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一考 | 弁証法の魔

 マゾヒスムに関するユニークな論攷として、ジル・ドゥルーズ『マゾッホとサド』(蓮實重彦訳)、河野多恵子『谷崎文学と肯定の欲望』、種村季弘『ザッヘル=マゾッホの世界』の三冊が七十年代に相ついで上梓された。ユニークと著した理由は、クラフト=エビングが論じたサディスムとマゾヒスムの相互補足性、弁証法的単位性を不当として否定した点にある。クラフト=エビングの著書が狹隘な諸前提のうえに成立したひとりよがりの心理類型学の典型であったにもかかわらず、これら三冊の書物が現れるまでは疑いを持たれずにきたのである。その内、ドゥルーズと河野多恵子の著書に関しては宇野邦一さんがエッセイを著されている。ぜひお読みいただきたい。
 ウィーンの精神医の『性の心理学』の公刊が一八八六年、ドゥルーズの原著の公刊が一九六七年である。実に八十年の間、サディスムとマゾヒスムは並置の接続詞「と」によって無批判なまま、一種の依存関係に置かれてきた。その依存関係への反論としてドゥルーズはひとつの艶笑談を紹介している。某所でマゾヒストがサディストと出会う、千載一遇のチャンスとばかりにからだを痛めつけてくれと願うのだが、サディストは取り合わない。生贄に快感を感じられてしまっては、サディストとしての立場がなくなる。鞭を振るう側もふるわれる側も、共にマゾヒスムの世界の住人でなければ困るのであって、どこまでいこうがサディスムの世界とは無縁なのである。
 サディスムとマゾヒスムの問題に関して、クラフト=エビングもフロイトも気ぜわしい二者択一や安直な弁証法的統一によって、二項対立のあいだの垣根をこともなげに跳び越えてしまう。二項対立にあって大切なのは、双方の異質性や多義性を知ることであると先日書いた。サディスムとマゾヒスムにあって、性徴と性格はことごとく一致しない。従って、それらが対置されるに至った条件、主と従、または支配と服従の関係を明らかにし、それからの解放を導くための二項対立でなければならない。ところが、クラフト=エビングもフロイトもふたつの異なる概念を一枚のコインの裏表であるかのように錯覚してしまう。そのような虚構に迷い込ませてしまうところに二項対立の危うさがある。いわば、弁証法の魔のような隙間にクラフト=エビングもフロイトも陥ったのである。
 ドゥルーズと種村さんの著書がクラフト=エビングの「サディスム=マゾヒスム」とのどんぶり勘定に鉄槌を下したと書けば手数はかからないが、はなしはそれで終わらない。二元論的対立を肯うがごとき身振りを演じながら、徐々に視点をずらせていく、その転移もしくは転位によって、二元論がもたらす虚構が、また不毛が赤裸々にされていく。ドゥルーズの著書にあっては、そうした志向的内在が、並置されたそれぞれの項目の自立をうながしていく。雨後の筍のようにひしめきあう二項対立、ありとある弁証法が仲良くあるいは仲悪しく共存するなかにあって、それら全体を蓋う球形の宇宙のようなものが、やがて立ち顕われる。否定するでもなく肯定するでもなく、二項対立をまるごと呑み込んでしまう開かれた場、開かれた言語にあって、乾枯した殻を脱ぎ捨てて解放された個々の項目は独自の問題を提起する。その辺りの消息はこと細かく書かない、書物を直接読んでいただきたいからである。
 ここで書いておきたいのは、種村さんは『ザッヘル=マゾッホの世界』(平凡社ライブラリー)を著すに際し、先行するドゥルーズの著書から多くを負っているということである。言語体験としての世界体験、離郷体験や流浪がもたらす未決の宙づり状態、あるいは生きかたそれ自体が一種のだまし絵であるかのようなマゾッホの演劇性等々である。「サドにスピノザ思想が、推論的理性があるとするなら、マゾッホにはプラトン主義が、弁証法的想像力がある」とはドゥルーズの卓見だが、そのドゥルーズと種村さんとのあいだには、「イデアを拒否する変則的プラトン主義」との共通項がある。「白痴的アナーキスト」でも触れたのだが、洋の東西を隔てて同時期に、畸型や倒錯の内部に身をひそめながら二項対立からの遁走を試みたところに、ひとつの時代の要請を感じるのである。

 種村さんに関するエッセイを書くに際して、頭を離れなかったのは二元論である。二元論でも、二項対立でも、葛藤でも一向に構いはしないが、ひとがものごとを考えるときに二元論なしではほとんど不可能に近い。ヘルメスやトリックスターについて考えるときにも、遁れようと思っても二元論からは遁れられない。その二元論からの解放を試みた最初の作家が澁澤龍彦であり、種村季弘でなかったかと思い続けてきた。歴史と社会の存続の基盤である二元論的思考の拒絶はひとをアナーキーな場へ誘う。そのアナーキズムの有りようが、澁澤龍彦と種村季弘ではずいぶん異なる。その差違を的確に言い表せないものかとずっと考えてきたのである。書いては消し、書いては消しを繰り返し、なんとか二十枚に纏めた。当書き込みはその折の反故の一部に手を加えたもの。



投稿者: 一考    日時: 2005年09月05日 19:24 | 固定ページリンク





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