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高遠弘美です。
どうも勝手がわからず、風邪のねつのせゐもありませうが、おなじものをいくつものせてしまひました。
削つてくださるとありがたいのですが。
高遠様
こんばんは。管理人の櫻井です。
ご依頼のとおりにいたしました。
ご養生ください。
誕生会は三十八名のご参加を得ました。あまりの多人数に椅子を抛りだしての宴会となりました。さぞかしお疲れになったのではと思います。
お出ましいただいた佐々木さんと到津さんをはじめ、添田、飯田、木村、幣旗、増田、伊藤、石神、寺田のみなさまからの贈り物に感謝。お隣の「かさね」さんからの差し入れに感謝、毎度のことながら、申し訳ございません。
吉村さんと伊藤さんは松山俊太郎さんと共におそらく新宿へ向かわれたものと思います。当方は須永、服部、間村各位と赤坂亭へ行きましたが、間村さんが泥酔、呆気ない幕切れになりました。で、その間村さんのコートのポッケになぜか老眼鏡が這入っておりました。徳田秋声の老眼鏡ではなく、正真の老眼鏡です。お集まりいただいたなかで、眼鏡にお心当たりのある方はかならずご連絡ください。
席上、「たまや」の第三号に相澤啓三、高橋睦郎、佐々木幹郎さんの詩と白鳥友彦さんのピエール・ルイスの訳詩、そして加藤郁乎さんの俳句と須永朝彦さんの俳句六十句が一挙掲載されることになりました。乞うご期待。
須永さんよりのメッセージです。
5日には、松山俊太郎さん、相澤啓三さんをはじめ、皆様、お寒い中をお出かけ下さり、ありがたう存じました。お心尽しの品をいろいろ頂戴致しましたが、直接お礼を申し上げ得なかつた方々に、この場を拝借して感謝の意を表します。
前夜、チョコレートをお届け下さつた書肆マルドロールの小山さん、おいしく頂いてをります。
勝手に所望した品を贈つて下さつた【サバトの会】+素天堂の皆様=市川さん、今井さん、大野さん、小坂さん、西さん、山口さん、山崎さん、待望の山田まりおの新刊ほか、楽しく読んでをりますよ。
紫宮さん、いつもお菓子の差し入れ、恐れ入ります。相澤さんをはじめ、皆さんに賞味していただきましたよ。
柿沼さんからのお菓子、これは持ち帰つて独りで味はつております。美味! 美味! 明石町にお出かけ下さるとのこと、お待ち申し上げます。
堤さん、福家さん、今年も素敵な花束をお届け下さり、傷み入ります。淡黄色の薔薇、見事に開きましたよ。
比呂さん、増田さん、伊藤さん、添田さん、石神さん、幣旗さん、そして肝煎役らしいヒデキさん、素敵なマフラーをありがたうございます。
比呂さんからは別に深い葡萄色(えびいろ。私には猫の木天蓼=マタタビにも等しき禁断の色)のマフラーも頂戴しました。常々PCの件にてお手数を煩はせてゐる上にこの御厚意、何だか罰が当りさうです。
一昨年来、体調を崩し不如意を託つてをりますが、漸く回復の兆しが仄見えてまゐりましたので、今年は何とか立ち直りたく思ひます。この後も、御厚誼のほどを願ひ上げます。
5日は大勢の方にお越しいただきありがとうございます。
カウンター席にて眼鏡の忘れ物がありました。お心あたりの方はお知らせ下さい。
一考さま
お誘いくださってありがとうございます。チラシ百枚もってお伺いさせていただきます。もちろんその前にも。
アダルト映画「蕎麦屋屋ときちゃん」はラジー賞よりビジー賞を狙っているのですが、せいぜいクラミジー賞でしょう。
蕎麦屋は三業に入るのでしょうか。このあいだ三業地と第三次産業をごちゃ混ぜにしている友人がいて大笑いしました。だったら東京の大半は三業地ですね。でもこういう間違いはわたくしもよくやらかすので、本当はあまり笑っている場合ではありません。
間村さま
先日ご来店のおり、奥様に「浅草の蕎麦屋」についてお知らせする約束をいたしましたが、まだ果たしていません。すみません。こんどよく調べてファックスいたします。
本日、店主は風邪ひきのため、お休みさせていただいております。寝込んで4日になりますが、わたくしの看病放棄もあり、全く快癒いたしません。アララ。でも今日はバレンタインデー!今夜いらしてくださった男性諸氏にはチョコレートとともにわたくしの接吻(ゼップン)をプレゼントいたします(風邪菌付き)。どうぞよろしゅう。
40代の女ですがみんな若い方の投稿ばかりですね! 私の投稿は場違いな気もしますが・・・ 若い方から年配の方迄、年齢や容姿はあまり気にしませんので メールや実際に会う事が出来る方がいらしたらメール下さい。 こんなおばさん相手にされるわけないかもしれませんが この投稿が目にとまったらメール下さい。 遅くなっても必ずお返事いたします。
普段からひとの存在は新陳代謝などとほざいておりますれば、ひとが死のうが生きようが、そんなことはどうでもよろしく。ましてや病気などという中途半端なものは恥ずかしさの対象にすらなりません。然りとても、御見舞いをいただきながら礼を逸したとあってはこちらは恥ずかしさの対象になります。よって、経過報告。
水曜日に体調悪しく、店は早じまい、木曜日は九時半に店へ到着致しましたが、頭痛激しく、この時点ではしばしば遭遇する偏頭痛だと思っておりました。金曜日から割れんばかりの頭痛とからだの震えが止まらず、食事はスポーツドリンクと栄養剤だけにしました。月曜日の午前三時にやっと潤沢とまではいかなくとも敷き布団、二枚の掛け布団、それと毛布があたり、いささか暖かくなりました。それまでの金土日の三日間はとにかく寒うございました。思うに、私には寝間着やパジャマを着用する癖がありません。普段着のまま、それもジャンパーなどを着たまま寝込むのであれば薄い布団でよろしいのですが、パジャマに着替えるのであれば、暖かい寝具が必要になります。そのあたりの切替がうまくなかったと反省しきりです。いずれにせよ、二十四時間からだを煖めたおかげで、火曜日の午前三時にひさしぶりの食欲、五日ぶりに焼きそばをハーフにて頂戴いたしました。嘔吐もせず、胃袋に治まったようですので、これからひろさんの差し入れのアイスクリンを一口舐めてみようかと思っております。甘さを感じることができれば全快です。
薫子さんの体調がよろしくありません。風邪に効く薬はなく、抗生物質の類いで有効なものもないと思います。暖かくして寝るのが一番。おあと、がんばりやす。
それにしても、あのひどい体調で、サントリーの「マクレランズ スペイサイド」の中味はオスロスク、「マクレランズ ハイランド」の中味はダルモアと推定、こんなことでよろしいのでしょうかねえ。
高遠弘美さんへ
ルバイヤートについて書いたものですから、友から連絡がございました。私の旧知には書誌学者が多く、まわりにもルバイヤートを研究している方が三名いらっしゃいました。みなさん鬼籍にはいられましたが、そのうちの二名の蔵書は一口にされて置かれているとか。入手の易い書冊はなく、珍本、稀書のルバイヤートのみ三百点のコレクションだそうです。取敢えず展覧会でも催そうと思っておりますが、いずれお譲りしたいとのこと。貴方に相応しいのではないかと思います。いかがなものでしょうか。
間村俊一さんへ
松岡達宜さんの処女歌集「青空」には大いに興味あり、感想を書かせていただこうと思っております。しかしながら、体調いまだすぐれず、もうしばらくお待ちください。
イエーナ時代のヘーゲルは宗教における屍体解剖を非難しつづけた。現象を個別的に見て統合しえない思考の能力、非弁証法的な反省的・抽象的認識能力を悟性として論難し、意志・感性、さらに理性とも峻別した。若いヘーゲルの示唆するものが、例えカントの受け売りであったにせよ、生きた宗教、揺れ動く宗教を提示しつづけた姿勢には着目すべき点が多くある。
形式的には意識主体に現れている事実一般を現象という。しかし現れている「すがた」がどう捉えられるかによって、現象はさまざまな意味を持ち様相を変えてゆく。例えば、動物・植物・化石・鉱物など、採集の対象がなんであれ、採集に到る目的によって、留意すべき事項は異なってくる。もしくは、どのような目的で採集するにしても、留意すべきことは、いつ、どこで、どのような方法で、何を採集するか、ということになる。
植物も動物もそれぞれの生活史を、分布域を持ち、それぞれの分布域の内部においても、生物は特定の生息場所にのみ生息している。はなしを複雑にする気はないが、採取者もまたそれぞれの生活史や生息場所を有してい、採集される側にしてみれば異邦人なのかもしれない。ただ、いくらはなしが込み入ったところで、上述の事項についての正確な知識それ自体が、非弁証法的な反省的・抽象的認識能力であることに違いはない。いつの時代にあっても客体は抽象であって、抽象は知識でしかないのである。
「いつ、どこで、どのような方法で、何を採集するか」と著したが、ここにはもっとも大事な「誰が」が抜け落ちている。自然界のものに限らず、切手や書物やフィギアなど人口のものを集めるのであれ、ことばを談話や文献のなかから拾い集めるのであれ、そこに秘められた歴史的時間や価値や道徳を、誰が、どのように統合しようとしているのか、主体であるところの蒐集者は採取した対象と語り合い、そして語り続けなければならない、みずからの思想について。採集地のわからない標本にはほとんど価値がない、同様に採集者の肉声を伴わない標本にもなんら価値は賦与されない。ものの収集にあって肝要なのは当事者の思想・哲学である。現象と自己、言い換えれば自己と他者との統合を意識した思考、現象と自分自身とのあいだで繰り返される弁証法的な搖れ、その「搖れ」のなかにヘーゲルは生体解剖を、そして生命を捉えようとしたのではなかったか。
誕生会の日、大部な著書を頂戴した。松岡達宜(まつおかたつよし)さんの歌集「青空」である。実は松岡さんとは二度目の邂逅で、共に間村俊一さんの紹介であった。初手はうまくはなしが噛み合わず、たがいに消化不良に終わっている。「遠い彼方の闇から漣が寄せてくる」ような舌足らずの情念、純情、含羞、慟哭、そうしたものが未整理のまま、なかば暴力的にどっと吐き出される、彼のやさしい心根や深い悲しみは伝わるのだが、それを私がどう読み解けばよろしいのか、有り体に申して途方に暮れた一夜であった。間村さんにしてからが、すばらしい歌人だと宣うだけで、どのように結構なのかを説明せず、また肝腎要の作品を私は読んでいない、雲をつかむとはこのことで、いささか不機嫌な態度をとったのではないかと、松岡さんへの非礼を顧みて忸怩たるものがある。ただ、維新以降の日本の現代史の側面のひとつをひたすら聞かされた記憶がある。思うに、「青空」一巻を繙くための、あれが松岡さん一流の解説であり、跋であったと、いまにして諒解できる。
赤軍の夕づつかげろうあじさいの影踏みていきたるや遠山美枝子
斉藤和よ誰もが忘れしおおかみのたてがみ靡く 赦されよ酒
鉄もまた汗をかくのだ白昼の電車揺られて浴田由紀子は
青森県三沢古びた写真館にて遠きまなざしせし沢田教一
ここに記された名前に心当たりのないひとに「青空」を読む資格はない。それほどにこの歌集は尖鋭かつラディカルな文学なのであって、松岡達宜の一回限りの精神の軌跡をぎりぎりと刻み込んだ崇高な墓碑そのものであるといえよう。「墓碑」と書きはしたものの、松岡さんを殺す気はさらさらない、松岡さんほどの御仁であれば、権威や権力を求めるような気遣いはまったくない、それどころか、彼の作品がいつなんどき断ち切られたからといって、それを彼自身が惜しむ懸念すらないと思われる、ということを強調したかったのである。ひとは明日のために生きるのではないが、間違いなく過去を曳きずって生きている。だからこそ、たったいま、この一瞬になにかを賭けて生きている、書物を繙くことによって、そんな呼吸に出遇えたのは久しぶりである。なんの義理もない松岡さんについてものを書こうと思った理由の一である。そして、本書に七十枚のエッセイを寄せられた福島泰樹さんと装丁をなさった間村俊一さんが松岡さんの歌のどこに嘱目し、なにをどう読み解こうとしたのか、それを私なりに擦ってみたくなったのである。
不幸が帽子のごとく似合ふ父ありき風ばかりのボストンバッグも
銭湯の湯気のかなたに佇ちゆくはわが父ならむ 菖蒲を愛す
ジンタ遠離りしのちを自転車来 あれは酔っ払いの父上ならん
大きな鉄塔ありまして疾風怒濤ありまして行方不明のわが妹は
後髪(オールド・バック)ポマード匂わせ外套(コート)羽織る「少し早いが昭和を閉じて街に出る」
唇を重ねることもなき夜々を過ごせしことも性愛(エロス)なりき
鞭のように風、黄昏(たそがれ)雑踏泪橋すっからぴんの男がゆくよ
丘に登れば波止場の灯口笛さえも病んでいるのだ美空ひばりよ
散り散りの風の橋上(はし)にて花火見ゆ夜空(そら)に抱かれ苦しひまわり
十四戦一敗敗れし日の真珠湾その日エディ鉄拳袋置きしと聞く
リングサイドの灯よ天井桟敷の灯よみんなみんな消えゆきて外套佇てり
おとうとはかえらぬ風の五月にて角川文庫「岸上大作歌集」
ひそやかに夜目にバラなぞ咲きおれば唯一人(いちにん)を愛でしことあり
西成区天下茶屋北一丁目流転の果てか御茶ひきおりぬ
昭和四十七年わが終末のヘルメット一条さゆり濡れた欲情
あこがれの「上海航路」ゆきしまま還らず父の戦後やあわれ
六月のみそら映せしスプーンを蒼くひばりの翔びゆきにけり
こもごもの生活(たつき)っていう悲の器 煽りておる匕(ひ)の首あわれ
「ニンゲンは燃える屍せいぜい六〇ワット三時間」愛するひとへ
人生を消す消しゴムの彼方より光さしくるおさげの治子
先だって、当掲示板で「経験を含むあらゆる事象は風化して記憶となり、記憶はさらに風解されて歴史になる。その歴史という厚い風化層から自らの搏動を伝えるに相応しいと思われる砕片を撰び取り、さらにそれに形式を与える。その形式によってのみ経験は文学になり、人間の文化を表すことが可能になるのではないか」それゆえに「真の経験とは風化層の博捜にある」のではなかろうかと著した。
松岡さんの作品をひとことで要約すれば、吃音系短歌とでもなりましょうか。ここでは新旧仮名遣いが入り乱れ、短歌の世界にあっては不用意としか思われないような文言が平気な顔で登場する。言い換えれば、ここには短歌固有の修辞法を無視した奔放さと、かかるレトリックに感けていられないほど極端に孤絶された一箇の主体がある。巻末には「この歌集には多くの引用があります。申し訳ないので、せめて著者の名を列記します」とあり、荒川洋治、辻征夫、村上一郎、萩原朔太郎、美空ひばり、桑田佳佑、北原白秋、吉原幸子、ローリングストーンズ、伊東静雄、中原中也、塚本邦雄、吉本隆明、鮎川信夫、横光利一、山本太郎、ビートルズ、中島みゆき、森山大道、藤原新也、埴谷雄高、福島泰樹、そのほか。と著されている。
かつて吉岡実さんの晩年の詩を「括弧で括られた〈引用〉への旅」と名付け、澁澤龍彦さんの「唐草物語」を「球窩譚(アンボアトマン)」として珍重させていただいた私であれば、松岡さんが試みようとする相互嵌入をうながすような作品には大いに食指が動く。その相互嵌入が「作者」と「作中人物」と「読者」といった位格(ペルソナ)であれ、「自己」と「他者」と「歴史」といった弁証法的生体解剖であれ、それらの質は同一である。本書にあって相互嵌入、すなわち入れ子構造は技法ではなく、ずばり、書き手ののっぴきならない思想として強く脈搏っている。個々の作品は時間軸を持たない。時間軸がありそうでどこにもない、という方が正確であろうか。時間軸は縦に流れず、横に配列される。時間すらが入れ子として恣意的に扱われ、会津藩士も赤軍派もボクサーもストリッパーも、ことごとくが一つの平面に包括的に置き換えられるのである。そうした手法を、精神の置換法を松岡さんはブルトンから学んだと覚しい。
「短歌の世界にあっては不用意としか思われないような文言」と先に記したが、思うに短歌的文言とはなにか、さらに「歌人ではない」とか「専門歌人」とかいうような無意味かつ無定見な言葉を書き殴るがごとき歌壇プロパーはどこまで行ってもプロパーであって、いかなる意味においても表現者ではない。そのようなことを書くのも、おそらく「青空」はかかるプロパーからは一顧だにされないと信じるからである。歌集であるかどうかよりも、もっと大切なことがある。それは作品になっているかどうか、言い換えれば、書き手の肉声が、存在の眩暈(めまい)が十二分に表現されているかどうかである。「青空」一巻は短歌という狭量なジャンルで評価しきれるような柔な文学ではないのである。六十年代から七十年代における歴史という名の風化層を博捜し、寄せ木細工のように何度もなんども組み立てては執拗に壊す、その悲鳴のなかに彼の作品は踏みとどまり、哭きながら、小刻みに揺れ動き、そして屹立している。
最初にヘーゲルに託つけながら「採集者」について書いた理由は松岡さんと彼の人生、要するに時代とのまぐわい、さらには彼の歴史観を私なりに図式化してみたかったからである。そして彼の歴史観を知れば知るほど、このような感想を認めること自体が小賢しく思われてくる。書きものとはそして作品とは、取りも直さず、書き手の目線の移動を伴うものでなければならない。目線の移動を伴なわない作品はディレッタントやコレクターが著すオマージュの域を一歩も出ない。「非弁証法的な反省的・抽象的認識能力」要するに固着した観念をいくら並べ立てられてもそれは毒にも薬にもならない。文学にたとえいささかの趣味性があるにせよ、趣味は趣味であって、それはそのままでは文学にはならないのである。一見、稚拙とも受け取られかねない松岡さんの作品の裏面にどす黒く渦巻くメタファーの洪水、そこにこそ松岡達宜の思想があり、哲学がある。
彼はあらゆる概念の垣根を取り払い、さまざまな領域を気ままに飛びまわる、絵画や写真・音楽のタイトル、歴史や民俗学の断片、流行歌や出典不明の文言、手を加えられもしくは新たに書き直された箴言、そしてかつて著された自らの作品から他人のことばや作品までもが一人歩きし、勝手気ままに出入りする。内と外との弁証法、内面性と膨張の弁証法が三十一文字の襦袢をまとい、墨東向島の横町の朝ぼらけに、ぼんぼりを点けて顕れた。一読をお薦めする。
「青空」松岡達宜歌集 2005年2月15日発行 定価2400円+税
洋々社 東京都新宿区南町15-101 電話03-3268-0796
一考さま
間村俊一さま
先夜はお目にかかつてさまざまお話をして頂きましたこと、感謝申し上げます。
このところ毎日続いてゐた雑用でへとへとに疲れてをりましたときだけに、お会ひして元気が出ました。
矢野峰人訳「ルバイヤート集成」に際して、尊敬する間村さんととともに関はることができましたこと、今さらながら喜んでをります。
矢野峰人訳「ルバイヤート」は解説にも書きましたとほり、私にとつても若い頃からの大切な本ですが、矢野峰人訳以外にもひそかに愛でてきたルバイヤート訳はあまたあります。ただ、これまた解説に書いたことですが、大抵は手に入りにくいので、全篇筆写してをりました。まともなコピーなどなかつた時代ですし、また、日常的にコピーがあつたとしても、筆写することの方が価値があるとされてゐた時代でした。さういふ時代はしばらく続いてゐました。一九七六年頃だつたでせうか、そろそろコピーといふものがでまはりはじめた頃のことでしたが、村上菊一郎先生に、十九世紀のフランスの詩集をお借りしたときも、先生は私にその本を手渡すまへに、「まさかコピーはしないよね」と仰言いました。もちろん、「はい、手で写します」とお答へし、気に入つた詩をノートに一篇一篇写しました。
さういふわけですから、本の形で存在してゐる「ルバイヤート」の文献にはいたく心惹かれます。どういふものがあるのか、譲つて頂けるとして、まとめてでなくては叶はぬものなのか、たとへば私の勤務先の大学図書館と交渉して、誰もが閲覧できるやうにした方がよろしいのかといつたことについて、ご教示頂ければ幸ひです。
かつて幻想文学で黄眠詩塾について書いたのだが、なにを書いたのかが思い出せない、おそらく、日夏耿之介のかかわった雑誌についての文章だったと思う。聖盃、假面、鈴蘭、東邦芸術、サバト、游牧記、戯苑、半仙戯、豊葦原、開花草紙、ドノゴ・トンカ、文藝汎論、汎天苑、婆羅門、表象、古酒から関川左木夫さんの玻璃に到るまで、思いつくままに挙げてみても、ハイブロウな雑誌がよくもまあ、あれほど刊行されたものよと、いまにして驚く。幾多のすぐれた詩人を集めた日夏耿之介のカリスマ性にも駭魄させられる。
「浚渫船」「昨日の空」の高森文夫、「ゆふされの唄」「北海」「半仙戯」の石川道雄、「光塵」の燕石猶、「奥ゆかしき玖瑰花」の長谷川弘、「揺籃」やアラビアンナイトの名訳を遺した矢野目源一、「槿花戯書」「近世無頼」の城左門、その城左門が編纂した「西山文雄遺稿集」等々が惹い起こされる。
「光塵」の上梓されたのがわたしが十七歳のとき、「昨日の空」が宮崎の延岡から送られてきたのが二十一歳のとき、当時のわたしは黄眠詩塾の渦中にあった。それが昂じて矢野目訳の「黄金仮面の王」やサバトの復刻版、日夏耿之介の「鏡花文学」などを後年編むことになる。最後に編まれたのが「涓滴」だったと記憶するが、単行本、全集未収録の原稿は七、八冊分におよぶと聞く。ところが、牧神社から出版した「城左門詩集」にしてからが売れた部数は百部たらず、どなたかが払うであろう金銭の犠牲によって良書の出版は維持される。口先だけのファンなど一万人いてもなんの役にも立たないのである。身銭を切って出版するような奇特の士は龜鳴屋を除いて他にはいなくなったのではあるまいか。
読む側にしたところで、日夏門下に限らずとも「風祭」の足立重や塚本邦雄に到るモダニズム短歌の幕開けを飾った「飛行毛氈」の松本良三、「木莓」の平田松堂、「シネマ」の石川信雄、さらには原田禹雄の「鱗屑」や「錐体外路」すら昨今は読まれなくなったと聞き及ぶ。評価が定まり、人口に膾炙する書冊しか繙かず、それで愛書家を気取るなどもってのほか。ラルボーを持ち出すまでもなく、読書の娯しみはひとがあまり読まないものを見付けて来、ざまあみろ、と与太をとばすところにある。あまり趣味ではないのだが、閑ができれば、その与太をとばそうかと思っている。
高遠弘美さんへ
ご当人と三月にお会いします。思いがけない久しぶりの出遇いだったのですが、かつての出版仲間の同窓会をですぺらで開くことになりました。のみすけが多いので、間村さんにも参加していただく予定です。日時が決まればお知らせしますのでどうかよろしく。
拝啓 渡辺一考様
2005年02月18日の、過分なお褒めの言葉、痛く、感謝いたしています。確かに、ご指摘のようにわたしの歌は吃音的短歌であり、歌壇のorthodoxyからは多分、ご褒美の便りはないでしょう。なぜなら、初めて「歌集」を出版してみてわたしの手から離れたわたしの歌集が、ひどく風変わりなobjetに見えてくるのでありました。それは渋澤龍彦さんの、「夢みる少女ーバルテュスの場合」にあるような王国、(処女歌集とはよく言ったもので)少年・少女の恋のみが真のリーベンであり、成長していやらしい陰毛が生え揃えば王国は崩れる。処女歌集の一瞬の夢見る処女性などはたかが、知れているがそれでも、ひとりの処女の時間を少しくでも長く、見つめてくれとわたしのobjetはいうのでありました。ところで、バルテュスの少女の姿態は爛熟した側女(ソバメ)のような淫靡さもそれはかとなく、漂わせています。午睡のたゆたいの奇妙なエロティシズム。ああ、わたしの歌集はそんなEROTICな雰囲気は当然にももってはいないのですが、正しき意味で正妻ではなく、ニゴウさんの、少しくドモリの側女なのだ。ソバメは正しい生き方は下手で美味くできないだろうが、下方からの「目線の移動」は黒塀、路地裏、ヒヤシンス(?)の哀愁のまなざしがあり、淫靡で色ぽいだろう。隣りの人妻に横連慕した、北原白秋の「哀(かな)しくも君に思はれこの惜しくきよきいのちを投げやりにする」の歌を、水先案内人としてわが「処女歌集」が隠花植物のように、たまには側女のさ庭に咲く朝顔のように、路地裏に咲くことを不肖の隣人として願っています。渡辺一考様、貴方様の「論」でわたしはしばらく、いい気持ちでいられます。敬具 拝松岡達宜
渡辺一考様、有難う御座いました。 先程、20行ほどの御礼の文章を書きましたが、操作ミスで全文入っていませんでした。 後日、改めて書きますので、今回の尻切れトンボの文は消去して下さい。
昨晩は店からの帰り道、ぼたぼた雪が降ってきて、あっという間に積り始め、ズルズル滑りながらなんとか帰りつきました。
「ですぺら」の営業も滑りっぱなしであります。先週は風邪引き騒ぎで一週間無かったようなもので、今週も閑古鳥が大量発生。ピンチであります。掲示板をご覧の皆様、どうぞお越しくださいませ。風邪から完全復帰して元気有り余りの一考の相手をどなたかして下され。よろしくお願いいたします。
松岡達宜さんへ
全文無事に掲載されておりますのでご心配なく。
「記事を書く」の下段に、
投稿(改行無効) (HTML で記事を投稿)
投稿(整形済み) (整形済みテキストを投稿)
投稿(改行有効) (HTML で記事を投稿、改行を
に変換)
の三項目が選択できるようになっています。一番上を選択なさったものと思われますが、通常は三つ目の(HTML で記事を投稿、改行を
に変換)を選びます。それにしても分かりにくい表示で申し訳ありません。いっそ、改行なし、投稿者のレイアウトのまま、自動改行とした方が理解できるかと思います。掲示板を覗かれる方のモニターの大きさや表示解像度はてんでんばらばら、またディスプレイに対する閲覧ソフトの展開面積比もめいめいの勝手です。従って自動改行がよろしいのではなかろうかと思うのです。
出版社を営む友人の業務用パソコンのシステムを修復する程度の知識は持っているのですが、電脳の世界の専門用語はからきし駄目、それと面倒なことにはできるだけ首を突っ込みたくないのが本音で、櫻井、飯田両氏にすべてを管理していただいているのです。管理人との意見が折り合わず、たまに拗ねて書き込みをさぼるのも当掲示板の愛嬌かと。いづれにせよ、せっかく書き込まれたのですから、今後ともよろしくお願い致します。
ひととひととが出遇ったとき、互いがたがいになにを求めているのか、押したり引いたり、どこまで対応すべきなのか、そのあたりの呼吸や消息を知るのに最短でも三十回は会ってはなしをする必要があると思います。でも貴方の場合はあいだに作品が介在しましたから、次回から対話が成り立つと思います。書きあらわされたものは過不足なく書き手の稟質を読み手に伝えます、たとえ「ひどく風変わりなobjet」であろうとも。いや風変わりであればあるほど、表現者の搏動は特異なものとして読者のこころに刻まれます。朔太郎の「紫葵(ゼラニウム)の花は咲きたり」を持ち出すまでもなく、表現のあらかたは「路地裏に咲く隠花植物」でなければならない、あってほしいと思うのです。「成長していやらしい陰毛が生え揃えば」、王国が崩壊する前に陰毛を剃り落とせばよろしいのであって、その覚悟がなくてなんの詩精神なのでしょうか。剃毛された陰部のいびつさや惨めさを知らずしてバルテュスの絵画を読み解くことはできません。貴方がおっしゃるorthodoxyが自慢げに語る精神の健康さ、懐疑のなさがわたしには許せないのです。
わたしは基本的にオマージュを書くのが好きではないのです。好悪を決めるにたる確固たる価値基準を信じなければオマージュの書きようがないではありませんか。そうした固定観念、固着した価値観を持つのがわたしはいやなのです。どう考えてもオマージュは「目線の移動」の否定にしかなりません。第一、讃辞になるか非難になるかは書き始めてみなければ分からないのです。
繰り返します。書物を繙くにさいして、詩であれ俳句であれ短歌であれ小説であれ随筆であれ、委細かまわないのと同様、頌であるか批判であるかといった形式的な問題はどちらでもよいのです。そのようなことではなく、作品について述べるに際して大事なことは、書き手の文言が文学たりえているかどうか、さらに申せば文学とはなにか、という自らの迷い・眩暈(めまい)のようなものが刻印されているかどうかなのだと思うのです。対象を敬愛するがあまり、身を引いてしまっては、自らの精神の(搖れ)のようなものを見喪ってしまいます。それでは毒にも薬にもならない文章しか著せないのです。身を引くという一見謙虚な振る舞いが、逆に対象となる作家のラディカルな部分を消し去り、凡庸な作家との印象を読者に与えてしまう、それを不遜といわずになんと呼べばよろしいのでしょうか。
またまた勝手な与太を駄法螺を吹いてしまいました。ただ、「青空」の随所に顕れる深い哀しみに、貴方のこころの(搖れ)を間違いなく読み取ったのです。その嬉しさをわたしなりに書きあらわしたいと思ったのです。お喜びいただけたようで、こちらこそ恐縮致しております。お会いできる日の近からんことを願っております。
2005年02月18日の、過分なお褒めの言葉、痛く、感謝いたしています。確かに、ご指摘のようにわたしの歌は吃音的短歌であり、歌壇のorthodoxyからは多分、ご褒美の便りはないでしょう。なぜなら、初めて「歌集」を出版してみてわたしの手から離れたわたしの歌集が、ひどく風変わりなobjetに見えてくるのでありました。それは渋澤龍彦さんの、「夢みる少女ーバルテュスの場合」にあるような王国、(処女歌集とはよく言ったもので)少年・少女の恋のみが真のリーベンであり、成長していやらしい陰毛が生え揃えば王国は崩れる。処女歌集の一瞬の夢見る処女性などはたかが、知れているがそれでも、ひとりの処女の時間を少しでも長く、見つめてくれとわたしのobjetはいうのでありました。ところで、バルテュスの少女の姿態は爛熟した側女(ソバメ)のような淫靡さもそこはかとなく、漂わせています。午睡のたゆたいの奇妙なエロティシズム。ああ、わたしの歌集はそんなEROTICな雰囲気は当然にももってはいないのですが、正しき意味で正妻ではなく、ニゴウさんの、少しくドモリの側女なのだ。ソバメは正しい生き方は下手で上手くできないだろうが、下方からの「目線の移動」は黒塀、路地裏、ヒヤシンス(?)の哀愁のまなざしがあり、淫靡で色っぽいだろう。隣りの人妻に横連慕した、北原白秋の「哀(かな)しくも君に思はれこの惜しくきよきいのちを投げやりにする」の歌を、水先案内人としてわが「処女歌集」が隠花植物のように、たまには側女の庭に咲く朝顔のように、路地裏に咲くことを不肖の隣人として願っています。渡辺一考様、貴方様の「論」でわたしはしばらく、いい気持ちでいられます。敬具 拝松岡達宜
3月11日の金曜日は6時30分から石内都さんの新刊2点「キズアト」(日本文教出版)と「SCARS」(蒼穹舎)の出版記念会です。前著の装丁は間村俊一さん。石内さんは古い建物の壁や人体の皮膚、傷跡、爪など、物や人の表層に、時間の集積である歴史そのものを見届けようとする特異な写真家でありエッセイストです。「種村季弘の箱」にも作品が収録されています。同日は席にほんのすこし余裕があります、石内さんとお話なさりたい方はどうぞ。会費は7千円。
3月12日の土曜日はひできさんのオフ会。出席者は現在のところ、ひできさんと櫻井さんのみ。いささか空席が目立ちますので、よろしくお願い致します。こちらは会費制でなく、各人の飲食分のみとなっております。店主も自前で酔っ払うつもりですので、管理人さんどうかよろしく。
3月18日の金曜日は相澤啓三さんの高見順賞授賞式です。8時30分からですぺらにて二次会が催されます。多くの詩人がご参席の予定、須永朝彦さんの誕生会以来のにぎやかな会になります。相澤さんは滅多にサインをなさらない方ですので、相澤さんの著書をお持ちの方にはいい機会になると思います。ですぺらの常連さんでは松山俊太郎さん、高橋睦郎さん、佐々木幹郎さん、宇野邦一さん、また久しぶりに書肆山田の大泉史世さんもいらっしゃいます。本人が嫌がらなければ、かつての牧神社のはなしも可能かと思われます。会費は5千円。
地図資料の編纂者として識られた元柏書房社長の芳賀啓さんが一人出版社「之潮(コレジオ)」を創業なさいましたが、この度、一大プロジェクトの成就が明らかになりました。名づけて「帝都地形図」。出版界では稀な匿名組合方式に依り、また地図資料出版としては異例の手厚い編輯過程を経たものとなっています。社会全体が短路捷径に流れんとする昨今、出版を後世に伝える文化財とする重厚な試みは際立っています。
「帝都地形図」の発売は三月二十日。発刊を祝い、芳賀さんと「之潮」を励ます会が三月十九日の土曜日、神楽坂の日本出版クラブ会館・きくの間で催されます。時間は午後四時半受付開始、五時開宴、七時閉宴。会費は一万円ですが、出席者には「帝都地形図」別冊が贈呈されます。その価格だけでも会費の数倍はします。参席ご希望の方がいらっしゃれば、明日中に一考までご連絡下さい。地図はメールでお送りします。(自宅048-421-1895 ですぺら03-3584-4566)
ここまでは連絡なのですが、先程芳賀さんから電話があり、二次会は神楽坂、三次会と四次会は新宿のなべさんとエイジ、五次会はですぺら、六次会は夜が明けてからカラオケへ行きましょうか、とのお話。二次会はともかく、三次会からあとは行き当たりばったりが常道、団塊の世代とはまことに怖ろしいものです。日曜日の昼まで生き延びているのははてさて何名か、いずれにせよ、壮絶な飲み会になりそうです。
話ついでに、佐々木幹郎さんが新たに編輯なさった中原中也全集の別巻所収の三角関係の地図は芳賀さんの尽力になるもの、また麻布の西班牙大使館横にあった偏奇館の地図がなく困っていたところ、こちらも芳賀さんの手によって拙宅へ届けられました。「腕くらべ」「おかめ笹」が生れ、「断腸亭日乗」が起筆された高台の木造洋館なのですが、戦時下の地図が入手不可能だったのです。
余談はともかく、地図に興味があり、お足とひまを持て余しておられる方には絶好の機会かと思います。
いきなりの割り込みでご免なさい。下記の件でお願いしたいのです。 明窓出版がひろくレビューを求めます。 明窓出版のホームページを見に来て下さる読者の方に、本の概要を簡潔に紹介できるようあなたの力を貸してほしいのです。 ご応募の方は、明窓出版のホームページ「書名別検索」に記載されている下記の本からお読みになりたい本を5冊まで選びご連絡下さい。無料にて本文テキストデータをまるごとメール送信します。採用された場合の報酬は本一冊あたり2.000円です。お読みになった本に関しましては、必ずレビューをお寄せ下さいますよ
日曜日の午前中は良いお天気でありました。風は肌寒いものの日差しは暖かく、ああ春よ来い、早く来い、ぼんやり外を眺めていて見つけたものは、ガラス窓の汚れ、部屋のあちこちに溜っている埃。ゲッ、カーテンも黒ずんでるやないの。春の陽は明るすぎて残酷・・・。見なかったことにしよう。
さて恒例の春の新メニューです。(そんなものあったっけ?)管理人様の強いご希望もあってフードメニューに「カミカツ」登場、600円也。ですぺらに因んで「ぺらぺらカツ」にしようかとも考えたのですが。牛、豚両方あります。「ローストビーフ」、800円也。こちらは数量限定、売り切れ御免。是非一度お試し下さい。
一考さん、薫子さん、すっかりご無沙汰しております、内山です。
来週末の25日の夜(22時ごろかと思います)、最低5名ほどで伺う予定です。
2次会のため、時間と人数がアバウトです。
閑話休題。2月25日の、一考さんの記事の「……最短でも三十回は会ってはなしをする必要があると思います。でも貴方の場合はあいだに作品が介在しましたから……」という部分のは絶妙なリアリティーに関心しております。
3月18日の相澤啓三さんの会は8時30分から11時まで、会費は3000円に変更されました。アルコール類はいつもと同じですが、おつまみは手軽なもので簡便に済ませます。時間を短縮し、その分お安くしようとの工夫です。
11時半以降は通常の営業となります。従って、居残りのお客さんからは追加のご注文をいただくことになります。どうかよろしくお願い致します。
土曜日はお世話さまでした。
先日お話したキルケニーを扱っているお店の名前ですが、「アイリッシュパブ
スタシェーン」でした。JRの駅構内にあるようなお店ですから、もうあちこちに
出来ているものと思っておりましたが、現在はまだ上野、田町、西荻窪の三駅でのみ
営業しているようです。
http://www.nre.co.jp/stasiun/
昨日も行ってきましたが、キルケニーはそれだけでも、あるいはギネスとのハーフ
&ハーフでもやはりとてもおいしかったです。
難しい条件のあることは先日も伺って承知しておりますが、貴店の素晴らしいスモーク
を肴にキルケニーを楽しみたいという気持ちを捨てきれないでおります。
内山さんへ
アバウトで結構です、お待ち申しております。なにとぞよろしくお願い致します。
拙い書き込みをお読みいただき恐縮です。「最短でも三十回は会ってはなしをする必要がある」はひととのコミュニケーションの煩雑さを、「あなたの場合はあいだに作品が介在しましたから」との文言は彼の作品が文学になっているとのわたしの意思表示を繰り返したまで。
先だっての書き込みでどこかの出版社がひろくレビューを求めていらっしゃいましたが、概要がレビューとは笑止。とは申せ、概説に好き嫌いもしくは良い悪いを付け足せば書評と勘違いなさっておられる方が多いように思われます。書評に限りませんが、ものを著すに当たって留意すべきは概要と鉤括弧を用いてはならないとの二点だと思うのです。
概要で用が足りるならなんのための書きものなのか、五十枚なら五十枚、百枚なら百枚が必要だから書くのであって、それを概説にしてしまえば伝わるものはことばの意味内容や表象に限られてしまいます。それら表象から遠く逸脱してゆく書き手の影や分身にこそ肉声が罩められているかもしれないのに。
鉤括弧すなわち引用にはさらにふたつの問題点が加わります。こんなものを読んでいるぞとの自慢がひとつ、今ひとつはそれほどに巧く表現できないから引用するとの逃げの一手。前者は可愛げがあってまだ許せるのですが、後者は困ります。だって、うまく書けないのなら書くのを止めればよろしいのであって、なにをじたばた騒いでいるのかと言いたくなります。なんでも書きゃあいいというものではないのです。
まずは鉤括弧を外せばよいのです。外すことによって盗作と言われるのがいやなのであれば、それを読み解いて自分の言葉に置き換えれば済みます。読み解くとは自らの言葉への置換を指すのであって、置換の結果がいかに稚拙であってもそれが自分の実力と知るべきなのです。
引用との行為はものの考え方までをひとに委ねることになりかねません。それは危険な思想に繋がります。文学はどこまでも個の営みです、されば読み手にも個が強いられます。文学に随伴するのは「なにかしらもっと大きなディメンション」につねに向き合おうとする意志、言い換えれば能動的マイノリティ哲学に違いないと思うのです。
ヒデキさんへ
銀座ライオンの二号店が神戸店だったのです。それでキルケニーを飲みによく出掛けました。ギネスで煮込んだ羊肉と鯖スモークがお気に入りだったのです。従って上京後、銀座ライオンへは真っ先に種村さんと連れ立って行きました。ところが、既にキルケニーは置いていないと言われ、腹立たしく思いました。
ところで、日本の黒ビールはどうしてあんなに不味いのでしょうか。露時の裾の濡れたようなビール、メリハリのないぼてっとした時化た味わい、苦いか酸味が強いかのどちらかでコクがまったくないビールばかり、まだ飲めるのはヱビスの黒だけではないでしょうか。ウィジェットによるクリーミーな舌触りは望むべくもないのですが、せめてマーフィーズやギネスのような味わいを持つスタウトが欲しいものです。
その後、神戸の銀座ライオンは不良外人の溜まり場になり、転居したとか閉店したとか聞きました。しかし伝聞ゆえ、神戸のムーンさんに確かめていただくしかなさそうです。
25日の件、こちらこそよろしくお願いします。当日、人数と時間が確定したと
ころでご連絡いたします。また、先日薫子さんが書かれていた、新メニューの中の「ローストビーフ」を2人前、予約することは可能でしょうか?
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