に言い表せないものかとずっと考えてきたのである。書いては消し、書いては消しを繰り返し、なんとか二十枚に纏めた。当書き込みはその折の反故の一部に手を加えたもの。
グザヴィエル・ゴーチエの「シュルレアリスムと性」が平凡社ライブラリーから再刊された。訳者は三好郁朗さん、かつてルネ・クルヴェルの「ぼくの肉体とぼく」を私は編輯している。「シュルレアリスムと性」が最初に上梓されたのは1974年、朝日出版社からであった。当時、評判だったケイト・ミレットの「性の政治学」と一脈相通じるきわめてアクチュアルなインパクトを内包したエッセイである。
ミレットはD・H・ロレンス、ヘンリー・ミラー、ノーマン・メイラーのような性の文学の作家たちを男根中心主義と批判し、彼らの状況判断が誤っていて、作品の偏向が有害であると指摘する。他方、フロイトの男根中心的な理論体系、すなわち主観的秘教主義、禁欲、保守性などはそっくりそのままブルトンに受け継がれてい、それこそが革命に対するシュルレアリスムの裏切りだとゴーチエは糾弾する。
性差別を温存したままでの性の解放など、所詮は男性がよりよく女性を享有するための強弁であり、反動的改良策でしかない。自ら革命思想を自認したコミュニズムとシュルレアリスムが、結果として、性欲をその原理において抑制するに至った反革命性をゴーチエは明確に跡づける。 まことに手厳しいブルトン批判なのだが、当時の私の目には説得力があるように思われた。「シュルレアリスムと性」一巻は、私にシュルレアリスムとの決別を迫るものであったと言っても過言ではない。そして、女性の疏外状況の理想化、永続化を計る企てに抗議しつづけた倒錯的性愛実践者のルネ・クルヴェルに傾倒していったのも、ゴーチエの導きであった。
ラカンの影響が強いが、そのラカンやドゥルーズを経た今日ではいささかの問題点もある。同性愛の章で当然触れなければならないマイノリティの概念を考察せず、サド・マゾヒスムの章では否定するフロイトの理論からの解放をなんら試みていない等々である。しかし、その辺りをさっ引いても面白い、現在にあってなお有効なシュルレアリスム批判の書である。
種村季弘さんがつとに指摘するように、フロイト、ライヒ、マルクーゼという精神分析学の一系譜はシュルレアリスムの理論形成と深く重なり合っている。重なり合うのは構わないが、その反動的傾向は困ったもので、ネット社会の今日、その性差別の傾向はますますひどくなっているように思われる。「異常」であれ「倒錯」であれ、もしくは「男らしさ」であれ「女らしさ」であれ、性欲を常に性器的なものに閉じ込めようとする男性中心の文化が瓦解するのは何時なのか。男であれ、女であれ、なんであれ、そのような概念はどうでもよい。個々のひとはまず欲望の主体であると同時に欲望の対象である。それは対立する概念ではなく、融解し滲透しあうものでなければならない。エロティシズム、ひいては性の問題こそが、革命の起源の場であり実践の場であらねばならない。
平凡社ライブラリー版には旧版の「訳者後記」も収められている。六十年代の思想的激動の一端が垣間見られる傑出したエッセイである。また「訳者後記」に出てくる「君」は若くして縊死した大槻鉄男さんのことである。セリーヌやブルトンやシュペルヴィエルの名訳を遺したフランス文学者にして詩人。七十年代、私の京都時代は彼と共にあった。
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