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一考 | エスさんへ

 先だって毎日新聞社の方が来られて銀座で武内さんの展覧会があるとかで、お会いできるのを愉しみにしているのです。明石ではよく自転車に乗って飲みに行きました。阪神淡路大震災のときも朝の四時過ぎまで拙宅で京都の舞踏家と一緒に飲んでいて、別れた間際に襲われました。崩れ落ちた玄関から「おおい、生きているか」が彼の第一声だったのです。
 バンビーに限らず、私にとっては福原もそうなのですが、現場とおぼしいものは既に跡形もなくなりました。貴兄がおっしゃるように、定かならず、判然としないものばかりが身のまわりを漂っているようです。もっとも、判然としないのはそれらを受け止めるところの私なのかもしれません。歳と共に、およそ垣根や境界といったものは意味をなさず、いまさらに曖昧になっていくようです。
 池袋でのはなしを宇野さんから聴かされて私も驚いたのです。その宇野さんとの馴れ初めは会員制の掲示板で書きましたので、こちらへ転載しておきます。

 宇野さんと私では文脈がまったくといっていいほど異なるのですが、似たようなことを口にするひとがいると、これは書肆山田の大泉史世さんから言われ続けてきました。今回、上京して彼女から紹介されたのですが、思考方法の違いに改めて驚愕させられたのです。
 しかし、私という主辞のあとに続く賓辞を並列といいますか、連続するものとして私は捉えてきました。例えば、トイレできばっている私、酔っぱらっている私、書斎で畏まっている私、性欲に悶えている私、それらを洗い浚い引っくるめてひとつの人格が形成されていると思うのです。弁証法的に統一するのではなく、あるがままを連結させるのが一番無理がないと思ってきたのです。そのような考え方が、ドゥルーズがいう存在の一義性と重なり合うと宇野さんから聞かされました。それ以来、ドゥルーズを読んで分からないところは宇野さんから教わるのを繰り返してきました。
 思考方法が違えばこそ、一種の合標のようなものではないかしらんと解釈しているのですが、宇野さんと私の中間に位置する相澤啓三さんの毒舌が接着剤の役目をはたしているようにも思われます。相澤さんはカントやトーマス・マンをよく読まれているのですが、宇野さんとの会話は引用の問題に終始します。引用は学者のやることで、いやしくも文筆家のすることではない。要するに、宇野さんの書かれる文章から引用をまるごと刮げ落とせと仰っているのですが、それだと散文詩になってしまいます。その遣り取りが私にはとんでもなく面白く聞こえてくるのです。
 いずれにせよ、私は日本的な詠歎文学や情念とのクリンチにいらぬ時間を費やしてきました。いまなお、後ろ髪惹かれる思いなのです。それに比して、貴兄はある時、なにかを截り捨てるようにアルトーの世界へ旅立たれたように思うのです。その非凡さに敬服しているのです。
 三十年ぶりであろうが、四十年ぶりであろうが、そのようなことは委細どうでもよろしい、ひたすら貴兄との「再会」を期する所存です。どうか武内さん同様、生き残られんことを願っております。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月24日 20:13 | 固定ページリンク





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