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一考 | 駆逐エディタースクール

 御邪魔ビンラディン伊藤さんへ
 伊藤さんへの反論として、高遠さんが公明新聞に著された「誤った言語表現」は有効ではないかと思います。スイスの仏語紙「ル・タン」社で、記者の誤字脱字や文章のミスなどに罰金を科すことになったとの紹介からはじまり、読者や視聴者の言語生活に大きな影響を与えるであろうテレビや新聞の公器としての自覚のなさを指摘、ら抜き表現や「全力を投球」と言った、いわゆる「日本語の乱れ」に警鐘を鳴らす。次いで、「言語は変化する」「民衆が言語を決める」式の訳知り顔を糾弾し、哲学も歴史も政治も教育もすべては言葉が基本であると結論付けています。
 伊藤さん御指摘の日本エディタースクールの「校正読本」の規則に叶っているからと言って、それが「統一性」と取られては困ります。私自身、同スクール出身の編集者とはトラブル続きです。漢字におけるヒラクとトジルの不統一、送り仮名の不統一、不変化語尾の不統一、さらに差別用語等々、私に言わせれば「勝手にしやがれ」で御座います。二言目には統一、統一と宣い、文章上の美意識等どこ吹く風、「なら、てめえが書けよ」と開き直りたくなります。女人からのお咎めとしての「小さな親切大きなお世話」ならよろしいのですが、相手が編集者では興醒めです。岩波の外校の資格ならいざ知らず、そもそも編集者になるに際しエディタースクールへ通うという余人の無自覚さと無責任さが苛立たしく思われます。「鬼畜米英」と共に「駆逐エディタースクール」もわが標語の一なのです。
 「日本の社会科学書や人文科学書の翻訳の過半は、この訳文と同程度のレヴェルにすら達していないといういまひとつの事実が見落とされてはいないでしょうか」と御座います。レヴェルに達しようが達しまいが、それが事実であろうがなかろうが、駄目なものは駄目ですよ。かかる論法を用いれば、アメリカよりはイスラエル、イスラエルよりはイギリス、イギリスよりは日本の方がまだましだから許そうかと言うことになりかねません。
 「ジャーナリスティックな性質を求められる本の翻訳と、文芸書のように味読すべき日本語による訳文が要求されるものの翻訳に、同じ仕上がりの質が求められるべきであるかというと、わたしはいささか懐疑的です」結句は伊藤さんらしからぬ文言かと思います。誤った言語表現が紙面の質の低下に繋がるは必定。タレントだから、別嬪だから、学生だから、もしくはワイドショーだから、娯楽番組だから、週刊誌だから、新聞だからと言って追求の手を弛めると、勝手に「言語は変化」して行きます。活字は同時通訳とは異なるのです。高遠さんの言う「哲学も歴史も政治も教育もすべては言葉が基本」その根柢を蔑ろにして、どこに文化が、文明が存立するのでしょうか。
 文中に示唆された懐疑の向かう方向性に些かの危惧を覚えます。人の思惟すなわち懐疑の原点とも称すべき言葉の問題には優先権が与えられて然るべきかと思います。例え、それが理由で鬼畜米英とシオニストの悪辣非道ぶりを世に示す好機が喪われたとしても。
 なぜなら、確たる言語文化すなわち懐疑精神を持たないが故に、アメリカのような史上最悪のテロリズム国家を信じ、パレスチナの人々の涙に気付かないのです。なすべき啓蒙は未だ端緒にも至らず、状況は悪化の一歩です。人類の明日に期するものは何もあらず、しかし何か致さねば。 



投稿者: 一考    日時: 2002年03月14日 20:16 | 固定ページリンク





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