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一考 | 言葉の翳

 「某」の編集会議で「カツ」を入れられたと書かれてしまったが、そのことを弁護はしない。ただ、言い方がきつかったのであればいかようにもお詫び申し上げる。私自身が新字新仮名を遣っているので、大きなことを言える立場にはない。しかし、遣う遣わないは別にして、旧字旧仮名を知らないよりは知っていた方がよいに決まっている。そして、それを覚える機会は今では極端に寡なくなったと思う。
 新聞はともかく、単行の出版物は一挙に新字新仮名に変わったのではない。私が子供の頃はまだ新旧仮名遣いが混在してい、目にする機会が多かったのである。従って、新旧仮名遣いのどちらに対してもなんの抵抗もない。
 しかし、編集ということになればはなしは別で、特に旧漢字にかんしては辞書と首っ引きの日々が続いた。先項で書いたように、母型屋の数だけ異体字があって、辞書によってまったく異なるのである。範とすべき諸橋大漢和辞典が完結したのは昭和三十五年、同縮刷版の完結が昭和四十三年だったが、当時はそれらを購う金銭の余裕はなく、ようやっとバラで買い集めだしたのは昭和五十年代に入ってからであった。
 私がコーベブックスで編集に携っていた昭和四十年代後半は塚本邦雄の影響であろうか。猫も杓子も正漢字歴史的仮名遣いで、なかには正漢字歴史的仮名遣いをさっぱり解さないひとまでが、著書を正漢字歴史的仮名遣いで組んでくれと願い出るようなありさまだった。
 流行と思しい旧字旧仮名の氾濫に、反吐する気持ちにさせられたのを覚えている。一方で吉岡実さんのように、嫌な時代は思い出したくないとばかりに旧字旧仮名を抛りだしたひともいらした。吉岡さんの編著書「耕衣百句」を上梓した折は、実の字もこれからは略字にしてくれと頼まれた。ひとはさまざまな人生を送る、それをとやかく言う権利は私にはない、望まれるがままの書冊を造るのが編集者の務めである。

 さて、某の同人である。平井功の詩集を開板するに際し、小出昌洋さんや私が旧字旧仮名に直したのではみなさんにとってなんの勉強にもならない。漢和辞典には旧字が、国語辞典には旧仮名が併記されている。面倒だが、辞書を引きさえすれば解決するのである。それでなくても、校正とは一字一句を辞書で確認するものである。自らの語感で推しはかる、もしくは知っている文字だけを訂してなにが済むものでもない。これを機に旧字旧仮名に取りつく端緒にしていただきたいと願うのである。さらには、辞書を引くのが習性となるように願っている。ただし、辞書はあくまで辞書である、それは表層的な意味内容と用法の羅列でしかない。そこから逃げ去ってゆく言葉の翳のような部分をいかに補足して読み解くか、言い換えれば語釈をいかように手籠めにするかというところに文学の官能的なよろこびがある。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月11日 00:22 | 固定ページリンク





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