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一考 | ウィスキー学者

 某サイトで、友人がモルト・ウィスキーのコミュニティを立ち上げたというので、moonさんに無理をいって仲間に入った。ところが、個々の嗜好の表明と昔はよかった式の珍品ボトルの蒐集、所有にかんする自慢話の繰り返しなので、わずか三箇月で飽きてしまった。その手のはなしは書物コレクターで食傷気味である。従って、そちらのブログは閉鎖した。
 役者のあいだでは「らしい」「臭い」もしくは「ぶる」「ぶらない」がしばしば用いられる。ウィスキーも文学同様、旨い、不味いだけで結構だと思うのだが、通ぶろうとすれば、「旨い」にさらなる理屈を付すことが求められる。蒸留所が建てられた地域の気候風土のはなしなら納得する。海の端で熟成されたウィスキーには潮の香が、花畑での熟成にはフローラルな香が、森に囲まれた熟成ではナッティな香が特有のキャラクターとして加味される。理屈がそのような香味と密接にかかわるものならまだしも、ラベルがどうの、木栓がどうのといった外装の紹介になれば興ざめである。いわんや蒸留所の歴史や歴代オーナーがどうのといったウィスキーの通史など、知ったことかといいたくなる。飲んで味わうのは中身であって、黴の生えたラベルを舐め回したり、瓶の形状を愛でる気は毛頭ない。
 「旨い、不味い」が字義通りならどうと言うこともない。味覚には個人差があって、取りも直さずそれら差違を互いが認めあうのは麗しいことかもしれない。しかし、世の中には無神経なひとがいて、うっかりすると「旨い、不味い」がいつのまにか好き嫌いにすり替えられている。おそらく、そのあたりから正当化がはじめられるのであろう。旧字・歴史的仮名遣いを正字・正仮名遣いとするがごときで、蒸留所の元詰めにオフィシャル・ボトルとの和製英語を冠してなんら恥じ入るところがない。私に言わせれば、元詰めボトルほど不味いものはないのだが、ほとんどのひとは「オフィシャル」と名付けられた売らんがための「ぶる」の前に平伏する。ことほどさように、ひとは自らに自信を持たず、その結果として権威権力にひたすら迎合するのである。
 ですぺらはボトラーのウィスキーの収集に力を入れている。ある日、客から「それは正規品ではないだろう」と言われて銷沈した。そのような客にお飲みいただくようなウィスキーの持ち合わせはない。お引き取りいただくしかないのである。
 ウィスキー学者といった存在があるのかないのか知らないが、もしあるとすれば、それは文学者同様、とんでもなく如何わしく訝しいものではないだろうか。「樽の数だけのウィスキーがある」とはよく言われることだが、ウィスキーは熟成に用いられる樽の種類とコンディションによって、個々の香味やアルコール度数が変わってゆく。要するに一樽ごとに本質が異なるのである。されば、性質や要素の違いを違いとして愉しむところにモルト・ウィスキーの核心があるのではなかろうか。
 ボトラーのモルト・ウィスキーは基本的に一樽限定である。従って、購入した一本のボトルのなかにのみ、そのウィスキーの事象の形相がある。消息はひとであれ文学であれ同じである。どなたでもよろしいが、moonさんならmoonさんの体躯のなかにmoonさんがいるのであって、体躯という個を除去すると概念それ自体が成り立たなくなる。文学が一代限りとされる根拠もそこにある。
 蒸留器や蒸留所の歴史を教えることができても、ウィスキーの香味を教えることはできない。哲学の通史を教えることができても、哲学という行為そのものを教えることはできない。話序でに、仮名遣いを教えることはできても、それはついに文学を教えることにはならない。表現者に限らず、なんびとであろうとも言葉をおろそかにできないのは理の当然である。しかしながら、ひとにとって言葉という概念はウィスキー同様、常に不周延なのである。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月09日 21:28 | 固定ページリンク





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