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白衣のくまさんへ
いろいろお世話になりっぱなしで恐縮。
それにしても腎臓にバイパスを拵えるのは痛かった。途中までモニターをみてたのですが、それどころでなくなっちゃいました。痛みにはかなり強いつもりで、脱臼や単純骨折なら脚であれ手であれ、自分で修理するのですが、内蔵はそうはいきません。でも、何度も入院したお陰で、ますますアイラ・モルトが好きになりました。消毒液の慢性中毒患者になったようです。
石割りだけでなく、上京後は体の不都合が吹き出しました。それも臍から下ばかり。やはり(無理の利かないお年頃)なんですかねえ。
最後になった人丸神社の花見の宴は忘れません。あの時、貴女に胸を押しつけられて、あれよかったなあ。だって、大きいんだもの。しかも尖ってんのね、貴女のオッパイは。東京へいらっしゃる機会があれば、オッパイではなく、腰を据えて酒を飲みましょう。店の営業日はカレンダー通りですから、休日をはさんでなら貸し切りでゆっくり飲めますね。正月でもいかがですか、田村さんのホンダ車で。
貴女をほったらかして、田村さんとは決まって車の話ばかりでしたね。チェーサーのスターター・モーターの磁石の接点が摩耗したものですから、田村さんから頂戴したクラウンのそれと取り替えて使っています。よろしくお伝え下さい。
つちのこ編集者こと 一考様
田村様とはやはり車の話をなさっていたのでしたか。時折盛り上がって店内遥かに聞こえる内容、
専門的なお話で、さすがだなぁ~と感じていたものです。
今の車はまずはテスターなどでエレキから調べると伺いました。機械式が主だと、対応方法、
いやさ原因も掴みにくいのかもしれないですね。
レガシーの煙突の持病は初耳です。ご存知の通り紅毛の悍馬の親の方(V12)は、実は180°バンクの
V型で、外観上水平対抗エンジンと近似なのですが、こちらもご指摘の通りオイル漏れと
長いタイミング・ベルトが要注意点、先輩方は結構気を使っていらっしゃるそうです。
交通整理時の言葉といえば、以前、(諸用で)高速湾岸系の車が集う某道PAを訪れた時、
台数が多すぎて溢れ出し渋滞していた事がありました。と、パンダさんの如き色をした車が現れ、
大声で場所を開けるよう指導。今にして思うと関西の言葉であったような。こういう事は
何処も同じなのでしょうか、不思議です。
以前ご指南を頂戴致しました「癒しの文学」。え~と、第一回配本は「ロリコン」。
確かに高齢化の時代にロリコンは大きなテーマです。加えて直接的合体を最終目標としない(-_-;、
でも身体を主要な媒体として得られる交流について追求するのであれば、結構ジャンルが広がりそうに
感じました。しばし考える時間を下さい~そういっている内にしわぶきにならないようにしませんと。
さて、この間、ようやく映画「宮廷料理人ヴァテール」を観ました。
が、その後、主人公ヴァテールは「華やかな食物誌」に於いて言及されていると伺いました。
~しくしく~拝読してから観ればよかったです。物語を先に知ってしまうと映画の楽しみが
半減すると思いこれまで避けてきましたが、ある程度の前知識があった方が楽しめる事を再認、
ちょっと失敗でした。でももっと料理が映っていて欲しかったです。
以上取り留めの無いお話まで。
一考さまへ
いや~オッパイを誉められ?嬉し恥ずかし・・
裸体を想像されたみたいで、やっぱり恥ずかしいかも。
脱いだらもっとスゴイ!!と言いたいけど、それは「彼のみぞ知る」です。うふっ
でも、もっと凄いのはあいちゃんのオッパイだと思います!
あー懐かしい・・彼女も元気でしょうか。NO1はあいちゃんです。
(昼間から、熱く語ることでもないけど・・)
彼の愛車は、昨年の夏に自宅事務所の前に駐車していてクラッシュされ廃車に・・
今は、二代目プレリュードです。よほど愛着があった様で、初代と同じ型式の奴を
(グレードはちょっと上らしい)探し出し美しく乗っています。
高速道路では、水を得た魚のように疾走し・・スピード好きが多いんですね
このお年頃は。
お体、気をつけて下さいよ。
脱臼、骨折は自分で治さず病院へ!
ちなみに、現在は整形外科の病棟で勤めております。
チャンスがあれば?手厚い看護を施して差し上げます!
ひろさんへ
ADSLについて、NTTは済みましたが、ソニー側がルーターを不承認。如何ともしがたく。御連絡乞う。
おしらせ係奥歯です。
来る11月12日(月)、種村季弘『偽書作家列伝』(学研M文庫)発売前夜祭として、サイン会が行われます。
サイン会自体おそらくもう二度とないと思われますのでこれは貴重な機会です。
種村さんの他の本にも、時間の余裕があればサインしていただけます。
みなさまどうぞいらっしゃいませ。
『偽書作家列伝』発売前夜祭
場所:ですぺら
時間:18:00~21:00
会費:3000円(サイン本付・飲み放題)
ムーンさんへ
既にご存じでしょうが、山本六三さんが6日午後2時に逝去なさいました。死因は食道癌。通夜は7日、御影教会にて、葬儀は8日のようです。山本さんの版画に出てくるような教会です。私の代わりにご出席頂けますまいか、話だけでもお聞かせ頂けれぼと願うのですが。
皆さんへ
訂正でございます。
お知らせ係の奥歯さん、ちがうってば~~(関西弁では、ちゃうやんか)
時間は18時から20時です。
20時以降は通常の営業とさせていただきますので、よろしく。
薫子さんごめんなさい。間違ってしまいました。
来る11月12日(月)、種村季弘『偽書作家列伝』(学研M文庫)発売前夜祭として、サイン会が行われます。
サイン会自体おそらくもう二度とないと思われますのでこれは貴重な機会です。
種村さんの他の本にも、時間の余裕があればサインしていただけます。
みなさまどうぞいらっしゃいませ。
『偽書作家列伝』発売前夜祭
場所:ですぺら
時間:18:00~20:00
会費:3000円(サイン本付・飲み放題)
一考さんへ
ニシキタさんから深夜に連絡を頂きました。六三さんの、透き通る程白く細長い指が、胸元に優しく合わさっている姿が目に浮かびました。奇跡的に意識が戻り退院されるそうだと、先日貴兄に連絡させていただいたばかりでしたのに、残念です。ご依頼の件ですが、ここ数日は仕事が立て込んでおりまして残念ながら出席できそうにありません、申し訳ないです。
「種村季弘のウェブ・ラビリントス」管理人です。
サイン会の情報を転載させていただいてもよろしいでしょうか?
かおる子さま 先ほどは酔っ払いの言いつのり、たいへん失礼いたしました。
かおる子さまと他人とは思えぬタレントの湯原嬢、サイトのアドレスは以下の
通りです。他人と思えぬと考えるのは私だけの思い込みでしょうか。
http://www.rey-s-in.co.jp/artists/yuhara_marie/
やっきさんへ
種村季弘さんのサイン会の情報をぜひ転載して下さい。どうかよろしくお願いします。
このところ、当方のパソコンはトラブル続きで通信の状態がおもわしくありません。ご返事が遅くなり申し訳ございません。
山本六三氏が亡くなったことを、女友達に知らせたところ、彼女、とんでもない声をあげて、絶句しました。この前、新幹線で大阪まで行って「死の舞踏」(間違ってたらごめんなさい)を買ったそうです。多分、最期のサインがあるもの。きのうかな、彼女は山本氏にファンレターを投函したそうです。山本六三氏のご冥福をお祈りします。
一考さんへ
昼時、中央郵便局での用事を済ませた帰りに、久しぶりに元町をぶらぶらと歩きました。黒木の前を通りかかると、シャッターが降りていたので今日は定休日なのかと思いましたが、ふと何気なく見上げると、何と看板まで外されているではないですか。張り紙も何もなかったので推測でしかないのですが、この御時世ですから、多分廃業されたのでしょうね。店主も随分とお歳を召されていたので、病気で臥されているのではないかと少々気掛かりではありますが。
渡辺一考さんにいろいろお教えを頂いている高遠弘美と申します。 初めて「書き込み」なるものをいたします。 実は先日、「掲示板」で渡辺さんが採り上げてくださった拙著『乳いろの花の庭から』(ふらんす堂刊。1998。中村真一郎序文)ですが、ついさきほど版元から連絡があり、税務署の調査が19日にはいるので、売れない本のひとつとしてほとんどの在庫を断裁するという決定に至ったようです。本の世界では日常的なことだとは思いますが、やはり辛いものを感じます。もし、奇特にもお需めくださるという方がいらしたら、ご一報くださると幸いです。掲示板をお借りして、私的なことを連ねました。お赦しください。
戸田の梅子さんの訪(おとな)いあり。ついてはですぺらに集う酒客への一助として渡辺一考との付き合いの極意(心構え)について些かの注釈を試みられよとの由。常々、あの厚顔無恥でしたり顔の一考氏の化けの皮をはいでやろうと・・・いやいや元薄幸の美少年、福原のアイドル渡辺一考氏のために一肌脱ぐかと、何の責任も(本当はやる気も)なけれどお引き受けした。一考氏の逆鱗にふれぬ(る)ことを願う。
そもそも渡辺一考とは何か。伝説の流れ編集者? 南柯かぽあんかれーらいす書局の主人? 赤坂のショットバーのハーテンにしてパーテン? 自転車作りのプロ? モツの煮込みから懐石まで何でもござれの料理人? 稀少本とビデオテープの蒐集家? ジャスコで買った2000円の皮ジャンを身に纏いさっそうと走るライダー? 金魚マニア? 喧嘩マニア? 書き込みマニア? ただの変態(これが一番ただしいかも)。まさにヴィアンも真っ青の百面相振りだが、一言で言えば、この人ただのペテン師である。大法螺ふきで無責任、その場限りのやけっぱち、どう転ぶかは気分任せの捨て鉢人生。いやいやこれは誉めすぎ、ただの口先三寸、3センチ5ミリの肉塊ならぬ魂を持つ男なのである。
一考氏、一度口を開けば他人から聞いた話は自分の体験談となり、数字の二桁三桁の水増しはあたりまえ。トイレの造花はたちまち百宝の花を咲かせ、路地の水溜まりはカスピ海を越えるほどの・・・とまあ、どこまで果てしなく大風呂敷が拡げられていくのかと、側で聞いているだけでクラクラと眩暈がするばかりである。そこの御一考様じゃなかった、御一統様早く目を覚ましなさい。
さらに詳しく言えば、一考氏、他人なんぞはどうでもよくて自分にまつわる面白話や下ネタをまくし立て、その話に酔いしれているのが楽しくてしょうがない人。ゆめゆめ、一考氏を信じることなかれ、裏切られる事を前提にしなければ、到底付き合うことの出来そうもない浅ましくかつ卑しい人品骨柄の持ち主なのである。さらにさらに言えば誠意、義理、情を三歩、歩いて忘れてしまうのが渡辺一考なのだから。人を貶す時の一考氏の口癖は「ゴミ、塵、あくた」であるが、要するに僕が何を言いたいかと言うと(これも口癖)、倫理観や社会的通念(そんなものがあるとすれば)から見れば、まさに一考氏こそが真性の「ゴミ、塵、あくた」なのである。一考氏は色街が産み落とした宛先のない小包、残飯にして夾雑物、うんこのようなものなのである。
しかしそれは至極当然のこと。なぜなら一考氏とてわが同朋、地上なんぞは仮の宿でしかないのだ。要するに現実と一考氏を結び付けているもの、それは「書くという行為」に他ならないのである。そう、このデタラメ一考氏、書かれた言葉の世界に対しては自他に関係なく、とても真摯なのである。(三日で消えるようなやつじゃなくて、キラキラしてないと駄目だけどね)その一点がなければ、一考氏の首はとっくの昔に空中の縄の輪を間違いなく通過しているのだ。現実なんてつまらない、あの鈍感な奴の首を目をつぶってチョンと飛ばしている方がよっぽど面白いのではないか・・・。そういえば先日、松山俊太郎も三人殺したって言ってたっけ。ねえ、一考さん堅気の人相手にそんな息巻いてもしょうがないよ。言って解らない奴は目をつぶってチョンでいいじゃないですか。(夷斎曰く、人間の最大の罪は鈍感の罪だからね)
さっきから僕が何を言いたいかというと、一考氏の話なんかに耳を貸さないで何でもいいからまずは一考氏の書いたものを読んでみなさいということである。「玲瓏たる虚無---ドラコニア紀行」「鏡花本の世界」「黄金のシャワー」もとい「黄金の日々」を。例えば「黄金の日々」311頁と312頁、特に311頁の最後の行から312頁8行目(が、もう抜群)を読め。そこには私の知っている加藤郁乎や種村季弘や・・・切ないまでの(存在を否定した上に屹立する、いまひとつの存在)、スッとした美しい後姿(立ち姿)が見えるではないか。これぞ文学(いい文章、いい俳句は勃起してなきゃ)。もう一度言う、これぞ文学。言葉の織りなす吸引力でどこか見た事もない、行ったこともない所へと誘ってくれる。文体とは精神の運動、即ち思想であり、肉声であり書き手の体臭に他ならない。内容なんて洒落臭いものはそこらに置いといて、そこに香り立つ詩を楽しめばよいではないか。(そう、渡辺一考の長所、それは文章がいい、それだけ)
要するに僕が何を言いたいかというと、一考氏の書いた文章の中に一考氏を探せばよいのである。スプリングバンクやラガヴーリンのように華麗な文章。こんな紙面上の人格は認めざる(全面的に降参)を得ないのである。そうすればあの酒焼けしたニタニタ顔ではなく、初々しくはにかんだ不良少年、まさに福原のアイドルの顔が見えるはずなのだから。もう一考ちゃんステキ!(分かるひとには三分で見つけられるだろうが、分からない人には一生分からないと思うけどね)。そうでないとカウンターをはさんで目の前にいる一考氏は口先三寸、種村季弘流にいえば「渡辺一考から七、八人の人間がぞろぞろと逃げ出して、ひょっとするといまそこらへんが渡辺一考だらけになってしまうような」とデタラメばかりで溢れて、もうそこには一考氏の実体は存在しないのだから・・・。
もしや渡辺一考って存在するのに存在しない、えっ、それってビンラディン。いやいや存在しないのに存在している(地上は仮の宿だからね)、えっ、それってもしかしてつちのこ。そう、渡辺一考とは自称するように「つちのこ」である。
そして頭にかえって渡辺一考と付き合う心構えとは・・・君たち、「つちのこ」相手にどこまで本気になれるかという事だよ。
ムーンさんへ
このところ悲しい話が続きますね。神戸も大阪も京都の街も、なべて未練や思い入れはないのですが、幼少期を過ごしたのは事実です。20歳を経てからの上方には憎悪しかなく、栖を流転しましたのも、その憎悪即ち自らの悔恨から逃れたい一心だったのかも知れません。若くして故郷を喪った者に安住の地などあろう筈もなく、またかかる地で心を許せる友を求めるなど烏滸の沙汰で御座いました。いや、こんなことを書けば貴方や山本六三さんには礼を逸することになります。確かに佳き友を得ました。でも、友を得たら得たで、それは新たな拒否を、更なる拒絶の芽を自らの中に生み出すだけなのです。落ち行く先で未知な友を拵えたところで、同じ消息の繰り返しとなります。
いかように託けようとも、人に存在理由はありません。ならば、友も同様にして、「私は友であった」と著した瞬間に、友は指の間から砂粒のように零れ落ちて行きます。「友であった」かどうか、逝った他者の真意を推し量るなど、欺瞞以外のなにものでもなく、もし仮に友たりえたとしても、相方の死と共にすべてのかかわりは消滅します。さればこそ、友の存在を退けるのが本音なら、友の死を悲しむのは建前ということになりましょうか。自らに対する偽善を厭うなら、暫時友は切り捨てて行くのが自らへの、ひいてはその友への唯一のはなむけであり餞別になりましょう。人の死の悲しみと生きることの哀しみ、この両端を結ぶ橋は存在しません。かつての友というよりは戦友の死を前にして、悲嘆に暮れるなど我が儘な振る舞いは許されるべきではないのです。彼が歩んだ思索者としての言動をいかに解釈し、いかに読み換えるか。山本六三さんに対して私に出来る供養と申せば、それを除いて他にはありますまい。
ちょっと切り口を換えてみます。「いかように託けようとも、人に存在理由はありません」と著しました。確かに人としての個体には生きる理由も生き延びる理由もなにもないのです。でも、それら余りにも茫漠とした風景に人の心は堪えかねます。そこで編み出されたのが、世のしがらみです。しがらみとは柵(さく)であり、渡しであり、堰なのです。要は流動する心を塞き止めるためのノーハウということになります。謀と言って拙(まず)ければ方策で結構です。その方策の中に人は胡座をかき、かかわりの中に存在理由を見つけ出そうとするのです。即ち人から必要とされる存在であるとの誤謬を自らに刷り込むために。また、存在理由により確とした信憑性を持たせるために、しがらみは時と共に複雑化され、更に錯綜したものになって行きます。しがらみの最たるものが家族であり、仕事であり、友であり、金品なのでしょう。
さて、しがらみの対極に個があります。個が個であることの証明はひとつ、それは才能と権威の拒否です。才能とは実績に他なりません。さればこそ、実績を積めば権威が生じます。いわゆるその道のプロというやつです。プロに成り果せるのは容易ですが、それを拒むのは然るべき意志力が必要です。何故なら、飯の種を自ら投げ出すことになるからです。山本六三さんは人生の後半、全力を傾注してやまなかった一群のタブローを一枚として売却しませんでした。氏の本意が孰れにあろうとも、六三さんが個に拘泥し続けたのは事実です。志をもたない山本六三さんに同志やともがらは必要なく、人を愛する能力が欠落した氏に連れ添いや伴侶は本来不似合いだったのです。また、特定の趣味を持たない氏に常に親しく交わる仲間の要もなく、定めのない氏の生き方に従者や道づれなど生じよう危惧すらない筈だったのです。そこのところを何時の日か綴らねばなりますまい。
先頃、高柳重信さんの若書きに「戸田橋へ乾反葉走る切通」との句があるのを知りました。故郷の風景ををかくまで冷淡かつ冷酷に描いた句があったでしょうか。一切の帰属を切り捨て続けた高柳さんの壮絶なまでの覚悟、苛烈なまでの現体験が過不足なく著されています。この句に登場するのは風を身にまとった虚無のみ。いや虚無を携えた風でしょうか。切通しの彼方にも此方にも趣はおろか、情念のひとかけらすら存在しません。重信さんの句を引用したのは他でもない、高柳重信の名を15歳の私に教えた人の名は山本六三。彼もまたマントの中に虚無をひそめて、さりげなく現れ、にこやかな微笑みを残して去って行ったのです。
タイトルの「友の氏に思う」は「友の死に思う」の間違いです。周章てています。いや、狼狽えているのかも。申し訳ない。
フーリエの使者さんへ
弔意忝なく存じます。「死の舞踏」を買われたお方にもよしなにお伝え下さい。
毎週、木曜日に須永朝彦さんがですぺらへ来店なさいますが、先週も山本六三さんと郡司正勝さんの話に終始致しました。何時か二人で山本六三さんについて著しましょうということになりました。私自身、六三さんの取り巻きとのお付き合いはうまくいかず、告別式にも参列かないませんでした。残念なことです。
高遠さんへ
初めての書き込みとは驚きました。「乳いろの花の庭から」は残念なことです。私の一押しの随筆集です。掲示板を読まれた方は是非購入をお急ぎ下さい。買って損は致しません。
15編のエッセイが含まれています。タイトルにも用いられた1部の「乳いろの花の庭から」は、詩歌を中心に日本文学にあらわれた乳房のアンソロジー。博覧強記の氏ならではの逸品です。2部には櫻井さんのホームページにもかかわりのある久生十蘭、ロミ、小津安二郎などにかんするエッセイ。3部はプルーストに纏わるエッセイが収められています。
「高遠弘美氏は自然と人工のあらゆる物に、美を発見するために生きている、現代における希有の奇人である」とは中村真一郎さんが寄せられた序文の書き出しです。
一考さんへ
拝読いたしました。
小生は、複雑且つ錯綜した柵(しがらみ)に多少翻弄されようがされまいが適当に楽しんでいる輩です。貴兄の様に自らを「孤絶」すると云う在り方は、実に素敵ですが、壮絶すぎて性に合わない軟弱者であります。それに、貴兄の単なるファンの一人ですから六三さんのお名前に連なるなど、それこそ烏滸の沙汰で御座いまして、流石にストーカー行為は慎んでおりますが、「もう一考ちゃんステキ!」てな具合ですからね。しかし実に上手く表現されていて感心した石川 潤氏の「取扱説明書」、貴兄の大風呂敷も口癖も、「ただの変態」も「3センチ5ミリの肉塊ならぬ魂」も、「色街が産み落とした宛先のない小包、残飯にして夾雑物」は勿論の事、「うんこのような」存在も、小生は好きです。つまりは、勃起不全を治すにはスカトロへ向かわなければ駄目だと云う事になりますかしらん。
山本六三さんについての記述が、下記掲示板にて多く見受けられます。興味ある方はどうぞ。
http://www.tcup5.com/525/takeshi.html
石川潤さんへ
「文字を書きつつ恥をかき、汗をかきつつマスをかき、金欠き礼欠き節操欠き、かくして今はですぺら店主。いっこうに懲りない一考さん」とはかつて荻窪にいらした永瀬由利子さんの弁。由利ちゃんよ、「ですぺら店主」とは「でたらめ店主」の誤植ではないのかい。
かようなメールを頂戴したあくる日には「一考取扱説明書」なる珍文書が掲示板に載る始末。私も大物になりましたなあ。それにしても、文の始まり位はオリジナルであって欲しいもの。あの書き出しはどこやらの大先生の文章の盗用ではござんせんか。落ちの巧さと比してバランスが取れてませんよ。「厚顔無恥でしたり顔の一考」は結構、かかる賛辞に私は弱いのです。先般もある女性編集者より「マッチョな男」との連打を受けました。相手方は非難のつもりだったのでしょうが、筋肉労働者の私としては栄光の糞づまり、単なるインテリではなく、些かでもインテリヤクザを髣髴させるではないですか。実は内心は嬉しかったのです。そこまで考慮してのマッチョならば、私は彼女にますます頭が上がらなくなるのですが。
文中、たって数行のお褒めに与りしは幸甚。以下、文章を著すに際しての質と量の問題について一言。骨法についてはムーンさん宛の書込で触れましたので、重複は避けます。
いつぞや、「一行以上三枚位」との原稿依頼が御座いました。どなた様であれ、言いたいことはほんの数行、他はその数行に至るための伏線、ないしは盛り上げるための前菜のようなもの、と私は心得ます。従って、当意即妙の依頼かと思われましたが、結果は惨憺たるものであったと聞き及びます。
エッセイにあって肝要なのは、あなたも仰るとおり「きらきらした部分が含まれているかどうか」です。前菜であるべき部分が前菜としての体をなさない、即ち結句の輝きを盛り上げる役を務めていない場合。言い換えれば、本来、前菜であるべき部分が知識のオンパレードに終始し、「きらきらした部分」との間になんら脈絡が見受けられない場合。そんな時は、いっそ結句の一行、二行だけの方が救われます。ところがほとんどの物書きは売文の明け暮れに精を出し、それこそ「社会的通念」の中にどっぷり浸って行くのです。著されるであろう中味は自らの記憶の襞にのみ在します。故に、引用に必要とされる最小限の書冊があれば十分なのです。ノン・フィクション作家は異なるカテゴリーに属しますので除外しますが、文章を著すに際して不必要に多量の書物を繙き、資料を漁り、取材を繰り返すような文章に私は些かの未練も興味も抱きません。何故なら、それは自らの体臭を希薄に、そして喪わせる結果にしかならないのですから。
商売柄、書物蒐集家や愛書家と称する人々とのお付き合いが御座います。元本における函、カバー、帯の有無並びに美醜に口角沫を飛ばしております。それと何処のラーメンが、ケーキが、干物が旨いか不味いかとの話の間に質的な差違が在るのでしょうか。私は愛書家を否定しているのではないのです。個人の持つ価値もしくはその判断としての価値観は認めます。ただ、愛好会(そのようなグループに限って少数者意識、選民意識を持つ)と称するような集団の持つ価値評価の判断は御免被りたいのです。さらに申せば、様々な価値観は並列にしか存在しないと言うことです。旨いウィスキー、旨いラーメン、旨い干物は存在するでしょうが、ラーメンと干物、どちらが美味かとの質問は意味を成しません。いずれにせよ、等し並に単なる知識じゃないですか。箇々の人が持つ「染み模様と薫香」の話ならいざ知らず、井戸端会議に興味が尽きないなんて、益体なしを通り越して慇懃無礼です。喋る側も訊く側も俗物ですよ。
私は通過し損ねましたが、多くの友の首が「空中の縄の輪を間違いなく通過」しました。先日も一人の思索者を喪ったばかりです。これからは愚鈍な輩の首を「目をつぶってチョンと飛ば」す覚悟と技量が必要になりましょう。悔恨の日々は何処かで断ち切らねばなりません。御意見、身に沁みて辱く思います。
話はあらぬ方へ滑りました。問題は質と量との相関関係についてでした。マルクスの大向こうを張って、貴方好みの結論を申し添えます。「文章の長短は、結句としてもたらされる一行の哀しみの深さに比例するものでなければならない」と。
ムーンさんへ
西北八島さんをご存じなかったのですね。昔からのお付き合いで、32歳の頃、明石へ引っ越しする際に随分とお世話になった方です。ここでは憚りますが、京都の大先生との悶着の後は神戸の友人はめっきり減りました。今では貴方だけなのかも、逆に京都の友人は増えました。孰れにせよ、私を東京へ向かわせたという点で、幸いな事件だったのですが。
石川潤さんは西明石時代に知り合った、若い友人です。物書きではないのですが、読解力に非凡なものがあります。「内容なんて洒落臭いものはそこらに置いといて」には私もドキッとさせられました。今度東京へいらっしゃる時に紹介致しましょう。
もっか、掲示板を利用して頭の中を整理しています。次の仕事の必要に迫られてのことです。ウィスキーの本を済ませて取り掛かる予定です。店が暇なため、編輯が捗ります。様々な書物が順次出版されます。乞う御期待。
訂正します。山本六三兄が死去されたのは、11月6日午前2時5分、神戸市西区医療センターにおいて。私が山本芳樹氏を通じて神戸新聞社に連絡したのですが、文化部の糸野氏が念のために遺族に確認を取って、訂正されました。この時点で喪主が亜里さんから佐保子さんに変更。一考さんには7日の夕刊をコピーして送ります。記事中、日本キリスト教会とあるのは日本基督教団の間違い、大混乱の中の電話連絡ですから仕方がありません。
良書から先に断裁されて行くのですね。恥ずかしながら私は貴書の存在すら知りませんでした。投稿によって今頃知ったのが残念です。早速、ふらんす堂のHPから二部注文しました。他の方法だと断裁日に間に合いそうもないので。
Campagnolo様、渡辺一考様。
勝手な書き込みにすぐに温かいお返事を頂き、本当に忝なく存じます。売れない本であれば、断裁は必定。在庫の本に税金がかかるこの国の税制とあらばやむなしとは思っておりましたものの、突然の報にいささか周章狼狽。見苦しいところをお見せしました。須永さんの「なりふりかまふ」というお言葉。いまさらに噛みしめております。
いまはこれのみ書き留めて、感謝の思いを申し上げたく。
フラフラのおかっぱ女子学生、ムラチカです。
無事、自宅に辿り着きました。
種村先生にお会いするのは勿論、バーという空間に足を踏み入れるのも初めてだった為、大混乱。
右も左も判らぬまま遂には沈没してしまいました。お恥ずかしい……
ゆきちさんをはじめ、BEEさん、やっきさん、お邪魔ビンラディンさん、
それからお店の美人さん(お名前聞き忘れてしまいました)、そのほかの皆様、
ご迷惑おかけしたにもかかわらず本当に親切にしていただきました。
感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
◆一考さま
帰り際にお話できて本当によかったです。
なんだか慰められました。
筵のうえで280歳、最高に素敵です。
図々しくもまたお店にうかがうことがありましたら、是非お話お聞かせください。
それでは失礼します。
ムラチカさんへ
肩の力を抜きましょう。試験の時も、面接の時も、逢い引きの時も、いつ、なんどき、例えいかなる状況にあろうとも、肩の力を抜いて生きましょう。肩に力が入っていると、非常事態に対処出来なくなります。
ちゃらんぽらんに生きるのはよくないことですが、心根だけは常にちゃらんぽらんを装っていないと自らが傷つきます。
愚鈍な人に傷つけられれば傷つけられるほど、自らも愚鈍になって行きます。それに対応するに「ちゃらんぽらん」はすこぶる有効な手立てです。
貴女はステキな娘さんです。精神の初まりを、純粋さを忘れないために「ちゃらんぽらん」を装って生きて下さい。またお会い出来るのを楽しみにしています。
カンパさんへ
わざわざのご報告ありがとうございます。コピーを鶴首。
campagnoloとのハンドルネームに些か嫉妬と羨望を抱きつつも、過ぎ去りし日々が懐かしく思い起こされます。
戸田から赤坂まではたかだか片道22キロです。一昔前なら苦もなく自転車で疾駆できた距離なのです。休むことなく日々60キロを走っていた頃もあったのですから。でも、近頃は酒量が増えました。ただ量が増しただけではなく、酔いが深くなりました。記憶がなくなることも繁くなりました。その度に須永朝彦さんや石川潤さんから叱られております。体力の減衰と比例して、アルコール依存症は進捗して行きます。他に地上を肯う術はなく「分かっちゃいるけど止められない」ありさまです。
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