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先日の高遠弘美先生の書き込みで、みすず書房の新刊、サイードの「戦争とプロパガンダ」の数字表記の不統一と訳文を批判された文章に、一応は賛成の意を表しましたが、ようやく該当の本を入手するに及び、あれは必要以上に厳しい批判ではないかと思うに至りました。
小生の「幻想文学」誌上における書評ぶり(さいきん、原書との照合をしている間にいつのまにか締め切りを過ぎてしまうというのが何度か続いて、ちょっとサボりがちですが)を御存知の方からは、あるいは意外の感をもたれるかもしれませんが、省みて他を言うの批判は甘んじて受けることとして、ここにその理由を述べてみようと思います。
まずは、数字の表記。たしかに、あれは読みにくい。しかし、あの読みにくい表記の中にも、一応の統一性は存在しています。日本エディタースクールの『校正読本』の中に、数字表記にいくつかの方法が存在することが示されていて、その中のひとつに当てはまるようになっているので、困ったちゃんなのです。「数字は原則としてそのまま漢数字に置き換えるが、月日や概数を示す場合には例外を認める」といったやつですね。「わざわざ読みにくく書くな、バカヤロウ!」と常識と文章上の美意識をもって批判することは可能ですが、「統一性がない」という批判は、的が外れているように思います。
次に訳文に対する「推敲不足」という批判は、原文を見ずしても、まさしくそのとおりだと言えます。この点については、異論の余地はありません。(なお、このサイードの「原本」は、まだ海外では上梓されていません。向こうの雑誌に発表された文章を集めて翻訳・編集したもので、かつてのカミュ=サルトル論争を佐藤朔さんが編集・翻訳した『革命と反抗』のような構成だと考えていただければよろしい。)達意の翻訳のために心血を注ぐ高遠先生のような方から見ると、たしかにアラが目立つのは仕方がない。しかし、法政大学出版局から出る翻訳の大部分に比べると、これでも何割方かは分かりやすいのではないですか。また、先日御指摘のあった部分なども、前後関係からの類推を行えば、ピンぼけながらも、ある程度の意味(らしきもの)を察することは可能です。しかも、日本の社会科学書や人文科学書の翻訳の過半は、この訳文と同程度のレヴェルにすら達していないといういまひとつの事実が見落とされてはいないでしょうか。 あるデータや考え方をいちはやく日本の読者に示すジャーナリスティックな性質を求められる本の翻訳と、文芸書のように味読すべき日本語による訳文が要求されるものの翻訳に、同じ仕上がりの質が求められるべきであるかというと、わたしはいささか懐疑的です。 それから、インタヴューの一人称代名詞が「ぼく」だというのも、小林信彦さんや故植草甚一さんなどの「語り」を連想すれば、さほど不自然ではないでしょう。
高遠先生のような優れた翻訳の実践者が、これが自分のレヴェルにはるかに及ばない翻訳であると指摘することによって、いままさに読まれるべき、鬼畜米英(同時多発テロへの報復戦争で、何倍もの犠牲者を出すことを正当化した時点から、わたしは古式ゆかしい「鬼畜米英」なる言葉を愛用することにしています)とシオニストの悪辣非道ぶりを世に示す好著が読者を失うことの方をわたしは危惧します。
あえて「みすず書房の弁護」を試みるゆえんです。
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