ですぺら
ですぺら掲示板1.0
1.0





« 前の記事「八月のですぺら」 | | 次の記事「タコヤキ屋三十軒」 »

一考 | 明石蛸

 餓えに魘されて、このところ食い物に関するはなしが続いた。それ故か、季村敏夫さんからいまが旬の明石蛸が送られてきた。夫婦で営む太寺三丁目の山下魚店からのご送付とあるが、徒歩一分のところに私は住んでいた。81年から82年までは枝吉だったが、82年から85年までは太寺三丁目、89年から99年までは太寺一丁目と、明石の東端で点々と借家住まいを繰り返していた。あの頃は東京から作家が訪ねてくると、山下魚店と二丁目の角のミニコープへ走っていたのである。また、兵庫県水試場長で、後年神戸市立須磨水族館へ移られた蛸学者の井上喜平治さんも太寺に住んでおられた。
 それにしても、なぜ山下魚店の蛸なのかが不思議である。神戸から明石界隈の魚屋には精通している。仕入れの用があって、明石屋やかねきなど名の通った店とはほとんど取引があった。それは酒屋も同様である。季村さんが住む多聞台にもいい魚屋が一軒ある。とここまで書いて思いだした。先日、ながらみ書房から歌集「ジャワ・ジャカルタ百首」を上梓された南輝子さんから、私が太寺に住んでいたのを聞かされたのだと思い当たった。彼女とは十代からの付きあいであり、私を「ワンタン」を呼ぶ数少ない友のひとりである。彼女なら、明石時代のことをよくご存じである。
 蛸がやってきたのは嬉しい。どのようにして食させていただこうかと、もっか調法を思案中だが、薫子さんはぶつ切りのバター炒めがいいと言う。しかし、蛸の訪ないにはなにかしら下心があるに違いない。おそらく彼がかかわる雑誌への執筆依頼であろう。季村さんのことだから、題目は割烹やバーではあるまい。震災もしくは神戸の古書店、新刊書店、出版社、古裂、古道具屋、おそらくその辺りだろうと思う。それは後日のはなしとして、蛸については書いておきたいことがある。
(つづく)



投稿者: 一考    日時: 2006年08月04日 20:37 | 固定ページリンク





« 前の記事「八月のですぺら」 | | 次の記事「タコヤキ屋三十軒」 »

ですぺら
トップへ
掲示板1.0
トップへ
掲示板2.0
トップへ


メール窓口
トップページへ戻る