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フーリエの使者 | 亀鳴屋

亀鳴屋のホームページがありますね。ヤフーで一発でした。金沢では、名の知られた方のようですね。



投稿者: フーリエの使者    日時: 2001年11月24日 10:02 | 固定ページリンク




一考 | 心にもあらざる記

 ゆきちさんへ
 自分というのは人が望むところのものでしかない、というのが私の持論です。自分が自分の思っているような人間であるかどうかは自分にはなにも判りません。人が判断するところの自分が常に正しい自分の像なのです。これは松友さん宛の文章で著した賓辞の問題と同じことなのです。いついかなる状況にあろうとも、判断を留保し行使するのは他者なのです。どうしても酷い誤解があるというのであれば、五解を六解に七解にしつらえ、自らの快楽の対象にしてしまえばよろしいのであって、「そないなこと書くな」では些か見苦しくはありませんか。男の子はもう少しダンディに行きましょう。また、人の意見に対して異議があるのであれば、どうどうと議論すればよろしいのであって、それを「余計なこと」とか「いじめ」と退けたところでなにも始まりますまい。繰り返しますが、他人にかく見られたいという望みがもし有るのであれば、自らの立ち居振る舞いを然るべきものに改めるのが先決かと、爺トドからの心にもない親切心です。



投稿者: 一考    日時: 2001年11月24日 20:30 | 固定ページリンク




金光寛峯 | 藤沢せいぞう貧乏小説集


藤澤清造は朝日書林の全集刊行の広告を見て以来 (まだ出ていないようで
すが)、こんな作家がいるのかと気になっていた一人でした。表紙がつげ
義春というのも狙いすましたかのごとき人選で嬉しいです、一冊頂戴した
く存じます。



投稿者: 金光寛峯    日時: 2001年11月24日 20:33 | 固定ページリンク




如月 | ウイルス情報

昨日、私のメールボックスがウイルスに汚染されてしまいました。 このため、これまでメールの遣り取りをしたことのある人すべてに私の名 (実名)でウイルスメールが送られてしまったようです。 あやしいメールが届いた人は、すぐに削除してください。 なお、このウイルスの被害状況等は、拙掲示板に書きこんであります。



投稿者: 如月    日時: 2001年11月28日 13:11 | 固定ページリンク




一考 | 敷衍曲

 奥歯さんへ
 敷衍曲と題するつちのこ編集者の戯れ言第三弾。例によって、奥歯さんへ託けての戯れです。

 かつて郡司正勝さんは日経新聞の「オリジナリティーとはなにか」とのアンケートに応えて一言「オリジナルなんてありません」。また貴女がお好きな澁澤さんはオリジナリティーを過価なるものとして嗤い飛ばしていました。確かに貴女が仰有るように、文学と哲学にはパラフレーズとの言葉が似合います。ただし、敷衍ではなく、敷衍曲の方がより相応しいでしょう。
 金子千佳という詩人を私は存じ上げませんが、結構な詩です。男女の稟質の違いがよく表現されていると思います。素敵なイントロです。

 第一節からはじめましょう。まず『「人が考えたから考えなくて済む」をいうわけにはいかない領域こそが哲学であり文学』であるとの御指摘。「いうわけにはいかない」を「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」と転じ、「言えねえところが文学よ」と結ぶ方が通りがよくなります。冗談はさておき、物理学にせよ天文学にせよ、大方の学問は類推の上に成り立ちます。例えば天体の運行をつぶさに観察し、任意の一点にブラックホールがなければ、運行の整合性が得られないと言った案配です。現象を統一的に説明することが可能な仮説をまず打ち立て、それを検証し、妥当するところの真理を導き出すのです。
 一方、人間には先天的な概念と後天的な概念とが混在します。でも、人生に仮説としての設計図はないのです。人はまず存在ありきで、生きて行く課程で双方の概念が絡み合って概念構成がなされて行きます。サルトルが示唆したことは半分正しく、半分は間違っています。その問題点の整理は後日述べるとしましょう。
 文学は書き手個人の倫理観、価値観、歴史観を綴るものであって、アナロジーもしくは一般化とは所詮馴染まない領域のものです。三島由紀夫の死と共に三島の文学も終了するのであって、三島文学とは三島由紀夫の存在そのものだと申せましょう。要するに、百人の物書きが居れば、百通りの文学が存在するのです。だとすれば、他者が著した文学なり哲学を以て自らを諾うには常に危険が伴います。特定の他者にいくら恋い焦がれたにしても、すべてのシチュエーションが重なり合うような人生はおそらく望むべくもないからです。仮に体験に頗る似通ったところがあるにせよ、それを読み換える変換機能としての内的体験までが同じというのはおおよそあり得ないことです。従って、文学にあっては他の学問に見られるように類推が入り込む余地はほとんどないのです。
 「人が考えたから考えなくて済む」のが思惟の結果なら、その推論は個人の否定になりますし、そうでなければ、内包した自家矛盾にも気付かない不自然な存在、即ち馬鹿者ということになります。いずれにせよ、支配されるのを望むファシズムの立派な構成要員なのです。もちろん、考えたからと言って何が解決されるわけでもないのですが、それに関する発言は後段に譲ります。今一つ、類推とイマジネーションの問題がこれでは解決されませんが、属性に関する類似の否定が、イマジネーションを羽ばたかせるのではないかとだけ指摘しておきます。

 第二節と第三節は言葉とその概念の問題です。これはどこかで触れたので繰り返しませんが、「言葉はアリアドネの糸です。思考の軌跡を残しておかなければ同じところをそれと気づかぬまま何度もぐるぐるまわるだけにもなりかねません」の中の「思考の軌跡を残しておかなければ」はとても大事な文言だと思います。ただし、文意は貴女とは異なります。
 「独語録」か「三位一体論」が貴女の脳裏を去来しているのでしょうが、同じところをぐるぐるまわるのは単にその人の頭が悪いだけであって、気付こうが気付くまいが大した問題にはならないでしょう。問題は思考の軌跡です。
 言ってしまえば文学好き、されど思想のない文学なんぞ読みたくもない、そこまでは問題ないとして、考えるとの行為すなわち思考が迷いであり、逡巡であり、躊躇いであると、恐らくこの定義も問題なし。ただし、なにが迷いなのか、なにを持って逡巡とするのか、なにをして躊躇いと名付けるのか、ここには個体差が生じます。その逡巡の過程を取り敢えず試行と名付けましょう。試行を包み隠さず書き著すことによって、読者は筆者の搏動即ち個体差を識ることが可能になります。逆に言えば、包み隠さず綴られた試行は個体差を認識した人の生存の課程であり、まさにドゥルーズのいう流動の相の自ずからなる表明になります。また、搏動とは個としての書き手の生の証しに他ならず、搏動を伴わない文学とはその意の通り、思想のない文学ということになります。……と書いてきて、貴女との亀裂をいつも思い浮かべます。「なぜ、思考が迷いなの」との質問を度々受けます。一方、私はよく懐疑との言葉を用います。私が用いる「懐疑」はヘレニズム時代の懐疑派のそれとは全く異なります。私は個人的平安を与える処世術や思い煩いのない平常心など求めていませんし、判断中止に陥ったこともありません。より重要なのは思考にいかなる形であれ、結果や結論を求めていないという点です。懐疑が思考のエネルギーの唯一の源ではないかと思っているだけなのです。
 自己に懐疑を差し挟まない、言い換えれば、自己を信じて疑うところがない、否これは言い過ぎかも知れません。でも、例え博捜の上、自己の立場を見出したにせよ、状況は同じでしょう。たどり着くとの概念自体が私には胡散臭くかついかがわしいものに思えるのですから。ピュロンが言うように、確かに言葉への不信は人間不信に直結します。そして、真理の探究、本性の認識は不可能だと私も思っています。西洋で哲学がその目標とエネルギーを新たにして甦る時、否定するにせよ、肯定するにせよ、必ずキリストの問題が立ち顕われます。私は日本で生まれ、日本語で育ちました。キリストという概念が希薄ですし、キリスト教の文化と伝統も審らかにしません。でも、好奇心は旺盛です。その好奇心が私にエポケーを拒否させるのです。懐疑の原語である「スケプシス」skepsisというギリシア語は元来探究という意味でした。真理の探究は無理でも、生きた人間すなわち戦友の苦衷には大いに興味を抱きます。この点に関しても後日述べます。

 第四節に問題なし、第五節の「言葉を軌跡としてただ飛べばよい」は貴女らしい詩的な文言ですが、それこそ飛んじゃっています。おそらく「名前、自己同一性、そんな重いもの」からの脱却を示唆しているのだと推察します。昔、安部公房が「砂の女」でこの問題と格闘していたのを憶い出します。弛緩した文学者が陥る二律背反を「夢見のわるい道学者」と論断し、止揚としての実作者を「俳に濡れそぼるシュルレアリスト」と讃じたのは加藤郁乎さんですが、同じ飛ぶなら今少しなりふりを構いましょう。

 第六節の『フラットな世界が「すべては同じ」』には重なり合う問題点があります。私が試みたのは、価値としての等価を認識することによって存在そのものが滲透し合う、言い換えれば、孤独や失意の中に溶解してゆく自分の様を言いたかったのであって、ひいては人の存在には価値がないとの立論を示唆しようとしたのです。ところが、貴女は「同じ」ではなく「すべて」に論点を移しています。私が用いた「すべて」は「人の存在には価値がない」との立言に例外はないということを強調したまでなのです。ここでの「例外はない」は自己に懸かってきます。自己の内部に向かわない思惟なんぞ、机上の空論に過ぎないのですから。幻想文学でも著したのですが「他のいかなる人間とも完全に等価である」ということを識った時、人はまず苦悩に陥ります。「そんなことを認めてしまえば、今までの私は一体なんだったのか」との疑問に逢着するからです。等価は今まで当たり前の存在として容認してきた自分をまず否定することになります。大仰な言い方をすれば、等価への認識は人間存在の極限、絶望の果てを意味します。しかし、かかる境地の向こう側には風通しのよい球形の荒野が拡がっているのですが。
 繰り返しますが、「すべて」との言葉を用いたのは論理的整合性を強調するためではなく、また他者に向けての物言いでもないのです。自分に対して「例外はない」「等し並」であると言い聞かせる、自分自身へのイエロー・カードの随時発行であり確認なのです。同列、同様、一様との文字を私が好んで用いるのも他者と自己を差別したくない、もしくは差別など出来る筈がないとの立言に則ってのことなのです。「すべての存在は虚しい」それが「大雑把すぎ、楽すぎ、危険すぎ」るものの考え方なのでしょうか。

 第七節は難解です。特に「無数の価値体系を同時に持つことによって、どこにも帰属しない無意味なオブジェとしてすくいあげる」この文意は私にはよく解りません。経験を抽象そして捨象することによって得る概念であれ、経験から独立した先天的概念であれ、「無意味」との概念上の文言と価値体系を強いられるであろう「帰属」との関わり合い。「価値」に含まれる「反価値」と「無意味」との関わり合い。そして「無意味」と「価値体系」との関わり合い。最後に「無意味」と「オブジェ」との関わり合い、その辺りが私には読み切れないのです。主旨が単数の立言とは限らない、これは若い人の文章に多くみられる欠点のひとつです。そういう場合は文章を長くし、論点を分割するように心掛けるべきではないでしょうか。結論を急ぐのはよくないことですし、結論を導き出さない方が説得力が増す場合すらあるのですから。
 概念は確かに意味として存在するのですが、表現する際には言語になります。いかに「優れた」と予想させる思想であっても、表現が拙ければ、それは拙い思想にしかならないのです。なお、価値体系における優劣の階層的序列に私はなんら興味を抱きません。そんなものは端から信じていません。それは貴女がよくご存じの筈。

 第八節の「振幅」はムーンさん宛の「ガラガラポン」に記載。
 「思考は螺旋を描いて下降し、地獄巡りがはじまる」これにはちょっと異議あり。思うに、貴女の頭の中にはアウグスティヌスやダンテのイメージがあるのでしょうが、幸田露伴や稲垣足穂のシャボン玉やパンティを括りつけた風船を千里の空に飛ばした下着デザイナーの鴨居さんのようなパラフレーズの方が、夢があって楽しいではありませんか。「地獄巡り」は好みではありません。
 もう一つ、「言われきったこと、書かれきったこと、それはもはや目的ではなくて手段です」にも異議あり。既に口に出したこと、書き著したことはさほど重要でなく、大事なのは今現在の思惟なのでは、ということが仰りたいのだと思います。でも、思惟は生き延びるための数少ない手立てではあっても、目的ではありませんし、思惟そのものにも目的はないと思うのですが。人の生、即ち人の存在に目的や価値がなにも無いのと同様です。たって申せば、滅びるためとでもしておきましょうか。

 終章の二行に関してはゆきちさん宛の文章で触れました。自己と他者の問題は安直に境界線が引けるようなものでなく、片側だけでは議論の対象にすらなりません。それは自らの主辞と賓辞を繙くことにもなりますし、それだけでも数冊の書物を著すことが必要になります。前記文章ではあくまでかかわりのカラクリのひとつを述べたに過ぎませんが、誤解を畏れずに結論のみ申せば、「人は人の望むところのものになるしかない」ということになりましょうか。きっと、お付き合いした人の数に比例した複数の貴女が、そして一考さんがあちらこちらで蠢いているのでしょうね。
 他者が自らの鏡であれば、自己とは他者の投影、されば、言葉とは思考の酩酊なのでしょうか。

 「考えたからと言って何が解決されるわけでもない」との疑問を前述致しました。それについて一言。話をマラルメに持って行きたいのでアナロジーから始めます。アナロジーは自動記述やデペイズマン同様、文芸上の技法としては有効です。マラルメの「イジチュール」からボリス・ヴィアンの「日々の泡」に至るまで、それこそマラルメの言う「類推の魔」を書物の世界から抽出し列挙するのは容易いことです。
 「後方見聞録」所収の「西脇順三郎の巻」の中で「マラルメのメはまなこなり」との西脇さんの駄洒落を郁乎さんが引用しています。思うに西脇さんは洒落の達人で、とりわけ酒席における駄洒落の切れ味には怖いものがありました。「マラルメのメはまなこなり」にしましても、マラルメの散文詩におけるアナロジーの地歩を過不足なく示唆するに際し、他ならぬアナロジーそのものを援用するという芸の細やかさ。東大、京大、九大のノータリン学者(とりわけ「種の論理」を唱えたヘボ学者)が一冊の著書で著したことを一言の駄洒落で切って捨てる、頭脳というのはこのように使われなければなりません。かような高級な会話、即ち晤語の中で読解力の妙味を味わわせてくれる人を私は達人と呼びたいのです。
 「考えたからと言って何が解決されるわけでもない」この文言は言い換えれば「読んだからと言って何が解決されるわけでもない」と同一の意味内容を持ちます。読者の智力が書き手のそれに肉薄するものでないかぎり、読書は虚しいものです。単なる時間の浪費でしかないのです。私事にわたり恐縮ですが、かつて限定本に興味を持つ人で読書力、読解力を持ち合わせた人と一度も出会ったことがないのです。そしてある日、南柯書局の一部の本がコレクターの愛玩物ないしは投資の対象と化していたのに気付かされました。私が出版を止める日が訪れたのです。
 このような話を始めるととめどがなくなります。最後に繰り言を一言。櫻井さんがご指摘のように、年齢に相応しい覇気といいますか、負けん気の強さが望まれます。年長者に立ち向かう時は常に玉砕を覚悟しなければならないのです。破綻を懼れていては精神にダイナミズムは生まれません。そうして繰り返される抗いの果てにのみ、新たな精神の領域が立ち顕れてくるのです。



投稿者: 一考    日時: 2001年11月28日 13:28 | 固定ページリンク




二階堂奥歯 | ウイルス

昨日如月さんからウイルスメールが二通来ました。
Re: ENbN
Re: ヘkV
という件名のメールが如月さんから来た方は、速攻削除なさったほうがよいと思います。
アウトルックに感染するようです。

>一考さま
ご存知の通り、秘密のお仕事で手いっぱいですので、レスは来月にさせていただきます。



投稿者: 二階堂奥歯    日時: 2001年11月28日 21:30 | 固定ページリンク




一考 | ウイルス

 皆さんへ
 今回のウイルスもウインドウズ専用です。マック用のウイルスはここ4年ほど聞いたこともなく、当方のOSにはなんら影響は御座いません。念のために申し上げますが、ウインドウズとマックの双方に有効なウイルスは存在しません。ウイルスを開発する人は愉快犯のため、マックのような少数派は相手にしないのです。恐らく、テロリストはマック・ユーザーではないかと思われます。



投稿者: 一考    日時: 2001年11月29日 09:21 | 固定ページリンク




智里 | また行きますとも!

メッセージありがとうございます!ぼっけぇー、でえれぇー、もんげぇー (岡山弁、標準語で大変、とても、すごく、という感じ)うれしかったです。 また会えるのを楽しみにしています!たまには暴走トド号に乗って、こっちにも 遊びに来て下さいね!



投稿者: 智里    日時: 2001年11月29日 11:13 | 固定ページリンク




松友 | 12月01日、今宵は満月


ご無沙汰しております。先日所用にて関西を訪れました。
幸い終電には時間があったので、いそいそと西明石の割烹「きし」さんへ。
ついこの間も期せずして常連さんがカウンターに大集合なさったそうです。
礒自慢と共に頂戴する久方ぶりの活ひらめのお造り、鮎の一夜干。
時節には、鮮度の良い鮎の「西瓜のような」香を教えて戴いたりもしました。
こちらのご主人は、以前、一考さんがタイトル「月見で一献」で
モルト・ウィスキーの香について縦横に語り合える~と仰っていた御一方と
存じます。お店のカタログにもお名前が紹介されていたような気がします。
やはり懐石料理のプロは一方ならないものをお持ちなのでしょうね。

さて、過日の獅子座流星群は明石ではそれは美しかったそうです。
どうせ見えないだろうと、たかをくくっていたらこのありまさま。
幸い今夜は満月なので、一人で公園ででも月見で一杯します。
ムーンインポートのスプリングバンクあたり欲しいところですが
高価で手が出せないかも。
では。

付記:一考さんは「トド」説が有望視されつつあるようですが???
   「つちのこ」説は何処へ跳んでしまったのでしょう。



投稿者: 松友    日時: 2001年12月01日 16:57 | 固定ページリンク




あやめ | ごちそうさまでした。

一考様
薫子様

加藤郁乎先生を囲む会、その他何度かお店にはお邪魔しているのですが、
初めて書き込ませていただきます「あやめ(本当は殺め)」と申します。

昨晩は須永先生のカルチャー講座池袋チーム懇親会でお世話になりまし
た。お料理、とっても美味しかったです。ありがとうございました。
私、お酒は飲みはじめると取りあげられるまで延々と飲んでしまうので
すが、何故か初めてお酒の席で御一緒した方には「これや意外」と、驚
かれてしまいます。昨晩も先生をはじめ、他の受講者の皆様を心配させ
てしまったようで、ちょっとヒヤヒヤ。でもまだ暴走してない…。

さて、宴の後は、家に帰るのを諦めた4名の方々とお店近くのジョナサ
ンで青汁を飲みながら楽しく夜を明かし、無事に帰宅いたしました。
青汁のおかげで(?)二日酔いもございません。

ふつつかな娘で恐縮ですが、またお邪魔させてくださいませ。
よろしくお願いいたします。



投稿者: あやめ    日時: 2001年12月02日 22:11 | 固定ページリンク




櫻井清彦 | はてさて


一考さんのPowerMac 7600は無事復旧したのだろうか?
一考さんの年齢でパソコンばらせるとは大したものだと感心した次第。
私もばらせるけど、こわいからホントはばらすの好きじゃない。ははは。



投稿者: 櫻井清彦    日時: 2001年12月03日 23:26 | 固定ページリンク




御邪魔ビンラディン(伊藤敬) | マラルメ学者の件(どうでもよいことながら……)

昨日は、いつぞやの記事の「九州大学のマラルメ学者」というのが誰かな、
と質問をいたしましたが、それはK藤美雄氏のことだよ、と御返事いただ
きましたけれども、K藤氏は、同志社予科→大阪市大→関西大学という経歴をたどっておられるようで、九大には、集中講義で出張なさったことがあるかどうか、といった関わりにとどまるようです。
それにしても、仏語を学び始めてすぐの人にも分かる初歩的な誤訳の多い西脇順三郎訳マラルメの方が、「作品としての訳詩」として、仏文系の「碩学」たちによるものよりも、ずーっと優れているのは皮肉な話ですね。(そういえば、新潮社版世界詩人全集の名伯楽として、マラルメに西脇氏の起用を決定した河盛好蔵氏が、誰もそのスゴさを認めないことを、何かのエッセイでこぼしていました)
そういえば、いま、アマゾンドットコムで弥生書房版K藤美雄訳マラルメ詩集の書影を呼び出すと、小沢書店版の西脇訳の写真が出てくるのは、御愛嬌というものでしょうか。
以上、どうでもよいことながら、一考さんのメールアドレスわからぬので、こちらに投稿申し上げる次第です。



投稿者: 御邪魔ビンラディン(伊藤敬)    日時: 2001年12月04日 10:14 | 固定ページリンク




御邪魔ビンラディン(伊藤敬) | マラルメ学者の件(どうでもよいことながら……)

昨日は、いつぞやの記事の「九州大学のマラルメ学者」というのが誰かな、と質問をいたしましたが、それはK藤美雄氏のことだよ、と御返事いただきましたけれども、K藤氏は、同志社予科→大阪市大→関西大学という経歴をたどっておられるようで、九大には、集中講義で出張なさったことがあるかどうか、といった関わりにとどまるようです。
それにしても、仏語を学び始めてすぐの人にも分かる初歩的な誤訳の多い西脇順三郎訳マラルメの方が、「作品としての訳詩」として、仏文系の「碩学」たちによるものよりも、ずーっと優れているのは皮肉な話ですね。(そういえば、新潮社版世界詩人全集の名伯楽として、マラルメに西脇氏の起用を決定した河盛好蔵氏が、誰もそのスゴさを認めないことを、何かのエッセイでこぼしていました)
そういえば、いま、アマゾンドットコムで弥生書房版K藤美雄訳マラルメ詩集の書影を呼び出すと、小沢書店版の西脇訳の写真が出てくるのは、御愛嬌というものでしょうか。
以上、どうでもよいことながら、一考さんのメールアドレスわからぬので、こちらに投稿申し上げる次第です。



投稿者: 御邪魔ビンラディン(伊藤敬)    日時: 2001年12月04日 10:15 | 固定ページリンク




一考 | 押し寄せた貧困

 皆さんへ
 やっきさんが引用していた「落ちぶれた男ほどエロティックなものはない」はいい言葉ですね。頻繁に風呂に入りたがる男と財布を持ち歩く男を私は信用しないことにしているのです。ひと昔前ならポマードを塗りたくった男とネクタイを締めた男だったのですが。
 私が女だったら、浮浪者に輪姦されるのを夢に見ますね。顔が見えないというのが刺激になって、具合がよろしいのではないでしょうか。落ちぶれるとは自らの顔、すなわち矜持とか自信とか誇りなどが肉を削ぐように喪われて行くことでしょう。人品が赤裸になる、落ちぶれるとはなんと麗しい契機ではないですか。
 「ですぺら」に貧困が押し寄せて来ました。と言っても「藤澤清造貧困小説集」が金沢から送られてきたのです。御注文頂いた伊藤、柿沼、金光、斉藤、高遠、樽本、芳賀、増田各氏に感謝。勝井さんに代わりて満腔より深甚の謝意を表します。鹿島の鈴木さんにも深謝、貴方の好きなドライ・ジンは英国では労働者が好んで嗜むお酒。貧困小説集は肴に相応しいものと思われます。残部は一冊ですが、それに関係なく、一層の宣伝を皆様にお願い致します。
 書冊に勝井隆則さんの長文の手紙が添えられていました。種村さんからの聞き通いに補正を施したもの。「戸や窓をしめても、ちゃんと家の中に吹き込む雪が盛り塩の如く積もります。暖房はコタツひとつ、厳冬には部屋が0゜近くまで冷えこみ、死ぬ気で買ったMacが寒くて立ち上げられず、毎冬、Macは冬眠を余儀なくされることになりました」と著されています。いい味の出た書簡です。いずれ詳細を御紹介致しましょう。
 阪神大震災の後、拙宅は壁が崩れ、窓や戸がきちんと閉まらなくなり、部屋の中を煙草の煙が走り、庭を乾反葉が舞う有り様。金沢ほどではないにせよ、室温は常に2~3゜、女房から苦言と小言を頂戴する日々を送りました。何時の日か種村さんをお呼びして「ですぺら」で、勝井さんを囲む会でも催したいものです。題して「餓死作家列伝」を語る会。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月05日 16:23 | 固定ページリンク




津原泰水 | お邪魔をいたします


一考様 薫子様

 広島に戻りました。東京ではお世話になりました。
 私はですぺらに、帽子を忘れてしまったかもしれません。
ただどこかで無くしてしまったのかもしれません。
 帰途、気がつくと頭の上が淋しかったような次第です。



投稿者: 津原泰水    日時: 2001年12月06日 01:56 | 固定ページリンク




一考 | パソコン解体

 櫻井さんへ
 2台のPowerMac 7600を解体。ロジックボード、ハードディスク、フロッピードライブ、メモリー、Vラム、ディスプレイカードを組み合わせて1台を完成。ちなみに2台ともなんとか機能するようになりましたが、片側はジャーンがジのみにて起動します。これはおかしいのかな。
 解体の前から、どうせどこやらは壊すであろうとの予測通り、電源スイッチの外側の細長い板状のプラスティックを折りました。どこかで手当して返却せねばなりません。
 CPUをメルコのG4に取り替え、片側に装着されていたNewer TechnologyのG3をPowerMac 7500の604と差し替えました。G3の方のドライバーとしてXLR8 MACh Speed Controlを用い、こちらは快適。ただし、XLR8 MACh Speed Controlがどのようなコントロールパネルなのかは私には解りません。念のためにMAXpowr G3 v1.3.9J Installerをダウンロードしているのですが。
 G4に用いたHG4Utility ver1.40は調子が悪く、HG4Utility Ver1.31に切り替えるつもりです。起動時にHG4機能拡張が起きたり起きなかったりで頗る不安定。何時もドライバーでは困惑させられます。
 セレクタがプリンターを認識しないトラブルはモデムのジャックに接続することで解決。先日、津原さんから教わったのですが、これには大感謝。
 いずれにせよ、PowerMac 7500が十全に機能していますので、心配はなし。7600へのソフトのインストールはのんびり致しましょう。いろいろありがとうございました。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 04:35 | 固定ページリンク




一考 | 竿の先

 御邪魔ビンラディンさんへ
 K藤氏は大正4年生まれにて昭和13年に京大を卒業致しております。1974年に森谷さんのところからマラルメ詩集が上梓されてい、その森谷さんから九州大学とお聞きしました。調べもせず、いいかげんなことを書き、申し訳ございません。ちなみに、森谷さんから聞き及びしは60年代の話にて、モーリス・セーヴ作品研究が上梓されし頃かと思います。わが邦にあってリヨン派の研究者は少なく、幻想文学で澁澤龍彦さんの訳詩集を編みし折りは同書のお世話になりました。
 バタイユが退化せし頭頂の目を松毬の目と名付けたのは有名ですが、ピエール・ルイスによれば竿の先にも退化せし目があったのではないかとのこと。二十歳にしてロリコンに陥り、生涯を通じて幼女の裸体の写真撮影にしか興味を示さなかったルイスならではの逸話かと思われます。だとすれば、その師のマラルメのマラは陰茎にして魔羅LE目(敢えて単数)が正しい訳語かと推察されます。
 月曜日は久しぶりに貴方と種村さん、そして高遠さんの四人で話し合うことが出来ました。愉快にしてデタラメな時を過ごせましたことに感謝します。当方のメールアドレスは despera@mac.com ですが、どうせなら掲示板でヨタ話に華を咲かせましょう。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 06:19 | 固定ページリンク




一考 | かっとびカンパ

 Campagnoloさんへ
 約束の物の詳細は判じかねますが、委細お構いなしにて結構、気になさらないで下さい。
 なお、私の愛車は15年前のトヨタのチェイサーです。いくらブースト・コントローラーを取り付けたところで300馬力が限界、現行の2Jなら500馬力、1Jでも400馬力は軽く出ます。ところが1Gは2リッターにして、もともと160馬力のエンジンです。6リッター近い化け物ベンツにかなうわけが御座いません。
 私がオービスでやられたのは75キロオーヴァー。メーターが180キロまでしかないので自覚はないのですが、どうやら185キロで走っていたらしく、こっぴどく叱られました。車重を同じとすれば、加速は軸トルク、最高速は馬力に比例します。それにしても、今のリッター・バイクは300キロ以上のスピードが出ます。400~500馬力にチューンしたGTRやRX-7ですら置いてきぼりを喰らいます。しかも前方にナンバー・プレートがないのでオービスはフリー・パス。長期免停が解除された暁には、ぜひバイクでぶっ飛ばして下さい。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 07:12 | 固定ページリンク




一考 | 完売御礼

 勝井さんへ
 かつての「江戸っ子」編集長の小倉さんが来店、共にいらした宝島社の富永さんと京都文化振興機構の板倉さんが「藤澤清造貧困小説集」をお買い上げ下さいました。目出度く完売、どころか私の分が無くなりました。追加注文を出しますのでよろしくお願いします。
 「銀花」の編集長もこの掲示板をご覧になっているらしく、書評をお願いできませんかねえ。切なくなるほどいい本なんですよ。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 07:30 | 固定ページリンク




フーリエの使者 | 江戸っ子

わあ、「江戸っ子」に「銀花」!「江戸っ子」は大好きな雑誌でした。でも、いつ廃刊になったのか、知らないうちに見えなくなっておりました。私の住む地方には配本されませんでしたから。手元には十冊あまりあります。「銀花」は17号から飛び飛びで買っています。「銀花」で明治後半の木版口絵の紹介なんかしないかなぁ、と思っているんです。今、神保町では木版口絵がひそかにブームなんです。



投稿者: フーリエの使者    日時: 2001年12月06日 10:06 | 固定ページリンク




石川潤 | 渡辺一考の裏の裏は表

 過日の事、ですぺらにて一考氏と20年ぶりの再会を祝して、法悦の一夜を送っていると、この店にいよう筈がない種の酔っぱらいに遭遇し、大変不快な思いをした。詳しくは割愛するが、この御仁「単なる酔っぱらいなんです、すみません」などと言いながら、私や周りの人々の話に馴れ馴れしく割り込んでくるのである。
 酔っているという状態に甘えて、少々の事だったら何をやっても謝ればすむと思っているこの精神。私に言わせれば「酔っているので話かけました、すみません」も「酔っているのでちょっと殺してしまいました、すみません」も全くの等価である。仮面を被って日常を送りながら、毎週2、3人殺して、ケロリと「はい、すみませんでした」の一言ですむと思っているのならば、何も言いますまい。
 要するに酔うなら自分の存在(自身で決意した、自分と生を結びつけている存在)をかけて酔うべし。話しかけるなら相手を殺す、否定する気で話しかけろということ。酒場だって紙の上だって、いくらでも殺しあいの場になるのだから。勿論遊びの場だって構わないが、酔っぱらっていた御仁は「私は物書きです」と言っていたので、このように一言いわずにはおれなかったのである。
 それともう一つ、渡辺一考の裏の裏は表ということ。これは何かと言うと、首をチョンと飛ばす一番の相手は、自分を差し置いて存在する筈がないということを渡辺一考は了解しているのである。一考氏は十八番である下らない冗談や下ネタの裏の裏に、「人は描かれては波に掻き消される暫定的な存在」でしかないという事を、まざまざと実感させる様な言葉を忍ばせている。さり気ないところにチラリ、キラリと匕首を忍ばせているのが渡辺一考なのだ。まあ、50回に1回ぐらいで、あとの49回は本当に何の裏もないお下劣話だけれど・・・。よっぽどシャイなのか、ただ意地が悪いだけなのか、ストレートにものを言わない一考氏の「書き込み」も注意して読めば、他人への返事に託けて、ブスリとこちらを刺す勢いで構えている、言葉の殺戮確信犯の顔がそこら中にある事に気が付かれるであろう。
 要するに僕が何を言いたいかというと、かこつけカッコつけ魔の一考氏が、自分の店の屋号をどうして「ですぺら」と名付けたのか、その悪意、いやいや誠意をゆめゆめ忘れる事なく、大いに酔うべしという事である。
 これってもしかして営業妨害?



投稿者: 石川潤    日時: 2001年12月06日 17:56 | 固定ページリンク




一考 | 手技

 フーリエの使者さんへ
 「江戸っ子」は80年の25号で廃刊になったと記憶します。77年の15号に加藤郁乎さんの原稿を掲載したのが「江戸っ子」と私のお付き合いの端緒。16号からは「江戸の風流人」と改題の上、郁乎さんの連載が始まりました。他では藤浦富太郎さんの鏑木清方に纏わるエッセイが秀逸です。
 小倉一夫さんとは古い付き合いです。彼は在学中から博報堂に所属し、独立してからは編集者の地位向上のために励んでおられます。「江戸っ子」廃刊の後は「TEWAZA(テワザ)」の編集を手掛けられました。「江戸のデザイン」とのサブタイトルを持つ季刊誌で発売元は福武書店。85年の創刊でしたが、こちらは6冊で終わりました。「銀花」と共に稿料がよく、恩恵に与りしことが思い出されます。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 19:12 | 固定ページリンク




一考 | 楽しきは誹謗中傷

 石川さんへ
 今回の文章には前回ほどの切れはありませんなあ。舌足らずで落ちも甘く、点数を付ければ100点満点で11点といったところ。
 御仁もしくは私を否定したいのか肯定したいのか、定かでないところが歯痒いですね。「匕首」や「言葉の殺戮確信犯」など、気の利いた言葉も鏤められているのですが、表現が直截に過ぎるようです。悲しさを描く時に悲しいとの言葉が遣えないように、表現とは二重三重に慎重かつ周到に対象に迫らなければなりません。悲しいと書いてしまえばただそれだけのこと。悲しいもしくはそれに類する言葉を用いずに悲しみを表現すれば読み手は思わず落涙します。相手の気持ちを高ぶらせる、言い換えれば、読者の心情を徹底的にいたぶるには然るべき手立て、即ち時間差攻撃の繰り返しが必要なのです。
 起承転結がなく、起結に終始する文章をユル褌(ふん)と申します。書誌学者や編集者によく見られるパターンです(そうですよねえ、増田さん)。これに懲りず、次回また頑張りやす。
 なお、営業妨害は大歓迎です。管理人はどうやら暫定らしく、最終責任者がいないのが当掲示板の特異なところ。少なくとも禁句は御座いません。種村さんの迷句「影法師 唖(おし)で聾(つんぼ)でど瞽(めくら)で」であろうが、参加者への個人攻撃、中傷、誹謗、なんでもありでよろしいのではないでしょうか。特に僻み、妬み、謗り、差別の類を私は好みます。だって、恋愛なんぞは誰それでなければならないとの独りよがりの思い込み、世迷いごとでしょう。差別の極北に位置するのが恋愛でなければ何なのですか。心の病んだ人すなわち精神がいびつに歪んだ片端者にしか恋愛は出来ません。ちなみに、いびつとは飯櫃の略にして、その心は楕円形であること。これは花田清輝の最も得意とするジャンルではありませんか。楕円の思想は不肖私めが率先して範を垂れると致しましょう。他者に対して悪口雑言を吐けない輩に文章なんぞ著せる筈もなく、また文学から悪意と毒と嘲笑を除けば一体なにが残るのでしょうか。ホラーやミステリーのような唾棄すべきオポチュニストの読み物しか残らないではないですか。
 ただし、管理人だけには敬意を表しましょう。時には小さな親切大きな下心も必要なのです。何故なら、かの人を怒らせると掲示板を閉ざされますから。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 19:22 | 固定ページリンク




一考 | 三橋敏雄さん逝く

 三橋敏雄さんに「顔押し当つる枕の中も銀河かな」という句がありますが、ここには文学の要諦が示唆されています。「枕の中が」であれば興は褪めます。「枕の中も」と閉じることによって、大宇宙の銀河と枕の中の銀河とが融合するのです。ここでは大きな銀河と小さな銀河とが、入れ子構造となって立ち顕われます。即ち、大と小の弁証法が十七文字に昇華されているのです。

 との書込をしたのが10月11日。そして12月1日、胃ガンで三橋敏雄さんが死去、享年81歳。弟子筋にあたる中村裕さんが葬儀の後、わざわざ来店なさいました。
 医師を厭がり痛みを堪えての晩年、入院わずか6日目の最期であったとか。点滴その他の管の挿入を潔しとせず、自分で引きちぎる有り様を伝え聞くに、死期を迎えた弧絶者の自らへの矯激なまでの弾劾に思いを致し申し述べることなし。苦痛に顔をゆがめながら「ですぺら」へ挨拶に行かなきゃあと幾度となく口にされたとか。そんなことを知っていたら、挨拶状なぞ誰が送るものですか。
 貴方は俳壇一のダンディさん、それは私が最もよく了解していました。間違いなく、最期の一瞬までダンディに振る舞われたのですよね。
 何時でしたっけ、貴方と二人きりで福原で朝まで飲み明かしました。西東三鬼が金も払わず登楼し、日本丸のパーサーだった貴方は航海中無駄金を一切遣わず貯金し、その金数を三鬼に代わって女郎屋に支払っていた。そんなことを貴方はどこにも書きはしなかった。三鬼の愛人だった愛々のお玉ちゃん、懐かしい名前です。ちっぽけな飲み屋の壁一面に張られた三鬼の色紙、三人で三鬼お得意の体位の話もしましたっけ。的屋や香具師を集めて昔話に花を咲かせましたね、終戦直後の話題ゆえ、私は頷くのみ、よこっちょでしんみり酒を呑んでいました。私は福原で生まれて育ったのですが、貴方と連れだって歩くときはその福原が遠い異郷の地に思えました。小便臭い路次を右左に折れ曲がって傾いだドアを開ける、返ってくる声は決まって「まあ、お久しぶり、敏ぼん元気」。一緒に歩くと幾人もの博徒が挨拶します。私だって顔は広いのですが、とても貴方にはかないません。お玉ちゃんが亡くなって20年にもなりましょうか。今頃は雲の上で、否貴方のことだから海の底でなくては、三鬼とお玉ちゃんと三人で詰まらなかった地上の憶い出を肴に浴びるほど酒を呑んでいますよね。
 1月の偲ぶ会には加藤郁乎さんと共に伺います。地上に残された僅かな時間、此岸では郁乎さんと私が浴びるほど酒を呑んでいます。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 21:55 | 固定ページリンク




暫定管理人 | 一応おことわり


昨今はインターネットの世界にも法の規制が入り込んできておりまして、
個人情報(携帯電話とか)の無断なる掲載とか愚かなる誹謗中傷には刑法が適用されてしまいます。
一考さんはそんなあほなことはしないとは思いますが、その点だけは気をつけて下さいね。
世の中には追従する馬鹿な輩や、無闇に法令を振りかざす困ったちゃんが多数いるようですから。

>片側はジャーンがジのみにて起動します。これはおかしいのかな。
アクセラレータを載せるとよくある現象です。サウンド関係では動かない部分が出るかも。

>電源スイッチの外側の細長い板状のプラスティックを折りました。
ここはすぐ壊れるんですな。僕も壊しました。はは。

>ただし、XLR8 MACh Speed Controlがどのようなコントロールパネルなのかは私には解りません。
たぶんバックサイドキャッシュのクロック設定ができるんじゃないでしょうか。クロックをあげすぎると
動かなくなります。

>G4に用いたHG4Utility ver1.40は調子が悪く、HG4Utility Ver1.31に切り替えるつもりです。
メルコはたしか韓国だか台湾で作られたものを輸入していて、しかも機能拡張はどこかよそに作らせて
いたと思います。だから外国製と同じく、若干信頼性に乏しいですね。
もうひとつ、G4のAltivec(Verocity Engine) を動かす為にはOS8.6(だったかな)以上でないと
動かなかったような記憶があります。そうしないとPhotoshopなどでフリーズします。



投稿者: 暫定管理人    日時: 2001年12月07日 02:40 | 固定ページリンク




フーリエの使者 | 合掌

三橋敏夫氏が亡くなったことは、存じませんでした。新聞記事で気づきませんでした。合掌。ところで、 鏑木清方の名前に反応しました。最近、彼の若き日の木版口絵にぞっこんです。今、加藤一雄という方の「鏑木清方の芸術」(『雪月花の近代』京都新聞社、1992年収録)に感銘しているところです。『江戸っ子』のそのエッセイ、探してみます。では。



投稿者: フーリエの使者    日時: 2001年12月07日 10:01 | 固定ページリンク




朝子 | 内親王の名前はラヴ&リスペクトって事か。ええやん。


えーそれって貧しすぎませんか?そりゃ楽しく飲んでるトコ邪魔されて
お怒りなんでしょうけど、酒の勢いを借りて、素面では出来なかった事
にチャレンジしてみるのは、なにもマイナス方向にだけじゃーないと、
思うんですけどねぇ。

酔った勢いでベッドまで持ち込んでやるぞー!とか?
酔った勢いで誰兵衛のサインもらってきちゃったー!とか?
酔って勢いをつけた所でステージで楽器もって大暴れ!とか。

色々あると思うんですけど。

絡まれたときのあしらい方の問題じゃないんですか?それって。

なんて、偉そうに、言ってみましたぁん(はぁと)
<<公開私信>>

ゆっきーちゃぁん。
あたし、まだ、待ってるからねぇ!
反論しないうちは、プレゼントももらってあげないし、
デェトもしてやらん。良いか?



投稿者: 朝子    日時: 2001年12月08日 00:18 | 固定ページリンク




B | お悔やみ申し上げます お悔やみ申し上げます

「顔押し当つる枕の中も銀河かな」という句に、死さえも、何も心配するようなことはない、
大丈夫だと微笑まれているような、懐の深さをしみじみと感じています。

フーリエの使者さんへ
はじめまして。鏑木清方、伊東深水、竹久夢二といった浮世絵は、
遅寝をした春の陽気の中でみる夢のようで好きです。
美人画の女の人は、時折植物のようにも見えます。
浮世絵版画の技術で継承されないまま消え去ったものもたくさんあるのでしょうね。

一考さんへ
一考さんの仰る信用できない男の条件は、女のほうにも当てはまりそうですね。
ひと昔前ならスニーカーを履いた女と香水をつけない女だったのですが。
ところで、女だったら浮浪者に輪姦されたいというのも結構ですが、
一寸それに付け加えるとしたら、浮浪者という肩書きさえないような
「芋虫」(江戸川乱歩)のほうも刺激的かもしれません。
それでも女の欲望は果てしないもので芋虫の目まで突いてしまうものです。

12月に入り、晴れて爪に火灯す贅沢な生活が始まりました。兵庫県の山奥で、とい
っても甲斐性がないのでそんなに大したものでもなく、西宮市内にぎりぎり留まって
います。京都の丹後なぞであれば日本海も拝めて良い風情なのに、とは身の丈に
合わぬ風流のため諦め顔。



投稿者: B    日時: 2001年12月08日 01:26 | 固定ページリンク




B | (無題)

題名を2回入力してしまいました。
失礼致しました。



投稿者: B    日時: 2001年12月08日 01:28 | 固定ページリンク




フーリエの使者 | 曖昧な記憶

パソコンは仕事場(職場)にありますので、帰宅して『江戸っ子』を調べましたら、38号まで25冊持っておりました。加藤郁乎氏から教えられて買ったことを思い出しました。加藤氏の連載が終えて、買うのも途絶えたのでした。どうも物覚えが、頭以上に悪くて。勝浦氏の2巻にわたるエッセイを読みまして、記憶力の差をまざまざと痛感しました。『銀花』も、9号からあって、アレアレです。『江戸っ子』では、知らない世界がいつも開けて、忘れがたい雑誌でした。小林礫斎の極細芸術も、これで知りました。今年7月、季刊『版画芸術』のインタビューを受けたとき、待ち合わせに渋谷のたばこと塩の博物館前を指定し、二人の若い女性編集者をそこでの小林礫斎展へ案内しました。二人とも、感嘆してました。



投稿者: フーリエの使者    日時: 2001年12月08日 15:36 | 固定ページリンク




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