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一考 | 白痴的アナーキスト

 2007年には団塊の世代の大量退職がある。民間企業は退職引当金を長年かけて積み立ててきたが、政府も自治体も公社もひっくるめて公務員にはそれがなにもない。信じられないほど深刻な問題なのだが、これまでだれも手をつけずにきた。郵政民営化を急ぐ理由のひとつであると同時に、公務員のまま退職を迎えたい人々にとってはなんとかして逃げ切りたい歳月なのである。その鬩ぎ合いを演じているのが今回の選挙である。
 全国の地方自治体も同じ問題を抱えている。国の後年度負担を信じて自治体が借りた金額が70兆円を超える。それに団塊の世代の退職金が加わっただけで多くの自治体は借金地獄に陥る。国も地方も「橋や道路を造って」どころでなくなるのである。
 この前の参院選挙で「一区現象」が起きた。民主党が都市部に落下傘候補を立て、多くの議員を誕生させた手法である。今回、小泉首相はその選挙手法を踏襲した。そうして選ばれた議員は従来のように政府と地元をつなぐ仕事はしなくなる。国会議員の意識が変わり、国政に専念するようになる。国会議員が国政のエキスパートになることによって、地域の政治家は地域の政治に責任を持たなければならないようになる。陳情能力ではなく、個々の政治家の政策能力が問われるようになるのである。臼杵市長の後藤国利氏はその間の消息を「小泉手法は分権に向けた頂門の一針だ」と看破する。今回の選挙に関してこれ以上的確な文言はないように思う。

 さて、私は小泉首相のファンでもなければ、自民党の支持者でもない。と言うよりは、自民党が大嫌いである。その自民党を内部から壊そうとしているひとがいる。最初は冗談だろうと思っていたのだが、やがてそうでないことに気づいた。だから一度ぐらいは自民党に投票してもいいと思ったのである。繰り返すが、私は自民党の崩壊に一票を行使するのであって、再生に一票を行使するのではない。民主党の内部から民主党を、共産党の内部から共産党を壊そうとするひとが現れたら、同じ理由で支持したい。
 上記のような書き方をしないとなにも通じないことに気付かされた。身内からすら、私が自民党のシンパであるかのごとく言われて愕かされた。あえて苦言を呈しておきたいが、文章というものは全体を読まないとなにごとも判断してはならない。断片を取上げてどうのこうのと言われるのは不愉快である。いわんや、その砕片を好き嫌いの定規で計られては堪ったものでない。当掲示板がツチノコの糞か海馬の涎かはともかくとして、理解を欲しての掲示板ではない、だからこそ、誤読は覚悟の上である。しかし、自民党の支持者であるかのごとく曲解されるといたたまれない。要は私の書き込みはなにひとつ読まれていないと言うことではないか。この件をこれ以上書くと繰り言になるのでやめる。
 前述したごとく、大方のひとは好き嫌いを判断の中心に置く。好き嫌いがないわけではないが、私は私自身の好悪を信じない。その理由は複雑なので稿を改める。私はプラトン主義者だが、それは弁証法的想像力に興味があるのであって、プラトンのいうイデアにはなんの興味も抱かれない。イデアが多姿性のものであれ、単姿性のものであれどうでもよく、また物の形や姿、形式や種類がいかようなものであれ、私は意に介さない。だから「美学」とか「高踏派」とか「様式」とか「ダンディスム」とか、固着したものや丸ごと捉えることを強いるようなものを遠ざける。分かりやすく例えれば、日夏耿之介や吉田一穂や伊東静雄や宮沢賢治などの作品にいかがわしさを覚えるのである。念のために言っておくが、不信感を抱くのと読書を楽しむのとはいささか領域が異なる。「いかがわしさを覚える」からといって必ずしも拒否し、否定しているわけではない。
 先日「理念や節操を持った人間を信用しない」と書いた。前項の「丸ごと」と「理念」は通底する。そして理念を必要とし、また内包せざるを得ないとの理由で国家、民族、宗教、国民、社会、家庭、伝統、自己同一性といった概念そのものに危機感を抱いている。サディスムとマゾヒスムの例を持ち出すまでもなく、フロイトは気ぜわしい二者択一や安直な弁証法的統一によって、二項対立のあいだの垣根をこともなげに跳び越えてしまう。異質性の立証ないしは自立や関係の多義性を考察するのではなく、二項対立を相互補足性、弁証法的単位性として捉える。その統一されてしまうことの怖ろしさを私は言っているのである。「理念」が「理念」の名のもとに個々の異質性や多義性を剥ぎ取り、掻っ攫ってきたのが人類の歴史である。歴史とは個の蹂躪の謂いであり、簒奪の繰り返しそのものではなかったか。私はいかなる理由においても拘束や束縛されるのは勘弁願いたいのである。私は弁証法のアンビギュイティの世界を心おきなく彷徨いたいと願っている。個に生きる人間にとって、国家や国民は厄災しかもたらさないのである。



投稿者: 一考    日時: 2005年08月29日 19:17 | 固定ページリンク





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