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一考 | 引用と剽窃

 太寺に住んでおられた井上喜平治さんの著書が見つかった。その本を紹介したくて「タコヤキ屋三十軒」を書いたのだが、数十年ぶりに繙いた「蛸の国」と闇雲と掴み合っているうちに惹きずりこまれ、それこそ蛸の国を逍遥うことになってしまった。書き手すなわち井上さんと蛸との出身成分(家柄)が相互に嵌入しあい、どこまでが井上さんの信念で、どこからが蛸の考え方なのかが判然としない。異なる価値判断が交錯しながらひとつの意見と見紛うばかりに表明される。そのような書物を名著という。名著であればこそ、つづきを書くのは読み終えてからにしようと思った。

 「蛸の国」を紹介しようとすれば、引用の誘惑に駈られる。しかし、著作権継承者の許可を得ないで引用すると碌な結果を招きかねない。先日来、友がブログで訳詩を引用した、引用というよりは好意にもとづく紹介であり佐藤春夫を髣髴させる可惜しい鑑賞文である。しかるに、著作権を盾に取って遺族は応じようとしない。インターネットなどと称するいかがわしいところに身内の作品が軽々に載せられたことが、遺族には堪えられないのである。一方、ひとがらを存じ上げるがゆえに、友の苦衷、困惑は察するに余りある。
 当掲示板でも、過去に遺族や著作権継承者とのあいだで悶着があり、あらぬことを誣いられて書き込みの削除の已むなきに至った。専横であり踰越であって、公人の私物化だと異議を唱えても双方にかみ合うところなく水掛け論に終わる。パソコンを使うひとと使わないひととの間柄は想うよりも疎遠である。印刷機が発明されたときもそうだったが、新たなメディアが認められ、それなりの文化を育成するには七、八十年の年月が掛かる。インターネットが固有の価値や様式を創出するのは次の次の世代あたりであろうか。
 仕事柄、いくたりかの作家の書冊を上梓してきたが、遺族とのお付き合いは何時もぎこちない、うまく行ったためしがないのである。継いでいるのは血脈のみで、詩精神の場にあっては何人といえども赤の他人である、それが諒解できるひとなら削除など端から命じてこない、と私は信じている。どうやらそうした考え方が遺族のお気に召さないようである。この血脈に関しては私なりの意見の用意があるが、ここでは繰り返さない。

 引用に関しては日頃から細心の注意を払っている、もしくは払っているつもりである。引用は著作権の切れた作品もしくは存命している知己の作品と劃定している。「存命している知己」に限るのは謝れば済むことだし、「著作権の切れた作品」に関しては後は野となれ山となれ、である。そして「作品」に限るのは、やはり水掛け論は避けたいからである。主張を手早く伝えるために、時としてひとは駄洒落をとばし、意味内容や表象から外れたお喋りをする。というよりも、日常の会話とはそのようなものなのである。従って、あのひとがこう言った、このひとがこう言ったとの伝聞を私は採らないし信じない。論旨を咀嚼し適確に判断するような聞き手や話し手がそこらじゅうに居るとは思われないからである。
 伝聞で思い出したが、貴方はこう言った、ああも言ったと過去の贅言を知己から指弾されることも度々である。そのような時はアドレス帳の項目を「知己」から「頓痴気」に書き直している。余談ながら、この書き直しは二度と覆らない。
 当掲示板での書き込みに限ってだが、極力引用は避けている。活字なら編集者が責を負ってくれるが、ウェブサイトではそうはいかない。管理人とはいい酒を飲みたいのであって、紛争地への共同出兵はお断りしたいものである。従って、引用ではなく自分の言葉に置き換えて書くように努めている。言い換えれば剽窃に汗を流しているわけだが、意地無地の生じないように、念には念を入れているのである。



投稿者: 一考    日時: 2006年08月07日 20:01 | 固定ページリンク





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