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一考 | バンビーについて

 前項の小原さんや下中さんについてひとこと。彼等は「バンビー」を中心に神戸モダン・ジャズ倶楽部を主宰してい、アート・ブレイキーを神戸へ呼んだ張本人のひとりであった。伝説の興行師神彰がアート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズの日本公演を企んだのが昭和三十五年、翌年の正月に東京、大阪、神戸と、九日間にわたって演奏会が催された。メンバーは アート・ブレイキー(ドラム)、リー・モーガン(トランペット)、ウエイン・ショーター(テナーサックス)、ボビー・シモンズ(ピアノ)、ジミー・メリット(ベース)、ビル・ヘンダーソン(ヴォーカル)の六人の黒人だった。中学二年生の私は下中栄子さんに連れられて国際会館の小ホールへ聴きにいった。ファンキーとかバップとかビートとか、聞きなれない言葉が飛び交うなかでジャズの洗礼を受けたのである。
 彼女は私が小学四年生のときから面識がある。福原、三ノ宮を問わず、バー街では知られた存在で、いつも女王様のように振る舞っていた。百万$をはじめ、ビクター、石、山、大$、やながせ、アカデミー、北野クラブ等々、いろんな店を紹介し、挙句に浮世風呂(今のソープランド)で酒を飲む癖を私に植え付けたのも彼女であった。アート・ブレイキーを境に急速に親しくなるのだが、それは夙成を認めたからなのかもしれないと、いまにして思っている。
 中山手通一丁目の喫茶店「にしむら」の裏手のアパートに「バンビー」の寮があって、そこでジャズの特訓を受けた。学んだというよりは、いいおもちゃにされたと言ったほうが正確かもしれない。いずれにせよ、当時開盤されたブルーノートの詳細を覚えさせられたのである。ですぺらではジャズを流しているが、私はジャズと映画のはなしは避ける。ワイン同様、ジャズについて語るひとは自らの好悪すなわち薀蓄を傾けるに終始する。個人の好き嫌いやジャズについての概説や一般論など聞きたくもないのである。私が訊きたいのは、そのひとの生き方にジャズがどのような響影をもたらしたのか、もしくはジャズが招来させたであろう個人の搏動についてである。これは文学においても同様である。

 彼等から私が最初に学んだのは「ワンステップ」という生き方だった。ダンスでいうステップなのだが、人生は一度きり、なにごとも一度きり、かかわり(愛情や友情)も一度きりという、アドリブを地で行くような刹那的かつ無責任な生き方だった。例えば一緒に飲んでいても、「それではこれで」のひとことを残して無情に立ち去る。酒を飲むに意味がなければ、飲まないことにも意味はない、要するに理由はいらないのである。気候が変わり、季節が移り、海も山もかたちを変えてゆく。ひとの存在もそれと同じで、生まれ落ちた瞬間から立ち枯れてゆく風景のようなものである。一切の種に永遠はない。そのような「ワサビのように峻烈な」生き方を彼等は中学生の私の身体に刻み込んだ。これがジャズなのだ、とばかりに。
 過日、「『神戸の残り香』成田一徹」で「触れれば傷つき、火傷するような熱い日々を送っていた」と書いたが、その遠因は福原に限らず、彼等から学んだ「ワンステップ」にもある。きっと、あの前後に価値観の瓦解が、私の敗戦体験があったように思う。
 「にもある」の意は「推定」であり、助動詞の「らしい」と同義である。思案をいくら重ねても分からないものは分からない。いかように判断を下しても、それらは一応の算定であり、仮の判定でしかない。だからこそ、同じ趣向のはなしを二度三度と蒸し返し綴り直すことが人生であり文学なのだと、そうした重語法的エポケーそれ自体が私の信仰告白なのかしらん。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月27日 23:11 | 固定ページリンク





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