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一考 | 死に票

 選挙は民主党の惨敗に終わりました。公明党が11議席を取るなら自民党は32議席以下でなければ政権政党の過半数は崩れない。ところが自民党は49議席を確保、共産党の議席が民主党へ移行しただけのはなしである。
 いくつかの選択肢のなかから最良のものを選ぶのが選択なら、そのような選択を可能たらしめるための前提そのものを選ぶのも選択である。その選択の違いを大澤真幸氏は英語の二種類の助動詞「ought」「must」でもって説明する。
 氏は「われわれは何も選んでいない(朝日新聞7月12日夕刊)」のなかで、「mustに関る新たな選択をなすということは、あるものを選択の余地のないものに見せていた『生存』の枠組みそのものを変えるということである。だが、年金法に『否』を突きつけているだけのとき、われわれは、単に、この生存、この現在の生活に固執しているだけなのだ。確かに、このままでは破綻しそうだということを理解しており、この生存から脱出したいとも考えてはいるが、だからといって『別の生存』のあり方についてのイメージはまったくない」と既存政党の政策の無為を非難する。
 「通常の選択(oughtの水準)の前提をなす本質的な選択(mustの水準)へと人を誘うのは、難しい。事実、社民党や共産党はこれに完全に失敗した、単に護憲や自衛隊の海外派兵を批判しているだけではだめである。まったく、異なった枠組みのもとでも、共同体の秩序が存続しているということ、構造のトータルな崩壊はありえないということ、こうしたことを保障してやらなくてはならないのだ。そのために必要なのは、決定的な構想力(想像力)と結果責任への覚悟である」と論じ、今回の選挙結果のあいまいさをあぶり出す。
 つづく結句は以下のごとし「だが、それらを担う者はどこにもいなかった。今回の選挙が選んだこと、それは、選択ということの拒否そのものである」

 選択を色分けし、「枠組み」を変える担い手の不在を指摘するのは結構だが、書かれた内容は「どの党(政治家)も期待ができない」との多数の有権者の考えを一歩も出るものではない。「すでにグローバルな(軍事)行動に参加しているのだが、まずはローカルにものを考えた」と有権者の立場を総括し、「有権者は、単に、不安だったのである。自分たちの将来の生存に関して、つまり自分たちが何十年か後に安全に幸福に暮らしているかどうかということに関して」との指摘が有権者の投票行動を規定した生活保守への非難として著されるならともかく、政治家の無為無策にのみ転嫁されることに、私は危惧を覚える。
 私などはもっと単純に、政治の悪しき部分は政官・官官・官民の癒着におおかたの根があると思っている。大澤氏が述べるように「構造のトータルな崩壊はありえない」のである。だからこそ、必要なのは政権交代なのであって、交代が頻繁になされることによって、癒着の構図は構図としての用をなさなくなる。過去一度チャンスはあった、細川内閣のときである。あのまま、政権に携った経験のない政党がさまざまな組み合わせによる内閣の成立に参加していれば、間違いなく日本は変わっていた。ところが当時の社会党の造反によって自民党は息を吹き返し、その状況は政権政党の補完にいそしむ現在の公明党にまで続いている。
 当時、政権交代にもっとも近い政党が共産党であれば、私は共産党に協力するとまで公言して憚らなかったのは小沢一郎である。一部の有権者は「あのひとでなくちゃあ」と考える。この「あのひとでなくちゃあ」と政治家本人の「わたしでなくちゃあ」にはoughtに基づく同種のコンポジションがある。他方、mustに関る選択を示唆した唯一の政治家が小沢一郎でなかったか。自民党を離党してから現在に到るまで小沢氏の立場は一貫している。投票日の夜、古館伊知郎と田原総一郎が小沢一郎に対してなぜ民主党の委員長にならないのか、といった生臭い質問を繰り返していた。一介のジャーナリスト風情に小沢氏の理念など理解の外らしく、氏は「政権交代がなされるのであれば誰でもよい」「だれでもよいのですよ」との文言を残してスタジオから立ち去った。
 政党不信と同時に、個人の積極的意見表明をあまり評価しない日本の政治風土は明治から今に続いている。平準化志向の強い知的風土が関連していると思われる。広島の愚同様に、静岡にあっても、飛行場の建設を否定した海野徹氏が落選し、藤本祐司氏が当選した。総論賛成、各論反対、地元への利益誘導にしか興味を持たない連合の浅ましい謀略であった。
 私は日本の政党にも政治家にもなんら興味を抱くことができない。oughtに関する選択に終始し、その実績を誇るがごとき、公明党などが日本的政党の典型であろう。彼らは自らの近視眼的言動ないしは条件闘争が民衆の夢や理念を蝕み、政治不信を増長させていることに気付かない。
 とまれ、「ought」であろうが、「must」であろうが、そんなことはどうでもよいのである。問題なのは風通しであり、政権交代である。だれが総理大臣になってもよいのである。そのような瑣末なことを気に病んでいては何もはじまらない。いつか成就されるであろう政権交代の日まで、私の「死に票」は繰り返される。



投稿者: 一考    日時: 2004年07月13日 22:42 | 固定ページリンク





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