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一考 | エスさんへ

 折角のご質問に率直に応じられなくて恐縮です。編輯を方便にしていたものですから、いろいろと付き合いがあって困ります。こんなことではいけないのであって、自分の意見は意見として言えるようにならないとダメですね。
 「灰汁のとれた文章」なら森銑三訳に軍配が上がるのではないでしょうか。八雲の文章の特質のひとつは簡にして要を得るにあります。同じ訳でも平井呈一のそれは文章がやたらに長くなります。江戸期の読本を意識してのことなのでしょうが、いささか疑問を抱かされます。もしそれをもって名訳とか名調子と称するのであれば、私はご免被りたいと思います。
 ランボー、ロートレアモン、アルトー、ベケット、バタイユなどの文章と他の作家の文章を違える理由のひとつは套言にあると思うのです。「バタイユは、神秘には汚穢を対置し、詩情には嫌悪をもって応じ、常識には奇矯で反撃しようとする」とは片山正樹さんの言葉ですが、常套句を峻拒し、常に挑撥者たらんとした彼等の文学とわが国の文学を比した時の、目のくらむようなへだたりには怖ろしさすら覚えます。
 誰とはいいませんが、ベルトラン、マラルメ、ラファルグ、レニエ、クローデールからプルーストまでが同じ調子の文体で編まれる訳詩集など文学への冒涜以外のなにものでもないと思っています。創作とは過去の作品への異義申し立てであり、個々の作家の新たな文体の創出なのですから、それらを一絡げに扱うのには欺瞞すら感じるのです。アンソロジー自体が一種の信仰告白であり、愛のバロメーターなのですから致方もないのですが、採りあげられる作家にとっては傍迷惑なはなしです。個々の作者の内面にいますこし深入りするか、いっそ訳者が個性を控えてさらなる透明感を持つ方がよろしいのではないかと思うのです。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月05日 08:02 | 固定ページリンク





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