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一考 | 平井功と塵芥賞

 先日、佐々木幹郎さん来店、「塵芥賞を勝手に決めちゃったの」と言われてしまいました。実は塵芥賞は佐々木幹郎、宇野邦一、それと私の三人で選考の予定だったのですが、今回ばかりは私の独断で決めちゃいました。
 「権威や権力を恫喝」しているかどうかが選考基準なのですが、蛮勇社社主ならびに「平井功譯詩集」の編者ははなから権威、権力の持ち合わせがないのですから、選考の対象外なのです。これは澁澤さんや種村さんについても同じことが言えます。彼等は権威、権力からはのらりくらりと逃げ回っていましたから、アイドルにはなりえても学者にはなられなかったのです。と、ここまで書いて、編者には権威、権力の持ち合わせはないまでも、志向はあるのではないかと、後方をヤジが飛び交っています。
 で、選考の対象外ならひとりで決めても差し障りはなかろうと、また最初からあじゃらに拵えた文学賞なのですから薬味に孤憤の情(ですぺら)が必要になります。薬味でも妻でもあしらいでもよろしいが、なにかしら添えものがなければ冗談と怨念とが双方向になりませんもの。
 今までいくつかの出版社を興しては潰し、また乗っ取られてきたのですが、常に平井功「驕子綺唱」の開板が念頭にありました。この間の消息は先日平井功訳詩集オフ会にて少しくお喋りいたしました。それ故、ここで申し上げたいのは、今回の「平井功譯詩集」の造本体裁を覧てこれはとても私には造られないと思ったことなのです。平井功に限らず、対象に執心があると、かくも簡略な出版には踏み切れないものなのです。出版人にとって、造本それ自体が評価の唯一の顕わし方だと、そのような思い込みが私のなかにしぶねく残っていたのです。言い換えれば、彼等が拵えた「平井功譯詩集」に世代の断絶を覚えると共に、爽やかなやっかみを感じたということになりましょうか。しかし、それで結構、その軽みが彼等のいいところであり、軽薄さこそが次世代のメディアを、文化を形成してゆくのだと諒解しています。
 選者のひとりの宇野さんが佛蘭西へ外遊なさるので、八月早くに授賞式を済ませたかったのですが、九月以降のようですので、予定変更です。塵芥賞ですからそれもよし、あれもよし、なんでもよしでございます。授賞式はですぺらでも結構、「まあ、いいから飲みましょうよ」で締め括ることができれば幸いに思います。

追記。宇野邦一さんの予餞会は八月九日です。みなさんのご参加を願います。



投稿者: 一考    日時: 2006年07月29日 21:44 | 固定ページリンク





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