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梅子さん。
……大変ですね。
本日、種村季弘さんの特集号のゲラがすべて上がって来ました。4月1日の発売日を前に、漸っとそれらしい体裁になりました。川島さんに感謝しなければなりません。それにしても校正には自信がないのですよ、困ったものです。
タイトルの「怪人タネラムネラ」は高橋睦郎さんの頌から掻っ払いました。高橋さんがわざわざご来店、事前に種村さんと私の茶利なる放談のゲラを読まれるとのこと。矢野目源一の訳詩の順序が間違っているとのありがたい御指摘を受けました。初稿とはいい条、私の記憶の出鱈目を早々に指摘され、恥じ入るばかりで御座いました。
唯一ちゃらんぽらんが売りの私にとって、種村さんと対談する気など最初から毛頭御座いませんでした。相手の土俵に上がらずに約束を果たす。そのために私が講じた策は種村さんを酒席におびき寄せることでした。編輯の打ち合わせとの名目で酒を持参して押し掛ける、酔っ払わせての放談からなんとか稿をでっち上げる、それが私の最初からの思惑だったのです。
正面切っての文学的対談なら青土社からもっか刊行中です。従って、種村さんのお気に召さないかもしれないが、読者にとってより楽しく読める内容、即ち素顔の種村さんが少しでも表出されているもの、肉声をうかがえるもの、と心掛けたのです。
以上、サービス精神旺盛な元編集者の無責任な言い逃れです。
絢爛豪華な目次すなわち執筆陣を視て思い遣るに、柿沼さんと言うよりは、本誌の責任編集者は種村季弘その人ではなかったかと。正確に申せば、仕置き人種村季弘、口入れ屋渡辺一考、その有様を丹念にフィルムに撮っていった監督が柿沼さん、されば梅子は照明か音入れ屋といったところ。主演者の仕置き人と監督との間のディスカッションにてすべての書割と舞台衣装はしつらえられ、例によって私めは徒に飲み惚けていただけ。とこんなことを申せば原稿用紙と格闘なすった諸先生方から叱られましょうか。
種村さん主演の映画の撮影と別冊幻想文学の編輯とがですぺらにて同時進行、種村さんの名演技に小生の腹の皮はいまなお捩れたまま。その捩れがかかる後日談を著したくなった所為なのです。いずれにせよ、何の苦労もなく、かかる雑誌の編輯が終了するとは摩訶不思議。世に持つべきは友であり、朋ですなあ。
渡辺一考様
高遠弘美です。掲示板にお書き下さってありがとうございました。
三月九日、喜んで伺いますので、よろしくお願いいたします。
わたくし、ただいま花粉症にていささか苦しんでおります。
医者にゆき、薬をもらってきましたので、九日には治っていると思いますが。
不順な折からくれぐれもご自愛下さい。
前項に続きますが、お許し下さい。
本日は悪口を申します。悪口のお嫌いな方はここでおやめ下さい。
次のいくつかの文をご覧下さい。
まず、数字の表記から。「二〇年前」「九二〇億ドル」「イスラエルの三四年にもわたる非合法な軍事占領」「八月二十七日」「一〇〇人」「二〇〇人」「五〇〇人」「三〇〇〇人」「七〇〇万」「一万九千人」「四九パーセント」「六、〇四五戸」「三二、七五〇戸」「二二〇ヵ所」「十九世紀」……。
いかがでしょう。私はこういう数字表記の不統一が人一倍気になるほうなのかもしれませんが、読んでいていささか引っかかりました(私なら「二十年前」「三十四年」「二百二十ヵ所」「六千四十五戸」のように書きますが、それはともかく、不統一が気になります)。
それからこんな一節。
「しかしながら、もっと気が滅入るのは、世界の中でのアメリカの役割を理解するために費やされた時間があまりに少ない」。
あるいはまた、
「(略)が、プロパガンダの目的である。また、イスラエルがいままでどおり弾圧を続けつつ、同時に犠牲者であるように見せかけることなのだ」。
また、
「前述のように、アメリカの政治的・文化的シーンに働きかけようとする計画と思考がまったく欠如していたことが(といってもそればかりでもないのだが)、一九四八年以来驚くべき規模に達するアラブ人の土地と生命が(アメリカの援助を受けた)イスラエルによって奪われたことについて大いに責められるべきなのである」。
あるいは、
「そして、こうしたキャンペーンをひじょうに効果的にしてきたものは、西欧がもっている自分たちの反ユダヤ主義に対する積年の罪悪感なのだ」。
みすず書房の新刊サイード著『戦争とプロパガンダ』からの引用です。
内容は素晴らしい。読まれて然るべき本だと思います。それなのに、この文章は何でしょうか。
こちらの理解力の乏しさのせいかもしれませんが、何を言っているのかよくわかりません。惜しい、残念、癪に障る、というのが率直な感想です。
ふだんこういう非難めいたことは書かない主義ですが、原著が素晴らしいだけに、大手がこういう翻訳を平然と出してしまうことに無性に腹が立ち、書きました。妄言多謝。
もうひとつつけ加えます。最後にサイードのインタビューが載っているのですが、そこでの「ぼく」「ぼくたち」はどうでしょうか。
「ぼくの知っているアラブ人やムスリムはみんな合衆国にものすごく興味をもっています」。
。一九三五年生まれ。六十六歳。私生活ならともかく、公のインタビューでこんな言い方をするでしょうか。
洋書屋はこの本の原本を早急にそろえた方がいいのでは。翻訳を買ったひとの大半が途中で匙を投げるから。
先週、ですぺらにお邪魔して新入荷のマッカランとカリラをいただきました。
結構なお味でございました。
ところで、掲示板だけよんでですぺらに行かないのは勿体ないですよ。
みなさん、ですぺらでうまい酒をいただきましょう。
そうしないと、店がなくなってしまいますぞ。
高遠先生のおっしゃられることは、おそらく正しいのだと思います。
(実物を読んでいないので、全面的に肯定するのはフェアでないですね)しかし、ここに、若干の揚げ足取りめいた疑問を表明したいのは、はたして、みすずは「大手出版社なのか」ということです。
2001年版出版年鑑によると、資本金1000万、従業員22名。(むろん、これは編集だけでなく、営業も総務・経理も含めてですね)
講談社の3億、新潮社の1億5千万にくらべると、零細とは言えないまでも、やはり「中小」の部類でしょう。社員の給料は……こういう詮索は慎みましょう。
おそらく、あれは広報誌「みすず」に昨秋あたりに載せたものを、そのまま単行本にしたものだと思います。雑誌掲載記事のデータをダウンロードすれば、組版関係はほとんど費用がかからない。それで、出版を急いで、つい仕上げの統一を怠ったというのが実情でしょう。
みすずの本の誤植の多さは、かつての北一輝著作集から定評のあるところで、さいきん気になったのは、吉田加南子さんのエッセイ集の中のプルーストを論じた数頁の文章の中のすべてが「ブルースト」になったいたことや、新進気鋭の学者が書いたクナッパーツブッシュ論のなかで、「弱冠」とすべき部分がことごとく「若干」となっていたことなど、御愛嬌で済ませられることかもしれませんが、たしかに、あんまり手放しでいてもどうかと思います。
(もっとも、ロラン・バルトの邦訳が三宅徳嘉氏の目を通していないものがほとんど役に立たないといったことの方が、大きな問題かもしれません)
まずは、とりあえずの、若干の疑義の表明まで
(誰だい、かえってとどめ刺してるじゃないの、って言ってるのは?)
人身売買業というのは言い過ぎかもしれませんが、現代版口入屋へいった帰りに、
やるせなさを肩にしょって、またまたですぺらへ寄ってしまいました。
(しかし我が身を商品として投げ出して査定されるのはつらいことでありますなあ。
情けないったらありゃしない。)
世間ではゼネコンがつぶれたり、潰れかけた銀行が合併して国に延命させてもらったりしながら
3月危機とか申しておりますが、ですぺらにも3月危機が訪れているようです。
どうせなら国ごと壊れちまえと思う今日この頃であります←やけくそ。はっは。
危機があちこちを襲っている状況ですが、売り物と化した我が身はモルトウィスキーで
体の浄化を行ったのでした。
ちなみに今日はカリラばっかり3杯。wild horseな酒です。あばれる。あばれる。
りきさんへ
芥川龍之介「芋粥」論を著された方ですね。今後ともよろしくお願いします。
中間にアナトール・フランスを挟めば、芥川とダンセイニの比較にさしたる無理はないと思います。「新思潮」の同人に久米正雄や菊池寛が居ますし、松村みね子と芥川と堀口大学は恋の鞘当てを演じた仲ではないですか。「無茶な論考」どころか、頗る至当な根拠のある論攷と思います。貴方のこれからの活躍に期待します、頑張って下さい。
カミユとダンセイニの比較の方はのっけから滅茶苦茶なデペイズマンコ?だと思います。一方は情念とのクリンチが売りの作家で、一方は乾いた観念派、何処に接点を求めるのか、金光さんのお手並み拝見ですね。
金光さんは先日、宇野邦一さんからいささか突っ込まれていたようですが、あれは彼のユニークな励まし方です。自らの意見を簡略かつ直裁に述べる癖を日頃から付けておいた方がよいとの、彼一流の優しさなのです。私なら金光さんの意見を聞き流してお仕舞いなのですが、啓蒙家としての宇野さんの意外な面に気付かせられました。
いずれにせよ、宇野邦一さんは現在のフランス文学者の中で、もっともアクチュアルにしてラジカルな思索者です。一筋縄ですむ相手ではなく、こわい人ですよ。
りきさんは高価な人形を買われたそうですね。私は書物にしても5000円を超えるものは購入致しません。泉鏡花や木下杢太郎、日夏耿之介等を蒐めたのも、当時は顧みる人もなく安かったからであって、人口に膾炙し値の上がったものには些かの興味も持たないのです。忘れられたまったく無名の作家を発掘するのが読書の醍醐味でして、「ドグラ・マグラ」や「黒死館殺人事件」の初版は値が上がった時に叩き売って文庫を買い求めました。文庫本で読めるような作家は文庫で十分ではないでしょうか。限られたお鳥目なれば有効に遣いましょう。
高遠さんへ
かつて親友が編集した足穂の選集は誤植のないページを探し出すのが一苦労とのシロモノでしたし、これまた私の親友が出版した野溝七生子さんの著書も正誤表は60箇所を超えました。また、辞書の語釈を方便としていた研文社時代に使っていた広辞苑第三版の誤植箇所は軽く100を超えました。その半数は国家大観をはじめとする原典からの引用ミスでした。
かく申す私も、かつては笊校で名を馳せた迷編輯者。諸般の事情を問わず、名を偸めば「迷」が「名」に出世して行くのもご愛敬。編輯も愛嬌商売の一であったかと思われる次第。
種村さんが何度かクライストのペンテジレーアのことを書かれていますが、曰く・・・「約束」の再帰動詞 sich versprechen には「約束する」と同時に「言い間違える」の意味がある・・・。
結婚を「約束した」の意と「言い間違えた」との意が寸分の狂いなく一語の中で重なり合うとするならば、歪みやねじれ、言語と人の生き方との乖離といった問題を一足跳びに乗り越えて、これはもう文学的結婚とでも称する他なく、言語それ自体が人間の実存とすり替わってくるような恐怖を覚えます。
言語遊戯の場で多用されるアナロジーは泰西語には付き物で、フランス語からドイツ語、イタリア語からフランス語への翻訳なら何とか処理可能ですが、表象文字である日本語で多面的かつ重層する意味を示唆するのはおよそ不可能事です。従って、マラルメ、ジャリ、ヴィアン、ブルトン、バタイユ、マンディアルグ、ジュネ、ベケット等々の翻訳は、元来翻訳者個人の勝手な咀嚼すなわち数多ある解釈のうちの一として供されるべきなのであって、日本語に置き換える時には試訳こそが相応しく、翻訳との言葉を用いること自体に無理があるように思われます。
と思い巡らせば、高邁かつ流麗な訳文と稚拙かつ低劣な訳文との間にさしたる差異はないのではないかと思われてくるから不思議です。
もっとも、小説であれ、短詩形であれ、エッセイであれ、翻訳であれ、推敲がなされていない文章にお鳥目を支払うつもりは毛頭御座いません。貴方のロミにせよ、宇野さんのベケットにせよ、白鳥さんのロリナにせよ、お鳥目が支払われる先は訳者の心意気にあり。心意気とは思い入れ、文学から藝を除けばおそらく何も残りますまい。妄言多謝。
高遠さんへ
文学のちから、文学のいのちに就いて著された高遠さんのエッセイは「みだりに行分あやしく、論理の精彩を欠き、リズムの乱れた散文など読むに値しない。達意はもとより散文のいのちである」との文章から書き起こされています。プリズムに乱反射した輝きがやがて一点に消え入るように収斂されてゆく、30枚の彩なす種村論の校正刷りに改めて酔わせて頂きました。編輯者冥利に尽きるとはかかる酔いへの逢著を指します。どうも有難うございました。
エッセイにとって最も大事なことは、何を対象にしたかではなく、いかに捉えいかに料理したかという点だと思います。自らの意図を行き届かせるのが調理であり、割烹であり、作法でなければ何なのでしょうか。
もちろん、対象への好悪すなわち選択もひとつの立場の闡明にはなります。しかし、それをもって佳とするならば、書物は目次のみにて結構ということになりかねません。オマージュをのみ著すのであればともかく、悪口や罵詈雑言が内包するエネルギーにも私がごとき俗物は惹かれのです。例えば荷風が逝った時の足穂の文章など、思わず快哉を叫びたくなるような逸文もあるではないですか。おそらく、オマージュの香辛料としてもっとも有効なのは悪口ではなかろうかと、貴方の達意の文章を読ませて頂いての感慨でございます。
私は鏡花が好きで「鏡花論集成」のような書物を編んだこともあるのですが、同書の編輯に関して今では異なる意見を持っています。あの書物の中身を編んだのは私が二十歳の時です。若い頃は雑読期ですから、あのような書物の編輯も可能だったのですが、今なら時間が勿体ないのです。
ぎりぎり自分が述べたいこと、即ち料理法、思想、歴史観を著すのに時間は費やされて然るべきではないかと思うようになったのです。また、その料理法や思想や歴史観等を包括する弁証法が文学というふうに解釈致しております。
エッセイとは自らの立脚点を詳らかにするために書き始められるのかもしれませんが、結果は必ずしも思う方向に向かうとは限りません。重箱の隅をつつく種類の書誌学は論外として、対象と斬り結ぶとは自らの存在が「消え入る」ような虚しい行為ではなかろうかと、昨今の私は思っています。そもそも、立脚点や立ち位置なるものほど訝しく如何わしいものはないのではないかと。
「立場の闡明」と前記しましたが、この「闡明」との言葉には「立場」との枕詞が常に取り憑いているように思われます。消息を鮮明にすればするほど、繰り返されるのは至らなさであり、自己の解体なのではないでしょうか。
季節はとどめなく流れ、固着し定着するかりそめの場すら持ち合わせず、為す術もなく徒に拡散してゆく自分を眺めやるのみ。宇野さんの影響もありましょうが、ドゥルーズに読み浸るようになったのも、そのような理由からなのかもしれません。
贅を刮げ、衒いをなくし、含羞を湛えた透き通るような弧絶感の中に死んで行った多くの先達を私たちは識っています。自らの思想と自らの生き方とが交錯し、照応し合うような季節がいつの日かたとえ一瞬でもよろしいから立ち顕われないかと、これは私のささやかな夢なのです。
昨晩は「ですぺら」の旨い酒と一考さんの痛快な話に酔いつつ、楽しい宵を過ごせました。
壁に掛けられた3枚の写真、「ですぺら」の石材の内装と照明の色温度にとけ込んでいてカッコよかった。
ところで、赤坂で写真といえば、東京写真文化館をご存知でしょうか。
場所は、赤坂見附駅をコージーコーナー側から出て左に少し歩いたところにある紀陽ビルの4階です。
今度、4月の初頭から「アンセル・アダムス生誕100年記念写真展」が催されるそうです。
これまでも、ブレッソン、カニングハム、ジャンルー・シーフなどの一見の価値ある写真展をやっていました。「ですぺら」に行く前に少し足を運んでみてはいかがでしょうか。
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東京写真文化館の場所の説明が間違っていました。正しくは
赤坂見附駅をコージーコーナー側から出て「右」に少し歩いたところにある紀陽ビルの4階です。
「右」「左」を間違えるとは情けない。ちなみに、水曜日は優待日で入場料が安くなることを付け加えておきます。
一考さま
長文のメール、ありがたく拝読しました。仰言ること、わかるような気がいたします。オマージュにはある部分、対象そのものにではなくても、部分冠詞附きの悪口が必要であり、そこに生まれる緊張感がなければ、ただ弛緩した代物になってしまうのですね。むろん、悪口の度合いが濃い、と言いますか、タメにする悪口というのはオマージュに限らず、文章を損ねます。むつかしいのはそのあたりの匙加減、というより、「対象と切り結」ぼうとするなかで、その加減は自ずと定まってくるのですけれど、しかしなおかつ厄介なのは、これも仰せのごとく、「消息を鮮明にすればするほど、繰り返される至らなさと自己の解体」の問題が影のように筆の先から指や手を伝ってこの身のうちに入り込むことではないでしょうか。何かを書く、何かについて書く。それが自らの生と交錯し、重なり合い、照応し合う時の訪れをわたくしも待ち望んでおりますが、いま、具体的に駄文を書くときに感じる抵抗感、あるいは抑圧は、一度前にお話ししたことのある若い頃の吃音の苦い記憶と結びついているような気がしてなりません。太平楽で脳天気なわたくしがいまなお時に魘されるのは吃音の夢です。いや、夢ではないこともあり、春休みや夏休みのあとに最初に教室に入ってゆくときは、いまだに吃って言うべきことも言えぬまま立ちつくす幻影に悩まされます。だからどうしたと言われれば、ただそれだけのことですと申すほかありませんが、しゃべるのではなく書いているのに、たどたどしく、意味不明で、あるリズムを感じることのできないものに対する侮蔑と嫌悪、これは大袈裟ではなく子供の頃からありました。三つ子の魂百まで。馬齢を重ねるばかりで、内実はまったく進歩なく、あいも変わらぬ小者としては、いまだに小説であれ、エッセイであれ、翻訳であれ、そんな文章は最後までつき合うことなく「裏の川に投げ捨てたい」と思います。先日のサイードは一考さんの仰言る「稚拙かつ低劣な訳文」どころではなく、最後につけ加えていらっしゃる「推敲がなされていない文章」でした。「大手」かどうかという点については伊藤さんの警抜なご指摘がありましたが、わたくしが問題にしたのは、数字の不統一ということと、文章が「推敲されていない」ということです。この点は伊藤さんが書いていらしたみすずの本の誤植の多さということでは必ずしもなく(わたくしの本も誤植は決して尠くありません。人後に落ちずと言うと変ですけれど)、意味の通らない日本語をそのまま本にするのは、ムネオ風に言えば「いかがなものか」と思ったのがああいうことを書きつけた理由ですが、それは「藝」以前、「勝手な咀嚼すなわち数多ある解釈」以前の問題でした。わたくしは翻訳は音楽で言う演奏に近いと思っています。好きなればこそ弾く。弾くからにはおのれの解釈をとことん追求したものを聴かせたい。宇野さんや白鳥さんもそう考えていらっしゃるのではないでしょうか。プルースト(ブルーストではなく)の『失われた時を求めて』のなかに、話者の恋人が下手ながらピアノを弾く場面があり、それについて話者はたとえ下手な演奏でも、作曲家の本質は伝わるものだと書いていますが、その意味で言うなら、稚拙な翻訳であろうと流麗な翻訳であろうと、伝わるものは伝わるでしょう。しかしだからといって、話者は恋人にサロンで演奏させようとか採譜しようとか言っているのではありません。やはり進んで「お鳥目」を投げたい、これぞという演奏家はいるのであり、それはまさに一考さんの仰言る「藝」であって、それと、たとえどんなに愛しくとも恋人が二人だけの時に弾いた下手なピアノを同列に並べてはいけないだろうと思います。おっと、軽く御礼のご挨拶のつもりで書き始めたのが、いつのまにか一考さんの術中にはまって長々とまたまた駄文を連ねてしまいました。こちらこそ妄言多謝と繰り返して、本日はここにて打ち止めといたします。
Old PCI MacにOS X をインストールする方法は
http://fujisawa.org/mac/RyanRempel/OldWorld/Instructions.html
に記述されています。
ただ危険を伴うので、ハードディスクのパーティションに充分気をつけて作業するべきです。
下手するとハードディスクが論理的に壊れます(フォーマットすればなおるという意味)。
一考さま
ありがとうございます。精進していきたいと思います。
ダンセイニと芥川の比較論、もし、ご感想などいただける
と幸いです。
管理人様よりの二度の三月危機についての御言葉は曇天の霹靂と申し上げましょうか。
失礼ながら過去ログ落ちする前にしばしカキコさせてください。
~危機は杞憂のうちに過ぎ去って戴きたく存じます~
数年前、東京から数百キロ程西で、似たようなお言葉を伺ったような気がします。続いてのお話は「北への旅立ちが始まる」。往時の目標地点は北海道。北海道はライダー天国ですから、やはり夏はツーリングの合い間の開店でしょうか。でも札幌は遠いですね、関東からですと。しかもカシオペアは言うに及ばず飛行機も北斗星も高価です。
西での移転準備直前の営業日は喧騒が渦巻いていたと記憶しています。その日まではいつものように淡々と過ぎてゆきましたのに。時折、”東京だったらこういう事は起きないのだろうな”などと感慨に耽っていました。夜になっても暗いままの入り口の前では色々思い出しました。素晴らしい先輩方の末席にお邪魔できて、多くのことを教えて戴きました、と。
さて、昨日頂戴しましたマッカランのファースト・エディション、十年もの、五十八度のカスク・ストレングス。通常のオフィシャルと比べて、大胆に突き抜けた特徴と申しましょうか、個性がはっきりしていて興味深く戴きました。またそのうち、シェリー樽仕上げのモルトなど御相伴に上がりたく。
ですが、お邪魔しようとしても満席で入れない方が幸せかも(^_^)
櫻井さんへ
ご心配をお掛けして申し訳ない。去年は三度店を畳んで北上しようかとおもったのですが、某編集者と某出版社と某広告屋さんのご厚意により、なんとか家賃と維持費は払えました。そのお世話になった方々も当掲示板を読まれています。お名前を掲げてお礼を申し上げたいのですが、どうあっても匿名を望まれるとのこと、どうかよろしくお願い致します。
本年はまず二月が危機でして、生活の予備費と車のバッテリー代等を借用、なんとか乗り切りました。バッテリーはバイク用を連結して使用、オートマ車のため何時エンジンが止まるかという綱渡りの毎日です。日々、充電を繰り返していますので、既にバイクには使用不可。新品が購入出来るまでバイクは動かず、またキャブ使用のバイクなれば、次回動かす時には修理が必要です。従って、手放そうかと思案中。
もっとも、この程度の貧乏は慣れっこにして困窮に非ず。慌てず、騒がず、狼狽えず、パルナシアンの不感無覚の境地に御座います。ですぺらにしましても、とどのつまりは閉店、早いか遅いかの違いのみ。今あるところの境遇を快楽しておれば、やがてはよもつくにから怖いお迎えが参りましょう。与太を飛ばし、シモネタで死神を煙に巻くのを手ぐすね引いて待っているのです。
御指摘のソフトはすべて落としました。OS Xのインストールはパーティーションを切らず、余っているハード・ディスクで試します。どうも有難う御座いました。
Siestaさんへ
わざわざ有難う御座います。東京写真文化館とやら、早速行ってみます。写真はずぶの素人なので、これから横須賀さんに手ほどきして頂こうかと思っております。いずれにしましても、彼の節操のなさには呆れるやら惹かれるやら。私は昔から「芸術家」が大の嫌いで、横須賀さんや佐藤さんのように「芸術家」に対して罵詈雑言を吐く種類の芸術家が好みなのです。入れるかどうかは心許ないのですが、土曜日にはぜひご来店下さい。ちょいとした美人を呼んでおきましたので、乞うご期待。
佐藤さんへ
ちょいと時間が取れましたので、お気に入りのダン・イーディアンのカリラ、東京中の在庫を掻き集めました。とは申せ、その数僅かに10本。取り敢えず、二箇月は大丈夫でしょう。それにしても、貴方のガハハの飲み方は迫力がありますね。荻窪ではよく呑みましたが、国立時代の飲み方を私は知りません。山口正介さん、宇佐美さん、木村さんから噂話はよく聴くのですが、かなり荒っぽかったそうですね。一度、国立のOB会でも催しますか。宇佐美さんは私が編んだツール・ド・フランスの写真集のコピーを書いて下さった方で、博報堂時代からの付き合いです。それにしても、あの二階の喧嘩は頂けませんよ。ですぺらにて美術論を闘わせましょう。
増田さんへ
一昨日偶然、横須賀さん、白鳥さん、高遠さんと役者の揃い踏み、深酒もやむを得なかったのですが、あれから仕事になりましたでしょうか。いささか心配致しております。
あれもこれもは叶わず、屡々優先順位が入れ替わるのが人生です。今般、その優先順位に若干の移動があり、些か自由時間が取れるようになりました。
昨日もキャピトル東急にて友人が催すパーティに初参加、いろいろと教わるところ大でした。複数の友人が頻繁に催すテイスティングの会、モルト・ウィスキー愛好家の会、バーテンダーの会、モルト・ウィスキーを扱う業務店の親睦会、輸入商社が催す研究会、赤坂のオーナー会等々、土日に集中するので断り続けて来たのですが、これからは全面的に参加することに致しました。今月も31日以外の土日はすべて詰まりました。
ネット上でモルト・ウィスキーの情報を得ることはほとんど不可能だったのですが、これからはウィスキーに関する情報の質と量が大きく変化します。迷惑をお掛けしている原稿も進陟するかと思います。半年ほど情報蒐集に専念すれば大丈夫、御期待に応えますだ。
ですぺらに集う怪獣者のみなさんへ
大変です。こんな素敵な上映が一月あまりラピュタ阿佐ヶ谷にて行われます。
私はもう毎回でも行くつもりです。
「円谷英二の技」第二期 -日本映画の技術水準の象徴
3月10日(日)~4月20日(土)
三本立てが週代わりです。
放映作品は『ゴジラ』、『ゴジラの逆襲』、『電送人間』、『獣人雪男』、『透明人間』、『モスラ』、『キングコング対ゴジラ』、『怪獣総進撃』、『キングコング対ゴジラ』、『モスラ対ゴジラ』、『怪獣大戦争』、『三大怪獣地球最大の決戦』、『フランケンシュタイン対地底怪獣バラゴン』、『サンダ対ガイラ』、『キングコングの逆襲』、『緯度0大作戦』、『ゲンと不動明王』、『大怪獣バラン』、『日本誕生』、『海底軍艦』、『極楽島物語』、『クレージーの怪盗ジバコ』、『大坂城物語』、『孫悟空』、『地球防衛軍』、『空の大怪獣ラドン』。
詳しくは
http://www.laputa-jp.com/laputa/tsuburaya/index.shtml
一考さんへ
直々のお誘いありがとうございます。しかし、本当に僕などが伺ってもよいのでしょうか。
「入れるかどうかは心許ない」というのはちょっと心配ですが、ここはひとつ一考さんに騙されたと思って伺ってみましょうか。
でも一考さん、伺った際にはちゃんとかまってやってくださいね。
「獣人雪男」は以前大井武蔵野館で一度観ただけですので、観にいきたいと
思います。根岸明美がよかったです。なんでヴィデオソフトが未だに出ない
のでしょうか。
松友さんへ
確かに、東京から数百キロ程西での閉店前の1箇月はいそがしかったですね。日を追って客が押し掛け、最後の一週間は客を追い返す有様でした。でも千秋楽で私が怒っていたのもご存じでしょう。理由は言うまでもないと思います。あの日はお客を限定し、無料で朝まで飲み明かすつもりにしていました。その旨を明記もしていました。而るに・・・・・悲しい思いをさせられました。まあ、過ぎ去ったことはどうでもよろしい。
秘めた事情が御座いまして、赤坂の店は何千万円維持費が掛かっても、そう簡単に閉鎖するわけには行かないのです。でも「北への旅立ち」を始めてしまったのも事実です。何年後になるかは分かりませんが、ライダー・ハウスは出版同様、撤回出来ない私の意志なのです。私にとって一番大事なのは勃起行ならぬ北帰行ですからね。梅子さんは反対していますので、その時が来れば彼女はきっと屋久島へ旅立つでしょう。
先だっての書き込みでバイクを売ろうかと書きましたが、けしからん話ですね。東京へ来てから四輪などという下らない乗り物に深入りしたようです。自転車であれ、単車であれ、二輪車に惹かれて北海道詣でを繰り返す、根っからのライダーだった筈なのですが。
いつぞや、西明石で走り屋仲間に頼まれて正月に店を開けました。私がバイクなら、お客も皆バイク。ハーレーにBMW、ドカにW1&W2がずらりと並びましたっけ。貴方のKAZE号もね。例のハーレーのレーサー・レプリカはなんて言いましたっけ。CXLRでしたっけ、迫力有りましたねえ。ハーレーのウイリーなんぞ初めて目にしました。当時はへべれけでバイクを転がしていました。兼武と暴走族を蹴散らしたこともありました。兼武さんもうさぎさんも、近頃は空手の県大会に出場していません。仕事に追われているんですかねえ。
暫し他のことにかまけておりましたが、今年からはケンタウロスに復帰の予定、近く走り出しますぞ。奥多摩を爆走するBMWをご覧あれ。
一考様
力強い御言葉、と申し上げて宜しいでしょうか、ありがたく拝聴いたしました。
北のライダーハウスは梅子様はお見えにならないのですか~?とても悲しぅございます(;_;)/~~~ 寒い環境は御麗人方には厳しいですものね。いや、爆音は嫌いっっ、の意ならば、モー省。しませんと。屋久島は鹿児島県は種子島の西隣、暖かそうです。土地の焼酎「太古屋久の島」もあるのですね。
ここ数日暖かい日が続きますが、今年は暖冬傾向なのでしょうか。数年来、冬は空調は使わず、よって暖房器具は持っておりません。お湯を飲んで寒さを凌いでいますが、ある程度の寒さですと緊張のせいか眠りが浅くなります。このあたりを耐えしのぐ術など、お伺いした折に御教授戴ければ幸いです。では。
かつて「大井武蔵野館評論家」と異名を取った御邪魔ビンラディンの主観に基づいて、今度のラピュタ阿佐ヶ谷の円谷英二特集について、簡単なコメントを加えましょう。これは、わざわざつまらない作品を見るために阿佐ヶ谷くんだりまで出かけて、帰りはヤケ酒を飲んで「アサガヤリ」なんてならないようにという御節介から来るものであります。
まず、15日からの「電送人間」「獣人雪男」「透明人間」は、それぞれに見ごたえがありますが、作品自体の面白さでは「獣人雪男」がやや劣っている模様です。「獣人雪男」や石井輝男の「恐怖奇形人間」がヴィデオ化されないのは、おそらく(売行見込<トラブル処理経費見込)という不等式によるものですが、それならなぜ、曲谷守平の究極のゲテモノ映画「九十九本目の生娘」(新東宝1959)がヴィデオ化できたのだろうか、と不思議に思わない人は少なくないでしょう。(いまは廃盤)……と、25作品全部に対してこんな具合にやっていると、こっちはともかく、読む方が疲れてしまうから、お勧め作とそうでないものとを挙げるにとどめましょう。
まず、特撮を期待して行くと損するのは、意外や稲垣浩監督の三本。「ゲンと不動明王」は、今の目で見ると、三船敏郎が不動明王の格好をしてラスト近くで踊るのだけが見ものというトンデモ映画ですし、「日本誕生」も「大坂城物語」も、ウェルメイドな「娯楽大作」ながら、いまひとつの面白みに欠けている。戦前の巨匠稲垣浩がこの程度であるからして、当時の黒澤明が、同時代的に見ていかに抜きん出た監督だったかというのが、逆説的に納得できますね。
今回の特集の作品としてのベスト5は「ゴジラ」、「空の大怪獣ラドン」、「地球防衛軍」、「モスラ」、「海底軍艦」。それにキングコングもの2作とフランケンシュタインもの2作がつづくといったところでしょうか。
意外な隠し玉が佐伯幸三監督の「極楽島物語」で、川島雄三の「グラマ島の誘惑」と似た雰囲気だなと思ったら、撮影が岡崎宏三で、脚本が長瀬喜伴ではないか! プリントの状態がよければ、最後の噴火シーンだけでも、もう一度見てみたい。
それはそれとして、ラピュタ阿佐ヶ谷の今回の特集チラシで困るのは、「孫悟空」が戦前のエノケン版か、戦後に同じ山本嘉次郎がリメイクしたのり平版かがまったく分からないことです。製作年が「1959(S15)」とあって、キャスト、スタッフ等が全部リメイク版の陣容なのですね。こいつは、「あーのネ、オッサン、わしゃかなわんヨー」だ。
昨年、「小林信彦が選ぶ100本の日本映画」というのをここで特集したときの中川信夫監督「エノケンの頑張り戦術」のプリントは、はたして「防弾チョッキの人体実験」のギャグが入った完全版だったのかどうか(昔見た完全版を再見しようと思って、ニュープリントと称するやつを見に行って、まったく別の映画館でこのギャグのカットされた短縮版を2回見た!)、どうも細かいところばかりが気になる御邪魔ビンラディンなので、あった。
先日の高遠弘美先生の書き込みで、みすず書房の新刊、サイードの「戦争とプロパガンダ」の数字表記の不統一と訳文を批判された文章に、一応は賛成の意を表しましたが、ようやく該当の本を入手するに及び、あれは必要以上に厳しい批判ではないかと思うに至りました。
小生の「幻想文学」誌上における書評ぶり(さいきん、原書との照合をしている間にいつのまにか締め切りを過ぎてしまうというのが何度か続いて、ちょっとサボりがちですが)を御存知の方からは、あるいは意外の感をもたれるかもしれませんが、省みて他を言うの批判は甘んじて受けることとして、ここにその理由を述べてみようと思います。
まずは、数字の表記。たしかに、あれは読みにくい。しかし、あの読みにくい表記の中にも、一応の統一性は存在しています。日本エディタースクールの『校正読本』の中に、数字表記にいくつかの方法が存在することが示されていて、その中のひとつに当てはまるようになっているので、困ったちゃんなのです。「数字は原則としてそのまま漢数字に置き換えるが、月日や概数を示す場合には例外を認める」といったやつですね。「わざわざ読みにくく書くな、バカヤロウ!」と常識と文章上の美意識をもって批判することは可能ですが、「統一性がない」という批判は、的が外れているように思います。
次に訳文に対する「推敲不足」という批判は、原文を見ずしても、まさしくそのとおりだと言えます。この点については、異論の余地はありません。(なお、このサイードの「原本」は、まだ海外では上梓されていません。向こうの雑誌に発表された文章を集めて翻訳・編集したもので、かつてのカミュ=サルトル論争を佐藤朔さんが編集・翻訳した『革命と反抗』のような構成だと考えていただければよろしい。)達意の翻訳のために心血を注ぐ高遠先生のような方から見ると、たしかにアラが目立つのは仕方がない。しかし、法政大学出版局から出る翻訳の大部分に比べると、これでも何割方かは分かりやすいのではないですか。また、先日御指摘のあった部分なども、前後関係からの類推を行えば、ピンぼけながらも、ある程度の意味(らしきもの)を察することは可能です。しかも、日本の社会科学書や人文科学書の翻訳の過半は、この訳文と同程度のレヴェルにすら達していないといういまひとつの事実が見落とされてはいないでしょうか。 あるデータや考え方をいちはやく日本の読者に示すジャーナリスティックな性質を求められる本の翻訳と、文芸書のように味読すべき日本語による訳文が要求されるものの翻訳に、同じ仕上がりの質が求められるべきであるかというと、わたしはいささか懐疑的です。 それから、インタヴューの一人称代名詞が「ぼく」だというのも、小林信彦さんや故植草甚一さんなどの「語り」を連想すれば、さほど不自然ではないでしょう。
高遠先生のような優れた翻訳の実践者が、これが自分のレヴェルにはるかに及ばない翻訳であると指摘することによって、いままさに読まれるべき、鬼畜米英(同時多発テロへの報復戦争で、何倍もの犠牲者を出すことを正当化した時点から、わたしは古式ゆかしい「鬼畜米英」なる言葉を愛用することにしています)とシオニストの悪辣非道ぶりを世に示す好著が読者を失うことの方をわたしは危惧します。
あえて「みすず書房の弁護」を試みるゆえんです。
本日(14日)~19日(火)まで、新宿・紀伊国屋書店4階の紀伊国屋画廊 (TEL=03-3354-7401)で、「第21回エコール・ド・シモン人 形展」開催です。 エコール・ド・シモンで四谷シモンに学ぶ人たちの作品が中心の展覧会ですが、 四谷シモンの新作「PORTRAIT DE PETITE FILLE 2002」も展示されておりま すので、新宿にお出かけのさいは、ぜひお立ち寄りください。 夕方は、四谷シモン本人や私も会場に詰めていると思います。 (開場10:00~18:30。ただし最終日は18:00まで) ちなみに、「PORTRAIT DE PETITE FILLE 2002」は、案内状の写真より別嬪 に仕上がっていると思います♪
御邪魔ビンラディン伊藤さんへ
伊藤さんへの反論として、高遠さんが公明新聞に著された「誤った言語表現」は有効ではないかと思います。スイスの仏語紙「ル・タン」社で、記者の誤字脱字や文章のミスなどに罰金を科すことになったとの紹介からはじまり、読者や視聴者の言語生活に大きな影響を与えるであろうテレビや新聞の公器としての自覚のなさを指摘、ら抜き表現や「全力を投球」と言った、いわゆる「日本語の乱れ」に警鐘を鳴らす。次いで、「言語は変化する」「民衆が言語を決める」式の訳知り顔を糾弾し、哲学も歴史も政治も教育もすべては言葉が基本であると結論付けています。
伊藤さん御指摘の日本エディタースクールの「校正読本」の規則に叶っているからと言って、それが「統一性」と取られては困ります。私自身、同スクール出身の編集者とはトラブル続きです。漢字におけるヒラクとトジルの不統一、送り仮名の不統一、不変化語尾の不統一、さらに差別用語等々、私に言わせれば「勝手にしやがれ」で御座います。二言目には統一、統一と宣い、文章上の美意識等どこ吹く風、「なら、てめえが書けよ」と開き直りたくなります。女人からのお咎めとしての「小さな親切大きなお世話」ならよろしいのですが、相手が編集者では興醒めです。岩波の外校の資格ならいざ知らず、そもそも編集者になるに際しエディタースクールへ通うという余人の無自覚さと無責任さが苛立たしく思われます。「鬼畜米英」と共に「駆逐エディタースクール」もわが標語の一なのです。
「日本の社会科学書や人文科学書の翻訳の過半は、この訳文と同程度のレヴェルにすら達していないといういまひとつの事実が見落とされてはいないでしょうか」と御座います。レヴェルに達しようが達しまいが、それが事実であろうがなかろうが、駄目なものは駄目ですよ。かかる論法を用いれば、アメリカよりはイスラエル、イスラエルよりはイギリス、イギリスよりは日本の方がまだましだから許そうかと言うことになりかねません。
「ジャーナリスティックな性質を求められる本の翻訳と、文芸書のように味読すべき日本語による訳文が要求されるものの翻訳に、同じ仕上がりの質が求められるべきであるかというと、わたしはいささか懐疑的です」結句は伊藤さんらしからぬ文言かと思います。誤った言語表現が紙面の質の低下に繋がるは必定。タレントだから、別嬪だから、学生だから、もしくはワイドショーだから、娯楽番組だから、週刊誌だから、新聞だからと言って追求の手を弛めると、勝手に「言語は変化」して行きます。活字は同時通訳とは異なるのです。高遠さんの言う「哲学も歴史も政治も教育もすべては言葉が基本」その根柢を蔑ろにして、どこに文化が、文明が存立するのでしょうか。
文中に示唆された懐疑の向かう方向性に些かの危惧を覚えます。人の思惟すなわち懐疑の原点とも称すべき言葉の問題には優先権が与えられて然るべきかと思います。例え、それが理由で鬼畜米英とシオニストの悪辣非道ぶりを世に示す好機が喪われたとしても。
なぜなら、確たる言語文化すなわち懐疑精神を持たないが故に、アメリカのような史上最悪のテロリズム国家を信じ、パレスチナの人々の涙に気付かないのです。なすべき啓蒙は未だ端緒にも至らず、状況は悪化の一歩です。人類の明日に期するものは何もあらず、しかし何か致さねば。
先回カキコ予告の通り、久方ぶりにdesperaさんにてとても美味しいお酒を頂戴しました。
一杯めは、クール・ダウンにシャンパーニュのランソン・ブラックラベル・ブリュット、ミニ・ボトル。生き返ります。暖かめのこの頃では、贅沢なリフレッシュです。そして本題。
モルト一杯め。シェリー仕上げ好きとしては外せない一本。
スプリングバンクのシグナトリー、ファット・ボトル。敢えて年数を記すのは躊躇します。かつて西の地で僅かな残りを顰蹙を買いながらもあまりの美味さに飲み尽くしてしまいました(本当)。勿論、いくら寝惚けた鼻と舌でもウエスト・ハイランドが美味しいとは存じます。ローカル・バレーも同様に。ですが、両方ともとても高価でそうそう飲めませんですよ。翻ってこちら。この香り・味にして、この価格、悦楽。たまりませんです。
モルト二杯目。お鼻と口が気分爽快のこちらはオーク樽。
スプリングバンク、シグナトリーのノン・チル・フィルタードの11年もの。若い色してます。シェリー樽と違ってやはり色の出方が薄いのでしょうか。これがまた面白い味で嬉しいです。スプリングバンクは往年の(細長首の)17年ウェッジウッド・デキャンター(黒ラベル)のように、辛くて険しい風味が楽しみとも思っていました。オークの美点でしょうか、こういった荒々しいとも取れる鋭さが残っているように感じました。いや、これもシグナトリーへの偏愛のせいかしら?
モルト三杯目。気持イイですけど、もはや電車が危ないです。
アードベック1975年、ミルロイのシェリー、25年、カスク。一考さんに秘密のボトルを教えていただいて、頂戴しました。ミルロイの記念ものとかは外れが少なく、高水準と思っておりました故、期待大です。初めて戴きましたが、今日の一番といえるモルトです。シェリー仕上げのまろやかさを保ちつつ、アードベックの遠慮会釈の無い香と味が青年の主張宜しく若々しくもたげてきます、驚きです。
今一度、是非一杯目に頂戴したいです。
あ、終電が。今宵はここまでで。では失礼します。m(_ _)m
手厳しい御指摘ありがとうございます。
じつは、昨日、精神分析学者と一緒にラカンを読む会などというのに顔を出したところ、「今日はあの書き込みの文章を話題としよう」ということになりまして、出席者一同から、「あの文章では、実は高遠弘美先生の意見がいかに正しいかを逆説的に言っているだけで、ちっとも『みすず書房の弁護』にはなっていないね。」、「結局、全体は前振りで、一番言いたいのは『鬼畜米英とシオニストの悪辣非道ぶり』という言葉なんじゃないですか。おれはビンラディンだぞと主張するために……」と、こちらの本音をすっかり見抜かれていました。
たしかに高遠弘美先生に対する実質的な異議申し立ては、「一人称代名詞は『ぼく』でもおかしくないぞ」ということと、「原書が出ていないのに最後のキメ台詞はないだろう」という2点のみに限られています。(あの書き方が高遠先生への皮肉やアテツケと取られるようであったら、小生の文章力不足ゆえの無礼というやつであります。非礼の段は御海容を乞う次第です。)
日本エディタースクールの『校正読本』の中に示されている数字表記の統一性などよりも、読者の「わざわざ読みにくく書くな、バカヤロウ!」という文章上の美意識による批判の方が正当な根拠となるのは自明の理ですが、「統一がないのが気になる」という言い方では、この自明の理が前面に出てこないではないですか!(ここでボオドレエルの「鏡」という散文詩の最後の一文を思い出してください。)
それから、あの本の訳文の「推敲不足」は、思うに商品としての価値の有無という点で、ボーダーライン上にある性質のものですが、そうなると、御邪魔ビンラディンとしては、「この種の本は、箸にも棒にもかからないほどのホンヤクでなければ、ぜひとも多くの読者に読まれるべきだ」というタテマエ論の方が前面に出てきて、点数が甘くならないわけには行きません。しかし、かかる「政治的配慮」に足をすくわれて、あたら多くの才能が失われていったことも事実で、小生がそうなりつつあるのではないかという御心配には、感謝の意を表しなければならないと考え、あえて蛇足めいた一文を投稿する次第です。
松友さんへ
一杯目ののランソンは間違いなく、同じクラスならドン・ペリより旨いシャンパンです。私はランソンがサントリーの扱いであるとの理由だけで、サントリーを高く評価しています。
スプリングバンクのシェリー・カスクは12年と21年のみ、それ以上の熟成年数を持つバンクは原則としてアメリカン・オークです。ちなみに、シグナトリー社のファット・ボトルのアードベッグはオロロソ・カスクの30年ものですが、珈琲のような色と渋味を有しています。
シェリー樽での長期熟成にはちょいと無理が生じるようです。従ってシェリー・カスクと言っても、タリスカーの21年ものカスク・ストレングスや貴方が飲まれたミルロイ社のアードベッグはフィノ・シェリーの樽を用いています。
ニュー・ブルイックラディの長期熟成品はさまざまな樽で熟成されたモルトを混ぜ合わせたものですし、マッカランのオフィシャルの30年~50年ものはリフィール・シェリーをはじめ、やはり同じ蒸留所の各種モルトをヴァッティングしたものです。ボトラーのボトルと異なり、オフィシャル・ボトルはすべてがヴァッティングのため、かかる操作が可能になります。ダーク・シェリーの樽のみで30~50年と寝かせますと、上記アードベッグのような結果となってしまうのです。今回のマッカランのニュー・カスク・ストレングスにしましても、10年だから美味なのであって、あと2年寝かせれば渋味が勝って飲めなくなります。
話序でに、オーナーが代わったブルイックラディ蒸留所について一言。
旧オーナーのインヴァー・ゴードン社は在庫をドル・シャン・アイラの名でボトリング。2002年初頭、40度の10年ものが頒されました。香味は旧ボトルと同一です。
新オーナーのマーレイ・マクデヴィッド社はボウモアのジム・マクイーワン氏をトレード。2001年5月21日に操業を再開した蒸留所は2002年3月に新しいオフィシャル・ボトルを頒布しました。アイラ・モルトとしては初めてアイラ島の水を仕込用水に用い、アルコール度数は46度、カラメルを一切用いないナチュラル・カラーが謳い文句です。
ニュー・ブルイックラディの10年ものは60%がリフィール・シェリー、40%がアメリカン・オーク。15年ものは85%がアメリカン・オーク、15%がオロロソ・シェリー。20年ものは100%がアメリカン・オークです。
ペーパー・フィルターのみでチル・フィルターを施さないことによって、油分がウィスキーに残ります。特にアメリカン・オーク由来のバニラ香とシェリー樽由来のフルーツ香とのベスト・マッチングの15年ものはジムさん(愉しいアルチュー患者)の面目躍如と言ったところ。理由があって、ですぺらには当座は置きませんので、他店でお飲み下さい。
それ意外にも何種類かのカスク・ストレングスがボトリングされました。そちらはすべてアメリカン・オーク。フレッシュ・バーボン・カスクのボトルは気に入りましたので、ですぺらに置きます。
西の地の時代にはシグナトリー社が素敵なボトルを陸続と売り出していました。現在ではダグラス・マクギボン社とダグラス・レイン社が華を競っています。とは言っても兄弟会社。レイン社が50度のプリファード・ストレングスを、マクギボン社が43度に加水したアイテムとカスク・ストレングスを頒しています。そこへもっか殴り込みをかけているのがイアン・マクロード社と言うことになりましょうか。いずれにせよ、オフィシャル・ボトルより安価で、より旨いモルト・ウィスキーが飲めるのですから笑いが止まりません。
ところで、私は14日は閉店後、六本木にて編輯の仕事。貴方は終電に間に合ったのですか。
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