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一考さま
長文のメール、ありがたく拝読しました。仰言ること、わかるような気がいたします。オマージュにはある部分、対象そのものにではなくても、部分冠詞附きの悪口が必要であり、そこに生まれる緊張感がなければ、ただ弛緩した代物になってしまうのですね。むろん、悪口の度合いが濃い、と言いますか、タメにする悪口というのはオマージュに限らず、文章を損ねます。むつかしいのはそのあたりの匙加減、というより、「対象と切り結」ぼうとするなかで、その加減は自ずと定まってくるのですけれど、しかしなおかつ厄介なのは、これも仰せのごとく、「消息を鮮明にすればするほど、繰り返される至らなさと自己の解体」の問題が影のように筆の先から指や手を伝ってこの身のうちに入り込むことではないでしょうか。何かを書く、何かについて書く。それが自らの生と交錯し、重なり合い、照応し合う時の訪れをわたくしも待ち望んでおりますが、いま、具体的に駄文を書くときに感じる抵抗感、あるいは抑圧は、一度前にお話ししたことのある若い頃の吃音の苦い記憶と結びついているような気がしてなりません。太平楽で脳天気なわたくしがいまなお時に魘されるのは吃音の夢です。いや、夢ではないこともあり、春休みや夏休みのあとに最初に教室に入ってゆくときは、いまだに吃って言うべきことも言えぬまま立ちつくす幻影に悩まされます。だからどうしたと言われれば、ただそれだけのことですと申すほかありませんが、しゃべるのではなく書いているのに、たどたどしく、意味不明で、あるリズムを感じることのできないものに対する侮蔑と嫌悪、これは大袈裟ではなく子供の頃からありました。三つ子の魂百まで。馬齢を重ねるばかりで、内実はまったく進歩なく、あいも変わらぬ小者としては、いまだに小説であれ、エッセイであれ、翻訳であれ、そんな文章は最後までつき合うことなく「裏の川に投げ捨てたい」と思います。先日のサイードは一考さんの仰言る「稚拙かつ低劣な訳文」どころではなく、最後につけ加えていらっしゃる「推敲がなされていない文章」でした。「大手」かどうかという点については伊藤さんの警抜なご指摘がありましたが、わたくしが問題にしたのは、数字の不統一ということと、文章が「推敲されていない」ということです。この点は伊藤さんが書いていらしたみすずの本の誤植の多さということでは必ずしもなく(わたくしの本も誤植は決して尠くありません。人後に落ちずと言うと変ですけれど)、意味の通らない日本語をそのまま本にするのは、ムネオ風に言えば「いかがなものか」と思ったのがああいうことを書きつけた理由ですが、それは「藝」以前、「勝手な咀嚼すなわち数多ある解釈」以前の問題でした。わたくしは翻訳は音楽で言う演奏に近いと思っています。好きなればこそ弾く。弾くからにはおのれの解釈をとことん追求したものを聴かせたい。宇野さんや白鳥さんもそう考えていらっしゃるのではないでしょうか。プルースト(ブルーストではなく)の『失われた時を求めて』のなかに、話者の恋人が下手ながらピアノを弾く場面があり、それについて話者はたとえ下手な演奏でも、作曲家の本質は伝わるものだと書いていますが、その意味で言うなら、稚拙な翻訳であろうと流麗な翻訳であろうと、伝わるものは伝わるでしょう。しかしだからといって、話者は恋人にサロンで演奏させようとか採譜しようとか言っているのではありません。やはり進んで「お鳥目」を投げたい、これぞという演奏家はいるのであり、それはまさに一考さんの仰言る「藝」であって、それと、たとえどんなに愛しくとも恋人が二人だけの時に弾いた下手なピアノを同列に並べてはいけないだろうと思います。おっと、軽く御礼のご挨拶のつもりで書き始めたのが、いつのまにか一考さんの術中にはまって長々とまたまた駄文を連ねてしまいました。こちらこそ妄言多謝と繰り返して、本日はここにて打ち止めといたします。
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