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一考 | ざる校正

 高遠さんへ
 かつて親友が編集した足穂の選集は誤植のないページを探し出すのが一苦労とのシロモノでしたし、これまた私の親友が出版した野溝七生子さんの著書も正誤表は60箇所を超えました。また、辞書の語釈を方便としていた研文社時代に使っていた広辞苑第三版の誤植箇所は軽く100を超えました。その半数は国家大観をはじめとする原典からの引用ミスでした。
 かく申す私も、かつては笊校で名を馳せた迷編輯者。諸般の事情を問わず、名を偸めば「迷」が「名」に出世して行くのもご愛敬。編輯も愛嬌商売の一であったかと思われる次第。

 種村さんが何度かクライストのペンテジレーアのことを書かれていますが、曰く・・・「約束」の再帰動詞 sich versprechen には「約束する」と同時に「言い間違える」の意味がある・・・。
 結婚を「約束した」の意と「言い間違えた」との意が寸分の狂いなく一語の中で重なり合うとするならば、歪みやねじれ、言語と人の生き方との乖離といった問題を一足跳びに乗り越えて、これはもう文学的結婚とでも称する他なく、言語それ自体が人間の実存とすり替わってくるような恐怖を覚えます。
 言語遊戯の場で多用されるアナロジーは泰西語には付き物で、フランス語からドイツ語、イタリア語からフランス語への翻訳なら何とか処理可能ですが、表象文字である日本語で多面的かつ重層する意味を示唆するのはおよそ不可能事です。従って、マラルメ、ジャリ、ヴィアン、ブルトン、バタイユ、マンディアルグ、ジュネ、ベケット等々の翻訳は、元来翻訳者個人の勝手な咀嚼すなわち数多ある解釈のうちの一として供されるべきなのであって、日本語に置き換える時には試訳こそが相応しく、翻訳との言葉を用いること自体に無理があるように思われます。
 と思い巡らせば、高邁かつ流麗な訳文と稚拙かつ低劣な訳文との間にさしたる差異はないのではないかと思われてくるから不思議です。
 もっとも、小説であれ、短詩形であれ、エッセイであれ、翻訳であれ、推敲がなされていない文章にお鳥目を支払うつもりは毛頭御座いません。貴方のロミにせよ、宇野さんのベケットにせよ、白鳥さんのロリナにせよ、お鳥目が支払われる先は訳者の心意気にあり。心意気とは思い入れ、文学から藝を除けばおそらく何も残りますまい。妄言多謝。



投稿者: 一考    日時: 2002年03月06日 11:58 | 固定ページリンク





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