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一考 | 八島について

 前項のしゃばしゃばの和辛子については亡くなった中島らもさんも、神戸三ノ宮の居酒屋「八島」に関するエッセイのなかで繰り返し述べている。八島で彼と面識を得たわけではないが、同時期に入浸っていたらしい。モルト会で大浦さんから指摘されて気づいたのだが、中島らもさんと私は「八島」の同窓生だったようである。八島と京都の労働会館については当掲示板で書いた気がするのだが、検索で出てこないので改めて書く。
 八島は昭和四十年から四十六年にかけて、山本六三と日参した飲み屋である。記載した年次はあくまで山本さんと日参した季節を指している。山本さんは私よりかなり年上なので八島への出入りは古く、私にしてからが、中学生時代から居続けたジャズ喫茶「バンビー」の牢名主ともいうべき小原さんや下中さんに連れられて八島へは出入りしていた。他方、現代詩神戸研究会の詩人たちとも繁く通っている。過日、神戸の季村敏夫さんに往時の詩人たちの消息をお訊きしたのだが、ことごとくがはかなくなられていた。
 山本さんは水曜会(マラルメに敬意を表して一日ずらしていた)を、私はやや遅れて土曜会を催していたが、八島ではそのメンバーのいくたりかが一緒だった。やかんへ放り込んで直火で温める二級酒が五十五円、「あか」と称する一級酒が六十五円、塩辛が十円、冷や奴が二十円、湯豆腐が三十円、もっとも高価な品が百八十円の肉豆腐と肉葱炒めだった。喰いたいが高くて注文できないその肉葱炒めに対する恨みつらみを中島らもさんは著している。彼は納豆ひとつを注文し、あとはポケットのなかの硬貨を握りしめる、そして銚子を一本注文するごとに硬貨を手から落としてゆくのである。掌に金がなくなったとき、その日の人生が終わるのである。
 山本さんは生鮨(キズシとの言い方は関西、東京ではシメサバ)、私は烏賊の塩辛が専らであった。四、五人で塩辛を囲んでの酒盛りである。塩辛には長いものや短いものが混じっている、箸で摘まんだ烏賊が長いと、ひとに悪い気がしてそっと戻すのである。若いときは暇はあるが金がない、十円の肴で四時間でも五時間でも酒を飲み続けるのであった。絵描きの武内さん(「世界のライト・ヴァース5 神様も大あくび」の挿絵を担当)や詩を書いていた岩田さんなどもそのころの飲み仲間だった。
 八島で忘れられないのが六十五円の赤出汁つき天丼である。天丼とはいいながら、厚さが一センチほどのぶよぶよのメリケン粉のせんべいに干しエビが三匹と僅かな玉葱と紅ショウガが入った、すこぶるシンプルな掻き揚げである。収入はことごとく本代で消えてゆく、従ってこの一日一膳の天丼が私の食生活のすべてだった。四十歳代半ばまで体重が五十から五十三キロを前後していた理由はこのような若いときの粗食にあったと、勝手に思い込んでいる。
 中島さん同様、百八十円の肴は私にも手が出せなかったが、七十円の玉子焼きと魚フライはごくたまに馳走になった。玉子焼きは中がじゅくじゅくで大根おろしの替わりにてんこ盛りの紅ショウガが付く、魚フライには水のごとく淡い和辛子がどっぷりと掛かっている。その潤沢さが、ひとのこころを豊かにし仕合せをもたらすのである。紅ショウガで二時間、玉子焼きで二時間の世界である。中島らもさんが書き綴っているのもそこのところである。
 今も八島は同じ場所で営業をつづけている。どうやら、赤出汁つき天丼は二百八十円に値上がりしたようである。天丼を喰いたいとは思わないが、あの魚フライでまずい燗酒を飲みたいと思っている。

  あま酒のくがだち酒のたぎち酒鏡花小史に酒たてまつる  吉井勇

(この稿つづく)



投稿者: 一考    日時: 2006年07月27日 20:16 | 固定ページリンク





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