ですぺら
ですぺら掲示板2.0
2.0








赤坂見附陸橋下  | 一考    

 食事制限が効いてリン減少、一安心である。その代わりカリウムが増えているが、この三箇月除去剤のカリメートを服用していない。リンと違ってカリウムは御しやすい。骨密度も平均値に戻ったようである。昨年七月十五日の靭帯剥離骨折の前後は相当に危険な状態だった。骨折が続くのを防ぐためにオートバイに乗るのを諦めた。
 赤坂見附陸橋下の北側の横断歩道は丁度七十歩、松葉杖はおろか、歩かれるようになってからも一気に渡るのは不可能だった。ほぼ四箇月のあいだ、横断歩道の真ん中で座り込んでいた。そして昨年十月には失血による輸血、その後は腎不全の慢性化による歩行困難で歩くことかわなず、本年八月に透析をはじめるまで魔の交差点と思っていた。それが今では青信号のうちに渡ることができるようになった。一年余のあいだ、難渋させられた交差点だが、それゆえの愛着もある。
 一年前から同所に浮浪者が住みついている。先月からは蒲団の上にブルーシートを掛けて暖を取っている。夕刻には通行人を見定めるかのごとくぎょろりと観察している。浮浪者にしてはきつい目である。媚るようなもしくは部外者への畏れのようなものは微塵も感じられない。あの巷を睥睨する眼差しの裏側を覗いてみたいと思っている。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月24日 05:49 | 固定ページリンク




少女の死  | 一考    

 十八歳の少女が透析を拒否して九月に死んだ。マスコミで大きく取上げられたのでご存じの方は多いだろう。彼女は八歳で心臓移植を受け、十五歳のときに人工呼吸器をつけて声を失う。
 主治医との対話は携帯電話のメール、手書きのボード、そして表情豊かな笑顔。数度に及ぶ治療のなかで、「次に何かあったら延命しなくていいから」と訴えていたと云う。
 本年六月に腎不全を発症、改めて「延命はいらない」と告げる。八月肺炎を併発、痰を吸引する管が気管に入らず、死亡。
 医師でなく詳細はわたしには判らない。しかし心移植の場合、透析を受けても二年ぐらいの命でなかったかと思われる。病との壮絶な闘いに頭を垂れるしかない。クレアチニンの数値が分からないのでなんとも云えないが、尿毒素との闘いはわたしにも理解できる。肺炎は腎臓を疾んだ人には必ず付きまとう病症である。
 父親は透析を薦めたようだが、彼女の意志は固く、翻すことはなかった。十八歳で覚悟を定めたこと、涓塵の乱れも見せなかったことに涙する。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月21日 05:35 | 固定ページリンク




血圧2  | 一考    

 医師に内緒で血圧を上げる薬を飲んだ。腎不全の患者は高血圧になる。わたしも降圧剤をずっと飲んできた。ところがこのところ、血圧が低すぎて困っている。十一日の昏倒のさい、血圧は65にまで下がっていたらしい。なんとか処置しようと思っての服用だった。
 血圧の高低とは心臓の伸縮である。ポンプが血液を吐き出すときの大きさと吸い込むときの大きさ、その伸縮の差が血圧となって表される。血圧を下げるのは簡単だが、上げるのは難儀である。腎不全の患者は水分を尿として排出できないので、体内に余剰の水分が溜る。水分の一部が血中に滞り、血液の総量が増える。総量が増えればポンプの活動量が増え、心臓の容量そのものが大きくなる。血圧が異常に高くなる理由である。
 心臓の容量を計るのが心胸比もしくは心胸率である。詳細は記述したので繰り返さない。先週の土曜日に最新のレントゲンによる心胸比が分かったが、3.99だった。透析前のレントゲンなので、やはり低すぎる。透析すなわち除水によって4.0にまで心臓を小さくするのが治療である。そこで医師はさらなる体重の増加を命じる。
 わたしが血圧を上げる薬を服用したのは医師に対する反乱である。体重を上げないで心臓を大きくする、要するに血圧を上げるには薬の力を借りるしかない。思い通りに行けばよいのだが。

追記
 戦後長く血圧は130-70が理想とされてきたが、最近は120-70とされる。食生活の変化が理由だと思われる。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月20日 15:58 | 固定ページリンク




秋川牛ジャーキー  | 一考    

 カレーには香辛料で喰わせるカレーとブイヨンで喰わせるカレーとがある。同様にビーフジャーキーには醤油で喰わせるものと肉で喰わせるものがある。前記で喰わせる天狗印のジャーキーを好ましく思ってきた。他にもカナダ、オーストラリア、ニュージーランドはじめ、国産のいろんなジャーキーを食してきたが、天狗印の右に出る商品はなかった。ところが、土曜日のパーティーで秋川牛ジャーキーなるものに出遇った。あきる野市松村商店の製品である。「秋川の地酒に漬け込んだふくよかで味わい深い逸品」とあるが、字義通りの逸品だと思った。
 間違っていたら申し訳ないが、多摩の秋元さんがお持ちになったものではないかと思う。黒毛和牛を用いたとあるが、確かに肉が旨い。肉で喰わせる種類のジャーキーである。この種のジャーキーは味付けによってはさしが五月蠅い、執拗くなってしまうのである。要するに量は食べられない、もっとも、かなり高級品と推察される、従って量を食べるものではないが。味醂の代わりに清酒を用いたのだが、その清酒と醤油のバランスが巧く計られている。味見の価値ありと判断した。
 同日モッツアレラの味噌漬けも入手、こちらは足が速いので試食される方はお早くどうぞ。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月20日 15:27 | 固定ページリンク




文学  | 一考    

 わたしにとって、文学とは自らの生き方にあれこれ思案を巡らすことである。それは生死にかんする万象を意味する。わたしは痛感ではなくて不条理感に重きを置いている。なぜ、不条理を感じるかと云えば、覚悟が整っていないからである。それなりの覚悟はあるのだが、覚悟の一歩手前で右往左往するように仕掛けている。思案を巡らすの意はそこにある。
 文学を知るに典籍を繙くのは最短距離に思われる、しかし、読書は方法論であって目的ではない、そこを履きちがえると永遠に文学は解らない。極論を吐けば文学はセンスである。その論を拡げれば昨今のわたしにとって病気こそが文学である。
 だからこそ、失血したときの排泄が意のままにならなかったこと、意識が失われる瞬間のこと等々、要するに存在の尊厳にかかわることを詳述してきた。さまざまな文学があり、さまざまなアプローチがある。それはそれでよい、わたしがとやかく云うことではない。ただ、思案のなかに、反芻のなかに文学は在る。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月20日 13:19 | 固定ページリンク




会談  | 一考    

 菅、小沢会談が終わった。小沢氏に引導を渡せるかどうかの最後のチャンスである。口説けなければ菅政権すなわち民主党政権は終わりになる。小沢が拒否した場合、菅に小沢の除名が出来なければ予算案は幻になる。結果、たった一度の予算案すら組まれなかったことになる。もっとも、組む必要のない予算案だと思うが。
 新たな為事を立ち上げようとすれば、旧いなにかを切らねばならない。切ることが叶わなければ、取捨はできない、新たな為事を端から諦めるしかない。何のための政権交代だったのか、わたしにはさっぱり分からない。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月20日 12:55 | 固定ページリンク




深い感銘とともに  | 高遠弘美    

一考さま。
続けての書き込みをお許し下さい。
「それにしても、プルーストは素晴らしい。最晩年に「失われた時を求めて」と出会えたこと、生きていて良かったと喜んでおります」
とのお言葉。涙が出ました。ありがたうございます。どうしても、全巻完結までお元気でゐて頂かなくてはなりませぬ。それのみをひたすら祈つてをります。


投稿者: 高遠弘美      日時: 2010年12月16日 23:51 | 固定ページリンク




高遠様  | 一考    

 あのようなことを書くべきかどうか迷ったのですが、書いてしまうところが元編輯者というところでしょうか。文章というものは肉声が籠められているかどうかが判断の唯一の基準です。巧い下手を云う前に、知識がどうのこうのと云う前に、肉声がどうなっているのか、その一点をクリアすれば、雑誌社からの原稿依頼も舞い込みます。某氏に分かっていただきたかったのはその箇所だけなのです。それ故に啓蒙のつもりで書き込みました。
 大兄にはご迷惑をお掛けし、申し訳ございません。それにしても、プルーストは素晴らしい。最晩年に「失われた時を求めて」と出会えたこと、生きていて良かったと喜んでおります。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月16日 23:28 | 固定ページリンク




 | 一考    

 胃を半分除去するのは当人にとっては大変なことであろう。似たはなしがあって、知己から電話で元気かと訊かれて、元気でないと応えた。どこが悪いかとの質問に腎臓と答える。腎臓そんなもの病気にも這入らぬ、俺は癌だ、参ったか。
 これにはほとほと「参った」である。病名は掃いて捨てるほどある。直接命に関わる病気は諦めるしかないが、わたしは失明がもっとも怖い病と思っている。視力がなくなるのはまさに絶望である。思索はおろか、概念づけから臭覚、嗅覚、触覚に至るまでが一端無力になる。ひとは目で考え、目で感じ、目で味わう。人生の再構築がもっとも難儀な病である。それを思えば、確かに腎臓など高が知れた病気である。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月16日 23:26 | 固定ページリンク




一見客  | 一考    

 木村さんから頂戴した葉巻を喫んでいたら一見さんのグループがやって来た。クラブへ通い慣れたひとらしく、お通しを造っているのに客をほっておくのかと云った雰囲気、困った客の類いである。酒の説明を求まられ、説明している最中に他の客がこちらの酒の説明はどうなっていると、五月蠅いことこの上ない。わたしはひとりですからと言訳をすると、じゃあ傭えばしまいじゃないか。雇い人にウィスキーの説明なんぞできるものですか。
 体調不良につき、ゆっくり営業させていただけませんかと云うと、どのような不調なのかと聞く。面倒なので身体障害者手帳を見せると、この手帳は知っていて知人も持っている、高速道路の料金が無料になる手帳だろ、だからどうした。わしは胃を半分除去している。それにまさる病気はあるまい。この辺りで話すのも嫌になる。
 連れのひとりは道楽で新宿でクラブを経営しているそうな、一人の客に数人の女性がつくそうな。では新宿へどうぞと云いたくなる。赤坂へは滅多に来ないらしく、開高健さんが常連だった木家下のことを執念く聞く。当店は高級バーではございません。当店は四人で14000円、他店なら一人でそれ以上は掛かるでしょう。
 帰りしなに今週の土曜日に七、八人で宴会をしてくれと仰言る。先約済みと断わるも、一見で予約をして来たためしが過去一度もない。一見ばかりだとこのようなことも起こる。
 気分直しに、木村さんから頂いた葉巻をおもいっきり吸い込んで昨日の営業を終えた。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月16日 23:09 | 固定ページリンク




私はそれで満足です  | 高遠弘美    

一考さま。

先日は拙訳プルーストについてお書きくださり、まことにありがたく存じてをります。
一考さんの読み方で読んで頂けたことが何よりと喜んでをります。どうかこれからも続くプルースト、一考さんの読み方でお読み頂き、ときに応じてお言葉を賜れば私はそれだけで満足いたします。
どうかお体お大事に。
ひと言、御礼とお見舞ひまで。


投稿者: 高遠弘美      日時: 2010年12月16日 22:20 | 固定ページリンク




生海苔  | 一考    

 生海苔が売っていた。明石にいた折は寒くなるとですぺらの定番商品だった。東京へ来て見たのははじめて、さすが千葉の魚屋である。一番海苔ではないだろうが、十分に楽しまれる。今日は塩抜きと乾燥、明日と明後日は食べられる。今のわたしに海藻は禁制品だが、以前は大好物だった。
 ついでに千葉産のそらまめも買ってきた。時季外れで随分と高値だったが、当店にはそらまめが好きな方がいらっしゃる。山形の桜桃の苗木を濠太剌利亜へ持ち込んで育てたり、苺のように年間を通して食べられる食品が増えてきた。旬はなくなるが、好きな方にはこたえられないのであろう。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月16日 21:53 | 固定ページリンク




私流  | 一考    

 かつて当掲示板で椎名麟三の永遠なる序章について書いたことがある。文中、やくざに撲られてガラスのあるところまで蹣跚めいてゆき、自ら頭を突っ込むとの描写があった。血だらけになればそれ以上の暴力は受けまい、勘弁してもらえるとの消極的乃至は情けない逃避である。わたしは同じ経験を何度もしているので書き手の心中が痛いほどよく分かった。
 わたしにとって本を読むとは体験もしくは追体験である。従って本についてなんらかのことを書くのは自らの経験の一部を描くに等しい。類推すらが体験に基づくところのものであるに違いない。
 さて、先般書き込んだ「意識」を序でに書き込んだだけと某氏から云われた。「序で」と受け取られたならわたしの文章が稚拙だったと反省するしかない。しかし、あの文章はわたしの経験が従であってプルーストが主であることに間違いはない。肉声を搦めながらプルーストへ持って行くにはどうすればよいのか、結果があの文章である。いっそプルーストの新たな読み方を示唆したつもりだったとでも書けば許されたのだろうか。
 随分と前の書き込みだが、これまた佛蘭西在の某氏から今回の書き込みは林達夫論ですねと指摘されたことがあった。文中に林達夫の氏名や書名はおろかそれと匂わすことすら慎重に避けたにもかかわらず。当掲示板はわたしが自分自身の楽しみのため、もしくは精神衛生のために書いている。書評というものがどういうものなのかある程度は知っているつもりである。しかし、これが書評などという定義はどこにもない。プルーストの文章を引用してひとつずつ証明してゆけば少しは書評らしくなるのだろうが、生憎とわたしは書評家ではない。百人のひとが読めば百通りの感想があるだろう、それでよいと思っている。これからもわたしの云うところの肉声を書き込んでゆくつもりである。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月15日 21:13 | 固定ページリンク




電子書籍  | 一考    

 ソニーのリーダーとシャープのガラパゴスが出て、電子書籍用情報端末が出揃ったようである。他にアマゾンのキンドル、アップルのiPad、サムスン電子のギャラクシータブなどがある。その内、キンドルはまだ日本語に対応していない。
 問題は電子書籍の品揃えだが、ソニーが約1万1000冊、シャープが約2万4000冊にとどまっている。それよりなにより電子書籍の規格の標準化がなされていない。アマゾンが北米で配信している約75万冊はiPadでも読まれるようだが、わが国は未統一である。日本の電化製品はいつもそうである。それぞれが、わが社のものを標準にすればよいとのことらしい。やがて売れないメーカーはハードから撤退、役に立たない電子書籍は置き去りにされる。
 現状ではiPad以外、薦めようがない。このような理不尽はいつまで続くのかしら。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月15日 20:24 | 固定ページリンク




リッチな失神  | 一考    

 医師に先日の醜態を謝ったところ、血圧が70-40を切ればいかような人間でも失神すると、憐憫とも励ましともつかぬ言葉がかえってきた。それは分かっているのだが、医師、看護士、技師に看取られながら意識を失うのはいささかリッチである。いざとなれば電気ショックの器具も揃っている。死ぬ懼れがないのである。わたしにとっては初めての経験だった。
 心胸率というのは肺臓と心臓の比率である。肺臓の左右の寸法の40パーセントが心臓の理想的な大きさとする。腎臓を患うと水分が分泌されなくなり、血中の水分含有率が高くなる。要は心臓の肥大である。4.0の数値が5.0になり6.0にもなる。そうなると全身に水が溢れる、心筋梗塞や心不全の引き金になるのである。
 その肥大した心臓を除水によって4.0にまで小さくする、それが透析のひとつの役割である。ところが、わたしの場合は透析前にすでに4.0を切っている。透析をすればさらに小さくなって、血圧が下がる。それがブラックアウトの理由だそうである。
 今回500グラムほど体重を増加するように云われた。前記したように体重というものは急速には増えない。だとすれば、除水率を減らすしかない。しかしと思う、健康が心胸率だけで計られてよいものだろうか。もちろん失神はもっとも嫌な避けるべき症状である。その一方でわたしの身長に相応しい体重があるに違いない。最初のドライウェイトが62.8キロ、それが僅か三箇月で65キロにまで増やされた。そのことに若干の疑問が伴う。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月14日 23:11 | 固定ページリンク




広告  | 一考    

 おっきーさんにお願いして、ですぺら初のWEB広告にトライしていただいている。送られてきた画像表示広告は非常に好ましく思うのだが、googleの審査に一度落ちたようである。詳細はわたしには分からないが、迷惑をお掛けしている。
 最近は一見の客ばかりで、その大半がインターネットを見てと云うことである。それが理由でのWEB広告である。旨く行くと良いのだが。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月13日 22:11 | 固定ページリンク




意識  | 一考    

 自ら歳を取ったとは思っていないが、意識をコントロールできないようではなにを云っても詮ないはなしである。意識とは精神の問題ではなく、カテゴリーは肉体に属する。要は脳の問題であろう。肉体の一部として精神はあるが、精神単体での生息は不可能である。ブラックアウトを繰り返すことによって、信じるに至った消息である。言い換えれば、精神と肉体などと云った二元論は成り立たず、さらに包括されるべき筋合いのものと思っている。それも弁証法的な、即ち統一されるような包括でなく、並立されるような意味合いでの包括である。精神と肉体と云ったところで、その間に垣根があるわけでなく、どこまでが精神でどこまでが肉体なのか、その実体は判然としない。判然としないものに弁証法的思惟は無用である。
 よって精神論とかこころの問題、気持の持ちようと云った類いのはなしをわたしは眉に唾して聞いている。シュルレアリスムやオカルティスムなるものを聞く気にもなられないのは同じ理由に基づく。それにしても、人は何時弁証法から解放されるのであろうか。考えを深化させたり、助長させるに弁証法はもっとも基本的な方策ではある。しかしそれに拘泥するがあまり、常に対極的な考え方の泥沼に陥る。
 高遠弘美さんのプルースト「失われた時を求めて」を繙いていま云ったような「並立されるような意味合いでの包括」を感じ取る。ストーリー然り、時間の概念然り、登場人物然り、それどころか心象それ自体が、表現それ自体がある種の法則に則って並列共存の場に置かれる。ひょっとしてプルーストは誰もが描きもしなかった新たな思想の領域を開示したのでなかったか。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月13日 21:34 | 固定ページリンク




血圧  | 一考    

 日曜日は一歩も外へ出掛けなかった。全身の節々と顳かみがひどく痛む、皮膚感覚もおかしい。さきほど入浴、少しはましになったと思いたい。入浴後、血圧は正常である。
 「魚と乳製品」は血液検査の報告である。いくら調べても異常は顧みられない。以前何度か失神しているが、その折の血圧は計っていない。きっと今回と同じように血圧が低下している筈である。どうやらブラックアウトの主たる原因は尿毒素と血圧にありそうである。それにしても、最初の引き金はヘモグロビンの低下だが、輸血してからは10から12を維持している。と云うことは赤血球の不足ではない。東葛の医師も理由は解らないと云う。医師によると取り敢えず除水を減らすの他思い付かないようである。心胸比にゆとりがあるので、除水と体重の数値は共に動かすことができる。血圧の急速な減少に留意しつつ、様子を見るしかない。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月13日 05:53 | 固定ページリンク




魚と乳製品  | 一考    

 透析をはじめて三箇月になる。透析の時間を睡眠時間に組み入れたので、一時間ごとの血圧計量を除いてほとんど眠っている。聞くところによると、透析のあいだに句作に耽る奇特の士がいらっしゃるそうな。わたしにはそうした粋な心得がない、ただただ眠り惚けているばかり。
 隔週の血液検査の結果が出た。結果表を持って栄養士が各患者のもとを訪れる。透析直前のクレアチニンが9.19、尿素窒素が55。食欲がないのではと云われる。ドライウェイトが63キロから64.5キロに増えたが、体重が65キロぐらいにしか増えない。除水分が捻出されないのである。食欲はあるので、その内増えるだろうが、急速には無理である。心胸比が39.9と低く、あちらとしては体重をさらに増やしたいようである。身長が減っているのに、体重を上げろと云われても納得がいかない。大体が成り行きでよいではないかと思う。透析患者が通常陥る飲み過ぎ食べ過ぎにはもっかのところ縁がないようである。
 ナトリウム、カリウム、尿酸、マグネシウムは標準値。ヘマトクリット、ヘモグロビン、血清鉄も標準値、フェリチンも減りつつある。感腺炎症も良好。蛋白、コレステロール、糖も大旨良好。HDLコレステロールが徐々に増えてきたので、LDLコレステロールが相対的に落ち着いてきたようである。問題はリンが6.6と上昇中であること。高リン血症は掻痒感、二次性副甲状腺機能亢進症の進展、異所性石灰化、心血管病変の引き金などをもたらす。簡単に云えば透析による骨や関節の痛み、石灰化沈着による痒みなどを防止するポイントである。それにしても、カルシウムとリンのコントロールは難儀である。魚と乳製品をさらに控えなければならない。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月13日 05:09 | 固定ページリンク




倒れる  | 一考    

 ヒデキさんから開店時間の問い合わせがあったが、今日は店はお休みである。誠に申し訳なく思う。昨夜、金曜日は客がなかったので、今日は頑張るつもりだったのに残念である。実は透析後、病院で倒れてしまった。血圧が急速に下がり、70-40までは覚えているのだが、その後の記憶は定かでない。例によって猛烈な吐き気と冷や汗で全身びっしょりになった。ブラックアウトの時と同じ症状である。
 医師、看護師の皆さんに面倒をお掛けした。身体には心電図を取るための電極が張られていた。おそらく、心電図と血圧を睨めっこしながらの処置だったと思う。除水の一部、300ミリリットルを血中に戻したようである。
 ヘマトクリットは36.8、ヘモグロビンは12.0、血清鉄は54、フェリチンは295、どう考えても貧血ではない。心胸比は39.9、心臓にも何等の負担は掛かっていない。要するに理由が解らない。
 帰宅は九時を回っていたが、生命維持装置で生きていることを思い知らされた。

追記
 今日の昏倒はショックだった。血液検査に異常がなくともいろんなことが起きる。後から聞いたのだが、高い方の血圧は60台にまで下がったらしい。血圧は90台にまで戻ったが、まだ足下がふらつく。今日、明日は大人しくして、云われたとおり栄養摂取に務めるつもり。
 透析後の為事は無理と改めて云われたが、わたしの場合収入がなくなるので続けるしかない。と云うよりも、為事を止めて落ち込むのが嫌なのである。
 命が懸かっているから当然だが、透析に休みはない。明年は一日から透析である。元旦早々穿刺の痛みに合おうとは。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月11日 23:31 | 固定ページリンク




「稀有の酒場」  | 一考    

 Google マップでですぺらを検索。麻布鬼瓦という方が「稀有の酒場」と題する文章を掲げておられる。以下に無断で引用させていただく。

 此処に絶望の淵を彷徨える老いたる男の酒場が有る。
 柳生新陰流の使い手の如き鋭き眼差しは、瞳の奥に妖しき炎宿るも、時に憂いに其の火が揺らぐ。
 分厚き大谷石のカウンターは、鉛ガラスの盃に恰も軟らかき欅の如き弾みを与え、柔かきダウンライトはカスクのモルトに時の醸す光を与える。
 白髪のバー・マスターは背負いし己の歴史に疲れ、虚無の心に弄ばれながら、今宵もモルト酒を守る僧院の衛視の如く丹念に酒瓶を磨く。
 今宵珍侘の酒に酔いしれんとするものは、集うべし。
 はたまた、バー・マスターの手塩に掛けて作り置きし鴨の燻製を食すべし。
 其の姿、飽くまでルビーの色香を纏い、そのヒッコリーの如き燻煙の香りに驚嘆するであろう。

 どのようなお方か存じ上げないが、書かれたわたしはいたく恐縮しそして喜んでいる。葉巻に一家言をお持ちと察するが、次回来店の折はぜひ声を掛けていただきたい。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月10日 17:08 | 固定ページリンク




トリハイ  | 一考    

 先日、あまねさんと新宿へ出掛けた。二時、三時に若い女性の多いのが気になった。彼に云わせると新宿はここかしこで酔っ払った女の子がぶっ倒れているそうな。今も昔も変わらぬ風景である。女の子はさておき、あまねさんに新宿の文壇バーを紹介しなければならない。掲示板で書いたことがあるが、いまなお十軒ほどは健在である。とは云え、一本のビールで赤い顔になるようでは話にならないが。
 久しぶりにスズキの子の煮付けを造った。昨日、今日のみのお通しである。明年はトリスのハイボールでも置こうかと思っている。巣ごもりの季節に相応しい飲み物といえばトリスを除いて他にあるまい。わたしが子供の頃はサントリー、ニッカ、オーシャン、45の何如を問わず、ウィスキーはトリス級だった(ホワイトや角は戦前からだが、トリスは46年から)。六十年を経て同じ銘柄を嗜んでいる、もっとも中身はまったく異なるが。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月10日 00:43 | 固定ページリンク




ナッツ  | 一考    

 民主党の代議士と思しき団体と第2クワムラビルの入口で鉢合わせになった。恰度ビルへ這入ろうとしていたわたしはSPによって弾きとばされた。以前なんどか小沢一郎氏と出遇っていて、その都度一言二言口を交わしたが、このような目に合ったことはない。仮に入口で鉢合わせになれば小沢氏ならお先にどうぞとなる筈である。小沢氏にあって、SPが人を妨げるなどあってはならない。ことほどさように選挙を強く意識している。
 先般、小沢氏と会った折は肩を叩きながら頑張ってくださいとの励ましに有り難うと復ってきた。昨日の代議士に知った顔はなかったが、なんという居丈高な態度であろうか。改めて民主党なるものに権威主義を感じさせられた。
 そのSPに睨まれながら関さんと稲見さんが来店。例によって稲見さん手造りの麺麭とオークラの食べるラー油、それとナッツを頂戴した。ナッツは濃いめに焙煎したものだが滅法旨い、ウィスキーによく合う。飴を絡めたナッツは既製品でもあるが、飴の量を極端に少なくし、少量のバターを加えたところが味噌でろうか。売り物になる逸品である。ヒデキさんもお気に召したようである。毎度のことながら、感謝している。

追記
 菅氏と江田氏が後から合流したらしい。行き先は当ビル二階の鮨屋、その後銀座へ流れたようである。平の代議士にSPはつかない、可笑しいと思っていた。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月07日 21:08 | 固定ページリンク




選択制度  | 一考    

 透析の日は風呂は禁止されている。注射針の傷跡が化膿するからである。従って、入浴日は月、水、金、日である。マンションへ引っ越してからはよく風呂へ這入るようになった。風呂を沸かすのが簡単になったのと、傷跡が痛いからである。洗濯は日曜日だが、風呂へゆっくり這入れば同時に終えることができる。
 日々の食事の用意と茶を淹れるのは欠かせない。茶は紅茶と烏龍茶を大量に冷やしている。塩分のせいで煮物は極端に減り、炒め物が増えた。好物だった麺類は食べられなくなって代わりに塩抜きの焼き饂飩が食卓へよく上るようになった。
 痒み止めは関さんから教わったサリラベートの他にベネトベーネとヒルドイドを用いている。もっとも有効なのはサリラベートのローションの方、まだステロイドの副作用は出ていない。
 看護師から聞いたはなしだが、沖縄での透析時間は五時間、外国では七時間から八時間だそうである。先日書いたように、わたしの場合透析後のクロアチニンは4.0、透析前は8.0である。さらに低い数値を望めば当然時間は長くなる。回数を増やすか、五、六時間への延長が考えられているそうだが、それが隔日四時間で慣らされた患者に通用するかどうか問題である。体調を良くしようとすれば六時間、現状で可とすれば四時間、選択制にすればよいのではないかと思う。それでなくても透析患者には鬱病が多い、時間を長くすればさらに増えるのは間違いない。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月06日 21:50 | 固定ページリンク




繕い  | 一考    

 パジャマを繕いたいのだが、ミシンやスチームアイロンが手元にない。二十年ほどむかしに買った記憶があるのだが、どこへ消えたのだろうか。女性のせいにしたくはないのだが、女性が変わるとわたしの持ち物も大きく変わる。といって新たに購入する気はない、荷物が増えるのは勘弁である。今回の引越で随分と荷物を捨てた。トラック一台分になるが、捨てたと云うより捨ててもらったと云うに相応しい。幹郎さんがその一部を新著「田舎の日曜日」(みすず書房)で書かれている。
 頂戴した書物の御礼を書かねばならないのだが、今日は遠慮しておく。月並な誉め言葉でお茶を濁すような付き合いでないからである。十二月十八日は幹郎さんの山小屋メンバーの忘年会。久しぶりの宴会なのだが、生憎とわたしの透析の日に当たる。従って九時までは幹郎さんにバーテンをお願いする予定。相済まぬことゆえ心苦しく思っている。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月06日 20:57 | 固定ページリンク




お通し  | 一考    

 富良野の生ウィンナー(元々ウィンナーは生だが)五種類が売り切れた。さまざまなお通しを買ってくるが、久々のヒット商品だった。わたしの食生活にウィンナーは向かないので、五種類を一日一本ずつ食した。全品ハーブ入りだったが、いずれも旨いと思った。
 フードを止めて久しいが、店は以前にもまして暇である。こんなに暇ならフードを造ってもよいと思うのだが、二、三人前のお通しは量から云って造られない、日持ちも二日がせいぜいである。いろいろ考えた結果、乾き物になってしまう。このような閑散期、他店はどうしているのだろうか。

追記
 今日は烏賊の煮物を造った、客があればよいのだが。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月03日 21:23 | 固定ページリンク




ダイアライザー  | 一考    

 田村書店から電話があって、このところ松本へ仕入れにゆくと云う。その仕入れ先の客が人工透析に罹っている。聞くところによると、大きな透析器械だそうで、フルーツなども好きに食べてもよい、酒も好きなだけ飲んでもよいということらしい。大きな器械というのがよく分からないが、おそらくダイアライザーだと思われる。東葛クリニックではわたしは新米なので、もっとも小さなダイアライザーを使っている。いずれ大きなものに変わってゆくのだろうが、大きいほど除水能力が増す。現在用いているダイアライザーは最大二リットルの除水能力だが、わたしにはこれで十分である。除水すればその量に応じて血圧が下がる。それでなくても高い方が100しかない、これ以上の除水はわたしの場合無理である。
 さて、フルーツや酒というのがさらに分からない。酒は飲んでも構わないがアルコールの分解には水が必要である。フルーツは多量のカリウムやリンが含まれる。それらはダイアライザーで除去できない。田村の客が云うにはその器械は東京だと江戸川橋のクリニックにしかないそうな。きっと既存の器械とは全く異なるもののようである。明日再度松本へゆくので、詳しく聞いてくるとのはなしだった。
 透析と云っても個体差があって、元の病名も個々に異なる。わたしにその器械が使えるのかどうか、詳細を聞かなければ判断できない。でも、多少の期待はある。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月03日 21:17 | 固定ページリンク




カスク  | 一考    

 ワイン樽熟成のモルト・ウィスキーでよく知られているものにボウモアのダスクがある。ボウモア特有のコスメティックな香りは幾分和らぎ、その代わり、京都の麩饅頭のような苦みが後口に残る。好感の持てる苦みなのだが、それが渋みでないのが不思議、樽のなせる魔術の一種と思う。
 ワイン樽を熟成に用いたのは、蒸留所ではグレン・モーレンジとグレン・モール、ボトラーではイアン・マクロードが早いのであるまいか。ワイン樽でワインの熟成が行われるのは二箇月から二年、ウィスキーのような後熟は行われない、しかも一度きりで再使用はない。再使用されないという点はバーボン樽と同じである。
 バーボン樽は小さいのでスコッチの熟成には適さない。そこで側板を増やして用いている。所謂ホグスヘッドである。ところがワイン樽は端から大きい。スコッチをゆっくり熟成させるには相応しい大きさなのである。
 昨日のニュースで見たのだが、ボルドーの某ワイナリーでは四万個のワイン樽が毎年焼却処分されている。その点もアメリカと同じである。もっとも、ニュースの主旨は樽材を用いた家具すなわち再利用にあったのだが。
 ワインの年間生産量はボルドーとブルゴーニュだけでも1000万ヘクリットルを越える。昨今、随分と用いられるようなったワイン樽だが、まだまだ少ない。シェリー樽の不足が騒がれる今日、無尽蔵なワイン樽は魅力である。しかもフレンチオークにはタンニンが多く、モルト・ウィスキーに複雑な香味をもたらす。マーレイ・マクデヴィッドのクライヌリッシュに、シャトー・ラトゥールのカスクをフィニッシュに用いたものがあった。ワイン樽固有のはんなりした味わいは特筆すべきものと思う。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月02日 22:59 | 固定ページリンク




勘違い  | 一考    

 先日、肉腫について書いた。今日詳しく聞いたのだが、あれは血管の膨らみだそうである。通常、動脈は体内深く隠されている。透析患者はシャントによって表皮へ動脈が移動する。圧力がなくなるための膨張と今ひとつは同じところへ繰り返される注射のせいだそうである。血管は均一でない、血管自体の薄いところ厚いところいろいろである。また複雑に畝っている。それが錯綜した瘤のようになるらしい。早い人で二年、大方の腕は三年も経てば凸凹になる。十年選手だと異様な様になる。それにしても血管の直径が太いところで五、六センチにまで発達するとは驚きである。知己から瘤と云われ、それを信じていた。


投稿者: 一考      日時: 2010年12月02日 22:25 | 固定ページリンク




味噌漬け  | 一考    

 味噌漬けの豆腐について書いたことがある。水切りした豆腐をガーゼでくるみ、味噌を塗りつけてタッパーに入れる。チーズのような味わいのお通しができる。ちなみに、チーズそのものにも味噌漬けの製品が複数ある。
 他では卵黄の味噌漬がある。小さな器に味噌を詰めガーゼを敷いてくぼみをつける。くぼみに卵黄を入れ、ガーゼをかぶせて味噌でおおう。二日ほどでペースト状になり、さらに置くと固まって半透明になる。これを薄切りにするとからすみに似る。
 この味噌とガーゼの組み合わせはさまざまな料理に用いられる。わたしが贔屓にしていた荻窪の飲み屋では同じ造りで牛タンの刺身を喰わせた。牛タンは家庭ではできないが、少量のものなら可能である。スモーク同様、家庭で簡単にできるお通しである。
 ただし、現在のわたしには塩分濃度の高いものは味見すら不可能である。


投稿者: 一考      日時: 2010年11月30日 21:31 | 固定ページリンク




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