ですぺら
ですぺら掲示板2.0
2.0








友という名の刺客  | 一考    

 「洪水」第六号が発売されている。詩と音楽のための雑誌で発売元は草場書房、定価は840円。第六号は「特集 佐々木幹郎、音に遊ぶ」と題され、対談、座談会、詩、エッセイ、インタビュー等々が収められている。特集中に「コムロ・ヒトシというクスリ」がある。「雨過ぎて雲破れるところ」からの再録だが、いつ読んでも絶品である。どこまでが小室等でどこからが佐々木幹郎なのか、渾然として一如となっている。「渾然として一如」とは二葉亭の言葉だが、ここには二項対立を越える趣があってわたしの好きな言葉である。二葉亭と鏡花の言葉遣いにはよく味わうととんでもないことを示唆している場合が多い。

 目の前にいる人の発言には、かならず「そうだよねえ」と相槌を打つことから始めて、決して他人の話をそらさない。テーブルの向こうにいる人の話に彼が応じていて、あんまり、そのフォローが過ぎるときがあったので、わたしは彼の隣で、思わず笑ってしまったことがあった。すると彼は苦笑しながら言った。
「いや、いまのはさすがに僕自身も、フォローが過ぎると思っていたんだ」

 他人をフォローする人生を歩んできた達人たちの遣り取りである。強烈な個性を持ったひとは他人の話に逆らわない。知識というのは歴史の断片もしくは側面で、人によって捉え方が異なる。別に世の中が右側通行であろうが左側通行であろうがどちらでもよいのである。そうしたどうでもよいことと、どうでもよくないこととの識別に個の妙味がある。
 幹郎さんの文章は全編これ肉声で填められている。ところが読み終えて振り返ると、いままで何人も触れ得なかった新たな思想が開示されているのに気付く。肉声と云っただけでも至難の業なのだが、彼の主音はそんなところに止まっていない。仕掛けは二重三重に錯綜している。書物を繙くことの愉しみと書けば穏やかだが、彼の言葉は常に真剣勝負を挑んでくる。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月15日 12:12 | 固定ページリンク




失われた時を求めて  | 一考    

 わが国のトイレには便器しかない。しかし、フランスでトイレと云えば、化粧室のことである。用足しはもちろん、化粧直しから着替えまでがその用途になる。ちなみに、ホテルオークラなどではレディルームと表記されている。「トイレのドア越しに衣擦れの音が聞こえる」と翻訳すれば日本人なら下履きの上げ下ろしの音としか解釈しない。
 また二重ドアは観音開きのドアを指し、寒冷地に於ける字義通りの二重ドアを想起すると誤訳になる。
 さらに、ベランダは庭に突き出たガラス張りの部屋の意で、居間と一続きになっている。明治期に建てられた洋館にしばしば付帯し、サロンとして用いられた。ところが現在では吹き曝しの物干し台のイメージしか湧かない。
 月曜日に高遠さん来店、以上のような話が肴に持ち出された。プルーストの「失われた時を求めて」には井上究一郎と鈴木道彦の翻訳があるが、わたしに云わせれば双方共に噴飯物である。何時も書いていることだが、高遠さんや宇野さんのように生きたフランス語を解する人による翻訳は原作の解釈それ自体の評価を新たにする。謂わばプルースト咀嚼の歴史が書き換えられるわけである。
 前々日に光文社の駒井編輯長来店、駒井さんから高遠さんのプルーストがいよいよ九月から刊行開始と聴いた。悦びを共にしたい。高遠さんからはプルーストが完結するまでは生きていて欲しいと云われた。そちらはどうなるか分からないが、今のわたしにこれ以上の励ましはあるまい。

追記
 高遠さんから「突飛なるものの歴史」の寄贈に与った。前付の誤植箇所は修正されている。よく見ると一枚分が張り直されている。前付と後付は著者校すら許されなかったと聞く。担当編輯者の猛省を促したい。
 土曜日には宇野さん来店。念願のジャン・ジュネが同じ光文社から秋には上梓される予定とか。嬉しい話が続く。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月15日 11:47 | 固定ページリンク




椅子に座る苦痛  | 一考    

 店の営業だが、疲れがひどく、椅子に座っているのが四時間が限界になってきた。途中で十分ほど仰向けになればもう少し大丈夫なのだが、そううまく客が跡切れるとは限らない。それが理由で開店時間がどんどん遅れている。この一週間は七時半に開店した。そして営業中に屡々カウンターで仰向けになっている。わたしが仰向けになっているからと云って、気分が悪いわけでない。身体が重力に逆らえなくなっているだけである。
 何時まで営業が続けられるか分からないが、常連さんの理解を得て変則的だがなんとか続けている。一層のご理解、ご協力をお願いしたい。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月15日 10:43 | 固定ページリンク




「野に住みて」  | 一考    

 伊藤文学さんは父伊藤祷一が創立した第二書房で働いていた。その第二書房から片山広子の歌集「野に住みて」が1954年に上梓されている。先般、荷物の整理中、同書の在庫が伊藤文学さんの自宅から発見された。何冊か必要かと岡田夏彦さんから連絡があった。近く入荷の予定、ご入り用の方は連絡してください。ただし発送不可。
 ところで、若き伊藤祷一が働いていた第一書房のスポンサーは大黒田元雄と片山広子の亭主。その縁で「野に住みて」が第二書房から出版されたと聞く。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月13日 20:10 | 固定ページリンク




残日  | 一考    

 意識というものは決して空間的なものでなく、肉体と歩を共にしている。肉体の搏動は意識の搏動であり、意識の呻きは肉体のそれである。脳であれ、胃であれ、腎臓であれ、変調をきたしている部分が意識のすなわち肉体の中心点となる。その部位に軽重はない。
 生死とよく云われるが、人は死が視線内に這入ったとき、はじめて死を意識する。視線内とは人生の射程距離で、残日が数年、数箇月あるいは数日に限定された場合を指す。人は自らの生を意図できないように、死を想像することはできない。できないと云うよりは許されないのである。
 若者と老人ではその残日の在り方がまるで違ってくる。人生の落日を過不足なくわたしの前でさらけ出して逝った横須賀功光さんを思い浮かべる。彼がですぺらへ初めていらした日、あと一年の命と宣言なさった。彼が自らの死について語ったのはその時と死の一週間前の二度のみ。だからこそ、わたしは毎日、毎日、零れおちる涙を怺えながら晤語を繰り返した。わたしにとって、死とは常にそういうものであってほしい。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月13日 08:08 | 固定ページリンク




終点酒場  | 一考    

 わたしは死にたくないし、病気にも罹りたくない。にもかかわらず、末期腎不全になった。結果、日々その症状と闘っている。死は抽象的なものでなく、ひとつの具体として目前にごろんと転がっている。そういう人間を相手に軽々しく死にたいとか死しか残されていないとか口先で云うことの無神経さはどこから来るのだろうか。掲示板でなく、直接会って話すならきっとぶん殴っていたと思う。長く生きてきたが、これほど莫迦にされたのははじめてである。
 人というものはここまで傲慢に不遜になれるものなのだろうか。物書き志望ならなおのこと、気配りができなくては登場人物に心理的膨らみをもたらすのは不可能である。一体全体なにを考えているのか、恥じを知れと云いたい。
 当掲示板は常に開かれている。しかし、書き込む前に考えてほしい。相手の心理的、肉体的状況がどうなのか、書き込むことへ対応できる状態なのかどうか。今回のような件がさらに続けば、当掲示板はブログに変更せざるを得なくなる。
 ですぺらは終点酒場と徒名された。それほどに多くの客が病に斃れもしくは自死を撰ぶのやむなきに至った。それら友の死を遣る瀬なく思っている。しかるに、生あるものが生きるの死ぬのと無責任な発言を繰り返す。これは死者への冒涜であるまいか。死にたいのであればさっさと死ねばよい、わたしは鼻にも引っ掛けない。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月13日 07:52 | 固定ページリンク




無煙たばこ2  | 一考    

 東京郊外でゼロスタイルが常に在庫しているコンビニを見付けた。ヤフオクで300円から1800円で売買されているが、定価は300円ぽっきりである。ひとつあれば十分なのだが、カートリッジが手に這入らない。やむを得ず300円のパイプとカートリッジのセット販売を買っている。おかげで家中パイプだらけである。お客さんで必要な方は知らせてください。ちなみに、発送は致しません。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月13日 05:56 | 固定ページリンク




風呂  | 一考    

 洗濯用の洗剤がなくなったので買いに行くも、スーパーの駐車場で気分が悪くなり周章てて帰宅。洗剤はおろか、休日用の刺身も飲み物も買い損ねる。キャンプ用に取り置いた洗剤を持ち出して下着を洗う。
 深夜風呂に這入る。最初は四十二度に設定していたが、最近は三十九度。意識の喪失を懼れてのことである。以前住んでいたところでは、風呂を沸かすのに五十分、冬は一時間以上費やしていた。現在は十分で沸く。従って、体調の良い折を見計らって入浴できる。それは実にありがたいのだが、風呂に這入るときだけは誰かにいてもらいたい。一人だとまことに心細く思う。心神喪失に対する恐怖心は徐々に大きくなってくる。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月12日 04:51 | 固定ページリンク




感謝  | 一考    

 誉めるのは簡単なのですが、誉めただけでは済みますまい。と云って自分の意見や考えを率直に述べるのは難しいですね。どちらさんも本人が居ない場では云いたい放題ですが、本人が居ると途端に態度が変わります。オマージュしか書かないなどと云うのは真っ赤な嘘で、みなさん腹に一物も二物もあるようです。偽善との言葉はなんのためにあるのでしょうね。
 意見を率直に述べていると、回りは敵だらけになってしまいます。編輯者が最後まで黙っているのは理由があってのことなのです。他方、書き手はみなさんそれなりの自信をお持ちです。自信があるというより、誉める編輯者が理解ある編輯者で、誉めない編輯者は文学が分かっていないとなります。今回はきっとご立腹かと案じておりました。食い下がられた場合、どう対処しようかと悩んでいたのです。
 質問の類いは答えを拵えてから訊うのが常で、応えが想定外の時、ひとは食い下がります。いや、そうではなくこうなんだと、だったら最初から質問など試みるべきでないと思うのです。これは割烹の作法と同じで、割烹で出てくる料理にチョイスはありません。想定外の料理すなわち出会いを求めてひとは割烹へ行きます。それが一期一会です。一期一会が嫌な方は、定番といわれる料理を置いている食堂か居酒屋へ行けばよいのです。この消息はショットバーでも同じです。決まった酒を飲まれる方にショットバーは不向きです。
 いずれにせよ、これで玲さんとのあいだにあった垣根がひとつ外されたように感じています。酒は飲まれませんが、美味い刺身を馳走させていただきます。機会を設けてください。どうもありがとう御座いました。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月12日 03:24 | 固定ページリンク




謝謝  | 玲はる名    

一考さん掲示板にお言葉頂戴するのはもったいないです。日録を汚させてしまって申し訳なかったです。謝ります。
ちなみに高島さんは一考さんとはタイプが違いますが、男前の歌人さんです。はい。

天真爛漫といえばまだ聞こえがいいですが、僕は思慮が浅いことをときどき忘れてしまうのです。
今回頂戴したお言葉が的確なので、今までお店や時々で頂戴した僕への言葉が俄然真実味おびてきたなと思いまして過去回想しています。人生経験相応の意識の欠落について、過去にもらった言葉を考え直してみようかなと思います。
ですぺらに出入りしている若い詩人たちと自分を比べるのは怖いのですが、僕は確かに幼稚なのです。歌でも同じ過ちを犯すことがあります。オナニーはいいけれど、廃棄物を垂れ流すのでは読み手がかわいそうだと頭では理解しているのですが実生ならずです。推敲と、己を知る作業と、読者の目と、ナルシストからの脱却。それと、恋愛。恋愛は最近遠慮気味です。


投稿者: 玲はる名      日時: 2010年07月11日 00:28 | 固定ページリンク




「朝が来ると信じているのだね」  | 一考    

 死ねと云われれば死ぬなどというのは通常は恋情の表明なのだが、玲さんにそのような気持の持ち合わせはなにもない。にも関らず、あの文言がぷいとでてくるところが玲さんらしい。およそ不用意で天真爛漫である。
 玲さんから「Sai」第三号と「朝が来ると信じているのだね」の二冊が贈られてきた。「Sai」の方は高島祐さんの短歌と玲さんの評論に感心させられた。ただ、ここでは玲さんについて書くのが筋だろうから高島さんについては触れない。
 「朝が来ると信じているのだね」は玲さんの個人詩集であって、所収の「愛すべき孤独」については2008年12月19日にふれているので繰り返さない。ただ、「愛すべき孤独」は用語に若干の無駄があって、リリカルに流れている。しかし、それを乗り越えるだけの緊迫感を内包している。
 同詩集には「永遠」「愛」「うつくしい」「やさしい」「哀しみ」「かなしい」「さみしい」といった不用意な言葉が汪溢している。そうした言葉はもし遣うなら効果的に用いなければならない。思い付きや感情移入のオンパレードでは詩にならない。ごく一部を除いて消化不良をきたした習作集といえようか。
 それにしても、推敲が必要である。推敲が繰り返されればもう少し風通しがよくなる。おそらく、天真爛漫などという言葉を彼女は嫌がるだろうが、わたしの目にはそうとしか映らない。可愛いといえば可愛いのだが、いまさらセンチメンタルな少女詩を書く歳ではあるまい。言葉の概念に対する疑念が淡く、イマジネーションが類型化しているところに問題がある。
 「可能性が一分にせよ、間違いなく産声を上げている」と書いた。詩としておよその形は成り立っている。想像力の大胆さと奔放さが今後の課題となる。それにしても、作品は生みっぱなしでは困る。納得いくまで書き直すべきである。いわんや書冊に纏めるときは二重三重の慎重さが求められる。
 その慎重さと重なるが、彼女にとって大きな問題は、彼女の内部に読者の目線が欠落している点である。書き手と読み手のバランスが取られて、はじめて他者の目に耐える作品が生まれる。それを邪魔しているのはおそらく彼女のナルシシズムだと思うのだが、彼女は否定するだろう。いささか謎めくが、恥じと外聞をかなぐり捨てた、言い換えれば素顔でなく仮面を被った玲さんと出遇いたいと冀求している。
 人は無数の賓辞を内包してい、ひとつの賓辞は他の賓辞を平気で裏切る。彼女の場合は他人の誤解でなく、自分自身の誤解を懼れている。誤解を懼れていると、いつまで経っても作品は独立しない。妄言多謝。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月10日 20:26 | 固定ページリンク




失礼します  | 菊坂澄江    

お読みになりたくないということならばお送りするまいと思っておりました。わたくしは同人誌の編集者を、ないがしろにしているわけではないし、渡邊さんのことを知りあいの域にお入れするのは僭越すぎると思っておりますし(実際知り合いではございません)、どなたともそんなに御縁は深くはございませんが、軽々しいと思われるのなら、そう思われても仕方ありません。もうすでに、送らないつもりでおりましたが、この歳にしてネット社会に案外嵌まっていたんだなという思いがあります。すみませんでした。


投稿者: 菊坂澄江      日時: 2010年07月10日 11:26 | 固定ページリンク




冷房  | 一考    

 店で昏睡状態に陥るたびに常連さんがいらして助かっている。しかし、何時も常連さんとは限らない。一見さんが周章てて救急車を呼び、その時に意識がなければ面倒なことになる。事情が分からない医師だと間違いなく、股間からの緊急透析になる。これには対処の仕様がない。山崎医師が店の営業はできないよ、と云っていたのはこのことか。
 これから夏本番、先が思いやられる。今日も寒いから冷房を切ってくれと一見さんから云われた。なるようにしかならないが、不安感は拭いがたい。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月10日 06:29 | 固定ページリンク




菊坂さんへ3  | 一考    

 2010年07月05日の「同人誌」によると、読むということを前提で送付すると仰言る。だとすれば、わたしとしてはお断りするしかないのです。あなたも病気だそうですが、わたしは一種一級の障害者です。第一に面識もない他者に対して失礼に過ぎると思います。2008年06月08日に書いた「長い季節」についての他、書くべきことは御座いません。作風に根本的な変化が生じれば、またその折に。
 29号だか30号だか忘れましたが、編集長が後記を書かれていました。短いものを書けという正論で、大層しっかりした方とお見受け致しました。小説については彼と話し合うべきと愚考致します。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月10日 04:02 | 固定ページリンク




失礼します  | 菊坂澄江    

なにがしか書くということは、怖いことです。臆病な者ですので「隠された思い」が露わになるような瞬間はたまりません。いやこれは快感の極みの意ではなくて、もう戦々恐々といった感じです。病気でなくてもいずれ病気になりそうな気がしますが、妄想的気分が渦を巻きます。渡邊さんがお書きくださったように、あっけらかんと書き始めたわたくしでも喜ばしいことに、いやなんですけれども少しは自信をなくしているのです。逆説的にわたくしの病気にとっては、病的確信が揺らいだ方がいいのかもしれませんが、そのような戯言はもう書きますまい。自信というも恥ずかしいことですが、その自信が揺らがされるのが小気味がいいので、まことに勝手ながら渡邊さんに愚弄されたいのかもしれません。自虐的ですが。絶対にお褒めの言葉などいただけないのは、わかりきったことですから。こちらの掲示板を読ませていただいていると、自分の書いているものがいかに渡邊さんの喜ばれるものとは違っているか、それくらいは自明と言ってもいいくらいです。何が嬉しくてわたくしは自分の評判を落としに同人誌に載った文章をわざわざ渡邊さんにお読みいただこうとしているのか。わたくしは同人誌という場が与えられたことは素直にうれしいのですが。でもやはり有り体に申して、読者におもねるような気持ちや、また逆に技術すらないただの反逆心が皆無とは言い切れないのがわたくし個人の実情です。またつまらないことを書きました。でも、自分の本心を書く方法をどうにかしたいという気がしてまいりましたが、余計なことを書きました。わたくしの傷はもうすでにかなり深いもので、これ以上深くなるものかどうか、あとは死ぬか少しの回復があるのみかと思われます。


投稿者: 菊坂澄江      日時: 2010年07月09日 23:23 | 固定ページリンク




意識の散歩  | 一考    

 腎不全を患う方々のために、確認できたことを毎回書き綴っている。昨夜は夕刻までは調子はいつも通りだった。問題は駐車場からの歩きにはじまった。一キロ歩くのに行きは休憩なし、帰りは三度ほど休んでいる。それが昨日は歩かれない、行きに二度の休憩を取った。
 店へ出たあと、早速椅子を並べて十五分ほど横になっていたものの、電話の音で起きた。木村さんからの電話で周章てて開店準備を整えた。三十分ほどはなんともなかったのだが、急速に皮膚感覚がおかしくなってくる。木村さんから外へ出て休めばと云って頂いたが、時すでに遅く、そのままトイレへ駈け込む。便意ではなく猛烈な吐き気である。ちなみに朝飯は十時半、従って空腹を感じていた。そこからして既におかしい、空腹感など感じる筈がないからである。
 空戻しが十分ほど続き、それが収まると急速に意識が薄れてゆく。トイレの床に座り込んで失われてゆく意識との格闘が続く。立ち上がろうとしてどうと倒れ込む。出ない筈の汗が吹き出て、全身がびっしょりである。特に顔と頭はまるで水を被ったようにぐしょ濡れになる。なんとか意識を繋ぎ止めようと必至なのだが、朦朧としている。二十分ほど経ったであろうか、トイレのドアの隙間から流れ込む冷たい風に気がついた。普段なら気づかないごく僅かな風である。「ああ、涼しい」これで格闘は終わった。トイレを出て店の椅子を並べて横になる。三十分ほどでカウンターへ復帰するも、ふらふらする。話せるようになったとき、時計を見たのだが九時半、一時間半ほど木村さんを捨て置いたことになる。申し訳ないことをした。

 木村さんは高脂血症だそうである。高コレステロール血症でなく、中性脂肪のみが多い高中性脂肪血症。理由は酒の飲み過ぎである。自重なさっているらしいが、身体にだけは気をつけていただきたい。わたしが云うことではないのだが。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月09日 04:41 | 固定ページリンク




発作  | 一考    

 久しぶりに木村さん来店なるも、また発作を起こす。今日は夕方から体調悪しく、目眩いを感じていたもののやはりダウン。完全に気を失うところまでは行かなかったが、視力は定まらず、回りは霞のような白色一色となった。トイレで顛れていたものの、あと十分出てこなければ救急車を呼んだと木村さん。もし一人なら、昏睡状態に至っていたに違いない。木村さんに迷惑をお掛けした。冷房を二十度にまで下げ、なんとか話を再開するまでに漕ぎつけたが、今日は不安だらけの一日だった。
 木村さんから白耳義産のシガリロ二種と同じく獨逸産のシガリロ一種をありがたく頂戴する。早めの帰宅、拙宅でシガリロを味わうつもり。烟草はなんであれ、わたしは肺の奥まで咽み込むのでシガリロは恰度よい、葉巻はいささか重い。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月08日 23:03 | 固定ページリンク




久しぶりにモルト会  | 一考    

 今日はメバルの刺身を買ってきた。メバルにはキンメバル、アカメバル、クロメバルなどがあるが、生息地によって色が変わるだけで、同一種である。色によって味が異なるとの意見が板前のなかにすらあるが、それは間違い、味わいも同じである。17、8センチの小型のメバルだったが、一枚三百円、それを二枚下ろしてもらった。おっきーさんがいらしたが、それが分かっていれば店へお持ちしたのにと思う。

 おっきーさんと話したのだが、今月はモルト会を催す。名付けてハイランドのサイレントスティル。ハイランドの閉鎖された蒸留所のモルトウィスキーを試飲します。美味といえるのはグレンユーリー・ロイヤルとブローラぐらいのものですが、在庫があるうちにとにかく飲んでおこうというのが、今回の主旨です。
 グレネスク(1985)、グレンアギー(1982)、グレン・アルビン(1983)、グレン・ギリー(1995)、グレン・モール(1983)、グレンユーリー・ロイヤル(1985)、グレンロッキー(1983)、ノース・ポート(1983)、バンフ(1983)、ブローラ(1983)、ミルバーン(1985)、ロッホサイド(1992)の十二種類ですが、いささか値が張ります。詳細はまた。( )内は蒸留所の閉鎖された年。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月08日 03:57 | 固定ページリンク




玲さんへ2  | 一考    

 「冗談はさておき」の後に、さらに質の悪い冗談が続くのも一興。あなたが割腹してもわたしには得るものはなにひとつありません。佶屈していますが、励ましのつもりで書いています。その意が通じるかどうかは別にどうでもよいことですが。
 これはどなたに対してもそうなのですが、編輯者がよく云う「肉声がない」に尽きると思います。根拠、傷跡、情念、いかなる文言を用いようと要は肉声なのです。その可能性が一分にせよ、間違いなく産声を上げている、だからこそ口汚く罵りもするのです。
 世の中を見回して多くの作品は自信に満ち溢れています。それは書き手が自らの作法(意識)に疑問を抱いていないからです。そういう方は勝手になさればよろしいのであって、わたしとは縁なき人々です。迂闊にわたしの前で立ち止まると傷跡を拡げることになります。
 「隠された思い」はどなたにも御座います。ならばその思いをこそ描くべきで他に何を描けばよろしいのでしょうか。「思い」が巧く表現できないと悩み、刻苦勉励するのが書き手の務めです。この場合の巧みとは、読み手にうまく伝えられるかどうかです。決して表現の巧拙を云っているのでないのです。文章を著すとは自己を表現し、自己を他者に伝える行為です。伝わらなければそれまでです。況や、思いを伏せていては永遠に思いは伝わりません。わたしが結社とか同人とか仲間に反対するのはその伝達に対する甘えが生じるからです。読者は常に不特定多数であって、書き手が読者の顔を窺うのは不可能です。表現者は常にオナニストであることを強いられます。
 わたしは他者の作品に接するとき、ほぼ白紙の状態で向かいます。見落としがないか、気配りが足りているか、わたしの能力で読み切れるのかどうか、アプローチを変えた方がよいのでなかろうか等々。当然、至らない点も多々御座います。しかし、その至らない部分を突っついてどうして理解できないのかと問われるのはご免被りたく思います。
 さて、玲さんはいつも恋愛なさっているべきです。恋愛は下らない自意識などからの蝉蛻を余儀なくさせます。読書と同じで、恋愛は人をどこかへ連れて行きます。常に自己解体の危機に晒されて生きるのはそれこそ大いなる快感だと思うのですが。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月07日 20:10 | 固定ページリンク




お酢はどうでしょう。  | 玲はる名    

身体には葉巻もお悪いでしょうし……お酒もお悪いでしょうし……。冗談はさておき、僕はこの人になら殺されてもいいとか、殺されてもしかたないという人がなんにんかいます。産んでくれた人を筆頭として、僕がひどい目に合わせた人とか、恩人とか数人います。自国はその中には含まれていません。もし、一考さんがこれ以上書いても無駄だから死ねと仰ったら、僕はその場で切腹する価値はあるなと思いますね。無駄な文章を書くなら切腹した方が後々笑ってくれる人がいるかもしれないです。


投稿者: 玲はる名      日時: 2010年07月07日 13:53 | 固定ページリンク




とどのつまり  | 一考    

 いかなる人であろうとも、何かを著そうというからには著すべきなにかを持っている。作品を読んでそのなにかが窺えない場合、理由はふたつある。ひとつは表現が稚拙な場合、いまひとつは表現すべきなにかが未分化である場合である。
 わたしは斯く斯くしかじかの人間で、と云った自注が必要な場合、その因果関係は双方にあると思われる。
 わたしは学校へ行っていないので分からないが、多くの人は学生時代に喧喧囂囂たる論議を経験するようである。そうした議論の繰り返しのなかから徐々に個体として分化されてゆく。
 当掲示板はすこぶる生臭い掲示板で、死を迎えた老人が未だにぶつぶつ文句ばかり云っている。きっと現在がわたしにとっての学生時代なのかもしれない。偶には目の醒めるようなクリンチもあったが、それは相手次第である。正確には目が醒めるのは常にわたしであって、相手側ではない。
 わたしもかつて連載の真似事を試みたことがあった。ただ、読者を近在に託したことはない。自分が書いたものなど他人が読むはずもなく、況や理解など望むべくもないからである。文章を著すとは、宛先のない小包を送り続ける作業に似ている。せいぜいが美辞麗句に飾られたおよそ中身のない礼状が送られてくるのが関の山。わたしは自ら書いたものが例え誉められても嬉しくもおかしくもない。そのようなことが理由で掲示板を続けているのではない。
 掲載誌であれ著書であれ、自ら送ることはあっても、それが読んでいただけるものかどうかは分からない。そのようなことは強制すべきことではないからである。また、自身礼状を書くのは不得意である。従って送られて来ないことを願っている。どうあっても必要なら自費で購入する。ところで、今のわたしに必要な書冊は腎臓に関する本だけである。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月07日 03:25 | 固定ページリンク




菊坂さんへ2  | 一考    

 「あらゆる人間の行為」とは書いておりません。そこまで人は意図的には生きられないでしょう。わたしは書くという行為に限定した筈ですが。
 わたしは戦後世代で、根拠を問う世代に生れました。その残滓がさまざまな結果をもたらすようです。玲はる名さん宛の書き込みに記したようにネットの影響には畏るべきものがあります。
 仰有っての通り、文学にと云うよりも人の精神に深化はあっても、進歩や進化などないと思います。思いながらも、西洋の硬直化した弁証法的ものの考え方にはうんざりしています。あなたが示唆なさっている「期待と落胆の相克はどうもアミニズムの支配的な世界では生まれようもない背反だと思われる」は大旨正しいご意見だと思います。ただ、今の日本がアミニズムの支配する世界だとは思っておりません。「くっきりとした何かの傷」とあなたは表現なさっていますが、誤解を懼れずに申しますと、世の中を正邪に色分けするキリスト教文化の謂いではなかろうかと思います。
 わたしにプリズムを求められてもそれは不可能です。わたしに与えられた材料は作品だけです。作品のなかに秘められた痕跡ないしは傷跡のようなものからイマジネーション(すなわちプリズム)を働かせるしかないのです。こう申しては失礼ですが、その傷跡が今のわたしには見えて来ないのです。わたしの虹彩の能力が失われているのかもしれません。いずれにせよ、「粗い」とのお言葉は甘んじてお受け致します。
 続同人誌と違って、続々同人誌は随分と風通しがよくなっているように見受けられます。三島由紀夫やユイスマンスの小説にあっては、文中にいきなり続々同人誌に書かれたような内容が紛れ込んでいます。あれもひとつの方法論かと思います。契機は衝動で結構、ただ、書いている内に衝動で済まないものが育まれてくると思うのですが。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月06日 22:18 | 固定ページリンク




続々同人誌  | 菊坂澄江    

あらゆる人間の行為に根拠が必要であるのかどうかという問いが立てられると思います。これこそどの行為に根拠が必要で、どの行為に根拠が必要ではないのかということになってしまいます。それは異常と正常の線引きがあいまいだとおっしゃるのと同様のロジックです。粗すぎるでしょうか。ベケットのような作品が日本で出るのは50年早いとおっしゃるのならば、文芸は進歩するというか或いは破綻へ向かうのかということでしょうか。リヒャルトシュトラウスは、その時代もうすでに古臭いといわれる作曲をしており、同時代には顧みられなかったようですが、寧ろ今は受け入れられているということもあります。何が言いたいかと言いますと、つまり、作り手の意識だとか、受け手の意識だとかは、一定ではないということだと思います。作り手の意識、ここでいう根拠はそれほど絶対的なものではないということを申し上げたいのです。なにがしかの理由をつけることは、何か作るときにはある程度必要かもしれませんが、それに世界が拘束されるとはどうも思えないのです。何がいいと感じるかは、ほとんど偶然と言っていいかもしれないと思えるのです。わたくしはベケットのような作品は、日本では50年たっても生まれないような気がします。なぜかと申しますと、あの期待と落胆の相克はどうもアミニズムの支配的な世界では生まれようもない背反だと思われるからです。それほどにくっきりとした何かの傷がないと書かれないものだと思われます。わたくしにも大きな傷はありますが、あのような世界を書かねばならないかどうか、今のところ必ずしも追随する必要も感じません。今後はどうなるかわかりませんが。だからと言って極端にホームドラマを書いていると受け取られるのは、粗いと思います。やはり白光の世界もプリズムを通せば赤外線から紫外線まで別れるように幅があると思われます。渡邊さんのおっしゃり方はわたくしには何か無頼派文士のあり方を思い出させます。仮面紳士的にふるまおうとは思いもよりませんが、それでも、自分というものをさらけ出すというのは、わたくしには出来かねることのようでありながら、やはり出てしまっているところはあるのだと観念しております。わたくしは自分からきっぱりと自己表現をしようという意図は持ちませんが、自分の意図は裏切られるものだということぐらいは感じてもいるのです。ところで、わたくしは書きたいから書くという以外のことはあまり申し上げられないという気がしております。何か衝動のようなものを感じて書くというのはおかしいでしょうか。天才肌でもないのに滑稽かもしれませんが、理由をつけてもその理由から乖離してゆくだろうことは、推察可能と思われます。


投稿者: 菊坂澄江      日時: 2010年07月06日 11:26 | 固定ページリンク




玲はる名さんへ  | 一考    

 食べ物が不自由になったひとを見舞うに食べ物はないでしょう。
 昨今、ネットの影響によって書くという行為に理由が必要でなくなりました。それがよいことがどうか疑問があるのですが、間違いなく新たな方式と視点が生れつつあるのは事実です。かなり前のことですが、黒瀬さんと話していて、方法論といえば、携帯小説ほど方法論に彩られたものはありますまい、この辺りで恋愛を持ち出して、この辺りで失恋を持ち出して・・・これにはわたしは絶句致しました。しかし、考えてみれば方法論それ自体が新たな方式、新たな視点を内包し、わたしが思う方法論は既に過去の遺物で、冗談にすらならないのではないかと。
 さて、玲さんの作品、といってもわたしが評する作品数はあまりにも寡ないのですが、その作品には間違いなく情念が濫れています。だからこそエッセイを認めたのですが、あのような魂がけぶれるような作品がその後現れませんね。念の為に云っておきますが、傑作というのは計算尽くで生まれるものではありません。多分に偶然性のお世話になるものです。それ故、偶然の機会を生かす心構えが常に必要になります。自分の意識は決して世界の中心にはなりませんが、意識することによって、偶然を利用するのは可能です。偶然を丸め込む、自家薬篭中の物とする。それも立派な方法論なのですが。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月06日 06:14 | 固定ページリンク




菊坂さんへ  | 一考    

 異常と正常の概念自体が入れ子構造になっていると思います。なにが異常で、なにが正常なのか、そこに線引きができるようなひとがいるのでしょうか。これはブルトンやジュネについて書いたときに明らかにしたように、相剋する概念というのは非常に珍しい概念ではないでしょうか。ブルトンに云わせると、相剋しあう概念が相剋しあわない至高点がどこかにあるようですが、ブルトンが証明として持ち出した概念に相剋しあうものはひとつも御座いません。花田清輝の楕円の思想にせよ、林達夫の庭園としての弁証法にせよ、それらは対局主義に薄化粧をあるいは厚化粧を塗りたくっただけのはなしで、わたしにとっては新規なものなどどこにもないのです。だからこそ、先項で書いた「書き手の根拠」を問題にするのです。林達夫の弁証法にはなんら興味が持てないのですが、彼の「共産主義的人間」には書くという行為の根拠がしっかりと描かれています。
 わたしはベケットが書くような作品には惹かれますが、あのような作品が日本で生まれるにはまだ五十年早いと思っております。ベケットの作品は根拠と疑問の繰り返しのなかにかろうじて屹立しているような作品です。
 「不満の捌け口」と書きましたが、内的体験でもかまいません。「内心はアンビバレンツに晒されて」いるとか、ならばその不安定な心情そのものを不安定に描いてくださるまいか。書くものが結果として妄想になろうが、狂気の衣を被っていようが、いかなるホームドラマよりも素敵な作品になると思います。あなたの綱渡りに興味はありません。作品だけがあなたとわたしを繋ぐカラザです。繰り返しますが、綱渡りが破綻してゆく様を読みたいのです。小説らしく取り繕った作品を読むのであれば、世の中に掃いて捨てるほどあるではありませんか。

 わたしは病いに罹ることによって、自身に忠実に、さらに申せば悪意をもう少し前面に出そうと思っております。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月06日 05:14 | 固定ページリンク




無煙たばこ  | 一考    

 5月18日発売のゼロスタイルをやっと購入できた。かぎたばこを応用した無煙たばこで、幹郎さんに云わせるとスコットランド行きの機中で重宝したとか。電子煙草はいくらでもでているが、咽むのが水蒸気では焦れったい。かぎ煙草とはよいところに目を付けたものである。
 それにしても、入手が難しい。赤坂の煙草専門店では十個ほどしか手に入らないそうである。予約で半年は詰っているそうな。その煙草屋の主人からセブンイレブンを探せばと云われて、店の帰り途、十一軒目でやっと遭遇した。販売は都内だけで、都心部はすぐ売り切れる。わたしが購入したのも六号線沿いの中川大橋の手前だった。次はカートリッジの購入である。パイプにはカートリッジが二つしか添付されておらず、二日で吸い終わってしまう。ゆうパックの遅配同様、JTにしては準備不足でないだろうか。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月06日 04:04 | 固定ページリンク




続同人誌  | 菊坂澄江    

渡邊さんが腎臓なら、わたくしはさしづめ脳です。脳というのは体の中枢ですが言語野でもありますから、そこのところをうまく言い分けることはできません。わたくしは異常なんで、異常でない様に書いていると言えるかもしれません。そういう意味では、不満の捌け口をわざわざ隠しているように感じられるかもしれません。それはわたくしの弱さに通じると思われますが、内心はアンビバレンツに晒されております。わたくしは前の二作をお送りしましたときには、こっぴどく何か言われることは覚悟しておりました。ただ寧ろおっしゃらないというところに、反感があるのだと思っております。それは感得しております。その興味をもたれない種類の小説だということだと思われますが、小説そのものに興味を持たれてはいらっしゃらないのか、いや、そういうことじゃないのでしょうが、渡邊さんの前に誰が自信などもてましょうか。わたくしの脳は異常なので、そこに拘っているのであって、二重三重の複雑な思いは理解されないものと思ってはおります。妄想的な何かを書けば脳についてなにがしか書いたということには単純にはなりますまいが、わたくしが異常を隠しているようなのは、わたくしの内心としては綱渡りなのです。このことはわたくし個人においては特別な立場なのです。やはり先人は病気ではないので『妄想』などと題したということもできると思います。でもやはり正しい狂気に憑かれているという風にわたくしなどは感じてしまうのです。わたくしは不用意に文芸学の徒に勘ぐられることを避けているだけかもしれませんが、わたくしがおかしいということは知られていても、わたくしの小説様のものがおかしいと言われないようにしている、けれどもホームドラマではない何かを書きたいという思いもあるのです。まさに綱渡りなのです。御託を並べてしまいました。わたくしは脳が悪いのです。これだけでもう薄気味悪いものをお感じになられると思います。これはわたくしの特殊な立場です。不満がないわけでは全然ないことはおわかりいただけるとは思いますが、小説に不満を反映させているかと言うと、単純にはそうは言えないということになります。小説というジャンルをやはりわたくしは好んでおります。ただ病んでおりますところは脳ですから。とくに言語に観念的にかどうか知れませんが、傾いているのは確かかもしれません。どうも失礼いたしました。やはり人には隠された思いがあるのだと思っております。病んだものからすると、普通のものは美しいのです。ほとんど送るなと言われているようなものですが、お送りするかもしれません。まだ決めかねておりますが。


投稿者: 菊坂澄江      日時: 2010年07月06日 03:20 | 固定ページリンク




おじゃまします。  | 玲はる名    

一考さんの考えていることがなんとなく分かるので本ができてもお送りするのに躊躇するんですよね。前回の[sai]が出たときは結局僕は送ることができずに、黒瀬くんが僕が送っていないのを知って、焦って送ってくださったとか。僕は未だに送るのに勇気がなかなか出ません。黒瀬くんは強いんでしょう、たぶん。3号ができたので近日送ります。まあ、初対面の頃は、声をかけるのも躊躇したぐらいですから、あの頃からすれば随分勇気は振り絞っています。今、お酒が飲めないのでそちらにうかがえないのです。客にすらなれないという。めんもくない。

詩と短歌の発生の前後の話、前にもお伺いしましたが、今回の記事の方がより理解しやすかったです。定型ありきではないという話ならば共感できます。僕は未だに定型がなんなのかよく分かりませんが、少なくとも自由と定型は対立点ではないと考えています。ああ、余計なことを書いてしまいました。ごめんなさい。というなら書くなといことなのですがやっぱり書いてしまいます。

一考さんは食べ物がたべられないのでおみまいに何を送っていいかよくわかりません。アイスクリームがお好きだけど、それも食べれないとなると想像させるのも申し訳ないと思うのです。ごめんなさい。というなら書くなということなのですが(以下同文)


投稿者: 玲はる名      日時: 2010年07月06日 01:01 | 固定ページリンク




フルーツの再利用  | 一考    

 書き込みに対してmoonさんから林檎シャーベットなるメールが送られてきた。

 http://cookpad.com/recipe/290226

 この donchanさんのホームページならびにブログには役に立つ記事が多い。わたしも参考にさせていただく。フルーツ罐詰の汁を捨てていたが、もったいないことをしてきた。いろいろと考えつくものである。下段はパン。

     http://donchans.exblog.jp/tags/%E5%86%B7%E3%81%9F%E3%81%84%E3%83%87%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%88/

http://donchans.exblog.jp/tags/%E6%89%8B%E6%8D%8F%E3%81%AD%E3%83%91%E3%83%B3/


投稿者: 一考      日時: 2010年07月05日 22:49 | 固定ページリンク




菊坂澄江様  | 一考    

 当掲示板で翻訳以外の小説を頌めたことはほとんどないと思います。翻訳にあってすら、原作についてあれこれ書くのは差し出口になるらしく、今後言祝ぐのは短詩系に限ろうかと思っております。翻訳とは純粋に技術的な問題もしくは言葉に対するセンスの問題です。ところが、わが国にあっては、ブルトンやバタイユが訳者に乗り移るらしく、取り憑かれたように向きになる方ばかりが目につきます。物の怪や悪霊はそちらの筋に任せるとして、そこまでして文学という鵺にしがみついていたいのかと呆れております。
 短詩系は短歌の歴史は詩よりも古いなどという能転気なお題目を唱える莫迦が過多を占めます。太初に定型ありき、などともし本気で思っているのなら、無知曚昧も極まれりというところでしょう。ところが、道理にくらい筈の人が著す作品がたまさかきらっと輝くものを内包しているときがあります。もっとも、それは輝きを示唆した人の栄に属することで、原作者が莫迦であることはなんら変わりません。原作者が与り知らぬところにまでイマジネーションの羽先を延ばすのは徒か悪意、いずれにせよ、それから先は読み手の世界のはなしです。
 高見順が魂ではなく胃だと看破したように、おそらく文学は言葉の問題でなく、自らの体内に属する問題だと思うのです。さしずめわたしなら魂でなく腎臓だと叫ばなくてはなりませんが、ことほど左様に文学と肉体は不可分のものなのです。そしてそれらを結ぶカラザのようなものをわたしは情念と名付けています。
 ストーリーがあって、主人公がいて、情景描写があって、心理的起伏があって、時間軸が絡み合ってなどという作品の表層にわたしはなんらの興味も持たないのです。興味があるのは、なぜ書くのか、なぜ表現するのか、なにに向かって書くのかといった書き手の根拠のようなものなのです。言い換えれば、充足している人、不満を抱いていない人の書き物にはいささかの興味もありません。不満の捌け口(情念)が顕れているとお思いでしたらお送り下さい。
 きっとわたしより、読み手としてもっと相応しい方がいらっしゃると思います。どうかよろしく。

 プロバイダは変わりましたが、メールアドレスは過去のままです。


投稿者: 一考      日時: 2010年07月05日 22:15 | 固定ページリンク




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