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輸血が落ち着いてから異変が起きている。三、四日前からなのだが朝立ちするようになった。ここ数年来なかったことで、いささか狼狽てている。某歌人は朝立ちを利用して御子息をもうけたらしいが、春風の再来になるやもしれず、もしもそうなればどうしようかと途惑っている。
思うに貧血とEDとは密接な関わりを持っているのでないだろうか。わたしは最近まで貧血とは縁がなかったので、性欲の貧しさは想像力の衰えと解釈していた。言い換えれば、妄想が生ままれなくなったと、さらに言い換えれば老いが理由だと思い込んでいたのである。ところが実体は海綿体にまで血液が回らなかったと、それだけのことでなかったか。
ここ数年来のEDは腎臓の病症の進捗と平行していたのではあるまいか。糖尿病患者は透析に這入る前にEDになると山崎医師から聞いた。わたしは糖尿でないが、クロアチニンが上がれば上がるほど同じことだとも聞いた。仮に輸血によって性欲が戻ったとしても、おそらくは一時のものだろう。ただ造血能力が少しでも残されているとすれば・・・そこまで考えなくても、輸血したときのみ性欲が復活するなら、こんなに愉しいことはあるまい。
それにしても、一体全体だれの血液がわたしのなかへ入れられたのか。飢えたヤング狼か。
山崎医師より血液検査のメールあり。
腎臓に関する方は尿素窒素(BUN)64.2、クレアチニン(Cr) 7.58、尿酸(UN) 7.9と若干悪くなったようが、血液自体は白血球(WBC) 12700、赤血球408、ヘモグロビン(Hb) 12.5(最悪期の約三倍の数値に戻った)、血小板(Plt) 39.5万と輸血時よりさらに改善されている。ホルモン検査になお一週間ほどかかるらしいが、再輸血もしくはエポジンの世話にならなくて済むことを願う。たとえ一時のこととはいえ、取りも直さず嬉しい。山崎さん、ありがとう。
指先の痺れがひどい。寒さと関係ないと思うが、このところの冷え込みでますますもってひどくなる。降圧剤がなくなったので主治医のもとへ参上、ついでにメチコバール(メコバラミン)を処方していただく。末梢性神経障害を改善するビタミンB12製剤だが、効き目があらわれるのに二、三箇月ほどかかるという。
ビタミンといっても野菜や果物類にはほとんど含まれていないビタミンのため、菜食主義者でも欠乏症になる。しじみ、あさり、あかがいの他、レバー類に多く含まれる。ビタミンB12のサプリメントではナチュレサプリメントのB100、ファンケルのビタミンB群のふたつが結構。櫻井さんが腰痛について語っていたが、腰痛にも効果を発揮するそうです。
高遠さんは訳者あとがきで実に注意深く旧訳に触れられてい、その慎重さゆえに触れてはならぬ問題かとわたしは思っておりました。随分と前ですが「ジャン・ジュネについて一言」を掲示板で書きました。あの拙文はそっくりそのまま「Oの物語」にも関連するはなしです。
進化とは繁殖により適した形態への変化を指すと理解しておりますが、六十年代、七十年代の文学は反進化論に彩られていたように記憶します。反進化論を反体制、エロティシズム、オカルト、幻想と置き換えても同じです。内省もなく、ことごとくに反対する彼等の姿勢は旧社会党や共産党のドグマティズムとなんら変わるものでありません。オカルトにしてからが、徹頭徹尾相対的な概念によってでっち上げられたもので、これがオカルトといった概念は何処にもございません。
「サルトルの失敗はものと人間という二元論で世界は割り切れるものではないという一点に帰着する。同性愛者は同性愛者として生まれるのであって、同性愛者として育つのではない。ひとしなみに取り扱うのでなく、世の中にはさまざまな例外があることを認めなければならない」と書きましたが、当時、事実を実証主義的に認識しようとした作家が、文学者がどこにいたのでしょう。「新宿泥棒日記」を取上げたのも一部の男性の宣う一方通行のエロティシズムに疑問を抱いたからであって、あのような方々にこそ「Oの物語」が必要でなかったかと。否、彼等こそが「Oの物語」を曲解していたのではありますまいか。
翻訳のことだけを述べているのではないのです。澁澤龍彦、生田耕作といった人たちの思想性のなさにはうんざりさせられます。フランス語ができるという理由だけで翻訳を試みる資格があるのでしょうか。澁澤氏は時代の寵児といいますかアイドルのような方で、ご指摘の「旧訳支持者」が多くいるであろうことは容易に憶測できます。アイドルはイドラであって盲目的尊信の対象物にしか過ぎません。従って、そういう人たちに高遠訳と澁澤訳との質的な違いを述べたところで詮無いはなしです。読者のおつむが花田清輝的弁証法から一歩も離脱していないのですから。
今回の「Oの物語」を読むに際して、新旧の訳を比較して読むなどということができよう筈がないのです。てにをはという文章作法を比較していては嗤われます。巻頭のジャン・ポーランの「奴隷状態における幸福」を読めば分かるのであって、これまで意味不明だった箇所がことごとく解明されます、かつ平易な文章で。これを「至芸」と呼ばずなんと呼べばよろしいのでしょうか。
「男の性に対するカリカチュア」と書きましたが、これには二重、三重のクエスチョンが付きます。ひとつは書くに至った経緯ですが、「序 恋する娘」はマンディアルグが指摘したごとく愛惜措く能わざる一篇。いまひとつ「ふたたびロワシーへ」はさらに大きな問題、文体、構成が前章と異なるという点です。このふたつの問題の因果関係は同じものでなかったかと、そこにドミニック・オーリーの作家としての限界を垣間見たような気がしたのです。限界などと書くと己が不明を露呈することになります。わたしはジャン・ポーランのあまりにも大きな影を示唆したかっただけなのです。
「必ずしも反映されてゐないオーリーの思想や文体を生かさなくてはならない」と書いていらっしゃいますが、対象たる作家をかくまで敬愛し、理解し、解体し、同化しての翻訳は顧みてもほとんど存在しないのです。同時代に高遠さんのような希有な翻訳者を持ち得たことに感謝すると共に、わたしがごとき外国語を解さぬ者へのあまりにも大きなプレゼントに読書の醍醐味を堪能させていただきました。エロティシズムについては「Oの物語」一篇で大満足、あとはプルーストの翻訳を鶴首致しております。それまでわたしの命が長らえばよろしいのですが。
一考さま
この度は拙訳「Oの物語」に関して、過分のお言葉と鋭いご指摘をお書き頂き、まことに有り難く存じてをります。
ドミニック・オーリーにたいする敬愛が今回の拙訳の根幹にあります。澁澤龍彦その他先人の訳にときとして逆らふかたちになつたのは、そのゆゑでした。先人の訳「O嬢の物語」では必ずしも反映されてゐないオーリーの思想や文体を生かさなくてはならない。それが訳者としてのわたくしの採るべき道だと思ひました。いまなほ、先人の訳の方がいい、といふばかりで、拙訳の意図を汲まうとしない方が尠くないのは承知してをりますが、新訳にはさういふ、旧訳支持者からの反撥がでることはむしろ当然と考へてをります。
いつか、二十年か三十年後には、拙訳「Oの物語」の意義がわかるだらうとなかば諦めてをりましたが、すでに、佐々木幹郎さん、古屋美登里さん、藤原作弥さんをはじめとする方々が活字でご高評を下さいましたし、一考さんをはじめ、インターネットのブログでも高く評価して下さる方も複数おいでです。わたくしとしてはありがたきことと存じてをります。
一考さんに感謝いたします。
末尾ながら、お体のこと、案じてをります。どうか御身大切に。ご快癒を切に祈りつつ、擱筆いたします。
病は身の惚けというが、生きることへの覇気が少しずつだが着実に衰えてきたように思う。病気のことだけしか考えられないようである。毒舌は相変わらずだし、人は生きている限りは元気である。ただ、生きてゆくためにはさまざまな手続きなり義務が必要である。それらが嫌になってきたのである。例えば引越だが、透析がはじまるまでに済まさなければならない。ところがいまのわたしに引越をするだけの体力が残されているのだろうかと思う。例えば日常の細かいことでも億劫に感じるようになった。これは疲れやすくなったことと睡眠時間が長くなったことが関係する。共に極度の貧血に起因する。
面倒は起こしたくないなどと考える自分がそこら中にいて、暗澹たる気分になる。前項で書いた「自分自身とのあるいは社会との葛藤、いかに抗い、もつれ、対立したか」が生の証しであるにもかかわらず。
病気なのだから必要に迫られて病院へは行く。そして血液検査は受ける。しかし、日々の生活のなかで蛋白が少ないとかカリウムが増えたとかで食べものを変えなければならない。日々下血に注意を払い、血圧と脈拍に留意し度々薬の量を変更しなければならない。それら面倒になにもかも絶ちきりたくなる。今は保存期なのだが、これで透析がはじまれば思いはさらに強くなるに違いない。
不治の病といえば大層だが、癒る当てのない病気であるに違いない。今回は八単位の輸血だったが、それは阪神大震災と変わらない衝撃をわたしにもたらした。それだけでも、わたしにとっては消え行かねばならない心持ちで一杯になる。現世では飲まれなくなった酒も地獄でなら浴びるほど飲むことができる。山本さんや横須賀さん、種村さんや梅木さんとも。・・・というような泣き言を常日頃考えるようになった。
知己から数篇の詩を頂戴した。一篇ごとに読むと結構良い作品があるのだが、通して読むとなにを訴えたいのかがいまひとつ掴めない。適確な表現を求めるにあたってヴォキャブラリーは豊富にこしたことはない。ただ、ヴォキャブラリーだけでは詩にはならない。ときとして言葉に対する禁欲的な姿勢が必要になる。禁欲が行間を生み、余白を生む。その行間や余白でひとは思いをめぐらし、思索に耽る。
語彙の乱反射は見て取れるのだが、作品としての方向性に欠ける。これは若い方の詩作について回る問題点なのだが、自分の存在の輪郭(友人の表現)が本人に見えていない、言い換えれば表現しないといけないところのものが見えていないとなる。心象をいくら詳述してもそこからはなにも生れない。読み手をどこかへ連れて行こうとするなら、そこには書き手の思惟が加味されなければならない。その思惟は時として読み手をとんでもないところへ連れて行く。そこに読書の醍醐味がある。
自分自身とのあるいは社会との葛藤、いかに抗い、もつれ、対立したかを描くことが作品の底辺になければ、それは思惟を欠いた作品となる。いっそ社会と対峙したときの自分の弱さを徹底的に赤裸に描くとか、相対性のなさを自分自身に向かって暴くとか方法はいくらでもある。
友人は輪郭といったが、それは個性であり、アイデンティティであり、自分の位置づけのようなものである。自分を知るには自分について考えなければならない。自分について考えるとは常に自己を表明しつづけることである。詩作を試みるとは、取りも直さず、考えることである。自己を表明しようとする意思と思索は手に手を取ってやってくる。傷つくことを拒んだり、気取っていては詩は書かれない。
詩作とは難儀なものだが、それを評するとはさらに難儀である。若いひとの夢を削ぐようなことばかりしているような気がする。それにしても人はいづれ独立しなければならない。生きのびることから生じる悶着を一身に担うようになる。好き嫌いという頬被りではなにひとつ片づかない。いづれ自分を開国しなければならないとするなら早いに越したことはない。
ジャン・ポーランをはじめて読んだのは堀口大学訳の「嶮しき快癒」(伸展社)、次いで澁澤訳の「O嬢の物語」序文(河出書房、人間の文学)、下って「タルブの花」だった。とりわけ「タルブの花」はわたしには難解で取り付く島がなかった。訳者にも意味が分かっていないのではないかと思われる惨憺たる日本語に出くわすケースがよくある。「タルブの花」などもそれに当たろうか、そんな時わたしは潔く本を閉じる。思考回路が難解なのは時間が解決してくれる、しかし、日本語そのものが難解なのは困惑するばかり。「噫、これは日本語訳ではないのだ、日本語訳が出たときに読ませていただこう」もしくは「また欠損商品に当たってしまった」と諦めるのである。その点、高遠弘美さんの訳書には外れがない。今回の「Oの物語」はジャン・ポーランの序文のみならず、巻末にマンディアルグの「ロワシー・アン・フランス」が添えられている。あの煩雑なエッセイが高遠さんの手にかかるとスコラ学の「神学大全」のダイジェスト版を読むようにすらすら判読できるから不思議である。フランス語と日本語とのあいだにどのような滲透膜を設けておられるのか、いつなんどき繙こうが、彼の為事にはほとほと感服させられる。至芸とは彼のごとき翻訳を指す。
「Oの物語」にはかなり長文の訳者あとがきが収められている。「O嬢の物語からOの物語へ」とのサブタイトルが付けられている。この「嬢」を付けるかつけないかでアナロジーが生きも死にもする。詳しくは「Oの物語」を繙かれたいが、高遠さんは私見のひとつとしてランボーの「母音」から「O=性的絶頂で見開いた目」を挙げられている。ジュネの項でも書いたが、「O嬢の物語」が上梓された頃は、エロティシズム即反体制で、そこには疑問のひとかけらも挿まれなかった。余談ながら、過日「新宿泥棒日記」を久しぶりに観た。作中で評論家と思しきひとたちが酔っ払って議論しているシーンがあって、その低劣かつ俗悪なさまに恐れ入った。
もっとも、この「O嬢」から「Oへ」の推移変遷に関してわたしはなにも著さない。訳者あとがきを擬えたところでそれがなにになるのか。書評にも解説にもならず、それは単なる剽窃にしかならない。
通常、男性が愛するといった場合、欲望、支配、所有が一体になっている。ところが、本書で描かれる愛には所有と支配との概念が失われている。カミュが「ねえ、ジャン・ジャック。女は絶対にあんなこと考えつかないよ。絶対にね」と述べたらしいが、マッチョなカミュには分からない女心がここには秘められている。「女でなければ絶対にあんなこと考えつかないよ。絶対にね」だと通りがよくなる。本書を読む前にジャン・ジュネの初期作品を読んでいたので、なおさら男の作品ではないと思い知らされた。
「Oの物語」にあってはルネ、スティーヴン卿、指揮官等々にとって支配、所有は葛藤の対象にならない。謂わば、欲望のおもむくままに振る舞う。彼等の視線はほとんど等価にエロティックなものになり、それゆえに性的な価値さえも失ってゆく。それは同時にジュネの小説の特質でもある。「Oの物語」は読み方によってはジャン・ポーランへの、というよりは男の性に対するカリカチュアと読んで読めなくもない。
レアージュはリアリズムを信じない。彼女が立ち会う出来事はいつも現実、幻想、言葉、理念が滲透しあう次元を彷徨う。にもかかわらず、最終章で堕胎避妊薬について詳述する。書く必要のない稿を起こしたな、とわたしは思う。せっかく紡いだ夢物語をどうして現実の場へ引きずり落とす必要があったのか、ジャン・ポーランと彼女とのあいだになにがあったかは知らないし、知る必要もおそらくない。ただ、夢は夢で置いておけばよいのにとわたしは思う。もしも、あれがポーリーヌ・レアージュの計算づくだというのなら、既にこれは戯画以外のなにものでもない、恋する女もしくは恋した女への。
追記
ですぺらで書いたので原本が手元にない。もう少し触れたいことがあったのだが、これで失礼。なお、本訳書を担当した編集者幣旗愛子さんについて書くと約束をしたのだが、次の機会に。
月曜日はまったく暇だった。週明けはそんなものだろうと思っていたので、一向にかまわないが。七月からこっち休みの方が多かったので、常連さんは他店へ流れている。以前いらした女性はメールを繁く出していた。わたしはまったく出さない、これでは客足が遠ざかるのは当たり前である。
新宿のナオさんは女を雇えとうるさくいう。雇うもなにも五年後には店主が臨終を迎える。後を継いでくださる人があればウィスキー込みでお願いしたいのだが、当ても何もない。よほど店主の人品に魅力がないものと思われる。それもこれも当掲示板のせいか。
六十過ぎのオジンに魅力があれば気味が悪いが、天本英世さんには不思議な魅力があった。文化出版局で何度かお会いし、山中湖のペンション・モーツアルトでもご一緒したが、さわやかな謎の怪老人だった。天皇制と、昭和天皇の戦争責任を追求してやまないラディカルな精神の持ち主で、彼のように老いたいものと願っていた。天本さんについては改めて書く機会もあろう。
閑中にやってきたのは税務署の督促状のみ。差し押さえをするとかで、勝手になんでも持ち出せばと思うが、開封されたウィスキーを差し押さえてどうするのであろうか。閉店している店に十日ごとに督促状が送られていたようである。健気といえば健気だが、払えないものは払えない。国税ゆえ払わずに済むものでないと分かっている。さて、どうする積りなのであろうか。
マスタングの窓の開閉ができなくなった。耳を欹ててみるとモーターの音が聞こえない。どうやら焼き切れたようである。よくある故障で、モーターさえ手に入れば自分でも直せる。最初に乗ったカリブは12万キロ、チェイサーは16万キロで焼き切れた。BMWやベンツも電装が壊れるのは早いが、アメ車もそのようである。マスタングの走行距離は6.3万キロ、オドメーターが故障中なので正確ではないが。これではBMWと同じである。やはり、電装品は国産に一日の長がある。
車内に張り巡らされた電気コードはより線でなくストレートなものが用いられている。これでは捩れや引っ張りに弱く、断線やショートが起こる。しかし、エンジンは構造が簡単なだけあって至って元気である。
それにしても、木村さんのお陰で左ハンドルを十分に楽しませていただいた。庭で吹きさらしになっているインプレッサをもう一度動くようにして、最後まで乗り潰す予定である。こちらはエンジンを除いて、パーツの大部分が日産車で間に合う。日産車なら近所の廃車置き場にいくらでもある。少なくとも修理費は安くつく筈である。
二十日の宵、若い方が音楽療法について幹郎さんと話されていた。詳しくは知らないが、音楽療法士というのはボランティアでこそ可能で、職業として成り立つものではあるまい。音楽療法であれなんであれ、基本は心理療法であって、骨格をなすのは臨床心理学である。心理学者が音楽をカウンセラーの場で利用するのは有効かもしれないが、音楽家が癒しまたは治療目的に音楽を用いるという構図は、わたしには理解できない。目的は癒しまたは治療にあるのであって、問われるのは患者への問い掛けとその話術の積極性にある。生きる意欲を引き出す、あるいは他人を救おうという考え(偽善ともいう)が心理療法の基本をなす。繰り返すが、相手の苦衷を繙き、そのなかにいかに解体してゆくかが問われるのである。どこまで行っても、対話が主であって音楽は従となる。
日本音楽療法学会認定の音楽療法士という資格があって、そのような権威、権力が必要な職業とはどのようなものであろうか。資格というからには資格認定士がいるはずであって、そのひとたちは資格を授けるのを商売とする。その場合、資格を得ることによって甘受できるであろう特権を大書しなければならない。よって資格の差別化のためには詐欺的行為をも平気で働く。昨今問題になった漢字検定や数学検定を持ち出すまでもなく、あらゆる検定協会の類い、または官僚の天下りに至るまで構造は同じである。
飯が食えるのは資格認定士だけであって、認定される側は単なる鴨である。認定証であれ、卒業証書であれ、宛にならない紙切れのために出資するのは資格認定士の懐を沃やすだけなのである。組織、団体、法人、大学、予備校のいかんを問わず、資格の売買を商いとするひとをわたしは信じない。
金銭についてまじめに考えれば考えるほど、ひとは資格取得の泥沼へ嵌まる。もう少し、暢気に気楽に人生を考えていただければ良いのだが。ひとを介護するにも資格がいるらしいが、それなども介護士の認定試験を行う人の懐を潤しているだけなのである。生きるのになぜ資格が必要とされるのか、人生の免許証乃至は卒業証書なんてものはどこにもありはしない。また、権威、権力といかに抗って生きるか、文学が考えることといえばその一点のみとわたしは思っている。
輸血の結果が出るのは一箇月半後と聞かされた。理由はヘモグロビンの寿命がおよそ120日、すなわち100日ほどすれば輸血された血は死に絶える。ミジンコのようなもので、死に絶えると子孫が生まれる。ただし、その時に腎臓が生産するエリスロポエチンというホルモンが必要になる。エリスロポエチンが機能していると問題はないが、末期腎不全の患者のほとんどは機能していない。機能しないときは新たな療法を案じなければならない。もしくは二箇月ごとに輸血が必要になる。ところで、輸血というのは一種の臓器移植である。この先、他人の血に縋って生きのびるとなるとどこかで断ち切りたくなる。
本日の迅速検査結果レポートによれば、赤血球数364、血色素量(ヘモグロビン)10.4、ヘマトクリット34.9、血小板数33.3となっている。随分と改善された数値なのだが、下血がなくても一箇月後から数値がどんどん減ってゆくかもしれない。血というのは難儀なものである。
わたしは地上なんぞ思い出にすらならないと思っているので、タルホは願い下げだが、梅木さんが書かれているように、十分に物の世界を楽しんだ。物欲と性欲(性欲も物欲に違いないが)を満たすこと以外、現世に用事などあろうはずもない。従って思い残すことはなにもない、思い出を引っくるめて。
わたしは私小説的生き方をしているので、梅木さんのような恰好良い死に方は望むべくもない。恰好良いとの云い方に差し障りがあるなら潔いと置き換えても構わない。わたしは這いつくばって駄々を捏ねながら死のうとおもっている。
http://www.sakai.zaq.ne.jp/ikemu/page/diary01.html
上記サイトに、
お先に失礼ごきげんよろしゅう
とうとうわしも旅に出んならん事になりました
行き先は地獄だっしゃろなあ、まあ楽しみだ
色々好きなもん置いていかんなりまへんけど、もう十分楽しましてもらいました
今は”地とは永遠(とわ)に思いでならずや”(タルホ)
ちゅう心境でおます
ほなさいなら
酔生夢死
平成21年6月9日永眠(すい臓癌)
と著されている。死後一月を経ての発表である。膵臓癌は治療がもっとも困難な癌の一つである。治癒切除が行われた場合でも約九割が再発を来し死亡する。また、慢性膵炎は長年の飲酒などによって膵臓が徐々に破壊されていく病気、破壊された細胞は繊維化していくため、腎臓と同じく膵臓の機能が回復することはない。
梅木さんの病歴をわたしはなにも知らない。膵臓癌とあるからには、発見したときには手遅れであったろう。
はじめて出遇ったのは大阪プチ・フォルムの紹介で二十五、六の頃、共に酒を酌み交わし、自転車に乗り、オートバイで駈け回り、旅をし、一緒に何冊かの本を造った。いろんなことを思い起こすが、今はそのときではない。冥福を祈るのみ。
追記
プヒプヒさんから梅木さんの死について問い合わせがあった。彼のホームページを見ていれば気づいたことだが、もう構わないだろうと思う。既に五箇月を経た。
土曜日は暇だと思っていたら満席だった。ありがたいはなしだが後が続かないのは困る。本当はぽちぽちのご来店を期待したい。そうでないと当方の身体が持たないのである。
さすがに十一時以降は疲れた。はじめてカウンターのなかへ這入ったときのようで、足腰が懈い。駐車場までは三度休んで小一時間かけて歩いた。輸血のかいがあって眩暈や息切れはないが、七月以降歩いていないので腰が痛い、腹筋が弱っているのが理由である、コルセットがなければ歩かれなかった。経験から推して一月末ぐらいまではコルセットの世話になりそうである。
月曜日からは通常の営業がはじまる。下血がないことを祈る。二度、内視鏡検査をしているが、手術はしていない。従って、下血、輸血はまだ続くそうである。末期腎不全の患者はそれでなくとも貧血がひどい。死ぬ思いは繰り返したくないのだが。
このところ、普段は食さない甘いものばかり食べていたので血糖値が跳ね上がっている。腎機能が衰えると、食べたものの結果が血液検査に如実に現れる。今後、甘いものは控えなければ。そして総蛋白が基準値より減っている。こちらは規制をかけ過ぎたようである。塩は断ち切れば仕舞いだが、蛋白はそうはいかない。ナトリウム、カリウム、リン以外の規制は結構難しいものである。
今回の入院で参ったのは糞便のお泄らしである。禁食(病院では絶食とはいわない、絶食は死に絶えること)がつづき、水分の補給だけが許される。よって消化器官内は液状化し、淡黄色の液体もしくは血しぶきがしばしば主人に無断で迸る。三、四日の禁食が間断なくつづくと下部消化器官の暴走がはじまるのである。
持参した御襁褓では面積が小さいので、病院でより大きいものを頒けていただいた。それでも泄れるので御襁褓カバーを頂戴したが、見苦しいものである。
生死の境を彷徨う人間に見苦しいもないと思うが、自意識とはそのようなものである。早鐘のように撞く心臓に喘ぎつつ、看護師を呼びつけるでもなく、ナースセンターへ詫びにあがる。「済みません、また汚してしまいました。本当に申し訳ない気持で一杯です」「いいんですよ、大腸から出血してるんですから」。危殆に瀕したとき、人は存外冷静を保つ。
知己の医師から電話があって、「掲示板に書かれた検査レポートに愕いた。あの数値ならほとんどの人は死んでいる。それを病院へ車を運転して行くとは。畏るべき意志力だ」と。似たことは川久保病院の医師からも、主治医からも聞かされた。もっとも、ちはらさんに云わせると「ただのバカ」となるだろうが。
いやさ、バカにも取り柄はある。バカだからわたしは最終的に医師を信じている。信じているが故に処置を施されるまでは死なれない、わたしの一存で死ぬような身勝手は許されないのである。
掲示板を見て、初めて「予行練習」なるものを知りました。
血便出た時も同じように掲示板で知って驚いたなあ…と思い返しました。
口頭で伝えてくれたらいいのですけれど。
さて私、明晩はあいにく仕事につき、手伝いにいけません。
ご本人が「歩ける」と仰っているので、迎えにもいきません。
と、本当に大丈夫なのか心配ですが、とりあえず放っておくことに
しますので、何かありましたらご連絡ください…と、虚空へ呟いておきます。
何卒よしなに。
明日の土曜日、予行演習を兼ねてですぺらを再開します。土曜日だから暇、身体の様子を見るには最適と思います。
先月27日に冷蔵庫を空にし、電源も落としてきたのです。従って、準備しなければならないことが山積です。輸血が効き、もっか手の痺れを除いて元気です。以前のようなご迷惑は掛けずに済みます。どうかよろしく。
輸血をしたので、梅毒血性反応成績書なるものが送られてきた。TPHAとRPR法双方がマイナスになっている。生物学的偽陽性反応(BFP)を呈する可能性のある疾患として種痘、水痘、エリテマトーデス、癩、流行性肝炎、伝染性単核症、原発性非定形肺炎などが列記されている。
唐瘡はともかく、現今噪がれているのはHIVやウイルス性肝炎であろうか。わたしは素人なので、詳しいところはなにも分からないが。調べてみると、日本赤十字社では1999年10月から全輸血用血液に対してHBV、HCV、HIVについての核酸増幅検査(NAT)を開始したとある。わたしに用いられた血液製剤は赤血球濃厚液−LRのようだが、2000年以降は輸血による感染例数が1998年よりもさらに低くなると予想される、と書かれてあった。
いずれにせよ、わたしはエホバの証人の信徒ではなく、輸血しなければ死んでいた。命の変わりにどのような疾患をもらうとも気にはしない。それも運命と積極的に諦める。それでなくとも、わが五体は疾患だらけ人生は失陥の繰り返しである。
同室の患者が大腸癌であまりに下血がひどく、総合病院へ緊急搬送されていた。その担当看護師がわたしのところへやって来て、「あなたも本当は総合病院行きなのよ、それを嫌がるから看てるけど、絶対安静面会謝絶なんですよ」と叱りつける。この日、わたしは愛子さんたちと遅くまでラウンジで喋り続けていた。それよりなにより、わたしが川久保病院を気に入った理由はベッドである。いろんな病院へ入院してきたが、病人にとってはベッドがすべてである。寝癖のついたベッドだけは願い下げである。他人のひとがたにわが身を合わせて寝ることほど嫌なことはない。
今朝の血圧は150-85、脈搏は70から66にまで下がっている。わたしの標準値は110-75、脈搏は60-58ぐらいである。ちなみに、テレビの音量レベルを5ポイント落としても聞こえている。要は、心音が聞こえなくなった、急速に元に戻りつつあるということ。
全身のさまざまな感覚が急速に戻ってゆくと書いたが、左掌の感覚だけがまだ戻らない。小指と薬指が痺れたままで、感覚が戻らない。グラスを握るのにまた洗うのに必要である。今まで十数度に及ぶ手脚の骨折や腰痛でリハビリを受けたことがない。水を張ったバケツもしくはコンクリートブロックに棒切れを通したものなどを用いて我流でリハビリをしてきた。それが遠因ではあるまいと思うが、一刻も速く癒ってほしい。グラスが掴めるようになれば店が再開できるのだが。
輸血は8単位だが、ときとうクリニックで8本、川久保病院で点滴を19本受けた。主として葡萄糖と生理食塩水だが、それ以外にビタミン類と痛み止めの注射を9本。血液検査は連日だった。ちなみに、川久保病院での痛み止めは保険適用外だったが、これは座薬を嫌がったわたしに対する気配りだったと思う。気を失うことがダイレクトに死に結びつく場合、方法は他にはない。感謝している。
一回目の輸血のあとの検査レポートでは、赤血球数が144から175へ(正常値は438-577)、血色素量が4.5から5.5へ(同13.6-18.3)、ヘマトクリットが14.1から17.8へ(同40.4-51.9)、血小板数は正常、白血球数が19800から11700へ(同3500-9700)、CRPが0.96から0.36へ(同0.30以下)へ改善されている。退院時ではヘモグロビンの数値は10にまで戻っているので、血液の状態は飛躍的に良くなっていると思う。ちはらさんが書いているエポジン(商品名)を服用すべきかどうか、次回にでも主治医と相談しなければならない。
肝心の腎臓関係では、尿素窒素が62.2から49.5へ(同8-20)、クレアチニンは7.37が7.33へ(0.65-1.09)僅かに下がっている。こちらは逆にその後の輸血によって跳ね上がっていると思われる。
血圧の高い方の数値が70から150へ上がるなど、輸血の影響はすでに出ている。ただ、降圧剤(ニューロタン50)は肝炎はじめ副作用が起きるので要注意である。いずれにせよ、もっかのところ気分爽快元気溌溂、次回の検査結果が楽しみである。
今回はパソコンを持ち込んだので日記をつけていたが、「輸血」は思うところがあって書き直した。書き直したといっても一種のコラージュだが。
世の中の医師は全員が山崎医師ではない。山崎さんのインフォームド・コンセントの執拗さには頭が下がる、基礎疾患がある場合、予期される合併症や、代替方法が常に問題になる。例えばわたしが抱え込んだアルツハイマーなどがそれに当たるだろう。そしてそれ以上に問題になるのが、患者個人の心情や価値観、理解力に配慮がなされているかどうかである。患者は個々のひとであって、一般概念としての患者なるものは存在しない。医師は毎回、その事実と対面する。にもかかわらず、個の主体性は往々にして無視される。インフォームド・コンセントとは名ばかりで形骸化している。主体性の尊重とパターナリズムとの衝突は、結果として病院による診療拒否にすら繋がるが、それを懼れて患者は泣き寝入りし、医師はますます増長する。それでなくとも、忙しいときに面倒な客は来てくれるなというような姿勢が垣間見えたとき、その医師は医師として失格である。その点、山崎医師の「アプローチの多様さ」にはいつもながら愕かされる。今回もまた多大なご迷惑をおかけした。きっとちはらさんも日参したに違いない。山崎利彦という名医と知り合えたことにわたしは感謝しなければならない。
二度目の内視鏡検査が終了、特段の問題は生じなかった。第一に問題が生じたところで応急手当以外、現状では為す術がない。大腸の状態は悪化するばかりだし、何時下血するか分からない。それと共に輸血も続くのかもしれない。あれもこれも補修は効かないとして大腸の出血を甘くみていたため、五年の寿命をさらに短くするところだった。基礎疾患を疾む者はすべてに注意を払わねばならない。
輸血による血液の変化が腎臓に与える影響を極力抑えなければならない。といいながら、櫻井さんの見舞いの電話で、のしいかや烏賊の天麩羅やミニステーキを買ってきてむしゃむしゃ食べてると白状する。一両日だけだが、食べたいものを食するつもり。
大腸を休めるために、三十、三十一、一日、二日と再度禁食。このところ三、四日の禁食がつづいた。最初の頃は胃袋がびっくりしていたが、最近は馴れてきたのか動じもしない。ついでに煙草もやめてみた。こちらは先週の日曜日に増田さんが見舞いに来られた日に一箱ほど吸ったばかりである。それもあっていまのところ平気である。実は十日や二十日の禁煙はしょっちゅうである。ただ本人に止める気がないので首尾の松となったためしがない。
禁食はいと易いはなしだが禁飲は難しい、同様に禁煙は簡単だが禁薬(覚醒剤)はむずかしい。後者は共に半年から一年目に音をあげるという。透析における禁飲にも個体差があって、ある人に我慢できたからといってどなたにも可能とは限らない。一日に1デシリットルの水という制限がない方は比較的成功例が多く、制限のある方には自死が多い。半数近い透析患者が1デシリットルに堪えられず、命を断つと聞く。わたしは保存期間中だが、すでに酒は断った。これなども断ち切られなくて悶々となさっておられる方がいるときく。
さて、血液検査は連日だが、二日から輸血再開である。現在のヘモグロビン値は三十日の下血のために8.0で止まっている。失われた2.5リッターの血は大きい。残りは二単位、併せて1.6リットルの血液が補填される。これでなんとか露命を繋いだことになる。事程左様に死んでいても何の不思議もない数値だった。万象の生滅変顛を杜鵑と語りあった二週間余、思うところは多くそれなりに得るところもあった。
りう、素天堂、ヒデキ、大浦、あまね、愛子、ひろ、ナベサンさんの見舞いを受ける。わざわざ浦和まで申し訳ない。ヒデキさんに元気がなさそう。人はみなさまざまな事情を抱えて生きる、なんとかしてうまい解決策が見付かることを願う。
明日は小生の身内が上京するとか、わが性分から推して、身内の見舞いがもっとも困惑する。この六十二年間、身内にあるまじき冷酷かつ勝手なな生き方をわたしが繰り返してきたからである。合わせる顔などどこにあろうか。
多くの人々のご好意によって命長らえた、感謝のしようもない。ひとりひとりのお名前も履歴もなにも知らない。ただ献血なさった方々のご厚志によってわたしの身体の中には1.6リットルの他人の血が流れている。同量の自前の血と頂戴した血とが同居することになった。これでわたしの命はわたし個人のものでなくなったともいえようか。
血液は一気に失われると三分の一で死に至る。わたしの場合は徐々になので半分なくなってもなんとか生きている。ヘモグロビンの数値は4.5(平均値は13)、要するに血液の濃さからいうと三分の一になってしまった。失われた量ではなく、残留血液が三分の一なのである。
某医師が巫山戯て「君は既に死んでいる」と云っていたが、二十四、五日の増田さんが見舞いに来てくださった辺りが、もっとも不安定だったらしい。意識を失うようなことがあればそれきりだったようである。
二十八日に濃厚赤血球一単位(一単位とは含まれる構成分子らしく、量ではないらしいが、大旨200ml)二本の輸血を試みた。見てる間に脈搏は110から80にまで下がり、頭のなかで鳴り響いていた拍動から解放された。これでヘモグロビン値はおそらく6.0ぐらいへ上がったはず。通常は二単位を一時間で点滴するが、わたしの場合は三時間は掛けている。
心臓が持ちこたえてくれたので、それ以降はもう少し大胆に輸血ができるようになった。それにしても、皮膚感覚をはじめ、全身のさまざまな感覚が急速に蘇ってゆく。
二十九日は二単位を一本。輸血をはじめる前のヘモグロビン値はやはり6.0、脈搏は75まで下がる。二回目以降は腎臓をチェックしながらヘモグロビン値が10.0に届くまで輸血をつづける。そうすれば、恢復能力が自動的に機能するそうである。全快には一箇月半かかるらしい。ヘモグロビンの寿命は百二十日、この一箇月半がなにを意味するかはわたしにはさっぱり分からない。
三十日の二単位の輸血もうまく行き、これでヘモグロビン値は10.0にもどるはずだった。ところが大腸から突然の下血、大腸に滞留していた術後の血が流れ出たのか、それとも血圧の変動のせいなのか、定かならず。
下血と同時にわたしは三回目の禁食に這入った。医師もヘモグロビン値4.5での下血なら確実にショック死していたという(医師のいうところが正しければわたしは三、四度すでにショック死している)。
急遽予定を組み替えて土曜日三十一日の午後は再度内視鏡検査、憩室なのかポリープなのか、出血箇所を特定し修復しなければならない。入院は延長である。
点滴で用いる生理食塩水(スポーツドリンクと同内容のもので500mlを一日三本)を毎日打っている。他方、内視鏡検査ないしは手術で座薬をつかうことには懲りている。このあたりの話し合いを医師となんども持った。わたしは素人なので、ちゃんと説得していただければ従う。従いたくなるだけの言葉が欲しいだけなのである。
今月に入ってから貧血で悩まされ続けたが、その一方で血液検査は五回も受けている。ときとうクリニックへ入院した十四日のヘモグロビン値は6.0、これでもひどい数値だが、今日明日命に関わる数値ではない。当然掛かり付けの医療機関で輸血するものとして退院した。ところが術後の出血がひどく、十六日の夜にはヘモグロビン値は既に5.0を切っていたものと思われる。
ヘモグロビン値が4.5になっているのを医師が確認したのは二十七日だが、その検査は二十日の日になされている。問題は検査と確認のあいだに存在する一週間のタイムラグである。
十八日以降二十七日までの十日間、わたしは死ぬ思いで唸っていた。否、死んでいても何の不思議もなかった。二十日の火曜日にはどうにも身体が動かないので、入院を直接希望したのだが、二十日の日に医師の手元にあった検査ペーパーは十三日付の検査結果だった。わたしは途方に暮れた。身体の調子ががここまで悪いのに施す術がないとは。
二十七日の入院は本当の緊急入院だった。生命の危機を感じたとき、入院の是非を決めるのは患者であってほしいと願うことしきりである。
追記
この件に関しては、退院の日に院長と話し合った。血液に関しては院内検査なので必要とあればその日の内に結果は出る。慢性腎不全の患者は血圧が不安定である。このようなことを避けるためにこれからはシステムを改めるとの意見を得た。すぐれた病院がひとつ増えるのは嬉しいことである。
明日の予定だったのですが、院長の許可を得てたったいま退院してきました。詳細はまた。
こんにちは 始めまして
青春回想小説を書いてます。
良かったら読んで下さいね。
人の幸せにことごとく背を向け、
あえて、非情の道を貫いていく
闇の声に惑わされた青春の日々
URL
http://homepage1.nifty.com/designb2/pochinaka2.html
一進一退が続く一考さんの体調ですが、一昨日また下血が起こりました。
おそらく、輸血による血圧上昇の影響とのこと。
昨日、大腸の内視鏡検査が行われており、あと3日くらいは絶食のまま
入院が続きます。命に別状はないようですが、ご本人はさすがにお疲れ気味です。
もしお時間あれば、顔を覗きに行ってくださると嬉しいです。
■ 川久保病院 http://www.kawakubo-hospital.com/
病室は207、入って左手前のベッドです。そちらにいなければ
検査中かラウンジで面会中かと。
昨日より始まった輸血ですが、これといった問題もなくスムーズに進行しています。
顔色も心拍数も正常に戻りつつあるようで、心音も以前ほどは気にならないとか。
このまま順調に進み検査結果も悪くなければ、土曜日中に退院できるとのことです。
まだ食欲が戻らないことと歩くのが辛いという点は心配ですが、
全体としては事前の想像よりも良い方に進んでいるようです。
お見舞いを考えてくださっていた方々、来ていただく間もなく
退院できそうな風情です。お気遣い、本当にありがとうございました。
ちなみに主治医の山崎先生が「輸血するとすごく元気になる方もいます」と仰ってましたが、
それがそのまま当てはまったような一考さんは「月曜日から店を再開する」と一言。
来週は火曜が休日だからせめて水曜日からに…!と説得し、どうにか落ち着いた次第です。
この無計画さと体力の過信はなんとかならない…ですよね。
思わぬ来訪者に説得されると良いのですけれど。
以上、再開に関しましては、一考さんが戻られたらご自身で書かれると思います。
今しばらくお待ちください。
なお、輸血自体の問題はクリアしているものの、この輸血による腎機能低下の恐れや
赤血球の産出を促すホルモン(エリスロポエチン)がうまく働いてくれるのかなど、
今後の経過次第ではまた対処していかねばならぬこともあるようです。
ただ、どれも今から考えたところで打つ手もありません。
とりあえず安堵しつつ、次の山に備えたいと思います。
されましたので、遅ればせながらご報告にて。
一考さんは昨日(27日)川久保病院へ定期健診に行き、血液検査でのヘモグロビン値が
4.5だったため、そのまま緊急入院を言い渡されたそうです(207号室)。
その後、自分で入院グッズ(自宅)とノートパソコン(赤坂)を回収し入院されたとのこと。
その気力というか生命力には、感嘆するほかないと申しますか、いやはや…!
さて一考さん先述のとおり、現在の心拍数上昇は貧血を補うために心臓が
フル回転している状態で、そのため心臓にも相当の負担がきているようです。
輸血は心臓の負担を減らす方向に働けば吉ですが、腎機能がそれを支えきれないと
透析をしながらの輸血となるため、転院の可能性もあります。
輸血は本日(28日)の午後からで、この3~4日でその効果がでてくれば
早期の退院もあり得ます。まずは結果次第、でしょうか。
現状「頭がぽやぽやする」とぼやいている一考さんですが、喋る内容等は
はっきりされています。ただ、輸血次第ではこの状況がどう変わるか
わかりませんので、もしお見舞いにきてくださるという方がいらっしゃるのであれば、
少しだけご猶予くださいませ。こちらでまた詳細をお知らせいたします。
それまで、お待ちください。
なお、私宛に何かご連絡くださる場合はto_chiharaに@とyahoo.co.jpを
足してください。宜しくお願いいたします。
川久保病院へ緊急入院です。体重の十三分の一の血液を人間は持っているのですが、その六十パーセントが失われているそうです。このままだと危険、輸血も危険なのですが、取り敢えず輸血することになりました。心臓と腎臓の調子をみながら一週間かけて輸血します。
詳細はちはらさんから。
ときとうクリニックはわたしがはじめて行った種類の病院だった。療養のための病院でなく、手術専門の謂わば野戦病院のようなところで、医師から看護師までがぴりぴりしている。入院即絶食で、消化器官を空にし、血液検査と心電図など手術に必要な基礎資料を拵える。二日目は早朝からニフレックという下剤を二時間掛けて飲んで内視鏡検査、午後は手術である。三日目の午前は術後検査で、患部からの直接の出血の有無を確認後、そのまま退院。短ければわたしのように二泊三日、長くとも五泊までが通常だそうである。駐車場は広く、県外からひろく入院患者が集まる。さぞかし著名な専門医なのであろう。隣に薬局とメモリアルパークがあるのはご愛敬だった。
初日の検査で貧血を注意され、透析をはじめていれば輸血できるが、そうでなければ輸血は不可能、「ちょっときついが、まあ、なんとかなるさ」といわれた。これは輸血に際してカリウムの除去フィルターが使えないことを意味している。
西明石時代、腰痛による神経ブロック療法を受けていた。また、腎結石に伴う尿管バイパス手術などで神経根ブロックや椎間関節ブロックは何度も経験している。このブロックに関しては西明石に天才的に巧い麻酔医がいて、事前に痛み止めの注射を表皮に打ってからことに当たる。それに慣らされていたので、今回いきなりブロックを打たれて、思わず唸ったところ、前述のようなサービスを当院は行っていないと一喝された。山崎医師の飲み仲間だけあって、ある種、野人のような相貌を持つ医師だった。
失神について書いておかなければならない。慢性腎不全の患者に座薬は使われない、主治医によるとショック死した例を複数知っているらしい。そのことを医師は熟知している。にもかかわらず、どうして起こったかだが、二日目の夜、朝までわたしは痛みで呻っていた。看護師にそのむねを伝えたのだが、痛み止めの用意はないと断わられた。術後検査の折にまだ呻いていたわたしに、あろうことか医師が同情し、効能の低い座薬を打った。貧血で体調不調のわたしはそれにすら耐えられなかったのである。覚醒したとき医師に「死ぬ思いをさせられた」と一言、「死んでないじゃないか、分かってんだよ、それぐらい」。それから先、議論する用意はわたしにはない。主治医とは異なるが、時任さんもまた非常に個性的な医師だった。
今回のことは症状に対する認識の相違であって、医師やわたしに責任があるわけではない。失神ぐらいは野戦病院では日常起こり得ることであって、珍しくはない。これぐらいの痛みがなんですかと、医師が一喝しておればおそらくなにごとも起きなかったに違いない。
ジオン注は患部を薬品で火傷させ、傷跡を引き攣らせて治す治療法である。火傷だけあって、手術から十一日を経てなお痛い。わたしは痛みには結構強い方だと思っているが、内部からの痛みには弱い。じくじく疼くような種類の痛みへの対応策を持たないのである。
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