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一考 | 職工事情

 十五年ぶりに装丁をしようかと思って、あちらこちらに注文していた材料や見本が順次送られてきた。反物は見本の色調や手触りに応じて経糸がどうの緯糸がどうのと細かい指示を繰り返して、書物の表紙に相応しい布に仕上げてゆく。満足なものが出来上れば、黒谷へ送って楮紙で裏打ちするのである。丹波の麻糸や金沢の金箔、イギリスの板紙などは熟知しているので、発注通りでなんら問題は生じない。
 ところで、一部が届いたのはいいが本は造らないことになってしまった。今年の春に年内に造れと言われてお断りしたのである。年内に造らなければならない理由が気に入らなかったのだが、それはここでは書かない。原稿を提供する側の体面や面目にかかわる、あまりにも下らない個人的なはなしだからである。もっとも、既製品を用いて装丁するのなら年内に間に合ったかもしれないが、そのような安直な書冊を限定本として造ったことはない。これは当方の体面や面目と言っていえなくもない。しかし、蠧魚の絶好の餌になる絹糸や木綿糸は綴糸に用いたくないし、表紙のダンボール紙に国産の馬糞紙などは使いたくもない。限定本であるかぎり、ひとつひとつの材料は吟味されたものでなければ私としては困るのである。
 そこいらの限定本出版社が造る書物と似たものでよければ、そこいらの出版社に端から依頼すればよろしい。私に頼めば装丁材料の蒐集だけで二年は掛かる。
 造本も数物製本ではないので、ルリュールの心得のあるひとに頼むことになる。それでは飯の種にならないので、製本職人の都合に合わせて手のあいたときにお願いする。要するに、職人の好意に一方的に甘えるしか手立てがない。これにも一年ほど要する。
 印刷は活版で旧字旧仮名遣いを指定された。東京に二軒ある活版屋さんでは、旧字は半分ほどしか揃わない。福島、長野、淡路に残されている母型を取り寄せるしかない。これに下手すれば一年ほど費やすことになる。
 限定本を造る難儀については「南柯の夢」で書いたので繰り返さない。そして、造らないことになった以上、私の方から取りたてて言うべきことはなにもない。ただ、蒐集家、愛書家といわれるひとたちが、いかに書物に対して無知なのかを改めて知った。私を指名したのは神保町の某古書店だが、そちらの店主は過去拵えた私の書冊をあらかた知っている。にもかかわらず、一年でできると踏んだのであれば、限定本への会心はなきに等しい。
 かつて永田耕衣や吉岡実の著書を多く手掛けてきたが、頼んだのだからすべて委せる、と常に言われてきた。二年掛かろうが三年掛かろうが、苦言を呈せられたことは一度もなかった。それを想い起こすに、今回の結果はいささか残念である。私家版は受けないのを南柯書局の是としてきたのだが、それを崩したことが悔まれる。

 いい機会なので書いておきたいのだが、雪華社で某作家の著書を造った際、文選、植字、用紙、折り、帳合い、くるみ、箔押し、製函等々、印刷と製本にかかわる職人たちと出版を記念する会を催した。当然、著者からは参加を拒否された。作家や編集者が集う宴ならともかく、職工ごときと酒を酌み交わすのはご免被る、と言われたのである。私にとっては原稿も活字や紙や布クロス同様、素材のひとつである。それを納得しない著者の限定本を私は造らない。一冊の書物が日の目を見るにはじつに多くの職人の手をくぐる、それを知ってか知らいでか、「わたしの本」と言って憚らない御仁を私は表現者として容認しない。
 維新以降、西洋の文物を紹介し取り込むのが国是となった。それ故、本来なら文学の世界とは無縁な趣味人たちが翻訳者や大學人という立場を利用して権威権力を思うがままに行使してきた。一握の真摯な研究者や紹介者には迷惑なはなしだが、デペイズマンやオートマティスムがシュルレアリスムと誤解されるような邦である。技法や修辞法が文学と曲解されるようなお国柄であればこそ、創作も翻訳も押し並べて芸事でしかあり得ない。芸才に富む富まないを論議の対象とするようなひとたちを職工と呼ばずになんとする。



投稿者: 一考    日時: 2006年11月15日 21:39 | 固定ページリンク





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