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一考 | 孫太郎虫

 私の家は上越の高田、姫路からの国替えによるものですが、松平ではなく榊原十五万石の時代の家老職でした。新潟は幕末期には十一の小藩に分立していましたが、そのなかで高田は最初に薩長連合軍に白旗を掲げた軟弱きわまりない藩、私は無血開城に近い不名誉を背負った親藩の末裔ということになるのです。従って、長岡や会津や新選組といえばただただ平伏する他なく、とりわけ会津には怠状とあこがれが綯い交ぜになった複雑な気持ちを抱いていました。
 某新聞社で編輯に携っていたおり、その会津へ取材に出掛けました。東京本社からのお出ましということで、わざわざ料亭を朝まで借り切っての饗応。さぞかし旨いものが喰える、しめしめとほくそ笑んでおりました。ところが目前に並べられたのは、生きた蜂の子、蝉の幼虫、カイコ、ざざ虫、蝗をはじめ、あとは正体不明の昆虫のフルコース。思惑が大きくはずれ、蛆虫に囲まれた私は悲鳴をあげました。得体の知れない虫が一品か二品であれば、他の野菜や山菜に紛れ込ませてなんとかやっつけるのですが、オンパレードとなると気後れします。怯むどころか、私は失神寸前にまで追い詰められてしまったのです。
 動顛した私をなだめたのは遅れて出された一枚のざる蕎麦、今宵の数多の料理のなかで唯一食べられる最高の馳走、この一皿を逃せば人生が瓦解すると思った私は蕎麦を丁寧にほぐし、一本ずつすすり上げながら朝までなんとか遣り繰りしたのです。

 このところ昆虫談義がつづきますが、文字のうえでの昆虫はともかく、真物の昆虫はからきし駄目なのです。思うに、こどもの頃にむりやり飲まされた熊の胆や孫太郎虫が遠因ではなかったかと思うのです。ざざ虫はカワゲラ、カゲロウ、トビケラなどの幼虫の佃煮ですが、時にはヘビトンボの幼虫も含められます。このヘビトンボの幼虫の黒焼きを孫太郎虫というのですが、私はそれが大の苦手で、四、五センチの幼虫五匹を串刺しにしたものをこどもの頃に食べさせられて泣き出した記憶があるのです。熊の胆はクマの胆汁を乾燥させた円板状のもので、共にこどもの疳の妙薬、または腸内寄生虫の特効薬とされていました。しかし味は当薬のせんぶり同様、ただ苦いだけの気色のわるい民間薬でした。最近はあまり見掛けなくなりましたが、毒消し売りや富山の薬売りと称するひとたちが、万病に効く反魂丹などと一緒に売り歩いていたのです。山東京伝の「敵討孫太郎虫」は紙衣で有名な宮城の白石の孫太郎伝説を小説化したもの、ご存じの方もあろうかと思います。
 虫といえば、忘れられないのが蛇屋。むかしはどこの町にも蛇屋と俗称される漢方の薬局がありました。メスシリンダーに収められた白蛇や臓物をさらけ出したアオダイショウやシマヘビ、、疥に霊験あらたかとされたマムシを漬け込んだ液体、アルコール漬けのムカデ、イモリの黒焼、鹿の珍宝、得体のしれないふぐり等々。いかがわしさではサーカスや化け物屋敷よりも上に位置し、少年のこころをときめかせ、沈ませ、そしておそれさせる謎にみちた場所でした。
 捕まえる時に硬い頭胸部をヘビのように動かし噛みついてくるところからヘビトンボの名があるのですが、ためを持ったあの屈折した動きには怖ろしさを感じたものでした。いかに瓶越しとはいえ、こわごわ指を差し出し、または手をかざしながら覗き込む、怪獣と自分とのあいだにもうけられたガラスの仕切を確認し、さらに顔を近づける、大丈夫だと聞かされていても、瓶を割って跳びかかってくるのではないかとの恐怖心が私を逡巡させました。古本屋通いの一歩手前で繰り返された蛇屋通い。思うに、自己と他者とのあいだの垣根のしつらえ方、距離の取りようをはじめて学ばされたのが蛇屋ではなかったか。間違いなく、あのメスシリンダーにぎりぎりと刻み込まれた目盛りの一条一条に私の青春が、拓落失路がまるまるあった。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月27日 20:54 | 固定ページリンク





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