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一考 | タコヤキ屋三十軒

 蛸といえば、かつて種村季弘さんが「怪人百面相綺譚 または、渡辺一考とは何か」のなかで、
「拙訳のオスカル・パニッツア『三位一体亭』を本にしてくれたとき、私は広島の旅先から当時西明石に住んでいたこの人の寓居にサインをしに訪れたことがある。そのときにご馳走になったタコの吸盤のさしみが滅茶苦茶にうまかった、などということを思い出すとまた話が長くなる。
 しかしこのときの話に出たタコヤキのことだけはどうしても書いておかなければならない。タコヤキを食いにいこうというのである。こちらはすでにタコの吸盤で満悦しているので丁重に辞退すると、『いやうまいんです』と何とかという店の名をあげていきり立つように言った。西明石には三十軒のタコヤキ屋がある。それをしらみつぶしに食べあるいて叩き出した結論というのが、これであった。ああタコヤキ屋三十軒」
と著された。
 種村さんご指摘のとおり、明石へ引っ越して真っ先に調べたのが、たこ焼き屋から明石蛸の歴史に至る蛸あれこれであった。
 「たこ焼き屋は商売である」とは言いながら、三十軒のたこ焼き屋の風味はさまざまに異なる。まず、蛸の大きさが違う、メリケン粉(薄力粉)とじん粉(浮粉)の比率が違う、粉と出汁の比率が違う、つけ汁の出汁の取り方が違う、つけ汁の味付けが違う、つけ汁の薬味が違う、さらに焼く鍋の材質が違う、火力と焼き方が違う、「などということを思い出すとまた話が長くなる。」しかし、これを書いておかないと家庭でたこ焼きを作るのはかなわない。また、たこ焼きの一部を俯瞰できれば、食するときの居住まいも変わってこよう。
 種村さんに倣ってたこ焼きと書いたが、明石のそれは明石焼きであり、地元では玉子焼きと称する。玉子焼きを焼く銅製の器具を鍋と言うので、鍋一枚、鍋二枚とのあんばいで注文する。明石駅前の大明石町にある老舗「松竹」 はよく知られた玉子焼き屋だが、その筋向かいにも玉子焼き屋がある。日曜日と祭日のみ営むほとんど知られていない店だが、そこのスペシャルヴァージョンには巨大な蛸が入っている。通常の四、五倍はあろうかと思われる活蛸が中央にでんと鎮座している。
 駅から見て、「松竹」の手前を右に曲がれば「お好み焼き道場」がある。そこの玉子焼きは明石全体の玉子焼きのセオドライトのようである。文芸評論でいう伊藤整のようなもので、それ以下なら駄目、それ以上でなければならない一種の水準器となっている。生地を何度か加えながら焼くのでひとつひとつが大きくてやわらかい。つけだしは昆布で常温、甘くなく辛くもない、要するに少量の醤油と味醂のバランスがよく塩が控えめに用いられているのである。姉妹店に「酒道場」があり、蛸の天麩羅、鯛の子の煮付け、鯛のあら煮、太刀魚の刺身、鱧の湯引きなど、明石ならではの肴が豊かである。また「酒道場」で玉子焼きの出前をたのまれる。地元ではひろく知られているが、週刊誌などで取上げられたことが一度もない、いわば隠れた名店なのである。店名は伏せるが、屡々東京のマスコミで取上げられ、観光客が玉子焼きと蛸の関東煮を求めて列をなす店があるが、あれは明石でもっとも不味い店である。
 次にじん粉だが、小麦粉でんぷんを精製したものを本浮粉(うきこ)と呼び、さつまいもでんぷんで代用した物を浮粉と呼ぶ。ここで用いるのは当然本浮粉だが、主たる特徴は加熱しても固まらないところにある。従って、玉子焼きのふわふわした食感を出すに重要な役割を果たしている。片栗粉やコーンスターチも同じでんぷんだが、そちらは水になじみにくく焼き加減にムラが生じて味が落ちる。明石の魚の棚の中島商店、中村商店、白川南店などで売っていて、ネット通販でも購入可能である。メリケン粉とじん粉の比率は八対二からはじめ、徐々に同割にまで持っていく。最初から同割だとまるく焼くのに苦労させられる。
 粉と出汁の比率は簡単である。じん粉は小麦のでんぷん質のみで出来ているが、小麦粉には蛋白質(グルテン)が含まれるため、熱をかけると固くなる。その固くなる限界点まで、出汁で薄めるのである。前述したように玉子焼きは「ふわふわした食感」を楽しむのであるから、たこ焼き屋は柔らかさの限界を競い合う。割烹の出汁巻きに思いを巡らせていただきたい。柔らかくなければ大阪の、もしくは縁日の屋台のソースたこ焼きになってしまう。それは玉子焼きとは似て非なるものである。
 つけ汁の出汁の取り方だが、昆布、かつお、いりこ等を用いる。間違っても東京式の鰹節だけの白出汁はやめた方がいい。蕎麦や饂飩と玉子焼きは異なる、あくまで、薄めの吸い物を念頭に置いていただきたい。昆布とかつおのどちらが勝っても駄目で、そのバランスはセンスと言うほかない。酒ならともかく、吸い物のような根元的な香味のセンスを言葉で言い表すのは至難である。インスタントの粉末出汁を用いるなら、味の素のほんだしがいい、シマヤだと焦げ付いてしまう。ただし、味の素は味にえぐみがあるので量を控えめに。いりこだしだとヤマキなのだが、インスタントの粉末出汁は総じて塩とアミノ酸が強い、慎重な取扱いが必要である。
 玉子焼きが熱いのでつけ汁は常温で、そして薬味は三つ葉にとどめをさす。念のためにいっておくが、玉子焼きのなかは蛸だけである。
 玉子焼きの鍋は銅製の厚板鍋に限られる。鋳物は熱伝導が悪いので鍋に熱ムラが生じ、ふわふわには仕上がらない。安福保弘さんが打ち出す玉子焼工房か、大阪の甲野製作所の鍋がお薦め。共にネット通販での入手が可能である。

 末尾に当文章の構造式を書いておく。言明、つまり命題を分解していくと、最後には、これ以上分解すると命題にならないような命題に到達する。蛸の場合は「蛸は軟体動物門頭足綱八腕形目に属する動物の総称である」もしくは「蛸は食品である」ということになろうか。その原子的命題から出発して、「そして」「あるいは」「ならば」「でない」といった論理演算を潜って、しだいに複雑な命題を構成するに至る。その過程がおはなしである。命題とは、なんらかの主張を表した記号の組合せであり、主張そのものであると同時に、主張を成立させる状況の集合であるとも言える。後者の場合、命題の主語が人名であろうがなかろうが、そのものの棲息環境、謂わば人生そのものだと言えようか。そして原子的な命題が内包する棲息環境と複雑な命題のそれとでは状況が異なる。さらに言えば、状況それ自体が環境に即して壊れたり喪われてゆくこともありうる。要するに、命題は主張を成立させる状況の集合であるにとどまらず、時として喪われてゆく状況をすら内包する。言い換えれば、意味内容や表象から遠く逸脱してゆくそのものの影や分身、時として遺影すらもが含まれているのである。
(つづく)



投稿者: 一考    日時: 2006年08月04日 21:38 | 固定ページリンク





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