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一考 | 両義性

 moonさんへ
 励ましのメールを忝く読ませていただきました。私の悪しき癖で、ついつい、書いてはいけないことを書いてしまうのです。
 先日も常連の某作家の過去の女関係を客から聞かされ、「だからどうなのよ」と声を荒らげてしまいました。また某翻訳家の翻訳を、あれは昔に流行した作家で云々と註釈を入れられ、君とははなしが成り立たないと気色ばみました。誰が誰と付き合おうが、流行した作家であろうがなかろうが、私の知ったことではないのです。そのようなゴシップは文学とはなんのかかわりもないのであって、仮にゴシップを述べるのであれば、そのゴシップ自体がそのひとの文学観と交点を持つように抽象化されなければなりません。
 文学観であれ、歴史観であれ、世界観であれ、それらの外側にたって、対象的に眺め、理解しようとするのであれば、私は御免蒙ります。どのような見方をするにせよ、見るひと自身が世界を構成する一部分であり、世界観を形成する人間もまた現実の世界の動きに巻き込まれて存在するしかないのです。従って、自分自身の主体的なあり方、言い換えれば、文学観であれ、歴史観であれ、世界観であれ、それらの内側にたっての理解でなければ話にも何にもなりません。
 大体が、歴史と世界観などは両義的なものとして捉えなければどうにもならないではないですか。歴史的現実のなかから世界観が生まれるのですが、その世界観は常に歴史をつくりかえてゆくではありませんか、少なくとも歴史には事実とか真実といった客観性は存在しないのです。
 種村さんに時計とユートピアの両義性について考察した「時計」(『澁澤さん家で午後五時にお茶を』学研M文庫所収)と題するエッセイがあります。「幾何学的秩序の魅惑と同時に全体主義の恐怖が支配」するユートピアの二律背反は、城と牢獄の両義的関係についても成り立つ、と種村さんは予断します。「外敵を寄せつけない城は、囚人自身以外の何人も立ち入れない牢獄と同一のトポスに立っている。同じ場所が、主人にとっては城となり、奴隷や囚人にとっては牢獄となる」種村さんが注意を喚起しているのは、ものごとは一筋縄ではいかない、一義的な判断を下してはならないということです。
 先日「私は弁証法のアンビギュイティの世界を心おきなく彷徨いたいと願っている」と書きましたが、それは澁澤さんや種村さんを念頭に置いての文言です。文学は資料でも史料でもないのです。主体的・実践的契機として捉えなければ、どこまで行っても文学とは平行線なのではないでしょうか。間村俊一さんがとても素適な俳句をつくられました、無断掲載です。

 またしても弁証法的秋の暮れ



投稿者: 一考    日時: 2005年08月31日 20:26 | 固定ページリンク





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