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一考 | 書き直し

 せっかく片づいたと思った原稿の書き直しを命じられた。私は才能の持ち合わせがないので、頻繁に突っ返される。今回の原稿は13回書き直した。だからこそ、編集者の許可が下りるまで何度でも書き直す。書き直すことによって、対象との距離の取りようが分かってくる。もしくは対象への理解が深まるのではないかと思っている。
 エッセイとは妙なもので、書き込めば書きこむほど、描いた対象のうちに書き手の気質のようなものが穿り刻まれていく。対象がなんであれ、それら相関者から書き手の内面が逆照射されるのである。手に負えない対象を相手にすれば書き手の至らなさが、コンプレックスの不在に立ち会えば、書き手の人目をはばかる劣等感や負い目が剥きだしにされてしまう。対象にかこつけて自らのことを著すのが文学であろうから、当然といえば当然である。しかし、そこにエッセイの妙味が、そして怖さがある。妙味とは対象に導かれて書き手がみずから関知しない新たなディメンションに到達してしまうことである。怖さの方の説明はいたって簡単で、自分の化けの皮が剥がされることであろうか。そのどちらであるにせよ、対象にかこつけて自らのニヒリズムを頓着なしに書き綴るしかない。
 繰り返しになるが、一篇の作家論を読んで対象たる作家が詰らないと思ったとき、詰らないのは書き手の方なのであって、決して俎上に載せられた作家ではない。逆に対象たる作家がきらきら輝くとき、光彩を放っているのはエッセイを著した側なのであって、こちらも俎上に載せられた作家ではない。「問われるのは切り口である」などとよく言われるのはそのあたりの消息を指している。なにを採択するかに問題があるのではなく、いかに料理するか、その調烹に力点が置かれねばならない。なぜなら、対象になにを取りあげるかは好悪の問題であり、それは「自由意志」のなせるわざに過ぎない、翻って調烹には書き手の気質がありのままに露されるのである。
 種村季弘さんは「時計」のなかで「時計=ユートピアに対する私たちの好き嫌いもまた、まさに自由意志のなせるわざなのである・・・それなら、いっそ自由意志のレンズを通して見ることをやめてしまえばどうなるか。そのとき時計なら時計は、時間計測器として私たちを拘束する悪しき機械でも、永久運動の模造物として恐怖と魅惑を同時に発生させる装置でもない、ただの無意味なオブジェとして、そこらにごろんと転がされ、しかもそうして無意味なオブジェと化した瞬間からいよいよ謎めいた表情を帯びはじめる・・・いまや自由意志を蝉脱して謎と化したオブジェとしてよみがえるのである」と著している。自由意志がもたらすものは「自由」に悖反するものであって、巧みにひとをあざむくものである、と種村季弘は示唆する。怖ろしい言葉である。
 で、前述の書き直しである。面白くないとの意見が返ってくるのは読んでいただけた証拠、もしくは期待をかけられた証拠である。忝く思っている。



投稿者: 一考    日時: 2005年08月13日 03:08 | 固定ページリンク





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