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一考 | ウィスキー学者

 某サイトで、友人がモルト・ウィスキーのコミュニティを立ち上げたというので、moonさんに無理をいって仲間に入った。ところが、個々の嗜好の表明と昔はよかった式の珍品ボトルの蒐集、所有にかんする自慢話の繰り返しなので、わずか三箇月で飽きてしまった。その手のはなしは書物コレクターで食傷気味である。従って、そちらのブログは閉鎖した。
 役者のあいだでは「らしい」「臭い」もしくは「ぶる」「ぶらない」がしばしば用いられる。ウィスキーも文学同様、旨い、不味いだけで結構だと思うのだが、通ぶろうとすれば、「旨い」にさらなる理屈を付すことが求められる。蒸留所が建てられた地域の気候風土のはなしなら納得する。海の端で熟成されたウィスキーには潮の香が、花畑での熟成にはフローラルな香が、森に囲まれた熟成ではナッティな香が特有のキャラクターとして加味される。理屈がそのような香味と密接にかかわるものならまだしも、ラベルがどうの、木栓がどうのといった外装の紹介になれば興ざめである。いわんや蒸留所の歴史や歴代オーナーがどうのといったウィスキーの通史など、知ったことかといいたくなる。飲んで味わうのは中身であって、黴の生えたラベルを舐め回したり、瓶の形状を愛でる気は毛頭ない。
 「旨い、不味い」が字義通りならどうと言うこともない。味覚には個人差があって、取りも直さずそれら差違を互いが認めあうのは麗しいことかもしれない。しかし、世の中には無神経なひとがいて、うっかりすると「旨い、不味い」がいつのまにか好き嫌いにすり替えられている。おそらく、そのあたりから正当化がはじめられるのであろう。旧字・歴史的仮名遣いを正字・正仮名遣いとするがごときで、蒸留所の元詰めにオフィシャル・ボトルとの和製英語を冠してなんら恥じ入るところがない。私に言わせれば、元詰めボトルほど不味いものはないのだが、ほとんどのひとは「オフィシャル」と名付けられた売らんがための「ぶる」の前に平伏する。ことほどさように、ひとは自らに自信を持たず、その結果として権威権力にひたすら迎合するのである。
 ですぺらはボトラーのウィスキーの収集に力を入れている。ある日、客から「それは正規品ではないだろう」と言われて銷沈した。そのような客にお飲みいただくようなウィスキーの持ち合わせはない。お引き取りいただくしかないのである。
 ウィスキー学者といった存在があるのかないのか知らないが、もしあるとすれば、それは文学者同様、とんでもなく如何わしく訝しいものではないだろうか。「樽の数だけのウィスキーがある」とはよく言われることだが、ウィスキーは熟成に用いられる樽の種類とコンディションによって、個々の香味やアルコール度数が変わってゆく。要するに一樽ごとに本質が異なるのである。されば、性質や要素の違いを違いとして愉しむところにモルト・ウィスキーの核心があるのではなかろうか。
 ボトラーのモルト・ウィスキーは基本的に一樽限定である。従って、購入した一本のボトルのなかにのみ、そのウィスキーの事象の形相がある。消息はひとであれ文学であれ同じである。どなたでもよろしいが、moonさんならmoonさんの体躯のなかにmoonさんがいるのであって、体躯という個を除去すると概念それ自体が成り立たなくなる。文学が一代限りとされる根拠もそこにある。
 蒸留器や蒸留所の歴史を教えることができても、ウィスキーの香味を教えることはできない。哲学の通史を教えることができても、哲学という行為そのものを教えることはできない。話序でに、仮名遣いを教えることはできても、それはついに文学を教えることにはならない。表現者に限らず、なんびとであろうとも言葉をおろそかにできないのは理の当然である。しかしながら、ひとにとって言葉という概念はウィスキー同様、常に不周延なのである。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月09日 21:28 | 固定ページリンク




如月 | (無題)

12月5日、学習研究社から四谷シモンの新しいエッセー集『四谷シモン前篇ーー
創作、随想、発言集成』が刊行されます。全408ページで、24ページの口絵つき。
予定価格\2,500。内容は、四谷シモンがこれまで出したエッセー集『シモンのシ
モン』『機械仕掛り神』(いずれも絶版)に、その後書いたエッセー、この二冊
に未収録のエッセー、対談などを加え、これまでの四谷シモンの言語活動がすべ
て通覧できるようにしたものです。
くわしい内容等は、わかりしだいまたお伝えします。
なお、刊行後、desperaで四谷シモンを囲む会なども企画したいと思います。
どうぞお楽しみに♪



投稿者: 如月    日時: 2006年11月10日 15:33 | 固定ページリンク




一考 | 言葉の翳

 「某」の編集会議で「カツ」を入れられたと書かれてしまったが、そのことを弁護はしない。ただ、言い方がきつかったのであればいかようにもお詫び申し上げる。私自身が新字新仮名を遣っているので、大きなことを言える立場にはない。しかし、遣う遣わないは別にして、旧字旧仮名を知らないよりは知っていた方がよいに決まっている。そして、それを覚える機会は今では極端に寡なくなったと思う。
 新聞はともかく、単行の出版物は一挙に新字新仮名に変わったのではない。私が子供の頃はまだ新旧仮名遣いが混在してい、目にする機会が多かったのである。従って、新旧仮名遣いのどちらに対してもなんの抵抗もない。
 しかし、編集ということになればはなしは別で、特に旧漢字にかんしては辞書と首っ引きの日々が続いた。先項で書いたように、母型屋の数だけ異体字があって、辞書によってまったく異なるのである。範とすべき諸橋大漢和辞典が完結したのは昭和三十五年、同縮刷版の完結が昭和四十三年だったが、当時はそれらを購う金銭の余裕はなく、ようやっとバラで買い集めだしたのは昭和五十年代に入ってからであった。
 私がコーベブックスで編集に携っていた昭和四十年代後半は塚本邦雄の影響であろうか。猫も杓子も正漢字歴史的仮名遣いで、なかには正漢字歴史的仮名遣いをさっぱり解さないひとまでが、著書を正漢字歴史的仮名遣いで組んでくれと願い出るようなありさまだった。
 流行と思しい旧字旧仮名の氾濫に、反吐する気持ちにさせられたのを覚えている。一方で吉岡実さんのように、嫌な時代は思い出したくないとばかりに旧字旧仮名を抛りだしたひともいらした。吉岡さんの編著書「耕衣百句」を上梓した折は、実の字もこれからは略字にしてくれと頼まれた。ひとはさまざまな人生を送る、それをとやかく言う権利は私にはない、望まれるがままの書冊を造るのが編集者の務めである。

 さて、某の同人である。平井功の詩集を開板するに際し、小出昌洋さんや私が旧字旧仮名に直したのではみなさんにとってなんの勉強にもならない。漢和辞典には旧字が、国語辞典には旧仮名が併記されている。面倒だが、辞書を引きさえすれば解決するのである。それでなくても、校正とは一字一句を辞書で確認するものである。自らの語感で推しはかる、もしくは知っている文字だけを訂してなにが済むものでもない。これを機に旧字旧仮名に取りつく端緒にしていただきたいと願うのである。さらには、辞書を引くのが習性となるように願っている。ただし、辞書はあくまで辞書である、それは表層的な意味内容と用法の羅列でしかない。そこから逃げ去ってゆく言葉の翳のような部分をいかに補足して読み解くか、言い換えれば語釈をいかように手籠めにするかというところに文学の官能的なよろこびがある。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月11日 00:22 | 固定ページリンク




如月 | タイトルの訂正

四谷シモンの新しいエッセー集のタイトル『四谷シモン前篇』ではなく『四谷シ
モン前編』でした。訂正します。
このエッセー集、もちろん、これまでのエッセーをすべて集めたものですが、こ
れからも活動して続きを書くということで、あえて「前編」をタイトルとしたと
のことです。



投稿者: 如月    日時: 2006年11月11日 21:58 | 固定ページリンク




一考 | 職工事情

 十五年ぶりに装丁をしようかと思って、あちらこちらに注文していた材料や見本が順次送られてきた。反物は見本の色調や手触りに応じて経糸がどうの緯糸がどうのと細かい指示を繰り返して、書物の表紙に相応しい布に仕上げてゆく。満足なものが出来上れば、黒谷へ送って楮紙で裏打ちするのである。丹波の麻糸や金沢の金箔、イギリスの板紙などは熟知しているので、発注通りでなんら問題は生じない。
 ところで、一部が届いたのはいいが本は造らないことになってしまった。今年の春に年内に造れと言われてお断りしたのである。年内に造らなければならない理由が気に入らなかったのだが、それはここでは書かない。原稿を提供する側の体面や面目にかかわる、あまりにも下らない個人的なはなしだからである。もっとも、既製品を用いて装丁するのなら年内に間に合ったかもしれないが、そのような安直な書冊を限定本として造ったことはない。これは当方の体面や面目と言っていえなくもない。しかし、蠧魚の絶好の餌になる絹糸や木綿糸は綴糸に用いたくないし、表紙のダンボール紙に国産の馬糞紙などは使いたくもない。限定本であるかぎり、ひとつひとつの材料は吟味されたものでなければ私としては困るのである。
 そこいらの限定本出版社が造る書物と似たものでよければ、そこいらの出版社に端から依頼すればよろしい。私に頼めば装丁材料の蒐集だけで二年は掛かる。
 造本も数物製本ではないので、ルリュールの心得のあるひとに頼むことになる。それでは飯の種にならないので、製本職人の都合に合わせて手のあいたときにお願いする。要するに、職人の好意に一方的に甘えるしか手立てがない。これにも一年ほど要する。
 印刷は活版で旧字旧仮名遣いを指定された。東京に二軒ある活版屋さんでは、旧字は半分ほどしか揃わない。福島、長野、淡路に残されている母型を取り寄せるしかない。これに下手すれば一年ほど費やすことになる。
 限定本を造る難儀については「南柯の夢」で書いたので繰り返さない。そして、造らないことになった以上、私の方から取りたてて言うべきことはなにもない。ただ、蒐集家、愛書家といわれるひとたちが、いかに書物に対して無知なのかを改めて知った。私を指名したのは神保町の某古書店だが、そちらの店主は過去拵えた私の書冊をあらかた知っている。にもかかわらず、一年でできると踏んだのであれば、限定本への会心はなきに等しい。
 かつて永田耕衣や吉岡実の著書を多く手掛けてきたが、頼んだのだからすべて委せる、と常に言われてきた。二年掛かろうが三年掛かろうが、苦言を呈せられたことは一度もなかった。それを想い起こすに、今回の結果はいささか残念である。私家版は受けないのを南柯書局の是としてきたのだが、それを崩したことが悔まれる。

 いい機会なので書いておきたいのだが、雪華社で某作家の著書を造った際、文選、植字、用紙、折り、帳合い、くるみ、箔押し、製函等々、印刷と製本にかかわる職人たちと出版を記念する会を催した。当然、著者からは参加を拒否された。作家や編集者が集う宴ならともかく、職工ごときと酒を酌み交わすのはご免被る、と言われたのである。私にとっては原稿も活字や紙や布クロス同様、素材のひとつである。それを納得しない著者の限定本を私は造らない。一冊の書物が日の目を見るにはじつに多くの職人の手をくぐる、それを知ってか知らいでか、「わたしの本」と言って憚らない御仁を私は表現者として容認しない。
 維新以降、西洋の文物を紹介し取り込むのが国是となった。それ故、本来なら文学の世界とは無縁な趣味人たちが翻訳者や大學人という立場を利用して権威権力を思うがままに行使してきた。一握の真摯な研究者や紹介者には迷惑なはなしだが、デペイズマンやオートマティスムがシュルレアリスムと誤解されるような邦である。技法や修辞法が文学と曲解されるようなお国柄であればこそ、創作も翻訳も押し並べて芸事でしかあり得ない。芸才に富む富まないを論議の対象とするようなひとたちを職工と呼ばずになんとする。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月15日 21:39 | 固定ページリンク




如月 | 『東京タワー』

長いこと放送延期になっていたテレビドラマ『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』↓が、18日(土)21:00からフジテレビ系で放送されることになり
ました。

http://wwwz.fujitv.co.jp/tokyotower/index.html

四谷シモンも医者の役でちょっと出演していますから、どうぞお見逃しなく。



投稿者: 如月    日時: 2006年11月16日 13:48 | 固定ページリンク




沖山 | 岩魚と蚯蚓

昨夜、珍しい岩魚の卵の醤油漬をですぺらで頂きました。
この時期ならでは、の珍しい食材のひとつと思います。
絶好の餌に釣られての、ですぺら詣で。
一杯目・日本酒、二杯目・アイラとともに楽しみました。

餌といえば、当の岩魚を釣る餌としては、蚯蚓は恰好なもののひとつだとか。
山奥の渓流に住む岩魚と土中に蠢く蚯蚓、どうも結びつきにくいのですが、
幼時、大雨の後など、親指ほどの太さにふやけた蚯蚓が側溝を流れていった記憶を浮かべれば、
案外、彼らにとっては、蚯蚓も身近なご馳走なのかもしれません。

そして餌となる蚯蚓についていえば、蚯蚓が鳴く、という話があります。
シーとか、チーとか、いう高周波の音、ふつうの人間の可聴限界の上にあるため、
私のようなおじさんには聞こえませんが、
若者、また蝙蝠や犬のような耳をもった人には聞こえるというのです。
雌雄同体の蚯蚓でありながら、それはさておき、とばかりに新しい出会いを求めて
夏の蝉時雨とばかりに、お互いに鳴き合う足下の大合唱を想像すれば、
なんとも愉快な鳴き声ではないかと思います。

さて、当の岩魚卵の味わいについて。
イクラに比べ、一粒一粒が小粒、しかも弾力性が高く、
噛む力に対してはっきりとした,レジスタンス、すなわち異議申し立てをします。
よく見れば粒の大きさも微妙に異なって、とりどりに自己主張、
きっと、イクラよりずっと店主お気に入りの食感に違いない、と踏んでいるのですが。
その味わいにご興味の方、ぜひ足を運んでみて下さい。
(たくさん食べたので、品切れになっていたら、スミマセン...)

※蚯蚓の鳴き声の正体は、実際は虫の音の聞き違いだそうで、
 実際は「けら」(虫けらの語源、とのこと)などの鳴声だそうです。
 



投稿者: 沖山    日時: 2006年11月16日 19:02 | 固定ページリンク




一考 | 魚卵鳴く

 「古事記」における古代歌謡に現れた叙情的造型様式は「万葉集」で三十一文字となって完成する。そして「王朝貴族の社会になると、詩歌はますます民衆的なエネルギーから遊離していって、洗練された純粋な叙情詩の美学が確立された。それ以来、その特質は、俳句や近代詩に至っても、本質的に変わっていない」とは新倉俊一氏のご意見ですが、言い換えれば、自分で生みだす才能の持ち合わせがなく、転移才能のみがわが邦では発達したということになりましょうか。いずれにせよ、詠歎なんざあ、個人や主観を信じてなきゃあ成り立たないのであって、そこいらに日本文学の限界がありそうです。
 河合凱夫に「蚯蚓鳴く十七音にしたがえば」との句があって、現実に鳴こうが鳴くまいが、鳴いたと思えば鳴いたのであって、「亀鳴く」「蚯蚓鳴く」「山笑ふ」など、世の中には不思議な季語が存在します。

  夜を着きしふるさとは亀鳴けり   成瀬桜桃子

 亀を鳴かせるのは亀鳴屋の特技です。もっとも、勝井さんに言わせると「ならびいて鳴きそうになき亀ばかり(能村登四郎)」だそうで、ないているのは社主ばかりとか。
 櫻井さんご紹介の美の壺の再放送を覧ました。水木しげる描くサラリーマンの顔をさらに長くした龜鳴屋主人勝井隆則さんとの初対面でした。某編集長によると適当に人生の潮風に当たってきた顔だそうで、さすがに編集者はうまく表現すると感心させられました。また、他の人に言わせると屈託のない顔つきだそうです。もっとも、出版人に屈託がないというのは真っ赤な嘘で、私なんざあ、印刷費や製本代の工面でこころが晴れたことなど一度もなかったのですから。

  蚯蚓鳴く六波羅密寺しんのやみ   川端茅舎
  蚯蚓鳴く人の子寝まる草の庵   川端茅舎
  蚯蚓鳴く辺に来て少女賢しや   岸田稚魚

 鳴かないものの声まで聞こえるの意ですが、そこまで我を張るなら、いっそ「和名抄」に倣って「美美須」ではいかがと言いたくなる。
 さて、送られし魚卵漬けに添えられた手紙によれば、川魚料理「かわべ」のご亭主河崎徹さんが久しぶりに句入りの原稿を書かれたとか。綺羅を競うに固執し、理念を顧みなかった平安の王朝貴族への造反か、「人生への適応障害」を疾む河崎さんの句に見得や気取りはない。意気地を張らず体裁をつくろわず、ただゴロンとふて寝する、それこそが民衆的なエネルギーというものではなかったか。河崎さんの句に内在する人生への「害」に身を任せていただきたいと思う。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月21日 12:48 | 固定ページリンク




エス | (無題)


ずいぶんご無沙汰しております。
そんなことがありましたっけ。
自らの記憶と他人の記憶、さらに忘却そのものとの境目も実のところ定かではなくなってしまいました。
時おりジャズをひとりで聴いていると、バンビにいるような錯覚に突然襲われることがあります。人にはそれぞれの幻覚を生きつづける権利があるように思います。ノスタルジーの話をしているのではありません。われわれはいまも「あそこ」にいるのです。でも、どこに? それがバンビであるかどうかは、判然とはしませんが…
たしかタケウチ・ヒロクニ氏と一緒に貴兄の六甲の部屋を訪ねたのが、貴兄にお目にかかった最後だったと思うのですが、それもはっきりとはしません。隅にずらっと文芸雑誌がならべられた部屋で、朝まで酒を飲んだような、飲まなかったような…

(すずきそうし)



投稿者: エス    日時: 2006年11月22日 16:14 | 固定ページリンク




一考 | (無題)

こちらこそご無沙汰です。
最後にお会いしたのが六甲なら、三十数年は経っていますね。
このところ、宇野さん、南さん、季村さんと貴方のはなしが続いたものですから、ちょいと触れさせていただきました、恐縮です。その後、脚は大丈夫ですか。
貴兄のはなしにはいつも断絶、傷跡、悪夢、幻覚、空虚などがつきまとうようです。そして空虚はノスタルジーを否定します。記憶の虚しさと記憶の入れ子構造共々賛意を表します。
アルトーに限らず、貴兄の読解力の深さにはかねてから畏怖の念を抱き続けてまいりました。どうやら十数年遅れて貴兄のあとを追っているように思うのです。
宇野さんはしばらくフランスですが、貴兄と一緒に朝まで酒を飲む機会の訪れんことを願っております。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月24日 03:46 | 固定ページリンク




エス | (無題)

「バンビ」の魔力が働いているのでしょうか、今年になってからいくつかの「再会」(!)がありました。
タケウチ・ヒロクニ氏もそのひとりで、今年になってまた時おりお目にかかるようになりました。病後といえども、タケウチさんはいたってお元気です。すごい「生き残り」です。いつも感服しています。

小生の体調は最悪で(人から体調を訪ねられるときは、いつも最悪の状態であったような気がいたします)、足もまだだめです。おまけに最近肝炎になってしまった模様です。酒、煙草、その他をしばらく控えねばなりません。まぁ、自業自得なのでしょう。
でも、いずれそのうち貴兄と一緒に酒を飲める日がきっと来ることを今から楽しみにしております。

今年でしたか、池袋で飲んでいたときに、宇野邦一さんから貴兄のお噂をうかがって、びっくりいたしました。



投稿者: エス    日時: 2006年11月24日 12:58 | 固定ページリンク




一考 | エスさんへ

 先だって毎日新聞社の方が来られて銀座で武内さんの展覧会があるとかで、お会いできるのを愉しみにしているのです。明石ではよく自転車に乗って飲みに行きました。阪神淡路大震災のときも朝の四時過ぎまで拙宅で京都の舞踏家と一緒に飲んでいて、別れた間際に襲われました。崩れ落ちた玄関から「おおい、生きているか」が彼の第一声だったのです。
 バンビーに限らず、私にとっては福原もそうなのですが、現場とおぼしいものは既に跡形もなくなりました。貴兄がおっしゃるように、定かならず、判然としないものばかりが身のまわりを漂っているようです。もっとも、判然としないのはそれらを受け止めるところの私なのかもしれません。歳と共に、およそ垣根や境界といったものは意味をなさず、いまさらに曖昧になっていくようです。
 池袋でのはなしを宇野さんから聴かされて私も驚いたのです。その宇野さんとの馴れ初めは会員制の掲示板で書きましたので、こちらへ転載しておきます。

 宇野さんと私では文脈がまったくといっていいほど異なるのですが、似たようなことを口にするひとがいると、これは書肆山田の大泉史世さんから言われ続けてきました。今回、上京して彼女から紹介されたのですが、思考方法の違いに改めて驚愕させられたのです。
 しかし、私という主辞のあとに続く賓辞を並列といいますか、連続するものとして私は捉えてきました。例えば、トイレできばっている私、酔っぱらっている私、書斎で畏まっている私、性欲に悶えている私、それらを洗い浚い引っくるめてひとつの人格が形成されていると思うのです。弁証法的に統一するのではなく、あるがままを連結させるのが一番無理がないと思ってきたのです。そのような考え方が、ドゥルーズがいう存在の一義性と重なり合うと宇野さんから聞かされました。それ以来、ドゥルーズを読んで分からないところは宇野さんから教わるのを繰り返してきました。
 思考方法が違えばこそ、一種の合標のようなものではないかしらんと解釈しているのですが、宇野さんと私の中間に位置する相澤啓三さんの毒舌が接着剤の役目をはたしているようにも思われます。相澤さんはカントやトーマス・マンをよく読まれているのですが、宇野さんとの会話は引用の問題に終始します。引用は学者のやることで、いやしくも文筆家のすることではない。要するに、宇野さんの書かれる文章から引用をまるごと刮げ落とせと仰っているのですが、それだと散文詩になってしまいます。その遣り取りが私にはとんでもなく面白く聞こえてくるのです。
 いずれにせよ、私は日本的な詠歎文学や情念とのクリンチにいらぬ時間を費やしてきました。いまなお、後ろ髪惹かれる思いなのです。それに比して、貴兄はある時、なにかを截り捨てるようにアルトーの世界へ旅立たれたように思うのです。その非凡さに敬服しているのです。
 三十年ぶりであろうが、四十年ぶりであろうが、そのようなことは委細どうでもよろしい、ひたすら貴兄との「再会」を期する所存です。どうか武内さん同様、生き残られんことを願っております。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月24日 20:13 | 固定ページリンク




エス | 一考さんへ

震災の際はタケウチさんと一緒だったのですね。驚きました。
「おおい、生きているか」。
タケウチさんの声がここからも聞こえてくるようです。
われわれは生きています、これだけでもよしとしよう、そんな感じです。『中島らも烈伝』という本にも書いたのですが、あまりにひどい暮らしをしていたために、当時の私の親しい友人たちはほとんどが鬼籍に入ってしまいました。とどめが、中島らもでした。変なものですね、彼が逝った後、「これから俺はちゃんと生きよう」と「はじめて」思ったのですから。
地震の時は私も部屋にいましたが、最初の揺れで一挙に壁が崩れ落ちて、そこから真っ青で不気味な空が見えました。あの空の青を忘れることは出来ないでしょう。イタリア・ルネッサンスのジオットという画家が描いた「パドヴァの青」というのがあるのですが、そんな素晴らしく深い青色でした。たぶんあの時、外はまだ真っ暗だったはずなので、稲妻に照らしだされた空の色だったのだと思います。六甲山の稜線に沿って東に走り去った稲妻は、地震とともに淡路島の海底から逃げ去った「龍」に違いありません。

「ユリイカ」のタルホ特集の鼎談、とても興味深く拝見いたしました。面白かったです。



投稿者: エス    日時: 2006年11月25日 11:23 | 固定ページリンク




一考 | エスさんへ

 貴兄の足を損壊させたものとは平成元年にかかわりを断ちました。爾来、酒や烟草を代用品として嗜んでいます。こちらは嗜みですが、前者は嗜みの領域を大きく逸脱します。
 酒を飲んで不必要に乱れたり、非論理的になったり、ひとに甘えるのも困りものですが、どのように酔っ払ったところで、二日もすれば酔いはさめます。酒ほど能転気なものはなく、思慮に欠けたものもありますまい。酒は不用意の代表選手のようなもので、その迂闊さゆえに健全かつ健康的な生活のよき伴侶になる側面を併せ持つと思っています。ユベナリスの詩句を揶揄しているのでなく、皮相のはなしをしているのでもありません。ただ、酒ごときで悲壮感を漂わせるような輩に貴兄が体験なさった「ひどい暮らし」は想像だにできないだろうと言いたいのです。
 「生活費の売り切れ」といった即物的なものから、不安に嘖まれるといった個別的なものまで、「あまりにひどい暮らし」にはさまざまなファクターが介在します。それを承知の上で、貴兄とのあいだにいささかの隔たりを取ろうと努めてきたように思います。ミシンと蝙蝠傘ならぬ「浮き萍と霰石とがバンビーでの不意の出遇い」ではデュカス氏も合点がいかないのではないかと推察したのです。

 時は経回りました。容赦のない残酷な揺籃期は終わり、迂闊さにここちよく身を任せる術を心得ました。貴兄よりごくわずかに早く「これから俺はちゃんと生き」てみようと思ったのです。その結果、酒には幾分こだわりを持つようになりました。

 「ユリイカ」のタルホ特集をお読みいただき感謝致しております。貴兄が仰言る「われわれは生きています、これだけでもよしとしよう」そんな思いでの鼎談でございました。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月27日 07:58 | 固定ページリンク




エス | イジドール・デュカス氏

「浮き萍と霰石とのバンビのテーブルの上での不意の出遇い」のように美しい…
デュカス氏にも困ったものです。
彼とは、バンビで知り合いになって以来、ふと気がつくと、いつもその辺りの物陰に隠れて、こちらをじっと窺っているのですから…
「ドブ板の下の蟋蟀」みたいな奴です。



投稿者: エス    日時: 2006年11月27日 09:11 | 固定ページリンク




一考 | シモンさん出版記念

 11月10日に如月さんが書き込まれたように、四谷シモンさんの新しいエッセー集『四谷シモン前編ーー創作、随想、発言集成』が刊行されます。片頭痛に悩まされる私なれば、「前偏」の方がよかったのではと思いもします。前頭葉、特に前頭前野は思考・判断など高等な精神作用が営まれる、いわば創造の場とされてきたのですから。
 「前編」とあるからには「後編」はと考えるのですが、その任を全うするのは個々の読者なのです。愛読者カードによって、いかにシモンさんを奮い起たせるか、書物はただ目を通せばよいというものではないのです。みなさんのご厚志を束ねて「後編」を創ろうではありませんか。

 ですぺらでの出版記念は12月4日の月曜日19時からになります。会費は4000円、飲まれない方は3000円です。シモンさんの著書は書店発売の前日であり、サインを頂戴した上、消費税が減額になります。ご購入たまわらんことをお願い致します。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月27日 19:08 | 固定ページリンク




一考 | ドブ板の下の蟋蟀

 「壁のなかから汝を窺うひとつの目」ですね。バルビュスのいう「地獄」ですよ。
 ところで、拙宅の庭で毎年バッタとカマキリがお産をするのです。バッタは正確にはショウリョウバッタモドキ(擬精霊蝗)です。それがカマキリを惧れてか、バッタの出産が年々遅くなるように思っていました。ところが、今年はあまりにバッタの出現が遅れ、十月末にはコオロギと共生するようになってしまいました。
 小さな雄が雌の背に乗って飛び跳ねるところをコオロギが襲うのです。コオロギは鳴きますが、ショウリョウバッタモドキは鳴きません。昆虫の世界に限りませんが、鳴くという行為は縄張り(テリトリー)を主張したり、喧嘩をしたり、雌を交尾に誘ったりと、したごころが見え見えなのです。声もなく追い払われ、ショウリョウバッタモドキは陽の当たらない裏庭への亡命を余儀なくされるのです。そんなときですね、昆虫の世界にもドゥルーズが必要だなあと思うのです。
 板前をしていた頃、石鯛や石垣鯛が生け簀のなかでハマチを襲うのを何度も見ました。もともと岩礁にすみつき、堅い歯でサザエ、アワビ、ウニ、フジツボ、カニなどをかみ砕いて食べる魚ですから獰猛なのですが、あいつは鱧と同じく、ひとの指をも食いちぎってしまいます。
 コオロギは昔は古保呂岐とも書きました。その名のとおり濃褐色の悪魔のようなもので、石鯛に似て獰猛です。かつて中国では闘蟋(とうしつ)といって、金を賭けてコオロギを闘わせていました。鼠のヒゲが一本装着された筆で突いてやると、突如噛み合いをはじめるそうです。佐々木幹郎さんというコオロギ学者がいて、嬬恋の彼の山小屋でコオロギを入れるための焼物を見せられました。彼がオポッサムについて書いたのも、闘蟋に用いる筆にはオポッサムのヒゲが最高なのではないかと憶測しているのです。
 さて、「ドブ板の下の蟋蟀」氏ですが、小生もどうやらバンビーで不意に出遇ったように記憶するのです。十代から持ち続けている本など、数えるぐらいしかないのですが、書架に現代思潮社の初版がありました。刊行は1960年6月で、購入は二年後になっています。ということは漆黒のビニール表紙の再版が気に入らなくて、わざわざ真っ白な紙装の初版を探し求めたようです。当時から、いささかの警戒感を持って接していたようです。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月27日 21:30 | 固定ページリンク




一考 | 神戸の古本力

 林哲夫さんから「神戸の古本力」(みずのわ出版 神戸市中央区旗塚通3-3-22-403 電話078-242-1610)が送られてきた。ステキな外題であって、今の私が気に入る装いの本である。書物の命は中身であって、表現や表装を引っくるめて表層には興味をなくした。生きているあいだのみ添い寝してくれればよろしいのであって、死後どうなろうと私の知ったことではない。
 昨日、季村敏夫さんから「最近の鈴木創士さんとのやりとりなぞなんともいえぬ風を感じ、いざ生きめやも、おもわず口笛が出てまいります」とのメールを忝くした。そのSさんが「神戸の古本力」へ文章を寄せている。阪急岡本にあった小さな古本屋のはなしなのだが、買った本をその古本屋の親父からちょっと貸してもらえないかと乞われ、その後本の消息はバッタリと途絶える。似た経験は私にもあって、タルホの署名本をすべて喪った。展示を理由に取り込んだのは、神保町では知られた古書店である。
 Sさんの文章を読んでいて、思い出したことがある。それは六甲道の南側にあった大段書店である。間口は一間半、Sさん描く「自分の蔵書をそのまま店頭に並べ」たと思しき典型的な古本屋だった。記憶が正しければ開店は昭和四十年の末、亭主ご妻女ともに目の輝きには非凡なものがあり、文学をよくし、中島敦には一家言をお持ちだった。山本六三、大月雄二郎、西尾光冶はじめ、神戸大学や神戸高校の文学部の知己の大方は出入りしていた。高価な書冊はなにもなく、私などは読もうかどうしようか迷っていた翻訳書を購入していた。その一冊にバルビュスもあった。しかし、そのようなことでは活計にならず、五年を経て自死されたと聞いた。

 「神戸の古本力」には南輝子さんも寄稿されている、ロクサンとワンタン(山本六三と私)の登場である。「たまに古本屋行のロクサンにくっついていた少年ワンタンは特別待遇だったのか。いつもロクサン家にいて、いつも本を読んでいたから、きっとイソーローしていたのだろう」と著されている。週のうち五日は一緒に酒を飲んでいたから、居候に違いない。そのロクサンとワンタンが日参したのが黒木書店である。
 同書には黒木書店が繁く登場する。国文学といえば、九州の黒木というほどに昔から知られた古本屋だった。黒木さんが神戸へ出てきたのは昭和三十年頃だが、詳しくは知らない。私が知遇を得たのは昭和三十六年だった。そして、私にとって黒木の客といえば谷沢永一しか思い浮かばない。ことほどさように、黒木さんと谷澤さんは親しかった。互いに才力知識を研摩しあった、否、それを通り越して命懸けの付きあいだったと思う。黒木書店についてなにかを著すとは、取りも直さず黒木と名付けられたひとつの文学を語ることになる。その覚悟がなくて、迂闊に黒木書店について書くのは己が無知をさらけ出すことにしかならない。冒頭で書いたように表層をいくらメトニミックに撫で廻したところで、黒木書誌学の核心に迫るのはかなわない。
 その黒木さんには息子と娘がいた。黒木さんから頼まれて娘さんとはコーベブックスで一緒に仕事をした。その後結婚なさったが、表現者ではないのでここでは触れない。息子さんは四十二歳で亡くなられた。フラメンコギターの名手で昆虫学、特に蝶に関しては畏るべき学識を持っていた。三ノ宮にブルーリボンというフラメンコの店があって、そこの店主と息子さんとが二人してギターを弾くのを何度か聴いたことがある。
 かれは無類の酒飲みだった。そして酒を飲む度に荒れた。それも尋常な荒れ方ではなかった。一度は屋台を叩きつぶして、やっちゃんの出番になったこともあった。腕っ節は滅法強かったが、父親から受ける圧力にいつも押しつぶされていた。元町の店を手伝いだして間もない頃、東京の大市で棟方志功の「二菩薩釈迦十大弟子」の一枚を百万円で落札し、父の怒りを買った。親父に言わせると黒木は書店であって画廊ではない、ふざけるなとなる。それ以降、息子は一切の仕入れを禁じられた。版画は長く店の奥に飾られていたが、無事に売れた。絵は売れたが、父と子の蟠りがとけることはなかった。
 やがて彼は結婚し、子供をもうける。しかし、彼の酒癖はおさまらず、妻子は家を捨てる。血を吐いて仰け反った遺体が見つかったのは死後数日を経てからであった。葬儀は兵庫区松本通二丁目の願成寺で執り行われたが、地元の古書店主の参列はほとんどなく、大阪から浪速書林の梶原正弘さんと、天牛書店の天牛高志さんの二名が参列、じつに淋しい葬儀だった。妻女は東京の出版社社主と再婚した。彼女とは二十代の頃、何度か酒を酌み交わした仲だったが、今はお付き合いは途絶えている。従って、なにも書くことはかなわない。黒木書店はともかく、その息子について書くひとは絶えていない。ひとことでもいいから触れておきたかった理由である。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月28日 00:24 | 固定ページリンク




一考 | 黒木書店-2

 「神戸の古本力」のなかで八木福次郎さんが棟方志功の板画のことを書いておられるが、あれが理由で酒浸りになったのではない。消息は梶原さんがよくご存じである。
 中島俊郎さんのアンケートを読んでいて思ったのだが、黒木書店の勘定は常にある時払いだったし、催促など一度もされたことがない。先日「中学生だった私を相手に、黒木さんは本読みの楽しみと愁いを、過不足なく教えて下さった。実に、私は黒木さんの謀に乗せられて書物の世界に迷い込んだのである」と書いたが、通いはじめて数箇月での特別待遇だった。それは俳文堂も同じで、読みたい本があれば構わないから持って行きなさいとまで言われた。
 それでは気が済まないので、一年に一回、風呂敷を片手に拙宅へ来ていただくのだが、ダンボール函にして四つか五つ分の本を首に掛けて一挙に持ち帰られる。手伝いますと言うのだが、親父は引き下がらない。あの小さな身体のどこにかような力が秘められているのかといぶかしく思われた。
 黒木書店と俳文堂に次いで、私を客として認めてくださったのは浪速書林だった。当時の浪速書林には番頭がいて、私が行くたびに「またあの変な坊主が来た」と小声で喋っているのが聞こえた。ただ、買う量が半端でなかったからか、こちらも数箇月で店主から声を掛けられた。「花柳小説など坊主の読む本ではないんだがなあ」と言いつつも、梶原さんが私に紹介してくださったのは谷沢永一さんだった。梶原さんは黒木さんと同じことを今でも言う。「こちらから声を掛けたのは谷沢と一考だけだ」と。
 こちらが中学生だったこともあるのだが、他の書店では到底相手にすらしてもらえなかった。古書店はどこでも、店主が座る後方に高価な書冊が置かれているのだが、それを見せてくださいというと無視されるか、理由も述べずに追い出されるかだった。従って、上記以外の神戸の古本屋には悪印象しか持っていない。それほどに、悔しかったのである。後年、掌を返すように態度が変わったが、時すでに遅く、私は東京の古本屋と親しく接わっていた。
 最後に、林哲夫さんが触れられている伊丹三樹彦さんの塚口の店に所在なげに座っていた黒木の息子のいまにも泣き出しそうな顔が忘れられない。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月28日 23:50 | 固定ページリンク




エス | バルビュス氏

懐かしいですね。アンリ・バルビュス。
小生もデュカス氏と同じ頃にジャズ喫茶で知りました。年上のフーテン高校生君が、いいから読め、と薦めてくれました。
小生は貴兄よりかなりガキだったはずなのですが(いまもそうですが)、デュカス氏といい、バルビュス氏といい、相似形の何かが時間のなかを移動していたのかもしれませんね。
その後は、バルビュスがブルトンと喧嘩したことを知って、読まなくなりました。
小生は、何を隠そう、当時、ブルトン主義者だったのです。
ブルトンに関しては、その後の日本のシュルレアリスム研究の学者先生たちとはまったく意見を異にしていました。
当時は、ブルトンを法王や独裁者であると言って他のシュルレアリストたちから切り離すことが批評の常套手段となっていたと思います。
私は、何度、ブルトンとともに、いろんな奴を除名したいと思ったことか!
だって、後に除名されることになる、それでいて生涯変わらぬ友人であったアルトーやバタイユといった人物を、除名すべき友人としてもつことができるなんて、素敵なことじゃないですか。

でも、果たして、実際には、いったい誰が「除名」されたというのでしょうか。俺? それとも…



投稿者: エス    日時: 2006年11月29日 13:00 | 固定ページリンク




一考 | 地獄の季節

 世代という媒介概念は意味をなしませんが、時代という区分概念は有効なようです。小生も「ナジャ」を読んでブルトンにまんまと嵌められました。ところが、その次に読んだ「シュルレアリスム宣言」で腹が立ちました。無批判なフロイト受用と、高みと低み、昼と夜等々、境界線の引かれないものに無理矢理境界線を拵える「ブルトン流」二項対立、そんな詭弁は至高点(弁証法的統一)の必要性の証明にもなににもなりません。そして「シュルレアリスム宣言」以降の書冊など、ヴァレリーの二番煎じの出し物にしか過ぎないのです。あれは私が遭った最初の詐欺師でした。
 「除名」との概念それ自体が立派な権威主義なのです。また、ブルトンのフロイト受用同様、某大先生のブルトン受用を附和随行と言わずしてなんと呼べばよろしいのでしょうか。「無批判的な多読が人間の頭を空虚にするのは周知の事実である」とは寺田寅彦ですが、例え事実であるにせよ、そのような思慮のない表層的な箴言を書いていれば、わが国ではなんとなく物書き面ができるようです。まあ、ブルトンも、どこぞの大先生も、寺田寅彦もおつむの出来はどっこいどっこいだったと思います。
 マラルメやリラダンの翻訳を試みた鈴木信太郎や齋藤磯雄に限らないのですが、日本の翻訳家の多くは尻馬に乗って擬古文を遣います。この雅文にはひとつの落とし穴があって、擬古であればこそ現代文学にはそぐわないのです。仏領インドシナやアルジェリアで遣われていたスラングを駆使したジャン・ジュネやボリス・ヴィアン、またはアルトーやベケットに擬古文はどうあっても似合いません。
 「墓につばをかけろ」はヴィアンの代表作のひとつですが、この「墓」を萬葉語で「奥津城」とやられた日には興が醒めます。要するに、語の選択、語句の配置、文章の結構などによって翻訳の対象ならびに時代が著しく制限されるのである。彼らの翻訳の対象が象徴派に終始するのは、好みを通り越して、彼らの修辞法がもたらす必然の結果と言えます。
 私にいわせれば、鈴木信太郎も齋藤磯雄も、ほとんどの外国文学者は修辞法や美辞学のオーソリティー、より正確に申せば文壇プロパーであって、決して文学を生きてはいないのです。縁なき衆生が間違えて文学の世界へ彷徨い込んできたと思っています。
 それらインチキ商品を俗物として弾劾してやまなかったのがジャズ喫茶でした。先日、「容赦のない残酷な揺籃期」と書いたのは、きっと貴兄が相似をなして通過したであろうバンビーの地獄の季節を示唆したかったのです。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月01日 22:32 | 固定ページリンク




エス | 「地獄の季節」再説

僕はかの大先生から除名されましたが、そこから何かを、あるいは誰某を除名すべきグループというものがそもそも存在しなかったのですから、貴兄のおっしゃるとおりです。すべてただのけちな幻影です。
でも、ブルトンの散文とスターリン主義批判の弾劾文のなかには今読んでもとても美しいものもありますよ。たしかに小生ももうブルトンはさすがに読まなくなりましたが。

それと齋藤磯雄氏に関しては、まったく同感という他はありません。
小生もかねてから齋藤磯雄氏の翻訳に関して、巷で囁かれていたこととは反対の意見を抱いておりました。フランス語を少しかじって後に、私なりにわかったことですが、ボードレールはあんなものではありませんでした。ボードレールは擬古文で訳してはだめです。ボードレールは、もっとシャープで、もっとそっけなくて、暴力的で、どういえばいいのか、もっと現代的なのです。それに齋藤磯雄氏の訳は意味の観点から言っても原文に忠実であるとも言えません。そもそもすぐれた作家にはそれぞれ独自の文体のリズムというものがあり、それを少しでも再現しようとしない翻訳はだめな翻訳だと思います。それを試みようとしないのであれば、翻訳する意味などありません。要約を、解説を書けばいいだけなのですから。だからこそヴィアンの「墓」は「奥津城」と訳してはだめなのです。ボードレールについては、色々な翻訳を調べてみたことがあるのですが、案外、荷風の訳が忠実なことに驚いたことがありました。荷風の訳はある意味現代的と言っていいと思います。案外そんなものなのですね。
でも、私のいい加減な感想を言えば、決定的なボードレールの日本語訳はまだ存在していないと思います。
ところで、貴兄のご意見をうかがいたいのですが、平井呈一氏の翻訳についてはどう思われますか。



投稿者: エス    日時: 2006年12月01日 23:25 | 固定ページリンク




管理人 | 赤坂ですぺら閉店のお知らせ


管理人です。
悲しいお知らせがあります。
ですぺらが年明けに閉店することとなりました。
掲示板をお読みの皆様、店がある間にいっといたほうがいいと思いますよ。
うまくいけば、移転できるかもしれないんですけどね。



投稿者: 管理人    日時: 2006年12月03日 23:51 | 固定ページリンク




一考 | 不器用なひと

 表では書きづらいことがあってmixiで裏掲示板を設けています。ただし、精神衛生のために書いているので、まったくの非公開です。平井呈一についてはそちらでないとぐつが悪いのですが、差し障りが生じないように書いてみます。貴兄との遣り取りゆえ、このような問題が生じるのは最初から覚悟していました。一部はmixiからの引用です。

 一つの問題を解決しようとすれば、結果を待たずに新しい問題が次々と生み出されます。はなしが翻訳だけなら答えは明瞭です。しかし、翻訳は修辞法上の問題ですから、それだけを抽出してのはなしにはなんら興味が抱かれないのです。それとかの大先生をはじめ、翻訳は何冊もあるが自分のテキストをほとんど持たないひとがわが国には多いようです。エッセイがあればそのひとの思索のあとを追えるのですが、翻訳だけだと判断のしようがないのです。
 「こんなもの文学ではないな」と言った違和感や失意の表明が自らの作品に対して反芻されないときはディレッタンティズムに陥ります。ゲーテはディレッタンティズムを、自己の行為を客観的に反省しようとする批判精神を欠き、主観主義におぼれるものと性格づけました。そのひとりよがりが端的に顕れるのが翻訳の世界ではないかと思うのです、要するに翻訳家の大半はディレッタントではないかと。
 ディレッタントの花骨を為すのは趣味嗜好ですから、翻訳をいくら積み重ねても道楽の域を一歩も出ないことになります。また道楽ゆえに、原文が内包するイデーを読み解き、それを咀嚼するのでなく、主観にみちた要約や解説の類いもしくは信仰告白に終始します。その消息は貴兄がご指摘なさるとおりで、書くことと訳すこととのあいだには相澤啓三さんがいう「ジョークで跳べない危険なクレバス」があるように思います。
 繰り返します。叙情詩を「個人的主観的詠歎」と主張したのは新倉俊一ですが、彼に倣って日本文学の本情を詠歎文学と名付けたいのです。「古事記」における古代歌謡に現れた叙情的造型様式は「万葉集」で三十一文字となって完成します。そして「王朝貴族の社会になると、詩歌はますます民衆的なエネルギーから遊離していって、洗練された純粋な叙情詩の美学が確立された。それ以来、その特質は、俳句や近代詩に至っても、本質的に変わっていない(新倉俊一)」  彼の論旨を要約すれば、自分で生みだす才能の持ち合わせがなく、転移才能のみがわが邦では発達したとなります。転移才能は短詩型に限りません、翻訳文学などはその典型だと思われます。また、その転移才能を修辞法や美辞学に置き換えれば、はなしの通りはさらによくなります。
 「双面をもつ哲学」の時代にロマン主義的個性の尊重が額面通り存立するのはほとんど不可能に近いのです。そして、内面的な感情の搖れ、心の叙情の動き、夢想の波動、意識の飛躍等々、自我を構成する無数の分子の結合や共振は時代と共に振幅を拡げ、相貌を大きく変えていきます。詠歎がもたらす二元論的懐古趣味や復古思想では時代が要請する課題を読み解くことはできません。問題意識の切実さ、親密さ、性急さ、さらにマグマのように熱く横溢する思考と新しい思想的文体がなければなにごとにも対処できないのです。

 以上が平井呈一について小生が感じる不満です。彼との最初の出遇いはダウスンの「悲恋」(改訳版は「ディレムマ」)でした。情趣溢れる作品の翻訳にはそれなりの味わいがあります。それとディレッタントで思い出しましたが、サッカレーの訳もよかったと思います。ただ、そのような作品に今の私は興味を抱きません。だからといって、「もっとシャープで、もっとそっけな」い、もっと硬質なものを平井呈一に求めたところで詮ないはなしです。
 年月をかけた彼の翻訳に小泉八雲があります。八雲は異文化の衝突のなかを生きただけあって特異な弁証法の持ち主でした。近代化の扱き下ろしと「伯耆から隠岐へ」への賛美は平井呈一のお化け好きと、そして八雲の自らの才能への内省と疑義はいささか下手巧者な平井呈一の小説や俳句とどこか重なり合うような気がするのです。平井呈一にあってはお化けこそがエキゾティシズムであり、自身の素質や能力に対する心細さが翻訳に向かわせたのではなかったか。いずれにせよ、不器用と言いますか、たいそう手ぎわの悪い人生を送られたひとのように思われてくるのです。

 ブルトンのスターリン主義批判の弾劾文はさっそく読みましょう。バタイユの小説よりもドキュマンや社会批評における観念論との闘いに愕かされます、それとよく似た例とも思われるのですが。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月04日 06:37 | 固定ページリンク




エス | 一考さんへ

つまらぬ質問すみませんでした。
よくわかりました。
平井呈一訳小泉八雲は、どこか灰汁のとれた文章だったように思いますが、手元にまだ本があるはずなので、もう一度見てみます。
不器用な人であったというのも、彼の「名人芸」のひとつだったのでしょうか。



投稿者: エス    日時: 2006年12月04日 10:47 | 固定ページリンク




一考 | エスさんへ

 折角のご質問に率直に応じられなくて恐縮です。編輯を方便にしていたものですから、いろいろと付き合いがあって困ります。こんなことではいけないのであって、自分の意見は意見として言えるようにならないとダメですね。
 「灰汁のとれた文章」なら森銑三訳に軍配が上がるのではないでしょうか。八雲の文章の特質のひとつは簡にして要を得るにあります。同じ訳でも平井呈一のそれは文章がやたらに長くなります。江戸期の読本を意識してのことなのでしょうが、いささか疑問を抱かされます。もしそれをもって名訳とか名調子と称するのであれば、私はご免被りたいと思います。
 ランボー、ロートレアモン、アルトー、ベケット、バタイユなどの文章と他の作家の文章を違える理由のひとつは套言にあると思うのです。「バタイユは、神秘には汚穢を対置し、詩情には嫌悪をもって応じ、常識には奇矯で反撃しようとする」とは片山正樹さんの言葉ですが、常套句を峻拒し、常に挑撥者たらんとした彼等の文学とわが国の文学を比した時の、目のくらむようなへだたりには怖ろしさすら覚えます。
 誰とはいいませんが、ベルトラン、マラルメ、ラファルグ、レニエ、クローデールからプルーストまでが同じ調子の文体で編まれる訳詩集など文学への冒涜以外のなにものでもないと思っています。創作とは過去の作品への異義申し立てであり、個々の作家の新たな文体の創出なのですから、それらを一絡げに扱うのには欺瞞すら感じるのです。アンソロジー自体が一種の信仰告白であり、愛のバロメーターなのですから致方もないのですが、採りあげられる作家にとっては傍迷惑なはなしです。個々の作者の内面にいますこし深入りするか、いっそ訳者が個性を控えてさらなる透明感を持つ方がよろしいのではないかと思うのです。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月05日 08:02 | 固定ページリンク




エス | 一考さんへ

いえいえ、平井呈一氏については、行間から一考さんのおっしゃりたいことは十分うかがえました。私も似たような感想をかねてから抱いていたので、快哉を叫びたいくらいです。
森銑三訳の小泉八雲は、今度見てみるつもりです。どうもありがとうございます。
それにしても、一考さんがベケットをお好きだったとは!
実は、小生もここ十年くらいずっとベケットに興味を抱いています。
例えば、ベケットと付き合いのあった人が述懐しているように、普段道を歩く姿、その歩き方と文体がまったく同じであるような印象を受ける作家はそうたくさんはいないと思います。余計なものがそぎ落とされたベケットの文体は、呼吸と同じようなものだったのでしょう。あそこまで行くことはそう簡単なことではないと思います。



投稿者: エス    日時: 2006年12月05日 11:22 | 固定ページリンク




一考 | ベケット

 神戸にいた頃、十代、二十代のことですが、ひとと文学について本気で語らった記憶がありません。いまなお、その癖は続いているようにも思われます。その理由は話しても無駄と思い込んでいたからです。大方は何々が好き、誰それが好みですと、自分の嗜好の押しつけに終始します。オーム真理教の教祖のように得意満面におのが知識を声高に述べ立てるような人にはなんら興味を抱かれないのです。こころ惹かれるのは相手の生き方であって知識や教養ではないのです。貴兄がおっしゃるように、文体すなわち文学というものは呼吸であり個々の搏動だと信じてきたからです。
 呼吸は吸息と呼息とが片時のやすみなく繰り返される運動です。その揺らぎ、変動のなかに身を置かなければベケットのような作家を読み解くのは不可能です。運動に呼応し、あるときは逆らい、あるときは従う、その撓うさまに文学が在るように思うのです。永田耕衣のいう「しゃがむとまがり」こそが文体であり文学であり思想であるということになりましょうか。
 古い様式に固執し、新しい様式の獲得がさまたげられるようでは本末顛倒です。否、守らなければならないものなど、この世の中にはなにひとつないのです。前述した作家たちが試みた套言の否定は一直線に帰属や境界の拒否にも通じます。通じるというよりは余儀なくさせるのです。文学とは自己否定ならぬ自己破壊を強い続けるものだと思うのです。
 貴兄との遣り取りならはなしはこれでお仕舞いなのですが、掲示板は見知らぬひとも読みます、従って補足をひとこと。破壊と書きましたが、破壊は否定ではなく肯定です。ベケットにあっては寂滅思想から孔子すなわちヘルメス的な要素までが葛藤を生み出そうとして鬩ぎ合いながら共存します。累々たるきずあとが消尽に向かっての石段を築き、毀し、はたまた構築し直すのです。彼のように多くの賓辞を内包する作家は賓辞の数だけのアプローチが必要になります。ディルタイではありませんが、文化は生の表現です。さればこそ、ベケットの文学を諒解するとは人跡未踏の領域にわが身を追いやることにしかならないと思うのです。

 小中学校の同窓会からは爪はじきされましたが、バンビーの同窓会には迎え入れられたようです。貴兄の書き込みに深く感謝しております。もっとも「窃かにひとり爪はじきして天を仰いでつぶや」いていただけなのかもしれませんが。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月07日 20:52 | 固定ページリンク




通りすがり | 教えてください

しばらくお店に伺っていないので教えてください。 現在、オムライス等をやっていないそうですが、フードメニューを教えてください。 また、以前、新宿店をだされると聞きましたが、住所や連絡先、営業時間等を教えてください。 よろしくお願いします。



投稿者: 通りすがり    日時: 2006年12月07日 21:49 | 固定ページリンク




一考 | 通りすがりさんへ

新宿店は靄のなかです。オムライスは前から置いていません。フードメニューは現在六十六種類です。現在の住所、営業時間などはホームページをご覧ください。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月07日 23:29 | 固定ページリンク




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