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一考 | 地獄の季節

 世代という媒介概念は意味をなしませんが、時代という区分概念は有効なようです。小生も「ナジャ」を読んでブルトンにまんまと嵌められました。ところが、その次に読んだ「シュルレアリスム宣言」で腹が立ちました。無批判なフロイト受用と、高みと低み、昼と夜等々、境界線の引かれないものに無理矢理境界線を拵える「ブルトン流」二項対立、そんな詭弁は至高点(弁証法的統一)の必要性の証明にもなににもなりません。そして「シュルレアリスム宣言」以降の書冊など、ヴァレリーの二番煎じの出し物にしか過ぎないのです。あれは私が遭った最初の詐欺師でした。
 「除名」との概念それ自体が立派な権威主義なのです。また、ブルトンのフロイト受用同様、某大先生のブルトン受用を附和随行と言わずしてなんと呼べばよろしいのでしょうか。「無批判的な多読が人間の頭を空虚にするのは周知の事実である」とは寺田寅彦ですが、例え事実であるにせよ、そのような思慮のない表層的な箴言を書いていれば、わが国ではなんとなく物書き面ができるようです。まあ、ブルトンも、どこぞの大先生も、寺田寅彦もおつむの出来はどっこいどっこいだったと思います。
 マラルメやリラダンの翻訳を試みた鈴木信太郎や齋藤磯雄に限らないのですが、日本の翻訳家の多くは尻馬に乗って擬古文を遣います。この雅文にはひとつの落とし穴があって、擬古であればこそ現代文学にはそぐわないのです。仏領インドシナやアルジェリアで遣われていたスラングを駆使したジャン・ジュネやボリス・ヴィアン、またはアルトーやベケットに擬古文はどうあっても似合いません。
 「墓につばをかけろ」はヴィアンの代表作のひとつですが、この「墓」を萬葉語で「奥津城」とやられた日には興が醒めます。要するに、語の選択、語句の配置、文章の結構などによって翻訳の対象ならびに時代が著しく制限されるのである。彼らの翻訳の対象が象徴派に終始するのは、好みを通り越して、彼らの修辞法がもたらす必然の結果と言えます。
 私にいわせれば、鈴木信太郎も齋藤磯雄も、ほとんどの外国文学者は修辞法や美辞学のオーソリティー、より正確に申せば文壇プロパーであって、決して文学を生きてはいないのです。縁なき衆生が間違えて文学の世界へ彷徨い込んできたと思っています。
 それらインチキ商品を俗物として弾劾してやまなかったのがジャズ喫茶でした。先日、「容赦のない残酷な揺籃期」と書いたのは、きっと貴兄が相似をなして通過したであろうバンビーの地獄の季節を示唆したかったのです。



投稿者: 一考    日時: 2006年12月01日 22:32 | 固定ページリンク





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