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一考 | ベケット

 神戸にいた頃、十代、二十代のことですが、ひとと文学について本気で語らった記憶がありません。いまなお、その癖は続いているようにも思われます。その理由は話しても無駄と思い込んでいたからです。大方は何々が好き、誰それが好みですと、自分の嗜好の押しつけに終始します。オーム真理教の教祖のように得意満面におのが知識を声高に述べ立てるような人にはなんら興味を抱かれないのです。こころ惹かれるのは相手の生き方であって知識や教養ではないのです。貴兄がおっしゃるように、文体すなわち文学というものは呼吸であり個々の搏動だと信じてきたからです。
 呼吸は吸息と呼息とが片時のやすみなく繰り返される運動です。その揺らぎ、変動のなかに身を置かなければベケットのような作家を読み解くのは不可能です。運動に呼応し、あるときは逆らい、あるときは従う、その撓うさまに文学が在るように思うのです。永田耕衣のいう「しゃがむとまがり」こそが文体であり文学であり思想であるということになりましょうか。
 古い様式に固執し、新しい様式の獲得がさまたげられるようでは本末顛倒です。否、守らなければならないものなど、この世の中にはなにひとつないのです。前述した作家たちが試みた套言の否定は一直線に帰属や境界の拒否にも通じます。通じるというよりは余儀なくさせるのです。文学とは自己否定ならぬ自己破壊を強い続けるものだと思うのです。
 貴兄との遣り取りならはなしはこれでお仕舞いなのですが、掲示板は見知らぬひとも読みます、従って補足をひとこと。破壊と書きましたが、破壊は否定ではなく肯定です。ベケットにあっては寂滅思想から孔子すなわちヘルメス的な要素までが葛藤を生み出そうとして鬩ぎ合いながら共存します。累々たるきずあとが消尽に向かっての石段を築き、毀し、はたまた構築し直すのです。彼のように多くの賓辞を内包する作家は賓辞の数だけのアプローチが必要になります。ディルタイではありませんが、文化は生の表現です。さればこそ、ベケットの文学を諒解するとは人跡未踏の領域にわが身を追いやることにしかならないと思うのです。

 小中学校の同窓会からは爪はじきされましたが、バンビーの同窓会には迎え入れられたようです。貴兄の書き込みに深く感謝しております。もっとも「窃かにひとり爪はじきして天を仰いでつぶや」いていただけなのかもしれませんが。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月07日 20:52 | 固定ページリンク





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