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2004年07月 アーカイブ

高遠弘美 | 縮緬雑魚

一考様

篤学の一考さんに、今更こんなことを申すのも詰まらぬことですが、日本国語大辞典第二版には、
「縮緬雑魚」ちりめんざこ、ちりめんじゃこの二項目が挙がつてゐて、「カタクチイワシの稚魚を煮て干したもの。ちりめんじゃこ。ちりめんぼし」「季語・春」と書かれた後に、俳諧七車集(1694か)の「半月は江口の里に船留て」といふ尺艸に附けた、横九の「縮緬雑魚に覆ふ夏草」が引かれてゐます。また「物類称呼」(1775)に「いさざ、俗に、ちりめんざこ、といふは此魚の乾たる物也」や、鏡花の「高野聖」(1900)の例もあります。あるいは、また、咄本・咲顔福の門の例も引用されてをりました。愛媛では「ちめんじゃこ」といふとも。
これらは今回一考さんの仰言つてをられる「ちりめん山椒」とは違ふものでせうね。
余計なおしやべりをいたしました。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月01日 00:10 | 固定ページリンク




一考 | 平井呈一のことなど

 高遠弘美さんへ
 迷惑をお掛けし、申し訳ございません。足穂の件はどうかよろしくお願い致します。このところ文学以外の書物ばかり作っているので、あのような企画を突然持ち込まれて困っておりました。〆切は8月に延びたようですね。
 『ゴシック名訳集成』には平井呈一さんの訳が多く収録されてい、牧神社時代を思い出しました。ところで、平井さんは死ぬ日まで訳稿を推敲しつづけていらっしゃいました。おとらんと城綺譚、マッケン作品集成、ラブクラフト、私の机書だったダウスンのディレンマやこわい話・気味のわるい話等々、真っ赤に朱を入れた自筆訂正本をやまのように見せていただきました。重版がでるときはこれを使いたいと目を輝かせていらした、あれらの書物はどこへ行ってしまったのでしょうか。吉田さん(奥方)は二年ほど前に老人ホームで亡くなられました。娘さんが保管なさっていればよろしいのですが・・・心配です。某編輯者から平井さんのことを書けと命じられているのですが、事情があってまだ果たせずにいます。「世間をわざわざ狭くして生きている」との叱責を受けるのですが、それが性格なら致し方ございません。
 ご指摘の俳諧七車集はさっそく調べてみます。芭蕉、蘭更、丈草には結構な句があったのですが。いづれにせよ、常に貴重なご指摘ご教示にあずかり恐縮いたしております。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月01日 04:28 | 固定ページリンク




一考 | ちりめん山椒つづき

 ちりめん山椒の貴重なレシピがはいりました。京都の西方嵐山(らんざん)で最も有名な割烹と申せばどなたにもお分かりでしょう、当然屋号は伏せさせていただきます。
 
 ちりめんじゃこ1キロに水4合と酒6合を沸かして灰汁取り。
 あとのレシピは以下のごとし。
 濃口醤油 1.4合
 たまり醤油 0.4合
 砂糖 200グラム
 有馬山椒 150グラム
 水飴 0.2合

 私の方式だと20分ほどで出来上りますが、こちらの方式だと1時間半は掛かります。それと最初に入れる水と酒をそのまま使うので、やや臭みが残るかもしれません。その分、高級なじゃこを用いればよろしいわけです。先々代の板長と親しかったものですから、ご教示いただきました。京都のちりめん山椒を代表する作り方と解釈していただいて結構です。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月01日 04:30 | 固定ページリンク




一考 | ちりめんと異物

 このところ、かなりの種類のちりめんじゃこを食べている。それらのなかからお気に入りを紹介しておきたい。河出書房の紹介で知った中原水産がそれで、淡路で海産物製造卸を営んでいる。住所は兵庫県洲本市炬口1-1-44、郵便番号は656-0011、電話0799-22-1406、ファクシミリ0799-22-2683、炬口はタケノクチと読む。淡路の地名の読みは濁音に間違いが多い。地震で有名になった南淡町は当時の新聞や週刊誌ではナンダンと読ませていたが、字限図、地籍図では共にナンタンである。私が育った福原は土地台帳ではフクハラだが、古老を除き、ほとんどのひとはフクワラと発音する。これは東京の吉原も同じである。
 余談はさておき、中原水産のちりめんには廉いものと高いものの二種類がある。この違いは天日干しか否かによるのがほとんどだが、中原水産の場合は大きさを揃えることと掃除にあるらしい。子供のころのちりめんじゃこには子蛸や子烏賊、またイワシ以外の稚魚がよく紛れ込んでいた。私はそれらの異物が好きで、大事に取り置き、最後に食べたものである。アジ、ママカリ、カレイの稚魚などは特に宝物のようなもので、それが当たった日など、一日中機嫌がよかったのを覚えている。ひとはどのような環境下、閉塞された場にあっても夢を抱く、ちりめんに紛れ込んだ異物になにを響影させようとしたのか、すくなくともそこには「おいら、ひとり横むいたオットセイ」のような孤独な存在があった。私がなぜ、ちりめん山椒に惹かれ、ちりめんじゃこにこだわるのか、理由はそのあたりにありそうな気がする。
 もっとも、そんなことを述べていては美味いちりめん山椒は作られない。中原水産の高い方のちりめんはグラム340円、お薦めである。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月01日 19:43 | 固定ページリンク




高遠弘美 | しばしば書き込みをして申し訳ありません

一考様

もう十五、六年になりませうか。わたくしが愛読してゐる本のひとつに、三橋淳『世界の食用昆虫』といふ本があります。『悪食大全』の後書きや、ユリイカの「昆虫の博物誌」などのときにも引いた書名なので、ご記憶にあるかと思いますが、食べたことはなけれど、わたくしが最も感動したレシピを紹介いたします。文化の根本といふのはここにあると思ひました。

世界のある国の人々の料理を紹介した部分です。以下引用。

彼らは尾長猿を殺して、腹を割いて腸を取り出し、体腔にシトルスヒストリックスという柑橘の葉やそのほかハーブをつめて、切り口を縫い合わせる。それから彼らは白蟻の巣を探しにゆき、巣を切って、その中味でペーストをつくり、それを猿の体に塗って、完全に覆ってしまう。
このようにした猿を、木の枝に吊し、その下に皿を置いておくと、液体がしたたり落ちて皿に集まる。これはマンキーソースとして珍重されており、美味であるという。一週間か二週間そのままにしておくと、今度は皿に蛆が落ち始める。これは多分、肉蠅の幼虫であると思われる。この蛆がもう落ちてこなくなったとき、猿を木からおろして切り開くと、通常二ないし三匹の甲虫の幼虫と思われる大きな虫がみつかる。次に彼らは、ココナツの実を集め、熱し、殻に穴をあけ、中の液が冷えてから、一個のココナツに一匹ずつその甲虫の幼虫を入れ、穴を白蟻の巣のペーストでふさぐ。ココナツはさらに布で包まれ、またその上にペーストが塗られる。そしてさらに三週間くらい放置したあと、殻を割ると、蜜柑くらいの大きさにふくれあがった幼虫が出てくる。この幼虫は非常にうまいものとして、特別な儀式の際に食べられるという。


如何でせうか。 一考様

もう十五、六年になりませうか。わたくしが愛読してゐる本のひとつに、三橋淳『世界の食用昆虫』といふ本があります。『悪食大全』の後書きや、ユリイカの「昆虫の博物誌」などのときにも引いた書名なので、ご記憶にあるかと思いますが、食べたことはなけれど、わたくしが最も感動したレシピを紹介いたします。文化の根本といふのはここにあると思ひました。

世界のある国の人々の料理を紹介した部分です。以下引用。

彼らは尾長猿を殺して、腹を割いて腸を取り出し、体腔にシトルスヒストリックスという柑橘の葉やそのほかハーブをつめて、切り口を縫い合わせる。それから彼らは白蟻の巣を探しにゆき、巣を切って、その中味でペーストをつくり、それを猿の体に塗って、完全に覆ってしまう。
このようにした猿を、木の枝に吊し、その下に皿を置いておくと、液体がしたたり落ちて皿に集まる。これはマンキーソースとして珍重されており、美味であるという。一週間か二週間そのままにしておくと、今度は皿に蛆が落ち始める。これは多分、肉蠅の幼虫であると思われる。この蛆がもう落ちてこなくなったとき、猿を木からおろして切り開くと、通常二ないし三匹の甲虫の幼虫と思われる大きな虫がみつかる。次に彼らは、ココナツの実を集め、熱し、殻に穴をあけ、中の液が冷えてから、一個のココナツに一匹ずつその甲虫の幼虫を入れ、穴を白蟻の巣のペーストでふさぐ。ココナツはさらに布で包まれ、またその上にペーストが塗られる。そしてさらに三週間くらい放置したあと、殻を割ると、蜜柑くらいの大きさにふくれあがった幼虫が出てくる。この幼虫は非常にうまいものとして、特別な儀式の際に食べられるという。


如何でせうか。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月01日 23:37 | 固定ページリンク




外山時男 | 泥鰌とちりめん

一考さま

 忘れていました。わたしの店の入っているビルはもともとは泥鰌屋だったのでした。昭和初期の四階建てです。四階の端にはいまも粗末な畳敷きの部屋が残っていて、板を打ち付けた壁に裸電球がひとつ。四畳半のわりには大きな下足の棚があります。従業員がかわるがわる階段をのぼってそこで休んだのではないかと勝手に想像しています。ご存知でしょうが八重洲富士屋ホテルの裏はむかしは青果市場で、近くには「大根河岸跡」なんて碑も立っています。泥鰌屋があっても不思議ではありません。当時としては立派なビルだと思いますから、よほどはやっていたのでしょう。いまはお化けが出そうですが。
 友人の「江戸っ子」たちに限っていえば、彼らに選民意識があるとはとても思えません。そのうちのひとりに泥鰌について尋ねてみたところ、浅草では昭和三十年代中ごろまでは「泥鰌売り」がやってきて家で味噌汁にして食べていたとか。見なくなったのは、第一にはたぶん近隣の田園で泥鰌が売るほどには採れなくなったからでしょう。これには農薬の影響があるかもしれません。それとやっぱりあの姿。洗濯機や冷蔵庫など生活が電化され日常に「清潔さ」が増すにつれ、ああいうヌルヌルしてなまなましいものはだんだん駆逐されていったと見るのが妥当かと思います。なにしろ都会生活はどんどんデオドラントになって、いまや魚は生き物ではないみたい。
 一考さんのご質問の趣旨とははなれてしまいました。
 泥鰌とちりめんじゃことが結びついていたとは想像もしていませんでした。反復反復のちりめんじゃこにまぎれた異物がモンダイなのなら、泥鰌の場合は泥鰌自身が都会の異物なのでしょうか。
 味噌汁の浅蜊に1個まじったシオフキだとか、浅蜊の身に隠れていたちいさな蟹だとかを見つけたときは妙に嬉しかったものです。ただこの嬉しさの感覚は一考さんの仰る「ひとり横むいたオットセイ」とはすこし違うような気がいたします。
 泥鰌と蕎麦とはきっとどこかで似ています。
 ちりめんじゃこにはその一匹いっぴきに目がついているのが印象的です。
 一考さんにとってのちりめんじゃことは、安部公房の「砂」みたいなものなのですか?
 ひとつひとつの目が、「世間」みたいなものなのですか?



投稿者: 外山時男    日時: 2004年07月02日 04:00 | 固定ページリンク




一考 | 新潟麦酒

贔屓にしている新潟麦酒がホームページを設けました。プレミアムエール・エディンバラはお薦め、ぜひご購入ください。
http://www.niigatabeer.jp/



投稿者: 一考    日時: 2004年07月02日 07:58 | 固定ページリンク




一考 | 注文です

 やまいちの山田さんへ
 こちらこそご無沙汰致しております。白生にごりもそうですが、新潟麦酒のエディンバラ、ゴールデン・エディンバラ、エール・ド・ブルーベリーの3種類を置いて下されば、これからはやまいちで購入します。それとイギリス・マンチェスターのパブエール「バディントンズ」も欲しいのですが、こちらは値段次第です。ウィット・ブレッド社のドラフト・ビールで、10年位前は大阪の重松が輸入していました。しばらく扱うインポーターがなかったのですが、2年前に六本木の某社が半年前からは池袋の某社が扱っています。目白の田中屋さんには常備されています。貴社で取り寄せが可能なら、仕入れが楽になります。返事はメールで結構です、どうかよろしく。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月02日 08:29 | 固定ページリンク




一考 | 縮緬山椒まだつづきます

 土曜日に京都の錦市場から冷凍の実山椒が到着。既製品の香味がいまいちなので、たまり醤油を用いない有馬山椒を作ろうと思ったのです。まず、掃除が一仕事、次いでふっくらさせるために湯掻いてから蒸すのですが、時間がないので電子レンジを使いました。おそらく月曜日にはそれなりのものが出来上っていると期待しています。
 せっかくの生の実山椒ですから、その状態でのちりめん山椒も作りました。ちょっと山椒がきついかとも思われますが、色彩はあざやか、いい照りが出て、写真撮影には最適のものになりました。ただし、こちらは一時間半はゆうに掛かりました。
 郡司正勝さんの口癖は「ぐんぐんよくなる郡司正勝」だったのですが、ですぺらのちりめん山椒もぐんぐん良くなっています。かかる機会を与えてくださった「料理王国」に感謝。撮影は水曜日ですが、問題なくクリアできそうです。掲示板で与太を飛ばしたおかげで、原稿の方も一日に済ませました。外山さん、高遠さん、そして何時ものことながら管理人の櫻井さんに感謝致します。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月05日 01:23 | 固定ページリンク




一考 | 目の観念論

 外山時男さんへ
 浅蜊とシオフキですか、潮干狩の雰囲気になってきました。子供のころよく行った播麿の東二見の浜を思い出します。「浅蜊の身に隠れていたちいさな蟹」、あれは隠れていたのですか、私はてっきり補食されたものだと思っていました。だって、半ば消化済みの蟹をなんどか見掛けたものですから。子蛸やアジの稚魚と違って、なんとなくグロテスクな雰囲気を感じていたのです。
 ちりめんのなかに身をかがめた見馴れない魚たちからなにを読み取ろうとしたのか、今となっては定かでないのです。ただ、小・中学生のころは無性に淋しかったのです。当然ですが、他者や世間に責任があるのではなく、自らのへまや至らなさが心底いやになったのです。それからあとはグレてしまって女漬け、酒浸りの日々を送りました。東京で云うところのねりかんブルースを地でゆく荒れ模様の生活で、ずいぶんひとさまに迷惑を掛けました。蕎麦の世界は知りませんが、福原のような色町は渡りのごろつき職人ばかり、60年代の板前には八九三者が多く、間違いなく私もその片隅に籍を置いていたのです。もっとも、同じ神戸でも花隈の高級割烹には専門莫迦とでも称する他ない実に立派な板さんがいらっしゃいましたが。
 料理はさておき、私が述べたいのは十代前半の学生のころのはなしです。フィヒテやヘーゲルではありませんが、ひどい疎外感に悩まされていました。フィヒテが分かっていたのかなどと素見さないでくださいよ、あのころは必死だったのですから。そがいはそがいでも性格が背向だったのかも、などと今なら駄洒落のひとつも平気で出るのですが、当時は難儀致しました。ハイキングや旅行などの団体行動への不参加にはじまった駄々(っ子)イズムはやがてお定まりの登校拒否へと深化し、教科書を破り捨てての古本猟り。私のような間抜け面の半可通が世間さまが読むような書物を繙いてはいけない、手に取ってはならないとの強迫観念が古本の世界への誘いとなったのです。いまなお、「貧困小説集」や「陽のあたらない文学館」などと嘯いているのをみると、きっと反抗期がいまなお続いているのですね。
 はなしを戻します。ちりめんのなかの異物がひょっとして仲間はずれにされたさかなではなかったか、致し方なくカタクチイワシのなかに身をひそめていたのでなかったか、そんな宙ぶらりんを選択するしかなかった存在、さらに申せば、ひろい海にあって寄る辺のないものたちを囲ったのがイワシの稚魚たちだったとすれば・・・海のなかにはまだいのちへの愛が友情が残されているのではないか・・・そのような惚けたことを案えながら、肝心のちりめんに舌鼓を打っているのですからひどいはなしです。
 それにしても、「ひとつひとつの目が、『世間』みたいなものなのですか」とのご発言には参りました。「デオドラント」を据えて「泥鰌の場合は泥鰌自身が都会の異物なのでしょうか」と結論づける明解な論旨、加えるに非凡な着想と鋭い奇想が交錯する妙な味わいをあなたはお持ちです。例えば「ノートルダム寺院の屋根にくっつけられたガルグイユ・・・大宗教に囚われた八百万の神の趣」などは抱腹絶倒、あなたに食べ物のはなしを書かせる編輯者はいないのですかねえ。すこぶるユニークな随想集になると思うのですが。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月05日 01:25 | 固定ページリンク




外山時男 | ピンノ

一考さま

 二枚貝の中にいる蟹は「ピンノ」と呼ばれる種類だそうです。「半ば消化済み」に見えたのはおそらくメスのピンノと思われます。メスは二枚貝へ入ったあとは二度と外へ出ずに暮らすので、オスよりいっそうぶよぶよしているとか。または、そこで生涯を終えて溶けかけたピンノだったのかもしれません。
 蟹で思い出しました。
 夏の数日は館山の友人宅へ行って磯遊びをするのですが、あるときそこへ向かう途中の高速を降りて国道へ入ったあたりの左手に、大衆蟹料理店『蟹工船』の巨大な看板が立ちました。これにはたまげました。
 戦後世代もいいところの私にとってさえ「蟹工船」と言えば築地警察の取調べ室なのに、なんじゃこりゃあ。
 先年、築地警察はなんの批判もなくあっという間に建て替えられてしまいましたが、これも東京の無味無臭化の一環なのでしょう。 



投稿者: 外山時男    日時: 2004年07月05日 17:15 | 固定ページリンク




一考 | 文学論

 高遠弘美さんへ
 かくまで複雑かつ錯綜したものを知らないのですが、はじめて鮒寿司を食べたとき、知床のくさや風鮭とばを食べたときを思い出しました。確かに、調烹とはとんでもない文化だと思います。類推の標本のようなもので、想像力の飛翔以外なにもないと思うのです。
 掲示板で一度書いたことですが、昔、らんちゅうを飼っていました。先祖帰りと云って金魚の子の一割は鮒の子になります。そのままにしておくと、成長の早い鮒の稚魚が金魚を食ってしまい、池は鮒だけになってしまいます。要するに、人の手が加えられての存在なのです。プルーストやユイスマンスが金魚にこだわった理由が、またはデカダンスの骨法が金魚を飼うことによってはじめて実感として諒解できたのです。もっとも、池の主が金魚であろうが鮒であろうが、私の知ったことではないのです。でも、それを承知でどこまで意地を張るか、飼い主が自分なら喝采を送るのも落ちこむのも自分ひとり、生きるってそんなことですよねえ。
 外山さんではありませんが、恵比寿のガード下の貼り紙、立ち寄った喫茶店で泳ぐ一匹の金魚、笊のうえに並べられたちりめんじゃこを見詰めることによって、ひとは間違いなくどこかへ旅立ちます、なんの役にも立たない旅立ちですが。一方、いくら美しく盛り付けられた料理であっても、数分後には跡形もなく消え去ります、食い荒らされるまでの刹那の旅程。その食に費やされる時間が短ければみじかいほど、ネタを吟味し調理に途方もない手間ひまを掛けたくなる。これも一種の意地の張り方なのでしょうね。だって、材料の見定めや下拵えの段取りなど分かる客は万人にひとり、客が鮒であろうが金魚であろうが、そんなことはどちらでもいいのですよ。
 あなたの書き込みに秘められた「途方もない手間ひま」、そのあたりに「死を目前にした、定まらない揺蕩う残照」のようなもの、要ははにかみがあると思うのです。はなしがぶっ飛んでいますか。ものを著すのと割烹には似たところがあると思うのです。好奇心と無意味さとが手に手を取っての旅立ち、嘘のペーストで欠落した箇所を補い、さらに大風呂敷で包み、またその上を嘘のペーストで塗り固める。それが本命かと思いきや、一挙に「岡山の焼鳥」と化す。きっと、引っ込み思案で恥ずかしがり屋の駄目人間でなければ料理人にはなれないと思うのです。いわんや物書きに於ておや。
 感嘆措くあたわぬ書き込みに深謝、fraterniteを感じつつ。

追記。アラビア半島のアハダル山脈に栖む尾長猿は昆虫や鳥の卵をよく補食するそうです。年代不詳ですが、オマーンのマスカット港の闇市でマンキーソースが売られていたとの記録があり、フランスのオリエント学者アントアーヌ・ガランによれば、件の幼虫はイスラム教少数派のひとつイバード派の儀式に用いられたとか。また、タクヒール・ザビロフの云うところによればサイード・ブン・タイムールの好物であったそうな。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月05日 20:31 | 固定ページリンク




一考 | きんたまが西瓜

 外山時男さま
 小林多喜二は大館の没落農家の生まれ、館山とは一字違いですから、それもなにかの縁。築地警察で下腹部に30数本の釘を打ち込まれての拷問死、きんたまが西瓜ほどに腫れ上がっていたそうな。「蟹工船」の看板料理はまさか蟹の釘刺しではありますまいね。こんなことを書けば慎みに欠けます。「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」から「右翼的偏向の諸問題」までよく読ませていただきました。文学といえばプロレタリア文学、マルクスを挟んで実存主義とプロレタリア文学が共存していました。共存というよりも、ほとんど同じものだったのです。
 ピンノの「メスは二枚貝へ入ったあとは二度と外へ出ずに暮らす」とか、ご教示ありがとうございます。まるで、フランスの作家マルセル・シュオブのような存在ですね。夭折したのですが、病弱のシュオブは生涯部屋を出ることはなかったそうです。だからでしょうか、海にあこがれ、海賊の研究をよくしています。現実の海も仮想の海もそう変わるものではなく、「表現者はいざりになるしかなく、生活に未練を持つあいだはものは書けないよ」これは種村季弘さんの弁です。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月05日 21:30 | 固定ページリンク




一考 | 泥鰌御礼

 さきほど、龜鳴屋の勝井さんより小包到着。なかを開けてびっくり、泥鰌の蒲焼でございました。勝井さん曰く「泥鰌といえば、金沢では蒲焼」お見逸れいたしました。お見逸れついでに、お手紙の一節を無断で紹介させていただきます。
 「金沢で一番おいしい泥鰌の蒲焼を焼いていた水野商店が数年前に店じまいし、以来まったく口にしていなかったのですが、掲示板のやり取りに、なにやら辛抱たまらなくなり、いろいろお店をあたられた」との由。「市内で泥鰌を専門で焼いているのは三軒、そのうちの浅田どじょう蒲焼店に目星をつけたところ、悪くない」らしく、「えらくギュッと串に縮めて刺してあるものの、小骨の小気味いい歯ざわりも焦げた苦味も舌によし。これならばと、泥鰌談議にひと味添えるべく」ご送付くださったとか。ちなみに、泥鰌は小形なるも、しっかりと旬の子持ち、農薬の薬味が含まれない芳ばしさ、とびきりの甜味でございます。
 持つべきは友、書くべきは食したきもの、もの欲しげな趣を顕に、遠慮なくひとに甘え、無心し、ひとを強請る。「売るのは媚、買うのは顰蹙」これぞわが人生の極意。もっとも、さんざんに為呆けた人生ですが。
 勝井さん、どうもありがとうございます。金沢か東京か、いずれであれ、徹宵痛飲の日を鶴首して待っております。

追記。ですぺらへ養子に参りし幻の猫十五匹、各々無事に里親が決まりました。当地の動物愛護協会からも感謝状を頂戴。ついては仔猫をあと十匹お送りくだされたく、どうかよろしくお願いいたします。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月05日 23:20 | 固定ページリンク




高遠弘美 | 続いて

一考様


たまたまプロバイダーのサーバーがダウンしたせいで、一日インターネットに繋ぐことができず御礼が遅くなりました。

「文学論」一々首肯しつつ拝読しました。最後の「追記」にも大笑ひし、ジャックの死を知って以来、このところ鬱いでゐた気が晴れました。「マンキーソース」を他の箇所でみたことがなかつたので、十九世紀ラルース的「博識」にも通じる一考さんの愛すべき悪戯心と思はれなくもなく、それはそれで、と言ひますか、わたくしの気鬱ぎを敏感に察してくださつた一考さんの優しい思ひやりに窃かに涙した次第です。
さて、『世界の食用昆虫』はわたくしの座右の書ですが、前回ご紹介したものほど複雑怪奇ではなく、ごく単純ですが、わたくしの蒙をひらいてくれた箇所から二つだけ紹介しておきませう。だし、前回同様、カタカナ部分は漢字等に変へてあります。

【蚊】蚊は一般に知られているようにか細い昆虫である。これを食べるだけ集めるのは大変な仕事であろう。その蚊の目玉を集めて食べるという料理がある。いちいち蚊から目玉をくりぬいていたのでは、とても食べられるだけ集まらない。そこで、蚊の多いところで蝙蝠をつかまえ、腹を割く。腸の中で、蚊の目玉だけがこなれが悪くて残っているので、これを取り出して食べるのである。これは味よりも舌触りや歯で噛んだときの感触を楽しむものである。

蜻蛉の胸の筋肉などはほれぼれするほど美しい。残酷な話であるが、蜻蛉の翅を左右に引っ張ると、胸の真ん中がさけて、縦に並んだ筋肉が露出する。(略)活溌な運動を司る筋肉には赤身が多い。たとえば素早く逃げ回る雄のごきぶりの肢の筋肉は赤色筋である。(略)ごきぶりの後肢基節や腿節の、外皮をはがしてみると、食欲をそそるようなきれいなもも肉が現れる。顕微鏡で拡大してみれば、十分鶏のもも肉に比肩しうる様相を呈している(鶏肉のもも肉とごきぶりのもも肉の、相似た拡大写真あり)。もし、ごきぶりを鶏くらいの大きさにすることができれば、ブロイラーとして十分役立てることができよう。

ちなみに、著者の三橋氏は、東大農学部出身の農学博士。日本農学賞、読売農学賞などを受賞した昆虫学者。同書の最終章は、食糧供給の悪化対策から「未来食としての昆虫」となつてゐます。

追記
わたくしの分の「猫」もお願ひいたしますね。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月06日 23:08 | 固定ページリンク




一考 | ちりめんと異物決定稿

 ちりめんと異物

 縮緬山椒のちりめんはカタクチイワシのしらす(稚魚の意)干しを指し、白簀乾とも宛てる。関西ではちりめんざこ、ちりめんぼしとも云ったが、松山から丸亀にかけての呼称、ちりめんじゃこが普及した。
 金沢のへしこ、福岡のイワシのちり鍋、長崎のイワシ餅、香川のいりこ飯、紀州の貝塚煮等々、イワシにまつわる郷土料理は多いが、大磯のたたみいわしと京都の縮緬山椒は特段の扱いを受けるようになった。とりわけ、縮緬山椒は瀬戸内の漁師料理の枠を飛び越え、いまや京都を代表するブランドのひとつともなった。出世につれてちりめんフリークと称するひとたちが現れ、どこそこの縮緬山椒がどうのこうのと、喧しいかぎりである。
 静岡の舞阪、紀州の下津、広島の音戸、淡路の南淡から津名、阿波の和田島、大分の佐伯、鹿児島の川内等々、ちりめんじゃこの産地には事欠かない。また、縮緬山椒はもともとは賄い、家庭で自分好みの味わいを娯しむには打ってつけの調烹である。実山椒や有馬山椒を買ってきて、気楽にチャレンジして頂きたい。
 廉いものから高価なものまで、さまざまなちりめんじゃこがある。その違いは天日干しか否か、もしくは掃除が行き届いているかどうかである。私が子供の頃には天日干ししかなかったが、掃除となるとはなはだ心許なかった。当時のちりめんじゃこには子蛸や子烏賊、またはイワシ以外の稚魚が紛れ込んでいた。私はそれらの異物が好きで、大事に取り置き、最後に頂戴するのを常とした。アジ、ママカリ、カレイの稚魚などは特に宝物のようなもので、それが当たった日など、一日中機嫌がよかったのを覚えている。ちりめんのなかに身をかがめた見馴れない魚たちからなにを読み取ろうとしたのか、今となっては定かでない。ただ、すくなくともそこには「おいら、ひとり横むいたオットセイ」のような孤独な存在があった。私がなぜ縮緬山椒に惹かれ、ちりめんじゃこにこだわるのか、理由はそのあたりに潜んでいそうな気がする。
 もっとも、そんなことを述べていては美味い縮緬山椒は作られない。みなさんはずんと高級なちりめんじゃこに舌鼓を打っていただきたい。

追記。縮緬山椒の決定稿です。掲示板は言葉のゲーム、連想ゲームの場と心得ています。掲示板をどのように利用しているか。これでは参考にもならないでしょうが、一度私の舞台裏を明記しておきたいと思いました。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月07日 18:46 | 固定ページリンク




櫻井清彦・渡辺一考 | ですぺらオフ会

 ホームページや掲示板にカウンターを設ける趣味はまったくないのですが、管理人の櫻井さんが内緒でカウントを取ったそうです。カウントの二割ぐらいが実数らしく、もしそうだとすれば、三十名ほどの方が当掲示板を常時ご覧になっておられる計算になります。静岡に二人、石川に一人、京都に二人、大阪に一人、神戸に一人、明石に二人、九州に一人、以上はメールを定期的に頂戴している方々です。従って残りの二十名が東京近郊ということになりましょうか。いずれにせよ、蛸の糞で頭へ上がるがごとき私の書き込みを厭きもせずお読みくださり感謝しております。そこで、七月二十五日の日曜日に初のですぺらオフ会を催そうと思っております。肴を鍋ものにするかどうかは参加者のご意見次第、いずれにせよ、実費割勘でお願い致します。割勘と申しても酒を嗜まれない方はそのぶん考慮させていただきます。
 会場はですぺらにて4時から、参加ご希望の方は一考までメールをご送付ください、どうかよろしくお願い致します。



投稿者: 櫻井清彦・渡辺一考    日時: 2004年07月07日 19:21 | 固定ページリンク




一考 | 目玉蜘蛛

 高遠弘美さんへ
 出入りの肉屋さんからカンガルーのもも肉をスモークに使えないかと云われ、挑戦したのですが、おそろしく不味いものでした。「活溌な運動を司る筋肉には赤身が多い」のはそのとおりなのですが、鶏肉のもも肉には脂ののった皮が付いています。その皮と赤身のバランスが食をそそるわけで、皮を剥いでしまえば、味けのないものになってしまいます。そこのところが気懸りですが、コオロギやイナゴで予行演習は済ませています。ごきぶりのDNAを弄くった亜種のローストやカツレツもしくはラカンやボンレスハムに期待すると致しましょう。
 蜻蛉の胸ロースにも唆られるのですが、今回の圧巻は前段。蚊の目玉は中国でも知られた料理ですが、蝙蝠が介在するところがモンテスキュー的悪趣味のきわみでございましょう。
 ところでタスマニアの目玉蜘蛛はご存じですか。東南アジア、オーストラリア、中央・南アメリカ、アフリカに広く分布し約50種が知られていますが、八眼中前列の側眼がとくに巨大なのでこの名があるのです。四角形の網をつくり、これを前脚で広げて支えるか、数本の糸でつり下げて待機。餌の小動物が近づくとこの網を伏せたりすくい上げたりしてとらえるのですが、その腰の動きが泥鰌掬いの振りにそっくりです。
 そのタスマニアのオッサ山を含む西部の山地に棲息する目玉蜘蛛は巨大なものは体長15~20センチに達すると云われます。ゴンドワナ大陸からの生き残りで、体長1メートル余りのタスマニアデビルと共に生きた化石とも云われます。
 タスマニアを発見したのは1642年オランダの航海家タスマンですが、そのタスマニアが島であることを確認したのは1798年イギリスの探検家G・バスおよびフリンダーズです。そのあたりの消息は中井英夫さんも書かれていますが、タスマンが残した膨大な航海日記とG・バスおよびフリンダーズが著したタスマニア探検記については中井さんは触れていらっしゃいません。書中、原住民が儀式に用いる、目玉蜘蛛の目玉の調烹が詳しく誌されています。しかしながら、この目玉料理と似た料理が岡山と広島の県境、高梁川流域のカルスト地形にも残されています。松本の飴市の職人から紹介され、車を飛ばして蜘蛛神社の神主に会いに行ったのは20年ほど昔のはなしです。
 眼球の球内を満たしている透明な寒天様物質を硝子体と云いますが、これが水晶体を構成する水様液とは異なり特段に濃厚、ちょうど鯛の目のごとく美味であるとのはなしを端緒に抱腹絶倒の一宵を過ごさせていただきました。白蟻の巣のペーストではなく、もち米で作った汁飴と蜂蜜を練り合わせたペーストで目玉蜘蛛の目玉を包み、陰干ししたものを古名そのままに「たがね」と云うのですが、その飴玉を舐り、たがねの部分が割れて寒天質が口腔に拡がる瞬間、地元のひとは「じろり」と叫ぶのだそうです。また、その目玉とワニ(鮫の意)の白子のスクランブルを「ぎろり」というらしく、仄かなアンモニア臭がたまらない香味であるそうな。牛眼に疾んだ蜘蛛の目玉の巨大な逸品を「大目玉」と称しますが、その眼球筋と外眼筋はとりわけ珍重、海鼠腸や海鼠子同様、半干しもしくは生のものを一塩で頂戴するとか。
 かかる料理の馳走にあずかるのが「お目玉を喰う」「お目玉をちょうだいする」といい、前述の「大目玉」を食するのを「目玉が抜け出る」「目玉が飛び出る」と云うそうです。ちなみに神主曰く、目玉蜘蛛の歴史は古く、古墳時代の棗玉から能面の飛出、龕柩の語源に至るまで、そのおもかげは瑞穂の国の津々浦々にまで形相を変えて伝えられているとか。思うに、花田清輝や石川淳の弁証法は目玉蜘蛛のニスタグムスから掻払ったのではなかったか、ここはひとつ奥本大三郎さんのご登場を願うしかなさそうです。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月07日 22:45 | 固定ページリンク




一考 | かちり

 昨日は終日ちりめん山椒と格闘、産地と味わいの異なるちりめんじゃこに合わせて六種類の微妙に違う作り方を試みました。ちりめんじゃこを「かちり」と呼ぶ地域があると、これは格闘中に来店なさった須永朝彦さんから教わりました。「かちり」との言い方は私も記憶があるのですが、そのように呼ばれていた地域が思い出せません。ご存じの方がいらっしゃれば教えてください。ちりめんじゃこはもともと西日本の食べ物で、おそらく北限は伊豆半島だと思います。しかし、記憶が正しければ甲信越での呼称でなかったかと思うのです。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月07日 22:53 | 固定ページリンク




外山時男 | かちり、じろり、ぎろり

 一考さま

 「かちり」については申し訳ありませんが何も知りません。「じろり」「ぎろり」はひょっとすると一考さんのお好きらしいイタリアの自転車部品メーカーの名前なのかも。



投稿者: 外山時男    日時: 2004年07月08日 07:29 | 固定ページリンク




高遠弘美 | 譬喩

一考様

とりわけて暑い日が続きますが、皆様お元気でお過ごしのことと存じます。
縮緬雑魚について、大言海で調べようと思つたのですが、陋屋に山のやうに積まれた本をどけて大言海までたどり着くことは、この炎暑のなか、到底できることではありませんでした。いづれどなたか篤学の方がお書きくださるでせう。
さて、けふは、『世界の食用昆虫』第三弾(これにて打ち止め)として、いくつかご紹介しておきたませう。
わたくしの亡父(1897-1962)は、生前、まだ幼いわたくしに、「雉はね、白菜の漬け物とピーナッツを一緒に食べたときの味に似てゐるんだよ」と申してをりました。植物が突然鳥の肉の味に変ずる。わたくしはまだ小学生の子供でしたが、そのときはじめて、世界に存在してゐる種々の事物を結びつけるメタフォールといふものがあるのだといふことを実感したと言つてもいいかもしれません。世界には目に見えぬ網が縦横に張り巡らされてゐて、その関係に気づいたとたん、世界は混沌ではなくなる。さう亡父は言ひたかつたのかもしれないと、のちになつて思つたりしました。
面識こそありませんが、外山様の「ひとつひとつの目が、『世間』みたいなものなのですか」といふご発言に感銘を受けたものとしては、『世界の食用昆虫』にみられる譬喩を並べるのも一興かと思つたしだいです。

・ブゴング(かぶら夜蛾に近い夜蛾の一種)の成虫を木の窪みなどに入れ、石で搗いてつくったペーストは、脂肪のかたまりのようで、甘いナッツのような味がする。
・かまきりは、海老と生のマッシュルームを混ぜたような味で、美味である。
・長野県産蝉の缶詰を食べたが、ちょっと海老に似て、なかなか美味であった。
・水虫(風船虫の仲間)の味は、キャビアに似ているという。
・生の髪切り虫の幼虫は、ゼリーがとろけるような感触で、鮪のとろよりこってりしていて、うすい甘味があり、わさび醤油に合う。
・げんごろうは、干し海老のようだという人もいるが、するめのような味がして酒の肴に好適だった。
・象虫を火であぶって食べると、牛の骨髄に似た味がする。
・白蟻は生きているのをそのまま食べる場合が多いが、パイナップルのような風味がある。
・(ここは芥川の「虱」の引用で)「左様さ、油臭い、焼米のやうな味でござらう」(これが芥川の、知らぬがゆゑの形容といふことも今なら察しられますね)
・音楽評論家の藤田光彦氏によると、蛾の味は「チョコレートとヌガーやキャラメルをミックスした」ようなものだという。
・松毛虫の味は、海老と鶏肉を同時に食べるようで、特有の風味があり、たいへん良い。
・紋白蝶の幼虫である青虫のかき揚げは、甘味があって結構食べられた。この甘味は、青虫の腹に一杯つまっていたキャベツによるものらしい。
・根切り虫のローストは、外側はカリカリしていて、内部はスフレのようにねっとりとしており、ハーブのような植物風味がある。
・黄金虫の幼虫のシチューは、ゆでた海老や蟹の肉に似ている。
・飛蝗のスープの作り方は、まず、塩胡椒とおろしたナツメグで味付けをしながら、強火で飛蝗を煮る。時々かき混ぜる。茶色になるまで揚げたパン、またはおもゆと一緒に、煮た飛蝗をすり鉢でつきつぶす。次に鍋に入れ、弱火で、沸騰しないように煮詰める。スープをこして、クルトンを浮かべる。海老のスープのような味がする。


きりがありませんから、このへんにしておきませう。
一考さんの「目玉蜘蛛」はすごい。大いに愉しみました。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月08日 20:47 | 固定ページリンク




一考 | カクレガニ

 外山時男さんへ
 ご指摘を受けるまで知らなかったのですが、ピンノことカクレガニ(隠蟹)の習性は興味津々です。小・中学校で将来なにになりたいかといったアンケートがよくありますが、私はいつも「ひも」と応えて叱られていました。どうやらジゴロにはなりそこねたようですが、夢はどこまでも夢、蒲団のなかで私が仕合せそうな顔をしているときは、間違いなくゆめを叶えているときなのです。
 油虫、寄生虫、毛才六、ゴキブリ、才六、甚六、パラサイト、宿六等々、いかように申してもよろしいのですが、ピンノもまた、私が生涯を費やして追い求めてきた見はてぬ夢を具現した、あこがれの存在だったのです。ムラサキイガイ、ハマグリ、アサリ、カキ、ナマコ、ホヤなどの外套腔や排出腔に寄生するもの、ゴカイやギボシムシの棲管に棲みつくもの、なかにはサザエピンノのように、チョウセンサザエやマルサザエの胃のなかに棲むという信じがたい習性をもつ種もあるとか。胃のなかと云われると、やはり羊水のなかでさかんに欠伸する胎児を思い起こします。
 私は過去において、二度の過ちを犯しました。ひとつは生まれ落ちたこと、いまひとつは二十歳を迎えてしまったことです。取り返しのつかない失敗を、しかも厭きもせず繰り返してしまったところに問題があります。精神がニュートラルなのは十九の春まで、二十歳を越えてしまえば四十も六十も八十も同じようになにかが刷り込まれてしまいます。要するに、みんなただの爺婆になるのです。サザエピンノに倣い、生涯を羊水のなかで終えるべきだった、水子として昇天すべきだった、といまになって悔んでいるのです。
 実を申せば、「ジロッリ」と「ギロッリ」はミラノに工場を持つ自転車のフレーム・メーカーで、「チネッリ」のオーナーとは縁戚関係にあります。などという駄法螺を吹きだすと止まらなくなります。私のような死にそこないは法螺とぼやきの振幅のなかを生きるしか、手立ては残されていないようです。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月08日 21:18 | 固定ページリンク




まき | あまり経験ないけど…

普段と違う自分になっちゃいたいんですけど、付き合ってくれる人いませんか? 今まで大人しく生きてきたから… 私は27歳で語学学校の教師をしています。 身長は160?で痩せ方です!



投稿者: まき    日時: 2004年07月09日 13:45 | 固定ページリンク




一考 | 夢見がちなる陣中

 まきさんへ
 ですぺらは結構な歳を経ながらチョンガーという変態の溜まり場。年齢が変態の証明にはなりませんが、いい歳晒したおっさんがひけらかすロリコン趣味は立派な変態。ニンフェット、ロリータ・コンプレックスなどの言葉を生んだのはナボコフの小説ですが、本題は窃視嗜愛(ヴァヤーリズム)にあるのであって、決して年端のいかぬ女性へのあこがれではありません。若さや美へのあこがれだけなら、それは倒錯。倒錯とはさかしまになることを指すのであって、それ自体はおそろしく単純なものなのです。
 窃視嗜愛は窃視症(スコポフィリー)に通じるもので、のぞくところがかぎ穴であろうが戸のすき間であろうがカーテン越しであろうが委細構わないのです。のぞき見することでしか性的満足を得られないのはそのひとの勝手ですが、問題なのは窃視者は自らがのぞかれるのは極端に嫌がるという点です。
 ハンカチを被せてことに至るとよくいいますが、これは相手の顔を見たくないのではなく、上気した自らを見られたくないのが本音です。相手の顔を伏せようがどうしようが、クレオパトラや楊貴妃を想像するぐらいの芸当はどなたさんにも可能です。されば、涎でねたついた赭ら顔をひとの目に晒したくない、見られたくない、そこに真意があるのです。
 このような書き方で意が通じるかどうか、はなはだ心許ないのですが、窃視などという夢見が過ぎるひとたちに満足な対応(性交渉)ができるとは私には思われないのです。当掲示板であなたが期待なさるような結果が得られないであろうことは保証いたします。不悪。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月10日 00:01 | 固定ページリンク




一考 | 甘藍の詩

 高遠弘美さんへ
 「譬喩」はおもしろい。一部、ウィスキーの香味の表現に使えますので、掻払わせていただきます。
 秩序嫌いの私には世界は混沌のままの方がよいのですが、隠喩、暗喩に見られる直接対象物に属性を移しての文言には大いに惹かれます。属性の転移の妙味にまず目を見張るわけですが、その属性がさらに別な属性に変態してゆく、言い換えれば、対象につかず離れず、気づいたときはそれを越えてしまっている、というオチにメタフォールの醍醐味があるのではないかと思うのです。
 属性の転移を、自在な組み合わせ、野放図な取合わせ、デペイズマン等、いかように申してもよろしいのですが、私の好みを優先させれば、折衷、いろどりの方が座りがよろしいかと。ローストされた根切り虫や青虫のかき揚げはいうにおよばず、ブゴングの毳々しい装いとペーストされたときの滑らかなクリーム色に思いを致せば、隠喩とは醜いもの、不器量なものたちが飾る綺羅であり、競い合う華麗そのものではなかったかと思われます。おそらく、醜怪なものを対象物に撰んだほうが劇的なエフェクトが容易に得られる、ということに表現者は古くから通じていたのでしょう。古代ローマの庭園に設けられたグロッタからシェイクスピア、あるいはザムザの物語から幻の猫にいたるまで、彼等は「縦横に張り巡らされた目に見えぬ網」のすぐれた利用者であり、遣い手であったと申せましょう。

・紋白蝶の幼虫である青虫のかき揚げは、甘味があって結構食べられた。この甘味は、青虫の腹に一杯つまっていたキャベツによるものらしい。

 ここに見受けられる甘味を介在させての属性の変態。おそらく、ここから先の領域に詩歌があると思うのです。当然、著されるのは甘藍の詩になります。否、甘藍を通り越して、さらに仰々しく風変わりな毒虫の詩になるかもしれないのです。そこのところの詐欺的と云いますか、いい加減さがたまらない快感を私にもたらすのです。

追記。文中「長野県産蝉の缶詰」とあるのは「長野県産蝉の幼虫の缶詰」の間違いかと思いますが。  高遠弘美さんへ
 「譬喩」はおもしろい。一部、ウィスキーの香味の表現に使えますので、掻払わせていただきます。
 秩序嫌いの私には世界は混沌のままの方がよいのですが、隠喩、暗喩に見られる直接対象物に属性を移しての文言には大いに惹かれます。属性の転移の妙味にまず目を見張るわけですが、その属性がさらに別な属性に変態してゆく、言い換えれば、対象につかず離れず、気づいたときはそれを越えてしまっている、というオチにメタフォールの醍醐味があるのではないかと思うのです。
 属性の転移を、自在な組み合わせ、野放図な取合わせ、デペイズマン等、いかように申してもよろしいのですが、私の好みを優先させれば、折衷、いろどりの方が座りがよろしいかと。ローストされた根切り虫や青虫のかき揚げはいうにおよばず、ブゴングの毳々しい装いとペーストされたときの滑らかなクリーム色に思いを致せば、隠喩とは醜いもの、不器量なものたちが飾る綺羅であり、競い合う華麗そのものではなかったかと思われます。おそらく、醜怪なものを対象物に撰んだほうが劇的なエフェクトが容易に得られる、ということに表現者は古くから通じていたのでしょう。古代ローマの庭園に設けられたグロッタからシェイクスピア、あるいはザムザの物語から幻の猫にいたるまで、彼等は「縦横に張り巡らされた目に見えぬ網」のすぐれた利用者であり、遣い手であったと申せましょう。

・紋白蝶の幼虫である青虫のかき揚げは、甘味があって結構食べられた。この甘味は、青虫の腹に一杯つまっていたキャベツによるものらしい。

 ここに見受けられる甘味を介在させての属性の変態。おそらく、ここから先の領域に詩歌があると思うのです。当然、著されるのは甘藍の詩になります。否、甘藍を通り越して、さらに仰々しく風変わりな毒虫の詩になるかもしれないのです。そこのところの詐欺的と云いますか、いい加減さがたまらない快感を私にもたらすのです。

追記。文中「長野県産蝉の缶詰」とあるのは「長野県産蝉の幼虫の缶詰」の間違いかと思いますが。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月10日 00:14 | 固定ページリンク




薫子 | 能公演

 能公演のチケットを頂きましたが、行くことができないので、ご希望の方にお譲りします。

 櫻間右陣 襲名記念公演
 日時 7月11日(日) 第一部 11:00開演(10:00開場)
 開場 国立能楽堂  東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1
 舞囃子 金春安明(金春流)
 能「西行櫻」
   シテ 櫻間右陣 ワキ 室生 閑 
   笛 藤田次郎  小鼓 亀井俊一
   大鼓 安福建雄 太鼓 金春國和
 A席自由席 2枚 

 チケットはですぺらにあります。ご希望の方は御連絡下さい。
 ですぺら 03-3584-4566



投稿者: 薫子    日時: 2004年07月10日 05:01 | 固定ページリンク




高遠弘美 | 補遺

一考様

 属性の転移。醜悪なものの装ひ。仰言るとほりだと思ひます。
さて、わたくし、ここ数日の酷暑で、すつかりへばつてしまひ、わづかにのこつてゐた気力をもみごとに失ひました。それゆゑ、今回は簡単に補遺のみ。
 さすが、悪食にも通じた一考さん。蝉の幼虫の缶詰の誤記といふことを見抜かれました。ただ、缶詰のラベルには「信州セミのからあげ」となつてゐますし、キャプションにも「長野県産セミの缶詰」となつてゐるのですけれど、中味はたしかに羽化直前の幼虫です。ついでですから、その製法を記しておきます。今度こそ『世界の食用昆虫』の引用の打ち止め。

 その製法は、羽化直前の幼虫をつかまえ、一昼夜水につけておいて、そのあとゴマ油の入った鍋で三十分くらい時間をかけてカラカラに揚げ、油をきって調味料と食塩をふりかけたもので、保存用にこれを缶詰にしたのだそうである。

 皆様、どうぞ夏ばてなどなさいませぬやうに。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月10日 10:19 | 固定ページリンク




外山時男 | ウィスキー

一考さま

 先夜はありがとうございます。ウィスキーがあまりに旨かったので、もう少しで違う自分になってしまいそうでした。
 『世界の食用昆虫』はさっそく手に入れました。高遠さま、どうもありがとうございます。



投稿者: 外山時男    日時: 2004年07月10日 12:48 | 固定ページリンク




一考 | 投票のすすめ

 劣化ウラン弾やクラスター爆弾の被害など、亡くなられた橋田さん以外にも米軍の民間人に対する恒常的なテロを撮り、書き継ぐ方がいらっしゃいます。それらの貴重な記事や証言がどうして日刊紙から閉めだされるのですか。彼等が身銭を切ってタブロイド誌を出さなければならないのはなぜなのでしょうか。
 肛門を棒状の化学照明具や箒の柄で犯し燐酸液をたらす、打ち据えた傷を痲酔もなく憲兵に縫わせるがごとき拷問の数々(ダルバ報告)、撃ち殺した道端の死体に手榴弾を仕掛けてその女房や子供まで殺そうとするイスラエルやアメリカの侵略者たち。イスラム系テロリストによる死者数が連日発表され、米軍系テロリストによる死者数またはベトナム戦争を上回る脱走兵の実態が公表されないのはどうしてですか。イラク戦争がいかなる理由によって、パレスチナ問題から切り離されるのですか。イラク特措法であれ、憲法であれ、ついぞ議論がなされないのはどうしてなのでしょうか。

 日本人は疑うことをやめたのですか。日本人は考えることをやめたのですか。今日は参議院選挙です。


追記。投票所で求めれば投票済証が発行されます。その証書をお持ちくださった方にはグラスワインを一杯プレゼント致します。有効期限は7月12日から15日まで。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月11日 05:55 | 固定ページリンク




高遠弘美 | 一杯のワインのためでなく

 さて、選挙にいつてきませう。
 「生活保守主義」に浸つてゐたのでは、権力者の思ふ壺。
 けふ日、「言論の自由」や「いのちの大切さ」などと声高に言ふと、揶揄軽侮する向きもありませうが、民主主義がいまだ根づかぬこの国にあつて、選挙権を行使しないのは、とくに現下の政治的状況のなかでは、いともたやすく長いものにまかれることにほかなりませぬ。
 一考さんの訴へに呼応して、さて、わたくしもこれから炎暑の中ではありますが、一票の権利を行使してくるつもりです。曽我さん一家の再会といふ仕組まれた「出来事」で、内閣支持率があがつてしまふやうなこの国のありやうでは間違ひなく死に票になつてしまふでせうが、それでも、選挙に行かなければ何も始まらないのですから。
ことしほど、学生諸君にも現今の政治状況を考へるやうに説いた年はありません。
On est aux portes du fascisme!



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月11日 10:43 | 固定ページリンク




一考 | 死に票

 選挙は民主党の惨敗に終わりました。公明党が11議席を取るなら自民党は32議席以下でなければ政権政党の過半数は崩れない。ところが自民党は49議席を確保、共産党の議席が民主党へ移行しただけのはなしである。
 いくつかの選択肢のなかから最良のものを選ぶのが選択なら、そのような選択を可能たらしめるための前提そのものを選ぶのも選択である。その選択の違いを大澤真幸氏は英語の二種類の助動詞「ought」「must」でもって説明する。
 氏は「われわれは何も選んでいない(朝日新聞7月12日夕刊)」のなかで、「mustに関る新たな選択をなすということは、あるものを選択の余地のないものに見せていた『生存』の枠組みそのものを変えるということである。だが、年金法に『否』を突きつけているだけのとき、われわれは、単に、この生存、この現在の生活に固執しているだけなのだ。確かに、このままでは破綻しそうだということを理解しており、この生存から脱出したいとも考えてはいるが、だからといって『別の生存』のあり方についてのイメージはまったくない」と既存政党の政策の無為を非難する。
 「通常の選択(oughtの水準)の前提をなす本質的な選択(mustの水準)へと人を誘うのは、難しい。事実、社民党や共産党はこれに完全に失敗した、単に護憲や自衛隊の海外派兵を批判しているだけではだめである。まったく、異なった枠組みのもとでも、共同体の秩序が存続しているということ、構造のトータルな崩壊はありえないということ、こうしたことを保障してやらなくてはならないのだ。そのために必要なのは、決定的な構想力(想像力)と結果責任への覚悟である」と論じ、今回の選挙結果のあいまいさをあぶり出す。
 つづく結句は以下のごとし「だが、それらを担う者はどこにもいなかった。今回の選挙が選んだこと、それは、選択ということの拒否そのものである」

 選択を色分けし、「枠組み」を変える担い手の不在を指摘するのは結構だが、書かれた内容は「どの党(政治家)も期待ができない」との多数の有権者の考えを一歩も出るものではない。「すでにグローバルな(軍事)行動に参加しているのだが、まずはローカルにものを考えた」と有権者の立場を総括し、「有権者は、単に、不安だったのである。自分たちの将来の生存に関して、つまり自分たちが何十年か後に安全に幸福に暮らしているかどうかということに関して」との指摘が有権者の投票行動を規定した生活保守への非難として著されるならともかく、政治家の無為無策にのみ転嫁されることに、私は危惧を覚える。
 私などはもっと単純に、政治の悪しき部分は政官・官官・官民の癒着におおかたの根があると思っている。大澤氏が述べるように「構造のトータルな崩壊はありえない」のである。だからこそ、必要なのは政権交代なのであって、交代が頻繁になされることによって、癒着の構図は構図としての用をなさなくなる。過去一度チャンスはあった、細川内閣のときである。あのまま、政権に携った経験のない政党がさまざまな組み合わせによる内閣の成立に参加していれば、間違いなく日本は変わっていた。ところが当時の社会党の造反によって自民党は息を吹き返し、その状況は政権政党の補完にいそしむ現在の公明党にまで続いている。
 当時、政権交代にもっとも近い政党が共産党であれば、私は共産党に協力するとまで公言して憚らなかったのは小沢一郎である。一部の有権者は「あのひとでなくちゃあ」と考える。この「あのひとでなくちゃあ」と政治家本人の「わたしでなくちゃあ」にはoughtに基づく同種のコンポジションがある。他方、mustに関る選択を示唆した唯一の政治家が小沢一郎でなかったか。自民党を離党してから現在に到るまで小沢氏の立場は一貫している。投票日の夜、古館伊知郎と田原総一郎が小沢一郎に対してなぜ民主党の委員長にならないのか、といった生臭い質問を繰り返していた。一介のジャーナリスト風情に小沢氏の理念など理解の外らしく、氏は「政権交代がなされるのであれば誰でもよい」「だれでもよいのですよ」との文言を残してスタジオから立ち去った。
 政党不信と同時に、個人の積極的意見表明をあまり評価しない日本の政治風土は明治から今に続いている。平準化志向の強い知的風土が関連していると思われる。広島の愚同様に、静岡にあっても、飛行場の建設を否定した海野徹氏が落選し、藤本祐司氏が当選した。総論賛成、各論反対、地元への利益誘導にしか興味を持たない連合の浅ましい謀略であった。
 私は日本の政党にも政治家にもなんら興味を抱くことができない。oughtに関する選択に終始し、その実績を誇るがごとき、公明党などが日本的政党の典型であろう。彼らは自らの近視眼的言動ないしは条件闘争が民衆の夢や理念を蝕み、政治不信を増長させていることに気付かない。
 とまれ、「ought」であろうが、「must」であろうが、そんなことはどうでもよいのである。問題なのは風通しであり、政権交代である。だれが総理大臣になってもよいのである。そのような瑣末なことを気に病んでいては何もはじまらない。いつか成就されるであろう政権交代の日まで、私の「死に票」は繰り返される。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月13日 22:42 | 固定ページリンク




ユリーカ | シンクロにして~っ!

死に票=今日のそれいちばん大切なこと!
けだし、あなたと宇宙の結果=幸運という力=君が知っているもんばかりのはずだが。(~繰り返し何度でも~)

「シンクロニシティ」の翻訳語を相変わらず「共時性」などと言ってる輩は、時間意識、空間、物質概念が虚弱だし、私に言わせれば愚鈍だ。
私ならさしずめ、もっとこう、本当の意味で楽しくも怖ろしいワンダーで不可知な音感を込めて「暗合」と叫きたい。

世界じゅうに思わぬカタチでバラバラに投げ出され、残酷なまでに展開している或る種の俗的なるものに対して、じつは各々誰しもが独自に切実な興味をもって敏感に反応を示すのであり、彼の見えざる触角(アンテナ)=カニ星人は、磁力に振れながら知らず知らずのうちにそれに接近し、そこに特別なナニカを看取ってしまわずにはいられない。そして、その時こそ、中空存在としての自分の姿に気付かされる筈だ。或る種の居心地良さのようなものと共に・・・

晩年のニーチェが、あの寒い朝、辛そうに荷車を引く疲れ切った痩せ馬を見た途端に号泣し、オンマさ~ん!オンマさ~んっ!と言ってなりふり構わず抱き付き発狂したのも、そこに打ち捨てられた見ず知らずの本当の自分の姿を見つけてしまったからに他なるまい。
それは、意志を断滅する限りに於いて世界との調和を手に入れたということだ。

要はこういうことだ。人は自分の思うようなものになっっていく、ということ。
振り出しに戻ればいつもそうだった。=望まれた未来。(~繰り返し何度でも~)

斯様に見渡せば世界は、暗合=暗号= QUE に満ち溢れて、すべからく人心をそそのかし続けている。
だから私は、さがすけれども選べません。
選択、決定が出来ると云うことは、或る種の自由を意味するが、それはナニモノカへの裁きでもあることをココロしていなければならない。けだし限定とは、それ以外への排除であり、即ち精神的不自由の謂いだからな。

補遺
キチガイ機関車野郎=ろくちゃん=どですかでんっ!どですかでんっ!どですかでんっ!・・・・「こらっ、うるさいっ!」・・・のように自らを或る運動状態として世界を道連れにすると云う高等戦術もある。



投稿者: ユリーカ    日時: 2004年07月15日 01:02 | 固定ページリンク




薫子 | ご返事

 ユリーカさんへ
 何度も書き込みありがとうございます。でも、わたくし、アホなもので、お書きになっている内容が全くわかりません。どうぞアホにもわかる日本語にてお書きください。



投稿者: 薫子    日時: 2004年07月15日 21:15 | 固定ページリンク




一考 | ですぺらあれこれ

 外山時男さんがですぺらへいらっしゃいました、お連れさん共々娯しい語らいに終始。外山さんは想像したとおりのけったいな方でした。結滞ではなく、関西方言の卦体でございます。東京風に申せば稀代、あやかし、きてれつ、へんてこりんの意が含まれます。澁澤龍彦さんほどではないにせよ、やはり風采は小振り、しかるに発言は大胆、思惟するところは磊落にして雄渾。無頓着が割烹着をまとってふんぞりかえるの図を思い起こしてください。間違いなく、私のもっとも好きなタイプの御仁だったのです。
 外山さんがいらした日、遅れて福島泰樹さん、佐々木幹郎さん、間村峻一さんたちがいらっしゃいました。虚説閑話、辞柄、珍談が夜を徹してつづき、あちらこちらで微睡むひとあり。嫌がる佐々木さんを口説き落とし、結論はあさぼらけの新宿行となりました。どうやら、間村さんと私はともにアナザー軒の癖があるらしく、赤坂で酔いつぶれたことはなさそうです。
 以前、掲示板で紹介させていただいた「オポッサムと豆」所収の佐々木幹郎さんの新しい詩集「悲歌が生まれるまで」が月末に思潮社から上梓されます。ですぺらでの出版記念会は8月7日(土曜日)、詳細は追って掲げますのでよろしく。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月15日 22:47 | 固定ページリンク




ユリーカ | ダウジング翻訳


私達は
外部の繋がりだけじゃ 
決して満足出来ない存在だ
憎悪と友愛のなかでさえ…
音楽と陶酔のなかに     
おまえを抱きしめたいのか
殺してしまいたいのか
判断出来ないイキモノだ…

Charles Baudelaire 『遺稿集』より 



投稿者: ユリーカ    日時: 2004年07月16日 20:09 | 固定ページリンク




余暇浜ショップ | 余暇浜ショップ

ウェブコンビ二の余暇浜ショップです。 コンビ二のようにお使いください。全国どこへでも一律290円です。代引き手数料もコミコミです。



投稿者: 余暇浜ショップ    日時: 2004年07月17日 02:43 | 固定ページリンク




御邪魔ビンラディン伊藤 | ボオドレエル遺稿集とは、はて面妖な?

ユリーカさんの「ダウジング翻訳」によると、Charles Baudelaire 『遺稿集』
なる本に、かれ(またはかの女)が書き込んだところの「詩」のごときものが
あるというのだが、翻訳を通じて30年以上、曲がりなりにもフランス語を読める
ようになってから四半世紀以上は原文、翻訳、研究の三者を通してこのフランスの
詩人に親しんでいるものの、幸か不幸か、わたしは、いままでこのような表現に出
会ったことはない。 
どこぞに同姓同名の詩人が存在しているのか、あるいは、「火箭、赤裸の心」の
堀口大学訳同様、自分の気質に合わない原文を「超訳」されたものなのか、ぜひ
とも原文併記のうえ、御教示いただけると幸甚と存じます。



投稿者: 御邪魔ビンラディン伊藤    日時: 2004年07月17日 06:40 | 固定ページリンク




外山時男 | ニイニイゼミ

一考さま

 「無頓着が割烹着着てふんぞりかえる」はひどいじゃあーりませんか。
 まるで中世ヨーロッパの世俗版画の題名です。あんなに行儀良くかしこまっていたのにひどいなあ。
 ゆうべニイニイゼミが迷い込んできてほうっておいたら今朝もまだ床で生きていました。食べようかどうか迷っているうちによちよち歩きはじめたので、これはよかったとつかまえてジージー鳴くのをベランダのオリーブの幹にくっつけてやると上へ上へ昇ってゆきました。
 仕事の電話を一件して顔を洗って戻ってみるともう姿はなし。
 どこかへ飛んでいったのですね。
 哀しいような嬉しいような。

 これから蛾の季節になります。外灯に細かなゴミみたいな蛾があつまります。良く見ると蝶よりずっと綺麗です。



投稿者: 外山時男    日時: 2004年07月18日 14:11 | 固定ページリンク




ユリーカ | 磁気作用

 薫子さんへ

御返事、ありがとうございます。
かのサルバドール・ダリの創作態度はパラノイアック・クリチック(偏執狂的批判的創造)であるが、私のは更に加えて、メタフィジック・メガロマニアック・エピレプシー・ダウジング(形而上的誇大妄想的癲癇)な性分であります。

綜合して、私は或る抽象的な駒となり、此の盤上を縦横無尽に駆け巡る、変幻自在な自動人形であり、万年中学生であり、太陽に焼かれ立ち上がり、雨に吹かれ花を散らし、どこまでも飛び続けるあらゆる総ての欲望の種子なのだから。瞬間ごとのチャンスに賭け続け、その中に自分を見失いながら光りのようにバラバラになってしまうこと。
私が自分であり続ける限り想いは完遂しないのだから。

画家が好んで描いたモチーフに「種蒔く人」というのがあるが、芸術はドライヴ、バイアスが過剰に掛かったコミュニケーションだから放恣に蒔き続けるしかありません。
「欠損の美学」と「過剰の美学」、「内在する不在感」と「外の主体」について。
コレは誰もが、血や唾や糞尿、陽なたの臭いにまとわり付かれながらわが身を以て知る最後の形而上学だ。



投稿者: ユリーカ    日時: 2004年07月18日 23:54 | 固定ページリンク




ユリーカ | ボウドレイル・フラグメント

 ビンラディンさんへ

レス、ありがとうございます。でも、わたくし、突発性脳内出血ニヨル海綿状血管腫、及ビ海馬萎縮硬化ニヨル側頭葉癲癇なもので、お書きになっている内容が全くわかりません。どうぞ癲癇にもわかる日本語にてお書きください。

ただ、ワタシは本は読まなくても内容は解ってしまうので、30年以上も字面を追うような只の翻訳じゃあありません。ダウジング式翻訳です。お勉強で読むのは他人に任せてありますから。
書き置かれた文章=遺稿と云うのは、読み替えられ、書き換えられるその時を、常に待っている、と云うことがお解りか?そういう意味で翻訳は面白いのですネ。

>原文?
御自分で見つけ出して下さい。探すのは楽しい事です。

電気を帯びたこの脳でダウジングすれば解ってくる。わかってきた。そういうふうになっているのだ。そろそろ誰しも、自分というモノが一体全体どういうナニモノなのかを知る時に来ているのだと思う。
私の脳は煙草を喫いすぎて電気を帯びるほど炭化しかかったカーボン・ファイバー・アンテナとしてソレをダウジング探知している。



投稿者: ユリーカ    日時: 2004年07月18日 23:59 | 固定ページリンク




薫子 | ですぺらオフ会

 今一度、お知らせいたします。
7月25日(日)午後4時より、ですぺらにて
はじめてのオフ会を催します。
会費は実費割り勘で、お酒を飲まれない方には割引いたします。
どなたさまでも、お気軽にご参加くださいまし。
メールにてお知らせいただければ、幸甚です。



投稿者: 薫子    日時: 2004年07月19日 20:31 | 固定ページリンク




一考 | オフ会へいかが

 御邪魔ビンラディン伊藤さんへ
 この度はご迷惑をお掛けし申し訳ございません。ところで、久しぶりにあなたと呑みたいので、ご都合がよろしければオフ会に出席してください。でも、割り勘ですから手ぶらで来てくださいね。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月20日 19:51 | 固定ページリンク




一考 | うわばみ

 外山さんへ
 無頓着といってもいろんなむとんじゃくがあり、前回ご紹介の佐々木幹郎さんも無頓着に毛が生えたような方だと思います。佐々木さんと酒を酌み交わしていると、アイルランド的な無邪気さ、おおらかさの内に秘めた詩人の悲しいまでの覚悟を思い知らされるのです。その「無邪気さ、おおらかさ」を無頓着と称したくなるのです。同様に、あなたが醸し出す「妙な味わい」に、なにかしら浮世離れしたもの、ノン・シャランな匂いを嗅ぎつけるのです。もっとも、私のそれは蓬頭垢面、蓬頭垢衣の類ですが。
 ベランダでオリーブとはそれもまた豪気なはなしですね。一体どんなベランダなのでしょうか。阪神大震災の折りに庭木はすべて伐採しましたが、オリーブは年毎に1センチは太くなります。10年も経てば立派な大木ではないですか。
 ところで蕎麦の出前の件は今回は見送らせてください。迷惑の掛けっぱなしで恐縮ですが、出版記念会が午後七時から翌日の始発までになりました。参加なさる予定の半数がアスクレピオスの末裔で、うわばみ科に属する高等生物らしいのです。私自身、ホモ・サピエンスのなかの亜種関係とみられているらしく、参加者より費用はすべて酒に費やせとのきつーいお達しでございます。申し訳ございませんが、どうかよろしく。
 上海蟹や藻屑蟹の酒付けは有名ですが、うわばみの酒付けなんぞ、煮ても焼いても食えませんよね。酒にウワバミソウのあしらいがよろしいのではと思いおる次第。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月20日 19:54 | 固定ページリンク




外山時男 | オリーブ

一考さま

 出前の件、了解いたしました。ウワバミの中身はやはり豆ならぬゾウがふさわしく、ちかくのバオバブからは酒が噴出するのにちがいありますまい。
 我が家のべランダのオリーブは鉢植えで、ほとんどちりめんじゃこみたいなものです。小豆島のオリーブとはちがいます。小学生のころの2年間を高松で過ごしたので、オリーブの樹にはなじみがあります。高松の家庭では普通の植木としてオリーブが植えられていました。
 高松でのセミはやはりクマゼミです。あの朝っぱらからシャアシャア鳴く大声には血沸き肉踊るものがありました。広島の平和公園で聞いたクマゼミの声はちょっとモノクロームでフクザツではありましたが。
 そのころ読んだファーブルの昆虫記のセミの章には写真があって、それは我が家のオリーブみたいな細い枝に何頭ものセミがとまっているものでした。いま考えればヤラセみたいな写真でしたが、セミは欅や桜の太い幹で鳴くものと決めつけていたので、ひどく新鮮な印象をうけました。
 で、痩せたオリーブにニイニイをとまらせてみたしだい。

 赤坂の弁慶橋ではヘラブナが釣れます。鮒鮨はヘラではつくれないのでしょうか。ちなみに不忍池ではタウナギが、大きな声では言えませんが明治神宮の菖蒲園では、ギギ、もしくはギバチが釣れます。カラス貝も棲んでいます。



投稿者: 外山時男    日時: 2004年07月21日 02:26 | 固定ページリンク




高遠弘美 | ご馳走様でした

一考様

 昨夜はご馳走様でした。
 ちりめん山椒、三種類。舌莫迦の身ゆゑ、それこそ猫に小判だつたと思ひますが、それでも、縮緬雑魚のあはい味はひと、舌をかすかに刺戟する山椒の、絶妙のとりあはせに、しばし憂を忘れました。酒でないのにネパンティス。いやはや、凡俗の生活を送るわたくしにとつても、すこぶるつきのすてきな贈り物でした。感謝申し上げます。

 外山様
 お蕎麦、遠からず食べに参ります。その節はよろしくお願ひ申し上げます。

 追記
 十年ほど前に巴里で買つたバオバブの種はいまだに種のままで我が机上にあります。いつか植えたいと思つてゐますが、さて、どこにとなると場所もなく。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月21日 09:39 | 固定ページリンク




外山時男 | 高遠弘美さま

高遠さま

 お出ましくださるとのこと。こちらこそよろしくお願い申し上げます。ただし昼は怠惰で留守がちにつき、かなうならば夜がいちばんなのです。
 勝手なお願いすみません。心よりご来店お待ち申し上げます。
 バオバブを植えるのは昔ならとうぜん丸善のあたりでしょうが、それでは今や、イヤ、それどころか昔でも気が長すぎます。パリでお買いになった種子ならマダガスカル産ではなく、象牙海岸、奴隷海岸あたりの種なのでしょうか。マダムの脇の下なる夜間飛行は一考さん作のティーバックにもどこかで繋がっているみたいで、初心なわたくしはアタマがくらくらしてまいります。「翼よ、あれはどこの灯だ」
 バオバブの種がどんなものなのか、どうかお教えください。花は咲くのでしょうか。まさか桜みたいにハカナク散っては欲しくありませんが。



投稿者: 外山時男    日時: 2004年07月23日 02:57 | 固定ページリンク




高遠弘美 | バオバブ栽培法

外山時男様

ぜひ近日中にお伺ひいたします。その節は何卒よろしくお願ひいたします。

さて、本日はバオバブの育て方について。
種に附いてゐる説明書を訳しますと……(ちやんとした翻訳ではありませんが、この暑さに免じてお許し下さい)。

【バオバブ(学名Adansonia digitata)】
Bombacacee科。セネガル原産。世界有数の巨木。セネガルでは胴回りが20メートルを超えるものもあります。
《一年中発芽可能》
同梱の種子は発芽能力が高いものを厳選、処理したもので、白くなつてゐたり種子によつて大きさが違つたりといふこともありますが、不良品ではありません。種子の発芽能力は大きさとは関係がないのです。
《栽培のしかた》
◎小鍋でお湯を沸騰させたのち、火を止め、種子を入れます。そのまま24時間漬けておきます。
◎10センチから20センチくらいの鉢かプラスチック製のミニ・セール[フランス人は植物栽培が好きなので、温度管理ができる小型の栽培用棚や栽培ケースが売られています。セールは本来「温室」の意味です。蓋が附いたりビニールの覆ひが附いたりしてゐます]の四分の三まで、川砂か採掘場の砂を入れます。その際、砂をあまり詰めすぎてはいけません。砂は園藝店や花屋さんや種苗店で買ふことができます。鉢かミニ・セールの底に、水はけ用の穴があいてゐることを確かめてください。
◎その砂の上に、ある程度間隔をあけて、種子を置いてゆきます。そうしたら、5ミリくらゐの厚さになるやうに均等に砂をかぶせてください。
◎砂の表面に水を遣ります。必要ならば噴霧器を使つてもいいでせう。砂はつねに湿らせておかなくてはなりませんが、水を遣りすぎるのは禁物です。朝晩、規則正しく水を遣ることが発芽の時期には大切です。
◎鉢かミニ・セールを明るく温かな場所に移します。場合によつてはヒーターを使つてください。摂氏25度から30度の温度で管理すれば、10日から15日で発芽します。
◎若芽が出てきたら、直射日光を避け、25度から25度の温度管理をしてください。ミニ・セールの場合は、この段階で蓋やカバーをとります。
◎苗が8センチから10センチになつたら、砂も一緒に、もつと大きな鉢に移植してください。
◎そこには砂とテール・ド・ブリュイエール[ヒースの腐植土に砂を混ぜた酸性の強い培養土]を同量混ぜたものを入れます。
◎規則正しく水を遣るやうに心がけてください。さうすればバオバブは育ちます。


追記1
私の持つてゐるバオバブの種は、大きさ一センチ弱。焦げ茶色で楕円の片側をぎゆつとへこませたやうな形をしてゐます。煎つたらビールのつまみになりさうです。
追記2
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/baobab.html
に写真と説明がありました。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月23日 14:21 | 固定ページリンク




高遠弘美 | 訂正

前書き込みで、25度から25度といふのは、20度から25度の誤記です。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月23日 14:24 | 固定ページリンク




高遠弘美 | 『幻の猫』讃、否、絶讃

龜鳴屋
勝井隆則さま

 一考さんの紹介で、先日御社刊行の伊藤人誉著『幻の猫』を需めました。
けふ昼頃でしたか何の気なしに読み始めたら、あまりの面白さに頁を繰る手が止まらず、さきほど読了いたしました。
 亢奮がさめやらぬまま、また直前二回に続けての書き込みになつてしまふにもかかはらず、ひとこと御礼申し上げたくて、書かせて頂くことにしました。一考さんが先月半ばに書かれてゐるごとく、勝井様のやうな出版人と同時代に生きる幸せをつくづく感じます。
 どれも傑作といふほかない、みごとな小説ばかりで、心底堪能しました。近頃、ここまで面白い小説を読んだことがありません。どの作品も読後感が強烈で、といつて決して押しつけがましくなく、いつまでも余韻が残る、素晴らしい小説だと思ひました。これこそ小説でしか表現できない世界です。
 そこでお願ひなのですが、ぜひ伊藤氏の小説の第二集をつくつては頂けないでせうか。著者自筆年譜によれば、まだまだ御作はあります。タイトルを拝見するだけですぐにでも読みたくなるやうなものばかりです。「女の声で泣く蛙」「赤い洞窟」「幻の虫」「光る鎖」「落ちてくる!」「寝化粧」「登山者」「青の湖」「盗人は夜来る」などなど。短編集『登山者』や長篇『猟人』は1958年の刊行ですから、入手はなかなかに困難ではないかと拝察いたします。
 ぜひ、ぜひ、御社での第二集の刊行を、読者のひとりとして切にお願ひ申し上げるしだいです。
 失礼の段は何卒ご容赦ください。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月23日 16:15 | 固定ページリンク




薫子 | オフ会の連絡

 オフ会の連絡です。参加者はメールによるご連絡が4名、直接お聞きしした方が6名の合せて10名となりました。ご参加くださる方が思いのほか少なかったので、鍋はやめて焼き肉に致します。野菜は埼玉で購入しますが、肉類は近所のハナマサで間に合わせましょう。会費は2000円までです。首に巻くタオルをご持参のうえ、においがついてもよいファッションでお越しください。



投稿者: 薫子    日時: 2004年07月23日 20:01 | 固定ページリンク




御邪魔ビンラディン伊藤 | お誘いありがとうございます。

最近、この掲示板をみるのは週に一、二度のことなので、せっかくお誘いがあったのを見るのが遅れ、返辞が遅くなりました。
さいきん、見る回数が減ったのは、高遠弘美さんとの充実したやりとりを「相聞歌だね」などといってまぜっかえしたくなる自分
のアホぶりを恥じてのことです。
御迷惑でなければ、やや遅れて、6時前ころに出没したいと考えています。



投稿者: 御邪魔ビンラディン伊藤    日時: 2004年07月24日 10:07 | 固定ページリンク




如月 | 息抜きページ

ちょっと息抜きに、小サイトに次のようなページ↓、アップしました。 おひまな方はどうぞ。 http://www.furugosho.com/precurseurs/oi-no-kobumi.htm   *    *    * このところ「存在と時間」を読むのに忙しくて、明日のオフ会のこと、今知りま した。明日の夕方は友達と会う可能性があるのですが、もしそれがキャンセルに なったら、ふらっと寄らせてくださいね♪



投稿者: 如月    日時: 2004年07月24日 12:56 | 固定ページリンク




フク | 本日行けず無念

 この週末に上京し、また本日がオフ会とは知りつつ、矢張り日曜日まで滞在は相成らず、昨晩一人でですぺらプレオフ会に臨ませて頂きました。御馳走様でした。今頃、煙で店内は濛濛としているのではないかと推察致しますが、楽しんで下さいませ。またいつか皆様ともお目に掛かれる機会があるものと思います。

 ところで昨日、噂の『幻の猫』を落掌し、帰り道で一気に読了致しました。何というか、雰囲気とその先にある何かを醸し出すのに長けた作品だと感じました。また年輪というか、センスだけでは描き得ないと感じさせられる描写からさりげなくも鬼気迫る迫力があります。小生の稚拙な表現力では感じたことが言い尽くせないのが歯痒いのですけれど。



投稿者: フク    日時: 2004年07月25日 18:57 | 固定ページリンク




薫子 | オフ会御礼

 昨晩のオフ会に参加いただきました皆々様、ありがとうございます。
プレオフ会にわざわざお越しくださったフクさん、ですぺらでゆっくり飲むためにと、赤坂に宿をとってまで、いつもありがとうございます。お察しのとおり、煙もくもく、エアコンはきかず、暑かったです~。冬に鴨鍋の方がよいかも。



投稿者: 薫子    日時: 2004年07月26日 02:08 | 固定ページリンク




一考 | 鮒の念仏

 外山さんへ
 釣りがお好きなんですね。それにしても、不忍池のカワヘビと菖蒲園のハゲギギですか。どちらも食いたくないなあ。ブラックバス同様、それは誰かが放したのでは、自然分布じゃないですよ。ヘラブナは鮒鮨になりますが、弁慶橋の水質はどうなのですか。琵琶湖の源五郎鮒は北湖の狭い水域のものに限られると聞いています。琵琶湖の風物詩の一つ、いわゆるえり漁ですね。
 源五郎鮒はもともと琵琶湖特産だったのでしょうが、溜池のような狭いところでも育つようにと大阪の河内で品種改良されました。そのカワチブナがヘラブナの代表選手ということになります。根っ子は同じものですから、問題ないと思います。釣りの世界ではマブナ釣りとヘラブナ釣りはまったく異なるものですが、日本各地に移殖されたヘラブナと在来ブナとの交配による雑種が多く、諸説紛々、学説もかなり混乱してきたようです。
 話序でに、むかし京都書院の仲間と酒を呑んでいて、鮒鮨が「熟れずし」か「馴れずし」なのかで論争になったことがありました。私はとうぜん「馴れずし」だと思っていたのですが、「鮒鮨のマニアは飯が好物なのよ」といいながら、むしゃむしゃと食べるひとがいて愕かされました。近江は知りませんが、少なくとも京都の鮒鮨は「熟れずし」のようでした。
 以上、鮒の念仏です。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月26日 19:17 | 固定ページリンク




間村俊一 渡辺一考 | 「悲歌が生まれるまで」出版記念会

 「むかし神話と妖精は箇々の家庭にあり、人々と起居を共にしていた。やがて神話は国家のものとなり、妖精は死に絶えた。その神話を国家から取り戻し、妖精を蘇らせるのが詩人に与えられた使命である」とのはなしを佐々木幹郎さんから聴かされました。アイルランド的な無邪気さ、おおらかさの内に秘めた詩人の悲しいまでの覚悟を思い知らされた日でした。
 かつて掲示板で紹介させていただいた「オポッサムと豆」所収の佐々木幹郎さんの新しい詩集『悲歌が生まれるまで』が月末に思潮社から上梓されます。氏の頭蓋骨の中でからからと鳴る二十五個の豆粒、その一粒一粒に明瞭なかたちが与えられたのです。諧謔と哀愁、そして失意へのポーラー・メソッドとでもいう他ない同書の誕生を著者と共に祝したいと思います。菊池雅志さんの笛演奏を伴う徹宵痛飲、長夜歌吹のくさぐさ。日時は八月七日の土曜日、午後七時より翌日の始発まで、会場はですぺら、赤坂一ッ木通の真ん中あたり、一階は手作り居酒屋「かっぽうぎ」、会費は五千円、月下にせぐり来る思いを語りあかそうではありませんか。



投稿者: 間村俊一 渡辺一考    日時: 2004年07月26日 19:41 | 固定ページリンク




和子 | 41歳の主婦です

結婚して20年になりましたが夫とは歳がだいぶ離れていて正直相手になりません。 というか疲れきってて倒れそう!? そんな結婚生活20年間、遊びという遊びは控えてきましたがここまで歳をとるとどうしても元気な男の人を求めたくなってしまって…。 私は最近フラダンスに夢中、特技は編物です! よかったら元気な男の人返事ください。



投稿者: 和子    日時: 2004年07月27日 14:48 | 固定ページリンク




一考 | 孫太郎虫

 私の家は上越の高田、姫路からの国替えによるものですが、松平ではなく榊原十五万石の時代の家老職でした。新潟は幕末期には十一の小藩に分立していましたが、そのなかで高田は最初に薩長連合軍に白旗を掲げた軟弱きわまりない藩、私は無血開城に近い不名誉を背負った親藩の末裔ということになるのです。従って、長岡や会津や新選組といえばただただ平伏する他なく、とりわけ会津には怠状とあこがれが綯い交ぜになった複雑な気持ちを抱いていました。
 某新聞社で編輯に携っていたおり、その会津へ取材に出掛けました。東京本社からのお出ましということで、わざわざ料亭を朝まで借り切っての饗応。さぞかし旨いものが喰える、しめしめとほくそ笑んでおりました。ところが目前に並べられたのは、生きた蜂の子、蝉の幼虫、カイコ、ざざ虫、蝗をはじめ、あとは正体不明の昆虫のフルコース。思惑が大きくはずれ、蛆虫に囲まれた私は悲鳴をあげました。得体の知れない虫が一品か二品であれば、他の野菜や山菜に紛れ込ませてなんとかやっつけるのですが、オンパレードとなると気後れします。怯むどころか、私は失神寸前にまで追い詰められてしまったのです。
 動顛した私をなだめたのは遅れて出された一枚のざる蕎麦、今宵の数多の料理のなかで唯一食べられる最高の馳走、この一皿を逃せば人生が瓦解すると思った私は蕎麦を丁寧にほぐし、一本ずつすすり上げながら朝までなんとか遣り繰りしたのです。

 このところ昆虫談義がつづきますが、文字のうえでの昆虫はともかく、真物の昆虫はからきし駄目なのです。思うに、こどもの頃にむりやり飲まされた熊の胆や孫太郎虫が遠因ではなかったかと思うのです。ざざ虫はカワゲラ、カゲロウ、トビケラなどの幼虫の佃煮ですが、時にはヘビトンボの幼虫も含められます。このヘビトンボの幼虫の黒焼きを孫太郎虫というのですが、私はそれが大の苦手で、四、五センチの幼虫五匹を串刺しにしたものをこどもの頃に食べさせられて泣き出した記憶があるのです。熊の胆はクマの胆汁を乾燥させた円板状のもので、共にこどもの疳の妙薬、または腸内寄生虫の特効薬とされていました。しかし味は当薬のせんぶり同様、ただ苦いだけの気色のわるい民間薬でした。最近はあまり見掛けなくなりましたが、毒消し売りや富山の薬売りと称するひとたちが、万病に効く反魂丹などと一緒に売り歩いていたのです。山東京伝の「敵討孫太郎虫」は紙衣で有名な宮城の白石の孫太郎伝説を小説化したもの、ご存じの方もあろうかと思います。
 虫といえば、忘れられないのが蛇屋。むかしはどこの町にも蛇屋と俗称される漢方の薬局がありました。メスシリンダーに収められた白蛇や臓物をさらけ出したアオダイショウやシマヘビ、、疥に霊験あらたかとされたマムシを漬け込んだ液体、アルコール漬けのムカデ、イモリの黒焼、鹿の珍宝、得体のしれないふぐり等々。いかがわしさではサーカスや化け物屋敷よりも上に位置し、少年のこころをときめかせ、沈ませ、そしておそれさせる謎にみちた場所でした。
 捕まえる時に硬い頭胸部をヘビのように動かし噛みついてくるところからヘビトンボの名があるのですが、ためを持ったあの屈折した動きには怖ろしさを感じたものでした。いかに瓶越しとはいえ、こわごわ指を差し出し、または手をかざしながら覗き込む、怪獣と自分とのあいだにもうけられたガラスの仕切を確認し、さらに顔を近づける、大丈夫だと聞かされていても、瓶を割って跳びかかってくるのではないかとの恐怖心が私を逡巡させました。古本屋通いの一歩手前で繰り返された蛇屋通い。思うに、自己と他者とのあいだの垣根のしつらえ方、距離の取りようをはじめて学ばされたのが蛇屋ではなかったか。間違いなく、あのメスシリンダーにぎりぎりと刻み込まれた目盛りの一条一条に私の青春が、拓落失路がまるまるあった。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月27日 20:54 | 固定ページリンク




高遠弘美 | 蛇屋

 伊藤さんからは「相聞歌」と冷やかされたこともあり、また、先日のオフ会では「書きすぎ」を指摘されたりもしたので、しばらく書き込みはやめようと思つてゐたのですが、「蛇屋」となると、書かざるを得ません。管理人さんからは「そろそろペンネームにしたはうがいいですよ」とご親切にも言はれたのですけれど、どうも匿名といふのは性にあはなくて。
 向後、あまり書き込みはしないといふことでこの名前での書き込みをお許し頂けたらと思ひます。
 むかし、生家の、通りの向かひ側の真ん前が蛇屋でした。信州は上田といふ田舎町でのことです。たしか「まむしや」といふ屋号だつたやうな気がします。ここは民間漢方の店といふよりは、まさに蛇屋で、網といふか檻といふか、ともかく金網の向かうに何十匹かわからない蛇たちがごによごによからみあつてゐました。私たち兄弟は可愛がられてゐて、学校から帰つてくると、「ひろみちやーん」などと呼ばれ、「はい、あげるね」などといはれて「孫太郎虫」やら「ざざむし」やら、時にはとぐろをまいた縞蛇をそのまま黒こげにしたのを、かき氷を作る器械にかけてじやりじやりと擂つた黒い粉などを貰つてゐました。たまには生きた蛇を渡されたりしましたが、兄は首に巻いてにこにこしてゐたものです。私はさすがにそれはできませんでしたが、蛇のあのてらつとした感触はいまだに覚えています。35年前に他界した私の亡母は蛇が大嫌ひで、あるとき、昔のことですから、下水がラフにつながつてゐたせゐでせうか、セメントでできた「流し」の排水溝からにゅつと蛇が顔を出したことがあつて、母は「ぎやつ」と叫んで卒倒。それほど蛇嫌ひの母なのに、もらつた小遣ひで、デパートでゴム製の蛇を買ひ、毎日着物を着てゐた母の箪笥に入れたことがありました。箪笥は二階にあり、朝、二階で母の絶叫が聞こえ、数秒後「ヒロミ!」といふ、ここはゴチックにしたいほどの大声が聞こえました。あとはご推察のとほり、こつぴどく叱られ、しばらくおやつもお小遣ひももらへませんでした。あのとき、母は、どうしてこんな子供を産んでしまつたのだらうとひどく、恐らくは心から後悔してゐたにちがひありません。その絶望を明るい希望に変へる間もなく、母は死んでしまつたのですから、私はすでにそのときからPARRICIDEたる宿命を負はされてゐたのかもしれません。

追記
外山さんのお蕎麦のお店、とつても素敵で美味しいお店です。おすすめ!クロワッサンを頼りに検索するとわかります。東京八重洲。

追記2 
某社から頼まれた賃仕事を手伝つてくださつたIさん。どうもご苦労様でした。お名前も伺はず、お話もほとんどしませんでしたが、ご協力に感謝いたします。バオバブはどこかにきつとうゑませう。



投稿者: 高遠弘美    日時: 2004年07月29日 00:49 | 固定ページリンク




外山時男 | バオバブの花

高遠弘美さま

昨夜はあの蒸し暑い中ご来店いただきありがとうございます。なんだかロウバイして妙なこと申し上げたかもしれません。恐縮です。
 またバオバブ栽培法大変おもしろく読ませていただきました。こちらもありがとうございます。わたくしもネットで調べてみたところ、花は白の五弁で全体の形状は小型ビゼンクラゲか傘の開いたマッシュルームのよう。成木はデブで奇怪ですが、あの花だけでもじゅうぶん面妖です。
 種は勾玉か腎臓みたいでじっさい食用になるとの記述もありました。
 セネガルはご存知パリダカールラリーの終点でもあります。起点がパリなのは心底腹立つようなもはやどうでもよいような。



投稿者: 外山時男    日時: 2004年07月29日 00:49 | 固定ページリンク




外山時男 | アオダイショウ

一考さま

 いえ、わたくしは釣りはダメなのです。食べるためではなく飼うために魚や昆虫を採っていたので、釣り針を使ったとしても採集といったほうが近いとおもいます。目黒のわが「マンション」の入口にちいさな池があります。高田公園ではないので咲くのは蓮ではなく睡蓮がちょぼちょぼなのですが、そこにはまだ霙が降るころガマが集まってきて産卵します。その時期の道路には轢かれたカエルの死体があちこちにへばりついている有様。なかには雌雄折り重なったカエル煎餅もありポンペイのようです。敬意を払って灰でもかぶせようかとおもいますが、なかなかそうはゆきません。
 ガマが沢山いるせいかどうかは知りませんが、アオダイショウ、シマヘビも生息しており、今年ももう二度目撃しました。一度はうちの駐車場に寝そべっていました。もう一度は深夜近所の大谷石の壁面をシマヘビがゆっくり登ってゆくところでした。
 なるほど会津はすごいところですね。わたくしの店の石臼は会津の火成岩を使って会津の石工に作ってもらっているので、たまにその工房へゆかねばなりません。数年前は明け方高速が福島へ入ったとたん、ただまっすぐ走っていただけなのにスピード違反で捕まり、警察署まで連れてゆかれました。じつはわたくしはもともとは薩摩なのであります。したがってもちろん用心に用心を重ね、会津生まれの友人の所有する真黄色のイギリス製スポーツカーを引っ張り出し、アイルランドの羊の毛で編んだ脂臭いセーターを着て弁当には鮒鮨とブルーチーズまで用意していったのに、それでもダメでした。彼らはどんな微量の薩摩芋の匂いもけっして見逃さないのです。サザエ堂では金縁眼鏡のブヨブヨのピンノに不審の目で見られるし、たまったものではありません。
 釣りに戻ります。どうせ殺して喰うならヤスで突くのがもっとも良いようにおもわれます。生き物を殺すダイレクトな感覚がありますし、おまえはおれが喰ってやるという実感がいたします。
 いちばん嫌いなのはリリースというやつです。なにをもってあんなえらそうなことするのか、わたくしにはわかりません。
 余談ながら、ゴキブリを殺すのは新聞紙でひっぱたくのが正統派です。ケミカル製品を使うなんて愚の骨頂。正々堂々スリッパか素手でつぶして息の根を止めましょう。
 うちの従業員はゴキブリが一匹でも出ると大騒ぎをしてスプレーやらバルサムやらを使います。あんまり情けないので「こんど出たらおれが手でつぶしてやるからよく見ておけ」と宣言したのですが、幸いその後出現しておりません。生活に大問題をかかえて生きてゆくのは辛いものであります。



投稿者: 外山時男    日時: 2004年07月29日 18:34 | 固定ページリンク




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