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高遠さんへ
文学のちから、文学のいのちに就いて著された高遠さんのエッセイは「みだりに行分あやしく、論理の精彩を欠き、リズムの乱れた散文など読むに値しない。達意はもとより散文のいのちである」との文章から書き起こされています。プリズムに乱反射した輝きがやがて一点に消え入るように収斂されてゆく、30枚の彩なす種村論の校正刷りに改めて酔わせて頂きました。編輯者冥利に尽きるとはかかる酔いへの逢著を指します。どうも有難うございました。
エッセイにとって最も大事なことは、何を対象にしたかではなく、いかに捉えいかに料理したかという点だと思います。自らの意図を行き届かせるのが調理であり、割烹であり、作法でなければ何なのでしょうか。
もちろん、対象への好悪すなわち選択もひとつの立場の闡明にはなります。しかし、それをもって佳とするならば、書物は目次のみにて結構ということになりかねません。オマージュをのみ著すのであればともかく、悪口や罵詈雑言が内包するエネルギーにも私がごとき俗物は惹かれのです。例えば荷風が逝った時の足穂の文章など、思わず快哉を叫びたくなるような逸文もあるではないですか。おそらく、オマージュの香辛料としてもっとも有効なのは悪口ではなかろうかと、貴方の達意の文章を読ませて頂いての感慨でございます。
私は鏡花が好きで「鏡花論集成」のような書物を編んだこともあるのですが、同書の編輯に関して今では異なる意見を持っています。あの書物の中身を編んだのは私が二十歳の時です。若い頃は雑読期ですから、あのような書物の編輯も可能だったのですが、今なら時間が勿体ないのです。
ぎりぎり自分が述べたいこと、即ち料理法、思想、歴史観を著すのに時間は費やされて然るべきではないかと思うようになったのです。また、その料理法や思想や歴史観等を包括する弁証法が文学というふうに解釈致しております。
エッセイとは自らの立脚点を詳らかにするために書き始められるのかもしれませんが、結果は必ずしも思う方向に向かうとは限りません。重箱の隅をつつく種類の書誌学は論外として、対象と斬り結ぶとは自らの存在が「消え入る」ような虚しい行為ではなかろうかと、昨今の私は思っています。そもそも、立脚点や立ち位置なるものほど訝しく如何わしいものはないのではないかと。
「立場の闡明」と前記しましたが、この「闡明」との言葉には「立場」との枕詞が常に取り憑いているように思われます。消息を鮮明にすればするほど、繰り返されるのは至らなさであり、自己の解体なのではないでしょうか。
季節はとどめなく流れ、固着し定着するかりそめの場すら持ち合わせず、為す術もなく徒に拡散してゆく自分を眺めやるのみ。宇野さんの影響もありましょうが、ドゥルーズに読み浸るようになったのも、そのような理由からなのかもしれません。
贅を刮げ、衒いをなくし、含羞を湛えた透き通るような弧絶感の中に死んで行った多くの先達を私たちは識っています。自らの思想と自らの生き方とが交錯し、照応し合うような季節がいつの日かたとえ一瞬でもよろしいから立ち顕われないかと、これは私のささやかな夢なのです。
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