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一考様
篤学の一考さんに、今更こんなことを申すのも詰まらぬことですが、日本国語大辞典第二版には、
「縮緬雑魚」ちりめんざこ、ちりめんじゃこの二項目が挙がつてゐて、「カタクチイワシの稚魚を煮て干したもの。ちりめんじゃこ。ちりめんぼし」「季語・春」と書かれた後に、俳諧七車集(1694か)の「半月は江口の里に船留て」といふ尺艸に附けた、横九の「縮緬雑魚に覆ふ夏草」が引かれてゐます。また「物類称呼」(1775)に「いさざ、俗に、ちりめんざこ、といふは此魚の乾たる物也」や、鏡花の「高野聖」(1900)の例もあります。あるいは、また、咄本・咲顔福の門の例も引用されてをりました。愛媛では「ちめんじゃこ」といふとも。
これらは今回一考さんの仰言つてをられる「ちりめん山椒」とは違ふものでせうね。
余計なおしやべりをいたしました。
高遠弘美さんへ
迷惑をお掛けし、申し訳ございません。足穂の件はどうかよろしくお願い致します。このところ文学以外の書物ばかり作っているので、あのような企画を突然持ち込まれて困っておりました。〆切は8月に延びたようですね。
『ゴシック名訳集成』には平井呈一さんの訳が多く収録されてい、牧神社時代を思い出しました。ところで、平井さんは死ぬ日まで訳稿を推敲しつづけていらっしゃいました。おとらんと城綺譚、マッケン作品集成、ラブクラフト、私の机書だったダウスンのディレンマやこわい話・気味のわるい話等々、真っ赤に朱を入れた自筆訂正本をやまのように見せていただきました。重版がでるときはこれを使いたいと目を輝かせていらした、あれらの書物はどこへ行ってしまったのでしょうか。吉田さん(奥方)は二年ほど前に老人ホームで亡くなられました。娘さんが保管なさっていればよろしいのですが・・・心配です。某編輯者から平井さんのことを書けと命じられているのですが、事情があってまだ果たせずにいます。「世間をわざわざ狭くして生きている」との叱責を受けるのですが、それが性格なら致し方ございません。
ご指摘の俳諧七車集はさっそく調べてみます。芭蕉、蘭更、丈草には結構な句があったのですが。いづれにせよ、常に貴重なご指摘ご教示にあずかり恐縮いたしております。
ちりめん山椒の貴重なレシピがはいりました。京都の西方嵐山(らんざん)で最も有名な割烹と申せばどなたにもお分かりでしょう、当然屋号は伏せさせていただきます。
ちりめんじゃこ1キロに水4合と酒6合を沸かして灰汁取り。
あとのレシピは以下のごとし。
濃口醤油 1.4合
たまり醤油 0.4合
砂糖 200グラム
有馬山椒 150グラム
水飴 0.2合
私の方式だと20分ほどで出来上りますが、こちらの方式だと1時間半は掛かります。それと最初に入れる水と酒をそのまま使うので、やや臭みが残るかもしれません。その分、高級なじゃこを用いればよろしいわけです。先々代の板長と親しかったものですから、ご教示いただきました。京都のちりめん山椒を代表する作り方と解釈していただいて結構です。
このところ、かなりの種類のちりめんじゃこを食べている。それらのなかからお気に入りを紹介しておきたい。河出書房の紹介で知った中原水産がそれで、淡路で海産物製造卸を営んでいる。住所は兵庫県洲本市炬口1-1-44、郵便番号は656-0011、電話0799-22-1406、ファクシミリ0799-22-2683、炬口はタケノクチと読む。淡路の地名の読みは濁音に間違いが多い。地震で有名になった南淡町は当時の新聞や週刊誌ではナンダンと読ませていたが、字限図、地籍図では共にナンタンである。私が育った福原は土地台帳ではフクハラだが、古老を除き、ほとんどのひとはフクワラと発音する。これは東京の吉原も同じである。
余談はさておき、中原水産のちりめんには廉いものと高いものの二種類がある。この違いは天日干しか否かによるのがほとんどだが、中原水産の場合は大きさを揃えることと掃除にあるらしい。子供のころのちりめんじゃこには子蛸や子烏賊、またイワシ以外の稚魚がよく紛れ込んでいた。私はそれらの異物が好きで、大事に取り置き、最後に食べたものである。アジ、ママカリ、カレイの稚魚などは特に宝物のようなもので、それが当たった日など、一日中機嫌がよかったのを覚えている。ひとはどのような環境下、閉塞された場にあっても夢を抱く、ちりめんに紛れ込んだ異物になにを響影させようとしたのか、すくなくともそこには「おいら、ひとり横むいたオットセイ」のような孤独な存在があった。私がなぜ、ちりめん山椒に惹かれ、ちりめんじゃこにこだわるのか、理由はそのあたりにありそうな気がする。
もっとも、そんなことを述べていては美味いちりめん山椒は作られない。中原水産の高い方のちりめんはグラム340円、お薦めである。
一考様
もう十五、六年になりませうか。わたくしが愛読してゐる本のひとつに、三橋淳『世界の食用昆虫』といふ本があります。『悪食大全』の後書きや、ユリイカの「昆虫の博物誌」などのときにも引いた書名なので、ご記憶にあるかと思いますが、食べたことはなけれど、わたくしが最も感動したレシピを紹介いたします。文化の根本といふのはここにあると思ひました。
世界のある国の人々の料理を紹介した部分です。以下引用。
彼らは尾長猿を殺して、腹を割いて腸を取り出し、体腔にシトルスヒストリックスという柑橘の葉やそのほかハーブをつめて、切り口を縫い合わせる。それから彼らは白蟻の巣を探しにゆき、巣を切って、その中味でペーストをつくり、それを猿の体に塗って、完全に覆ってしまう。
このようにした猿を、木の枝に吊し、その下に皿を置いておくと、液体がしたたり落ちて皿に集まる。これはマンキーソースとして珍重されており、美味であるという。一週間か二週間そのままにしておくと、今度は皿に蛆が落ち始める。これは多分、肉蠅の幼虫であると思われる。この蛆がもう落ちてこなくなったとき、猿を木からおろして切り開くと、通常二ないし三匹の甲虫の幼虫と思われる大きな虫がみつかる。次に彼らは、ココナツの実を集め、熱し、殻に穴をあけ、中の液が冷えてから、一個のココナツに一匹ずつその甲虫の幼虫を入れ、穴を白蟻の巣のペーストでふさぐ。ココナツはさらに布で包まれ、またその上にペーストが塗られる。そしてさらに三週間くらい放置したあと、殻を割ると、蜜柑くらいの大きさにふくれあがった幼虫が出てくる。この幼虫は非常にうまいものとして、特別な儀式の際に食べられるという。
如何でせうか。 一考様
もう十五、六年になりませうか。わたくしが愛読してゐる本のひとつに、三橋淳『世界の食用昆虫』といふ本があります。『悪食大全』の後書きや、ユリイカの「昆虫の博物誌」などのときにも引いた書名なので、ご記憶にあるかと思いますが、食べたことはなけれど、わたくしが最も感動したレシピを紹介いたします。文化の根本といふのはここにあると思ひました。
世界のある国の人々の料理を紹介した部分です。以下引用。
彼らは尾長猿を殺して、腹を割いて腸を取り出し、体腔にシトルスヒストリックスという柑橘の葉やそのほかハーブをつめて、切り口を縫い合わせる。それから彼らは白蟻の巣を探しにゆき、巣を切って、その中味でペーストをつくり、それを猿の体に塗って、完全に覆ってしまう。
このようにした猿を、木の枝に吊し、その下に皿を置いておくと、液体がしたたり落ちて皿に集まる。これはマンキーソースとして珍重されており、美味であるという。一週間か二週間そのままにしておくと、今度は皿に蛆が落ち始める。これは多分、肉蠅の幼虫であると思われる。この蛆がもう落ちてこなくなったとき、猿を木からおろして切り開くと、通常二ないし三匹の甲虫の幼虫と思われる大きな虫がみつかる。次に彼らは、ココナツの実を集め、熱し、殻に穴をあけ、中の液が冷えてから、一個のココナツに一匹ずつその甲虫の幼虫を入れ、穴を白蟻の巣のペーストでふさぐ。ココナツはさらに布で包まれ、またその上にペーストが塗られる。そしてさらに三週間くらい放置したあと、殻を割ると、蜜柑くらいの大きさにふくれあがった幼虫が出てくる。この幼虫は非常にうまいものとして、特別な儀式の際に食べられるという。
如何でせうか。
一考さま
忘れていました。わたしの店の入っているビルはもともとは泥鰌屋だったのでした。昭和初期の四階建てです。四階の端にはいまも粗末な畳敷きの部屋が残っていて、板を打ち付けた壁に裸電球がひとつ。四畳半のわりには大きな下足の棚があります。従業員がかわるがわる階段をのぼってそこで休んだのではないかと勝手に想像しています。ご存知でしょうが八重洲富士屋ホテルの裏はむかしは青果市場で、近くには「大根河岸跡」なんて碑も立っています。泥鰌屋があっても不思議ではありません。当時としては立派なビルだと思いますから、よほどはやっていたのでしょう。いまはお化けが出そうですが。
友人の「江戸っ子」たちに限っていえば、彼らに選民意識があるとはとても思えません。そのうちのひとりに泥鰌について尋ねてみたところ、浅草では昭和三十年代中ごろまでは「泥鰌売り」がやってきて家で味噌汁にして食べていたとか。見なくなったのは、第一にはたぶん近隣の田園で泥鰌が売るほどには採れなくなったからでしょう。これには農薬の影響があるかもしれません。それとやっぱりあの姿。洗濯機や冷蔵庫など生活が電化され日常に「清潔さ」が増すにつれ、ああいうヌルヌルしてなまなましいものはだんだん駆逐されていったと見るのが妥当かと思います。なにしろ都会生活はどんどんデオドラントになって、いまや魚は生き物ではないみたい。
一考さんのご質問の趣旨とははなれてしまいました。
泥鰌とちりめんじゃことが結びついていたとは想像もしていませんでした。反復反復のちりめんじゃこにまぎれた異物がモンダイなのなら、泥鰌の場合は泥鰌自身が都会の異物なのでしょうか。
味噌汁の浅蜊に1個まじったシオフキだとか、浅蜊の身に隠れていたちいさな蟹だとかを見つけたときは妙に嬉しかったものです。ただこの嬉しさの感覚は一考さんの仰る「ひとり横むいたオットセイ」とはすこし違うような気がいたします。
泥鰌と蕎麦とはきっとどこかで似ています。
ちりめんじゃこにはその一匹いっぴきに目がついているのが印象的です。
一考さんにとってのちりめんじゃことは、安部公房の「砂」みたいなものなのですか?
ひとつひとつの目が、「世間」みたいなものなのですか?
贔屓にしている新潟麦酒がホームページを設けました。プレミアムエール・エディンバラはお薦め、ぜひご購入ください。
http://www.niigatabeer.jp/
やまいちの山田さんへ
こちらこそご無沙汰致しております。白生にごりもそうですが、新潟麦酒のエディンバラ、ゴールデン・エディンバラ、エール・ド・ブルーベリーの3種類を置いて下されば、これからはやまいちで購入します。それとイギリス・マンチェスターのパブエール「バディントンズ」も欲しいのですが、こちらは値段次第です。ウィット・ブレッド社のドラフト・ビールで、10年位前は大阪の重松が輸入していました。しばらく扱うインポーターがなかったのですが、2年前に六本木の某社が半年前からは池袋の某社が扱っています。目白の田中屋さんには常備されています。貴社で取り寄せが可能なら、仕入れが楽になります。返事はメールで結構です、どうかよろしく。
土曜日に京都の錦市場から冷凍の実山椒が到着。既製品の香味がいまいちなので、たまり醤油を用いない有馬山椒を作ろうと思ったのです。まず、掃除が一仕事、次いでふっくらさせるために湯掻いてから蒸すのですが、時間がないので電子レンジを使いました。おそらく月曜日にはそれなりのものが出来上っていると期待しています。
せっかくの生の実山椒ですから、その状態でのちりめん山椒も作りました。ちょっと山椒がきついかとも思われますが、色彩はあざやか、いい照りが出て、写真撮影には最適のものになりました。ただし、こちらは一時間半はゆうに掛かりました。
郡司正勝さんの口癖は「ぐんぐんよくなる郡司正勝」だったのですが、ですぺらのちりめん山椒もぐんぐん良くなっています。かかる機会を与えてくださった「料理王国」に感謝。撮影は水曜日ですが、問題なくクリアできそうです。掲示板で与太を飛ばしたおかげで、原稿の方も一日に済ませました。外山さん、高遠さん、そして何時ものことながら管理人の櫻井さんに感謝致します。
外山時男さんへ
浅蜊とシオフキですか、潮干狩の雰囲気になってきました。子供のころよく行った播麿の東二見の浜を思い出します。「浅蜊の身に隠れていたちいさな蟹」、あれは隠れていたのですか、私はてっきり補食されたものだと思っていました。だって、半ば消化済みの蟹をなんどか見掛けたものですから。子蛸やアジの稚魚と違って、なんとなくグロテスクな雰囲気を感じていたのです。
ちりめんのなかに身をかがめた見馴れない魚たちからなにを読み取ろうとしたのか、今となっては定かでないのです。ただ、小・中学生のころは無性に淋しかったのです。当然ですが、他者や世間に責任があるのではなく、自らのへまや至らなさが心底いやになったのです。それからあとはグレてしまって女漬け、酒浸りの日々を送りました。東京で云うところのねりかんブルースを地でゆく荒れ模様の生活で、ずいぶんひとさまに迷惑を掛けました。蕎麦の世界は知りませんが、福原のような色町は渡りのごろつき職人ばかり、60年代の板前には八九三者が多く、間違いなく私もその片隅に籍を置いていたのです。もっとも、同じ神戸でも花隈の高級割烹には専門莫迦とでも称する他ない実に立派な板さんがいらっしゃいましたが。
料理はさておき、私が述べたいのは十代前半の学生のころのはなしです。フィヒテやヘーゲルではありませんが、ひどい疎外感に悩まされていました。フィヒテが分かっていたのかなどと素見さないでくださいよ、あのころは必死だったのですから。そがいはそがいでも性格が背向だったのかも、などと今なら駄洒落のひとつも平気で出るのですが、当時は難儀致しました。ハイキングや旅行などの団体行動への不参加にはじまった駄々(っ子)イズムはやがてお定まりの登校拒否へと深化し、教科書を破り捨てての古本猟り。私のような間抜け面の半可通が世間さまが読むような書物を繙いてはいけない、手に取ってはならないとの強迫観念が古本の世界への誘いとなったのです。いまなお、「貧困小説集」や「陽のあたらない文学館」などと嘯いているのをみると、きっと反抗期がいまなお続いているのですね。
はなしを戻します。ちりめんのなかの異物がひょっとして仲間はずれにされたさかなではなかったか、致し方なくカタクチイワシのなかに身をひそめていたのでなかったか、そんな宙ぶらりんを選択するしかなかった存在、さらに申せば、ひろい海にあって寄る辺のないものたちを囲ったのがイワシの稚魚たちだったとすれば・・・海のなかにはまだいのちへの愛が友情が残されているのではないか・・・そのような惚けたことを案えながら、肝心のちりめんに舌鼓を打っているのですからひどいはなしです。
それにしても、「ひとつひとつの目が、『世間』みたいなものなのですか」とのご発言には参りました。「デオドラント」を据えて「泥鰌の場合は泥鰌自身が都会の異物なのでしょうか」と結論づける明解な論旨、加えるに非凡な着想と鋭い奇想が交錯する妙な味わいをあなたはお持ちです。例えば「ノートルダム寺院の屋根にくっつけられたガルグイユ・・・大宗教に囚われた八百万の神の趣」などは抱腹絶倒、あなたに食べ物のはなしを書かせる編輯者はいないのですかねえ。すこぶるユニークな随想集になると思うのですが。
一考さま
二枚貝の中にいる蟹は「ピンノ」と呼ばれる種類だそうです。「半ば消化済み」に見えたのはおそらくメスのピンノと思われます。メスは二枚貝へ入ったあとは二度と外へ出ずに暮らすので、オスよりいっそうぶよぶよしているとか。または、そこで生涯を終えて溶けかけたピンノだったのかもしれません。
蟹で思い出しました。
夏の数日は館山の友人宅へ行って磯遊びをするのですが、あるときそこへ向かう途中の高速を降りて国道へ入ったあたりの左手に、大衆蟹料理店『蟹工船』の巨大な看板が立ちました。これにはたまげました。
戦後世代もいいところの私にとってさえ「蟹工船」と言えば築地警察の取調べ室なのに、なんじゃこりゃあ。
先年、築地警察はなんの批判もなくあっという間に建て替えられてしまいましたが、これも東京の無味無臭化の一環なのでしょう。
高遠弘美さんへ
かくまで複雑かつ錯綜したものを知らないのですが、はじめて鮒寿司を食べたとき、知床のくさや風鮭とばを食べたときを思い出しました。確かに、調烹とはとんでもない文化だと思います。類推の標本のようなもので、想像力の飛翔以外なにもないと思うのです。
掲示板で一度書いたことですが、昔、らんちゅうを飼っていました。先祖帰りと云って金魚の子の一割は鮒の子になります。そのままにしておくと、成長の早い鮒の稚魚が金魚を食ってしまい、池は鮒だけになってしまいます。要するに、人の手が加えられての存在なのです。プルーストやユイスマンスが金魚にこだわった理由が、またはデカダンスの骨法が金魚を飼うことによってはじめて実感として諒解できたのです。もっとも、池の主が金魚であろうが鮒であろうが、私の知ったことではないのです。でも、それを承知でどこまで意地を張るか、飼い主が自分なら喝采を送るのも落ちこむのも自分ひとり、生きるってそんなことですよねえ。
外山さんではありませんが、恵比寿のガード下の貼り紙、立ち寄った喫茶店で泳ぐ一匹の金魚、笊のうえに並べられたちりめんじゃこを見詰めることによって、ひとは間違いなくどこかへ旅立ちます、なんの役にも立たない旅立ちですが。一方、いくら美しく盛り付けられた料理であっても、数分後には跡形もなく消え去ります、食い荒らされるまでの刹那の旅程。その食に費やされる時間が短ければみじかいほど、ネタを吟味し調理に途方もない手間ひまを掛けたくなる。これも一種の意地の張り方なのでしょうね。だって、材料の見定めや下拵えの段取りなど分かる客は万人にひとり、客が鮒であろうが金魚であろうが、そんなことはどちらでもいいのですよ。
あなたの書き込みに秘められた「途方もない手間ひま」、そのあたりに「死を目前にした、定まらない揺蕩う残照」のようなもの、要ははにかみがあると思うのです。はなしがぶっ飛んでいますか。ものを著すのと割烹には似たところがあると思うのです。好奇心と無意味さとが手に手を取っての旅立ち、嘘のペーストで欠落した箇所を補い、さらに大風呂敷で包み、またその上を嘘のペーストで塗り固める。それが本命かと思いきや、一挙に「岡山の焼鳥」と化す。きっと、引っ込み思案で恥ずかしがり屋の駄目人間でなければ料理人にはなれないと思うのです。いわんや物書きに於ておや。
感嘆措くあたわぬ書き込みに深謝、fraterniteを感じつつ。
追記。アラビア半島のアハダル山脈に栖む尾長猿は昆虫や鳥の卵をよく補食するそうです。年代不詳ですが、オマーンのマスカット港の闇市でマンキーソースが売られていたとの記録があり、フランスのオリエント学者アントアーヌ・ガランによれば、件の幼虫はイスラム教少数派のひとつイバード派の儀式に用いられたとか。また、タクヒール・ザビロフの云うところによればサイード・ブン・タイムールの好物であったそうな。
外山時男さま
小林多喜二は大館の没落農家の生まれ、館山とは一字違いですから、それもなにかの縁。築地警察で下腹部に30数本の釘を打ち込まれての拷問死、きんたまが西瓜ほどに腫れ上がっていたそうな。「蟹工船」の看板料理はまさか蟹の釘刺しではありますまいね。こんなことを書けば慎みに欠けます。「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」から「右翼的偏向の諸問題」までよく読ませていただきました。文学といえばプロレタリア文学、マルクスを挟んで実存主義とプロレタリア文学が共存していました。共存というよりも、ほとんど同じものだったのです。
ピンノの「メスは二枚貝へ入ったあとは二度と外へ出ずに暮らす」とか、ご教示ありがとうございます。まるで、フランスの作家マルセル・シュオブのような存在ですね。夭折したのですが、病弱のシュオブは生涯部屋を出ることはなかったそうです。だからでしょうか、海にあこがれ、海賊の研究をよくしています。現実の海も仮想の海もそう変わるものではなく、「表現者はいざりになるしかなく、生活に未練を持つあいだはものは書けないよ」これは種村季弘さんの弁です。
さきほど、龜鳴屋の勝井さんより小包到着。なかを開けてびっくり、泥鰌の蒲焼でございました。勝井さん曰く「泥鰌といえば、金沢では蒲焼」お見逸れいたしました。お見逸れついでに、お手紙の一節を無断で紹介させていただきます。
「金沢で一番おいしい泥鰌の蒲焼を焼いていた水野商店が数年前に店じまいし、以来まったく口にしていなかったのですが、掲示板のやり取りに、なにやら辛抱たまらなくなり、いろいろお店をあたられた」との由。「市内で泥鰌を専門で焼いているのは三軒、そのうちの浅田どじょう蒲焼店に目星をつけたところ、悪くない」らしく、「えらくギュッと串に縮めて刺してあるものの、小骨の小気味いい歯ざわりも焦げた苦味も舌によし。これならばと、泥鰌談議にひと味添えるべく」ご送付くださったとか。ちなみに、泥鰌は小形なるも、しっかりと旬の子持ち、農薬の薬味が含まれない芳ばしさ、とびきりの甜味でございます。
持つべきは友、書くべきは食したきもの、もの欲しげな趣を顕に、遠慮なくひとに甘え、無心し、ひとを強請る。「売るのは媚、買うのは顰蹙」これぞわが人生の極意。もっとも、さんざんに為呆けた人生ですが。
勝井さん、どうもありがとうございます。金沢か東京か、いずれであれ、徹宵痛飲の日を鶴首して待っております。
追記。ですぺらへ養子に参りし幻の猫十五匹、各々無事に里親が決まりました。当地の動物愛護協会からも感謝状を頂戴。ついては仔猫をあと十匹お送りくだされたく、どうかよろしくお願いいたします。
一考様
たまたまプロバイダーのサーバーがダウンしたせいで、一日インターネットに繋ぐことができず御礼が遅くなりました。
「文学論」一々首肯しつつ拝読しました。最後の「追記」にも大笑ひし、ジャックの死を知って以来、このところ鬱いでゐた気が晴れました。「マンキーソース」を他の箇所でみたことがなかつたので、十九世紀ラルース的「博識」にも通じる一考さんの愛すべき悪戯心と思はれなくもなく、それはそれで、と言ひますか、わたくしの気鬱ぎを敏感に察してくださつた一考さんの優しい思ひやりに窃かに涙した次第です。
さて、『世界の食用昆虫』はわたくしの座右の書ですが、前回ご紹介したものほど複雑怪奇ではなく、ごく単純ですが、わたくしの蒙をひらいてくれた箇所から二つだけ紹介しておきませう。だし、前回同様、カタカナ部分は漢字等に変へてあります。
【蚊】蚊は一般に知られているようにか細い昆虫である。これを食べるだけ集めるのは大変な仕事であろう。その蚊の目玉を集めて食べるという料理がある。いちいち蚊から目玉をくりぬいていたのでは、とても食べられるだけ集まらない。そこで、蚊の多いところで蝙蝠をつかまえ、腹を割く。腸の中で、蚊の目玉だけがこなれが悪くて残っているので、これを取り出して食べるのである。これは味よりも舌触りや歯で噛んだときの感触を楽しむものである。
蜻蛉の胸の筋肉などはほれぼれするほど美しい。残酷な話であるが、蜻蛉の翅を左右に引っ張ると、胸の真ん中がさけて、縦に並んだ筋肉が露出する。(略)活溌な運動を司る筋肉には赤身が多い。たとえば素早く逃げ回る雄のごきぶりの肢の筋肉は赤色筋である。(略)ごきぶりの後肢基節や腿節の、外皮をはがしてみると、食欲をそそるようなきれいなもも肉が現れる。顕微鏡で拡大してみれば、十分鶏のもも肉に比肩しうる様相を呈している(鶏肉のもも肉とごきぶりのもも肉の、相似た拡大写真あり)。もし、ごきぶりを鶏くらいの大きさにすることができれば、ブロイラーとして十分役立てることができよう。
ちなみに、著者の三橋氏は、東大農学部出身の農学博士。日本農学賞、読売農学賞などを受賞した昆虫学者。同書の最終章は、食糧供給の悪化対策から「未来食としての昆虫」となつてゐます。
追記
わたくしの分の「猫」もお願ひいたしますね。
ちりめんと異物
縮緬山椒のちりめんはカタクチイワシのしらす(稚魚の意)干しを指し、白簀乾とも宛てる。関西ではちりめんざこ、ちりめんぼしとも云ったが、松山から丸亀にかけての呼称、ちりめんじゃこが普及した。
金沢のへしこ、福岡のイワシのちり鍋、長崎のイワシ餅、香川のいりこ飯、紀州の貝塚煮等々、イワシにまつわる郷土料理は多いが、大磯のたたみいわしと京都の縮緬山椒は特段の扱いを受けるようになった。とりわけ、縮緬山椒は瀬戸内の漁師料理の枠を飛び越え、いまや京都を代表するブランドのひとつともなった。出世につれてちりめんフリークと称するひとたちが現れ、どこそこの縮緬山椒がどうのこうのと、喧しいかぎりである。
静岡の舞阪、紀州の下津、広島の音戸、淡路の南淡から津名、阿波の和田島、大分の佐伯、鹿児島の川内等々、ちりめんじゃこの産地には事欠かない。また、縮緬山椒はもともとは賄い、家庭で自分好みの味わいを娯しむには打ってつけの調烹である。実山椒や有馬山椒を買ってきて、気楽にチャレンジして頂きたい。
廉いものから高価なものまで、さまざまなちりめんじゃこがある。その違いは天日干しか否か、もしくは掃除が行き届いているかどうかである。私が子供の頃には天日干ししかなかったが、掃除となるとはなはだ心許なかった。当時のちりめんじゃこには子蛸や子烏賊、またはイワシ以外の稚魚が紛れ込んでいた。私はそれらの異物が好きで、大事に取り置き、最後に頂戴するのを常とした。アジ、ママカリ、カレイの稚魚などは特に宝物のようなもので、それが当たった日など、一日中機嫌がよかったのを覚えている。ちりめんのなかに身をかがめた見馴れない魚たちからなにを読み取ろうとしたのか、今となっては定かでない。ただ、すくなくともそこには「おいら、ひとり横むいたオットセイ」のような孤独な存在があった。私がなぜ縮緬山椒に惹かれ、ちりめんじゃこにこだわるのか、理由はそのあたりに潜んでいそうな気がする。
もっとも、そんなことを述べていては美味い縮緬山椒は作られない。みなさんはずんと高級なちりめんじゃこに舌鼓を打っていただきたい。
追記。縮緬山椒の決定稿です。掲示板は言葉のゲーム、連想ゲームの場と心得ています。掲示板をどのように利用しているか。これでは参考にもならないでしょうが、一度私の舞台裏を明記しておきたいと思いました。
ホームページや掲示板にカウンターを設ける趣味はまったくないのですが、管理人の櫻井さんが内緒でカウントを取ったそうです。カウントの二割ぐらいが実数らしく、もしそうだとすれば、三十名ほどの方が当掲示板を常時ご覧になっておられる計算になります。静岡に二人、石川に一人、京都に二人、大阪に一人、神戸に一人、明石に二人、九州に一人、以上はメールを定期的に頂戴している方々です。従って残りの二十名が東京近郊ということになりましょうか。いずれにせよ、蛸の糞で頭へ上がるがごとき私の書き込みを厭きもせずお読みくださり感謝しております。そこで、七月二十五日の日曜日に初のですぺらオフ会を催そうと思っております。肴を鍋ものにするかどうかは参加者のご意見次第、いずれにせよ、実費割勘でお願い致します。割勘と申しても酒を嗜まれない方はそのぶん考慮させていただきます。
会場はですぺらにて4時から、参加ご希望の方は一考までメールをご送付ください、どうかよろしくお願い致します。
高遠弘美さんへ
出入りの肉屋さんからカンガルーのもも肉をスモークに使えないかと云われ、挑戦したのですが、おそろしく不味いものでした。「活溌な運動を司る筋肉には赤身が多い」のはそのとおりなのですが、鶏肉のもも肉には脂ののった皮が付いています。その皮と赤身のバランスが食をそそるわけで、皮を剥いでしまえば、味けのないものになってしまいます。そこのところが気懸りですが、コオロギやイナゴで予行演習は済ませています。ごきぶりのDNAを弄くった亜種のローストやカツレツもしくはラカンやボンレスハムに期待すると致しましょう。
蜻蛉の胸ロースにも唆られるのですが、今回の圧巻は前段。蚊の目玉は中国でも知られた料理ですが、蝙蝠が介在するところがモンテスキュー的悪趣味のきわみでございましょう。
ところでタスマニアの目玉蜘蛛はご存じですか。東南アジア、オーストラリア、中央・南アメリカ、アフリカに広く分布し約50種が知られていますが、八眼中前列の側眼がとくに巨大なのでこの名があるのです。四角形の網をつくり、これを前脚で広げて支えるか、数本の糸でつり下げて待機。餌の小動物が近づくとこの網を伏せたりすくい上げたりしてとらえるのですが、その腰の動きが泥鰌掬いの振りにそっくりです。
そのタスマニアのオッサ山を含む西部の山地に棲息する目玉蜘蛛は巨大なものは体長15~20センチに達すると云われます。ゴンドワナ大陸からの生き残りで、体長1メートル余りのタスマニアデビルと共に生きた化石とも云われます。
タスマニアを発見したのは1642年オランダの航海家タスマンですが、そのタスマニアが島であることを確認したのは1798年イギリスの探検家G・バスおよびフリンダーズです。そのあたりの消息は中井英夫さんも書かれていますが、タスマンが残した膨大な航海日記とG・バスおよびフリンダーズが著したタスマニア探検記については中井さんは触れていらっしゃいません。書中、原住民が儀式に用いる、目玉蜘蛛の目玉の調烹が詳しく誌されています。しかしながら、この目玉料理と似た料理が岡山と広島の県境、高梁川流域のカルスト地形にも残されています。松本の飴市の職人から紹介され、車を飛ばして蜘蛛神社の神主に会いに行ったのは20年ほど昔のはなしです。
眼球の球内を満たしている透明な寒天様物質を硝子体と云いますが、これが水晶体を構成する水様液とは異なり特段に濃厚、ちょうど鯛の目のごとく美味であるとのはなしを端緒に抱腹絶倒の一宵を過ごさせていただきました。白蟻の巣のペーストではなく、もち米で作った汁飴と蜂蜜を練り合わせたペーストで目玉蜘蛛の目玉を包み、陰干ししたものを古名そのままに「たがね」と云うのですが、その飴玉を舐り、たがねの部分が割れて寒天質が口腔に拡がる瞬間、地元のひとは「じろり」と叫ぶのだそうです。また、その目玉とワニ(鮫の意)の白子のスクランブルを「ぎろり」というらしく、仄かなアンモニア臭がたまらない香味であるそうな。牛眼に疾んだ蜘蛛の目玉の巨大な逸品を「大目玉」と称しますが、その眼球筋と外眼筋はとりわけ珍重、海鼠腸や海鼠子同様、半干しもしくは生のものを一塩で頂戴するとか。
かかる料理の馳走にあずかるのが「お目玉を喰う」「お目玉をちょうだいする」といい、前述の「大目玉」を食するのを「目玉が抜け出る」「目玉が飛び出る」と云うそうです。ちなみに神主曰く、目玉蜘蛛の歴史は古く、古墳時代の棗玉から能面の飛出、龕柩の語源に至るまで、そのおもかげは瑞穂の国の津々浦々にまで形相を変えて伝えられているとか。思うに、花田清輝や石川淳の弁証法は目玉蜘蛛のニスタグムスから掻払ったのではなかったか、ここはひとつ奥本大三郎さんのご登場を願うしかなさそうです。
昨日は終日ちりめん山椒と格闘、産地と味わいの異なるちりめんじゃこに合わせて六種類の微妙に違う作り方を試みました。ちりめんじゃこを「かちり」と呼ぶ地域があると、これは格闘中に来店なさった須永朝彦さんから教わりました。「かちり」との言い方は私も記憶があるのですが、そのように呼ばれていた地域が思い出せません。ご存じの方がいらっしゃれば教えてください。ちりめんじゃこはもともと西日本の食べ物で、おそらく北限は伊豆半島だと思います。しかし、記憶が正しければ甲信越での呼称でなかったかと思うのです。
一考さま
「かちり」については申し訳ありませんが何も知りません。「じろり」「ぎろり」はひょっとすると一考さんのお好きらしいイタリアの自転車部品メーカーの名前なのかも。
一考様
とりわけて暑い日が続きますが、皆様お元気でお過ごしのことと存じます。
縮緬雑魚について、大言海で調べようと思つたのですが、陋屋に山のやうに積まれた本をどけて大言海までたどり着くことは、この炎暑のなか、到底できることではありませんでした。いづれどなたか篤学の方がお書きくださるでせう。
さて、けふは、『世界の食用昆虫』第三弾(これにて打ち止め)として、いくつかご紹介しておきたませう。
わたくしの亡父(1897-1962)は、生前、まだ幼いわたくしに、「雉はね、白菜の漬け物とピーナッツを一緒に食べたときの味に似てゐるんだよ」と申してをりました。植物が突然鳥の肉の味に変ずる。わたくしはまだ小学生の子供でしたが、そのときはじめて、世界に存在してゐる種々の事物を結びつけるメタフォールといふものがあるのだといふことを実感したと言つてもいいかもしれません。世界には目に見えぬ網が縦横に張り巡らされてゐて、その関係に気づいたとたん、世界は混沌ではなくなる。さう亡父は言ひたかつたのかもしれないと、のちになつて思つたりしました。
面識こそありませんが、外山様の「ひとつひとつの目が、『世間』みたいなものなのですか」といふご発言に感銘を受けたものとしては、『世界の食用昆虫』にみられる譬喩を並べるのも一興かと思つたしだいです。
・ブゴング(かぶら夜蛾に近い夜蛾の一種)の成虫を木の窪みなどに入れ、石で搗いてつくったペーストは、脂肪のかたまりのようで、甘いナッツのような味がする。
・かまきりは、海老と生のマッシュルームを混ぜたような味で、美味である。
・長野県産蝉の缶詰を食べたが、ちょっと海老に似て、なかなか美味であった。
・水虫(風船虫の仲間)の味は、キャビアに似ているという。
・生の髪切り虫の幼虫は、ゼリーがとろけるような感触で、鮪のとろよりこってりしていて、うすい甘味があり、わさび醤油に合う。
・げんごろうは、干し海老のようだという人もいるが、するめのような味がして酒の肴に好適だった。
・象虫を火であぶって食べると、牛の骨髄に似た味がする。
・白蟻は生きているのをそのまま食べる場合が多いが、パイナップルのような風味がある。
・(ここは芥川の「虱」の引用で)「左様さ、油臭い、焼米のやうな味でござらう」(これが芥川の、知らぬがゆゑの形容といふことも今なら察しられますね)
・音楽評論家の藤田光彦氏によると、蛾の味は「チョコレートとヌガーやキャラメルをミックスした」ようなものだという。
・松毛虫の味は、海老と鶏肉を同時に食べるようで、特有の風味があり、たいへん良い。
・紋白蝶の幼虫である青虫のかき揚げは、甘味があって結構食べられた。この甘味は、青虫の腹に一杯つまっていたキャベツによるものらしい。
・根切り虫のローストは、外側はカリカリしていて、内部はスフレのようにねっとりとしており、ハーブのような植物風味がある。
・黄金虫の幼虫のシチューは、ゆでた海老や蟹の肉に似ている。
・飛蝗のスープの作り方は、まず、塩胡椒とおろしたナツメグで味付けをしながら、強火で飛蝗を煮る。時々かき混ぜる。茶色になるまで揚げたパン、またはおもゆと一緒に、煮た飛蝗をすり鉢でつきつぶす。次に鍋に入れ、弱火で、沸騰しないように煮詰める。スープをこして、クルトンを浮かべる。海老のスープのような味がする。
きりがありませんから、このへんにしておきませう。
一考さんの「目玉蜘蛛」はすごい。大いに愉しみました。
外山時男さんへ
ご指摘を受けるまで知らなかったのですが、ピンノことカクレガニ(隠蟹)の習性は興味津々です。小・中学校で将来なにになりたいかといったアンケートがよくありますが、私はいつも「ひも」と応えて叱られていました。どうやらジゴロにはなりそこねたようですが、夢はどこまでも夢、蒲団のなかで私が仕合せそうな顔をしているときは、間違いなくゆめを叶えているときなのです。
油虫、寄生虫、毛才六、ゴキブリ、才六、甚六、パラサイト、宿六等々、いかように申してもよろしいのですが、ピンノもまた、私が生涯を費やして追い求めてきた見はてぬ夢を具現した、あこがれの存在だったのです。ムラサキイガイ、ハマグリ、アサリ、カキ、ナマコ、ホヤなどの外套腔や排出腔に寄生するもの、ゴカイやギボシムシの棲管に棲みつくもの、なかにはサザエピンノのように、チョウセンサザエやマルサザエの胃のなかに棲むという信じがたい習性をもつ種もあるとか。胃のなかと云われると、やはり羊水のなかでさかんに欠伸する胎児を思い起こします。
私は過去において、二度の過ちを犯しました。ひとつは生まれ落ちたこと、いまひとつは二十歳を迎えてしまったことです。取り返しのつかない失敗を、しかも厭きもせず繰り返してしまったところに問題があります。精神がニュートラルなのは十九の春まで、二十歳を越えてしまえば四十も六十も八十も同じようになにかが刷り込まれてしまいます。要するに、みんなただの爺婆になるのです。サザエピンノに倣い、生涯を羊水のなかで終えるべきだった、水子として昇天すべきだった、といまになって悔んでいるのです。
実を申せば、「ジロッリ」と「ギロッリ」はミラノに工場を持つ自転車のフレーム・メーカーで、「チネッリ」のオーナーとは縁戚関係にあります。などという駄法螺を吹きだすと止まらなくなります。私のような死にそこないは法螺とぼやきの振幅のなかを生きるしか、手立ては残されていないようです。
普段と違う自分になっちゃいたいんですけど、付き合ってくれる人いませんか? 今まで大人しく生きてきたから… 私は27歳で語学学校の教師をしています。 身長は160?で痩せ方です!
まきさんへ
ですぺらは結構な歳を経ながらチョンガーという変態の溜まり場。年齢が変態の証明にはなりませんが、いい歳晒したおっさんがひけらかすロリコン趣味は立派な変態。ニンフェット、ロリータ・コンプレックスなどの言葉を生んだのはナボコフの小説ですが、本題は窃視嗜愛(ヴァヤーリズム)にあるのであって、決して年端のいかぬ女性へのあこがれではありません。若さや美へのあこがれだけなら、それは倒錯。倒錯とはさかしまになることを指すのであって、それ自体はおそろしく単純なものなのです。
窃視嗜愛は窃視症(スコポフィリー)に通じるもので、のぞくところがかぎ穴であろうが戸のすき間であろうがカーテン越しであろうが委細構わないのです。のぞき見することでしか性的満足を得られないのはそのひとの勝手ですが、問題なのは窃視者は自らがのぞかれるのは極端に嫌がるという点です。
ハンカチを被せてことに至るとよくいいますが、これは相手の顔を見たくないのではなく、上気した自らを見られたくないのが本音です。相手の顔を伏せようがどうしようが、クレオパトラや楊貴妃を想像するぐらいの芸当はどなたさんにも可能です。されば、涎でねたついた赭ら顔をひとの目に晒したくない、見られたくない、そこに真意があるのです。
このような書き方で意が通じるかどうか、はなはだ心許ないのですが、窃視などという夢見が過ぎるひとたちに満足な対応(性交渉)ができるとは私には思われないのです。当掲示板であなたが期待なさるような結果が得られないであろうことは保証いたします。不悪。
高遠弘美さんへ
「譬喩」はおもしろい。一部、ウィスキーの香味の表現に使えますので、掻払わせていただきます。
秩序嫌いの私には世界は混沌のままの方がよいのですが、隠喩、暗喩に見られる直接対象物に属性を移しての文言には大いに惹かれます。属性の転移の妙味にまず目を見張るわけですが、その属性がさらに別な属性に変態してゆく、言い換えれば、対象につかず離れず、気づいたときはそれを越えてしまっている、というオチにメタフォールの醍醐味があるのではないかと思うのです。
属性の転移を、自在な組み合わせ、野放図な取合わせ、デペイズマン等、いかように申してもよろしいのですが、私の好みを優先させれば、折衷、いろどりの方が座りがよろしいかと。ローストされた根切り虫や青虫のかき揚げはいうにおよばず、ブゴングの毳々しい装いとペーストされたときの滑らかなクリーム色に思いを致せば、隠喩とは醜いもの、不器量なものたちが飾る綺羅であり、競い合う華麗そのものではなかったかと思われます。おそらく、醜怪なものを対象物に撰んだほうが劇的なエフェクトが容易に得られる、ということに表現者は古くから通じていたのでしょう。古代ローマの庭園に設けられたグロッタからシェイクスピア、あるいはザムザの物語から幻の猫にいたるまで、彼等は「縦横に張り巡らされた目に見えぬ網」のすぐれた利用者であり、遣い手であったと申せましょう。
・紋白蝶の幼虫である青虫のかき揚げは、甘味があって結構食べられた。この甘味は、青虫の腹に一杯つまっていたキャベツによるものらしい。
ここに見受けられる甘味を介在させての属性の変態。おそらく、ここから先の領域に詩歌があると思うのです。当然、著されるのは甘藍の詩になります。否、甘藍を通り越して、さらに仰々しく風変わりな毒虫の詩になるかもしれないのです。そこのところの詐欺的と云いますか、いい加減さがたまらない快感を私にもたらすのです。
追記。文中「長野県産蝉の缶詰」とあるのは「長野県産蝉の幼虫の缶詰」の間違いかと思いますが。 高遠弘美さんへ
「譬喩」はおもしろい。一部、ウィスキーの香味の表現に使えますので、掻払わせていただきます。
秩序嫌いの私には世界は混沌のままの方がよいのですが、隠喩、暗喩に見られる直接対象物に属性を移しての文言には大いに惹かれます。属性の転移の妙味にまず目を見張るわけですが、その属性がさらに別な属性に変態してゆく、言い換えれば、対象につかず離れず、気づいたときはそれを越えてしまっている、というオチにメタフォールの醍醐味があるのではないかと思うのです。
属性の転移を、自在な組み合わせ、野放図な取合わせ、デペイズマン等、いかように申してもよろしいのですが、私の好みを優先させれば、折衷、いろどりの方が座りがよろしいかと。ローストされた根切り虫や青虫のかき揚げはいうにおよばず、ブゴングの毳々しい装いとペーストされたときの滑らかなクリーム色に思いを致せば、隠喩とは醜いもの、不器量なものたちが飾る綺羅であり、競い合う華麗そのものではなかったかと思われます。おそらく、醜怪なものを対象物に撰んだほうが劇的なエフェクトが容易に得られる、ということに表現者は古くから通じていたのでしょう。古代ローマの庭園に設けられたグロッタからシェイクスピア、あるいはザムザの物語から幻の猫にいたるまで、彼等は「縦横に張り巡らされた目に見えぬ網」のすぐれた利用者であり、遣い手であったと申せましょう。
・紋白蝶の幼虫である青虫のかき揚げは、甘味があって結構食べられた。この甘味は、青虫の腹に一杯つまっていたキャベツによるものらしい。
ここに見受けられる甘味を介在させての属性の変態。おそらく、ここから先の領域に詩歌があると思うのです。当然、著されるのは甘藍の詩になります。否、甘藍を通り越して、さらに仰々しく風変わりな毒虫の詩になるかもしれないのです。そこのところの詐欺的と云いますか、いい加減さがたまらない快感を私にもたらすのです。
追記。文中「長野県産蝉の缶詰」とあるのは「長野県産蝉の幼虫の缶詰」の間違いかと思いますが。
能公演のチケットを頂きましたが、行くことができないので、ご希望の方にお譲りします。
櫻間右陣 襲名記念公演
日時 7月11日(日) 第一部 11:00開演(10:00開場)
開場 国立能楽堂 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1
舞囃子 金春安明(金春流)
能「西行櫻」
シテ 櫻間右陣 ワキ 室生 閑
笛 藤田次郎 小鼓 亀井俊一
大鼓 安福建雄 太鼓 金春國和
A席自由席 2枚
チケットはですぺらにあります。ご希望の方は御連絡下さい。
ですぺら 03-3584-4566
一考様
属性の転移。醜悪なものの装ひ。仰言るとほりだと思ひます。
さて、わたくし、ここ数日の酷暑で、すつかりへばつてしまひ、わづかにのこつてゐた気力をもみごとに失ひました。それゆゑ、今回は簡単に補遺のみ。
さすが、悪食にも通じた一考さん。蝉の幼虫の缶詰の誤記といふことを見抜かれました。ただ、缶詰のラベルには「信州セミのからあげ」となつてゐますし、キャプションにも「長野県産セミの缶詰」となつてゐるのですけれど、中味はたしかに羽化直前の幼虫です。ついでですから、その製法を記しておきます。今度こそ『世界の食用昆虫』の引用の打ち止め。
その製法は、羽化直前の幼虫をつかまえ、一昼夜水につけておいて、そのあとゴマ油の入った鍋で三十分くらい時間をかけてカラカラに揚げ、油をきって調味料と食塩をふりかけたもので、保存用にこれを缶詰にしたのだそうである。
皆様、どうぞ夏ばてなどなさいませぬやうに。
一考さま
先夜はありがとうございます。ウィスキーがあまりに旨かったので、もう少しで違う自分になってしまいそうでした。
『世界の食用昆虫』はさっそく手に入れました。高遠さま、どうもありがとうございます。
劣化ウラン弾やクラスター爆弾の被害など、亡くなられた橋田さん以外にも米軍の民間人に対する恒常的なテロを撮り、書き継ぐ方がいらっしゃいます。それらの貴重な記事や証言がどうして日刊紙から閉めだされるのですか。彼等が身銭を切ってタブロイド誌を出さなければならないのはなぜなのでしょうか。
肛門を棒状の化学照明具や箒の柄で犯し燐酸液をたらす、打ち据えた傷を痲酔もなく憲兵に縫わせるがごとき拷問の数々(ダルバ報告)、撃ち殺した道端の死体に手榴弾を仕掛けてその女房や子供まで殺そうとするイスラエルやアメリカの侵略者たち。イスラム系テロリストによる死者数が連日発表され、米軍系テロリストによる死者数またはベトナム戦争を上回る脱走兵の実態が公表されないのはどうしてですか。イラク戦争がいかなる理由によって、パレスチナ問題から切り離されるのですか。イラク特措法であれ、憲法であれ、ついぞ議論がなされないのはどうしてなのでしょうか。
日本人は疑うことをやめたのですか。日本人は考えることをやめたのですか。今日は参議院選挙です。
追記。投票所で求めれば投票済証が発行されます。その証書をお持ちくださった方にはグラスワインを一杯プレゼント致します。有効期限は7月12日から15日まで。
さて、選挙にいつてきませう。
「生活保守主義」に浸つてゐたのでは、権力者の思ふ壺。
けふ日、「言論の自由」や「いのちの大切さ」などと声高に言ふと、揶揄軽侮する向きもありませうが、民主主義がいまだ根づかぬこの国にあつて、選挙権を行使しないのは、とくに現下の政治的状況のなかでは、いともたやすく長いものにまかれることにほかなりませぬ。
一考さんの訴へに呼応して、さて、わたくしもこれから炎暑の中ではありますが、一票の権利を行使してくるつもりです。曽我さん一家の再会といふ仕組まれた「出来事」で、内閣支持率があがつてしまふやうなこの国のありやうでは間違ひなく死に票になつてしまふでせうが、それでも、選挙に行かなければ何も始まらないのですから。
ことしほど、学生諸君にも現今の政治状況を考へるやうに説いた年はありません。
On est aux portes du fascisme!
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