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一考 | 目の観念論

 外山時男さんへ
 浅蜊とシオフキですか、潮干狩の雰囲気になってきました。子供のころよく行った播麿の東二見の浜を思い出します。「浅蜊の身に隠れていたちいさな蟹」、あれは隠れていたのですか、私はてっきり補食されたものだと思っていました。だって、半ば消化済みの蟹をなんどか見掛けたものですから。子蛸やアジの稚魚と違って、なんとなくグロテスクな雰囲気を感じていたのです。
 ちりめんのなかに身をかがめた見馴れない魚たちからなにを読み取ろうとしたのか、今となっては定かでないのです。ただ、小・中学生のころは無性に淋しかったのです。当然ですが、他者や世間に責任があるのではなく、自らのへまや至らなさが心底いやになったのです。それからあとはグレてしまって女漬け、酒浸りの日々を送りました。東京で云うところのねりかんブルースを地でゆく荒れ模様の生活で、ずいぶんひとさまに迷惑を掛けました。蕎麦の世界は知りませんが、福原のような色町は渡りのごろつき職人ばかり、60年代の板前には八九三者が多く、間違いなく私もその片隅に籍を置いていたのです。もっとも、同じ神戸でも花隈の高級割烹には専門莫迦とでも称する他ない実に立派な板さんがいらっしゃいましたが。
 料理はさておき、私が述べたいのは十代前半の学生のころのはなしです。フィヒテやヘーゲルではありませんが、ひどい疎外感に悩まされていました。フィヒテが分かっていたのかなどと素見さないでくださいよ、あのころは必死だったのですから。そがいはそがいでも性格が背向だったのかも、などと今なら駄洒落のひとつも平気で出るのですが、当時は難儀致しました。ハイキングや旅行などの団体行動への不参加にはじまった駄々(っ子)イズムはやがてお定まりの登校拒否へと深化し、教科書を破り捨てての古本猟り。私のような間抜け面の半可通が世間さまが読むような書物を繙いてはいけない、手に取ってはならないとの強迫観念が古本の世界への誘いとなったのです。いまなお、「貧困小説集」や「陽のあたらない文学館」などと嘯いているのをみると、きっと反抗期がいまなお続いているのですね。
 はなしを戻します。ちりめんのなかの異物がひょっとして仲間はずれにされたさかなではなかったか、致し方なくカタクチイワシのなかに身をひそめていたのでなかったか、そんな宙ぶらりんを選択するしかなかった存在、さらに申せば、ひろい海にあって寄る辺のないものたちを囲ったのがイワシの稚魚たちだったとすれば・・・海のなかにはまだいのちへの愛が友情が残されているのではないか・・・そのような惚けたことを案えながら、肝心のちりめんに舌鼓を打っているのですからひどいはなしです。
 それにしても、「ひとつひとつの目が、『世間』みたいなものなのですか」とのご発言には参りました。「デオドラント」を据えて「泥鰌の場合は泥鰌自身が都会の異物なのでしょうか」と結論づける明解な論旨、加えるに非凡な着想と鋭い奇想が交錯する妙な味わいをあなたはお持ちです。例えば「ノートルダム寺院の屋根にくっつけられたガルグイユ・・・大宗教に囚われた八百万の神の趣」などは抱腹絶倒、あなたに食べ物のはなしを書かせる編輯者はいないのですかねえ。すこぶるユニークな随想集になると思うのですが。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月05日 01:25 | 固定ページリンク





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