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一考 | 文学論

 高遠弘美さんへ
 かくまで複雑かつ錯綜したものを知らないのですが、はじめて鮒寿司を食べたとき、知床のくさや風鮭とばを食べたときを思い出しました。確かに、調烹とはとんでもない文化だと思います。類推の標本のようなもので、想像力の飛翔以外なにもないと思うのです。
 掲示板で一度書いたことですが、昔、らんちゅうを飼っていました。先祖帰りと云って金魚の子の一割は鮒の子になります。そのままにしておくと、成長の早い鮒の稚魚が金魚を食ってしまい、池は鮒だけになってしまいます。要するに、人の手が加えられての存在なのです。プルーストやユイスマンスが金魚にこだわった理由が、またはデカダンスの骨法が金魚を飼うことによってはじめて実感として諒解できたのです。もっとも、池の主が金魚であろうが鮒であろうが、私の知ったことではないのです。でも、それを承知でどこまで意地を張るか、飼い主が自分なら喝采を送るのも落ちこむのも自分ひとり、生きるってそんなことですよねえ。
 外山さんではありませんが、恵比寿のガード下の貼り紙、立ち寄った喫茶店で泳ぐ一匹の金魚、笊のうえに並べられたちりめんじゃこを見詰めることによって、ひとは間違いなくどこかへ旅立ちます、なんの役にも立たない旅立ちですが。一方、いくら美しく盛り付けられた料理であっても、数分後には跡形もなく消え去ります、食い荒らされるまでの刹那の旅程。その食に費やされる時間が短ければみじかいほど、ネタを吟味し調理に途方もない手間ひまを掛けたくなる。これも一種の意地の張り方なのでしょうね。だって、材料の見定めや下拵えの段取りなど分かる客は万人にひとり、客が鮒であろうが金魚であろうが、そんなことはどちらでもいいのですよ。
 あなたの書き込みに秘められた「途方もない手間ひま」、そのあたりに「死を目前にした、定まらない揺蕩う残照」のようなもの、要ははにかみがあると思うのです。はなしがぶっ飛んでいますか。ものを著すのと割烹には似たところがあると思うのです。好奇心と無意味さとが手に手を取っての旅立ち、嘘のペーストで欠落した箇所を補い、さらに大風呂敷で包み、またその上を嘘のペーストで塗り固める。それが本命かと思いきや、一挙に「岡山の焼鳥」と化す。きっと、引っ込み思案で恥ずかしがり屋の駄目人間でなければ料理人にはなれないと思うのです。いわんや物書きに於ておや。
 感嘆措くあたわぬ書き込みに深謝、fraterniteを感じつつ。

追記。アラビア半島のアハダル山脈に栖む尾長猿は昆虫や鳥の卵をよく補食するそうです。年代不詳ですが、オマーンのマスカット港の闇市でマンキーソースが売られていたとの記録があり、フランスのオリエント学者アントアーヌ・ガランによれば、件の幼虫はイスラム教少数派のひとつイバード派の儀式に用いられたとか。また、タクヒール・ザビロフの云うところによればサイード・ブン・タイムールの好物であったそうな。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月05日 20:31 | 固定ページリンク





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