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金曜日は、ありがとうございました。カウンター越しにいつもの仲間の顔をみると少しちがった風景を感じることができ、なんだかとてもよい気分でした。
思いつきのお題がシングルモルトに変換されていくのもすごく興味深く、気づくと結構飲んでいたようです。
パン(麺麭というほうがずっと重みがありますが)についても、貴重なご意見に感謝です。無塩にして表面にわずかな塩をふると最も塩分を感じることができるのではないかと思いますがいかがでしょうか。昨日は地元の酒屋で入手した神亀の酒粕で酵母を起こしバケットを焼きましたが、香りが素晴らしく何もつけることなくおいしくいただけました。近々また試作をお届けいたしますので、忌憚のないご意見を賜りたく、よろしくお願いいたします。
オークファンで調べてこの三年間に見掛けないものを優先的に出品した。ほとんどが6、70年代のカンパニョーロ、ストロングライト、TAなどのサイクルパーツである。内一点はアクセス数が500を超えた。大変な数であるにもかかわらず、入札は半数。オークションの世界までもが不景気なのかと驚いている。
売れなかったものは一巡すれば再出品すればよいのであって、安売りはする気もない。なにが売れるか分からないので、次回はブルックスをはじめとする60年代の革製のサドルを出品しようかと思う。こちらの在庫は十個ほどだが、輸入元でひとつずつチェックして購入している。ただ、当時は銅鋲を用いているので錆がひどく、磨くのが大事である。
先日、出品したカンパのトリプルクランクセットは、必要だろうと思ってボトムブラケットも付けた。トリプル用BBには117ミリ(ロード)と122ミリ(ランドナー)の二種があって、そのことに対して質問があった。しかし、これは応えられない質問である。今ではコロンバスのトリプルバテッドが中心だが、昔の自転車はレイノルズのパイプを使っている。フレームの硬度が変わっただけでなく、スケルトンそのものが変わっている。要はコンパクトに短く立ってきたのである。そして問題はエンド幅が広くなったことである。現今のフレームサイズでは117ミリのBBは使い物になるまい。
かつてのアランやビチューのアルミフレーム同様、レイノルズ531のフレームは柔らかくしなり、素人にも乗りやすい自転車だった。ところが、今では素人がツール・ド・フランスでプロが乗る自転車に乗っている。ちなみに、フロントのアウターは49Tでも下りで100キロまでは軽く踏める。わたしは46Tを使っていたが、それでも平地で60キロまでは大丈夫である。選手が使うような53Tは脚を痛めるだけである。それでなくてもフリーとチェーンが発達し、枚数も増えた。大きな歯数を用いるのでなく、脚の回転数を上げる訓練をする方が真当である。
二人連れ来店、這入ってくるなりランチの話をしている。安いランチを探しているらしく、五百円からはじまって四百円、三百円、それ以下のランチへと話は進む。五十円のランチがあっても一向にかまわないのだが、聴けば聴くほどに中身というか内容の話がなにひとつ聞こえてこない。維新号(もっとも高価なディナーは六万円)や天一のディナーが五千円になるのなら安いだろうが、三百円で儲かる設定になっているものを値付けだけで安いとは云えない。中身と値段は相対的なもので、中身を切り捨てて値だけを問うのなら、ですぺらは切り捨てられなければならない。随分と前のはなしだが、余市を置いた。あれはですぺらの原価計算なら一杯三百円になるが、当店は安売りが目的の店ではないので、以降余市は置いていない。バランタイン、シーバス、カティーサーク、ジョニー・ウォーカーもしくはアーリータイムズ、フォアローゼスなどの売価は二百円にも満たない。千円ウィスキーを三、四十種類ほど置いて全品百九十円の方が儲かるかもしれないが、そのような店の営業は蒙御免。
ホワイエのマスターが屡々来られるが、知己がカクテル百九十円の店をはじめたらしく、大層混雑していると聞かされた。そのホワイエはカクテルを止めてモルトウィスキー一本に営業方針を改めたいといっておられた。こういう不景気なときこそ原点を大事にしたいともおっしゃっていた。それにしても、赤坂に相応しい十の店について話し合ったが、その内の数店はすでに閉店している。老夫婦が営まれるジョーク(未だに真空管のアンプを使っている)などは何時までも残ってほしい店なのだが。
さて、件の二人連れが帰ったあと、愕いた。ですぺらのカウンターは大谷石なので、小さな穴が無数にあいている。その穴へお絞りをちぎって埋めていたのである。爪楊枝で穿って元に戻したが、カミュの「シーシュポスの神話」を思い起こした。吝い部下を持つ上司の溜息が聞こえてくるようである。
まず、ご参加くださった山小屋の仲間たちにスランジバー。途中から興に乗り、偲ぶ恋、失われた時を求めて、老いらくの恋等々、モルトウィスキーの註文までが、感情豊かな悲恋ものに変わった。というか、悲恋のみが大きな感情の振幅を内包する。
わたしはかような概念的註文が大好きである。重いの軽いの、臭いのよい香りの、辛いの甘いのといった註文は意味するところがよく分からないのである。例えばヨード香、ピート香、スモーキーは各々異なる香りである。スキャパのようにピート香はないが、ヨード香を持つウィスキーもある。そのヨード香とピート香を識別なさる女性がいらしたのに愕いた。いずれにせよ、概念的註文を受けると幹郎さんのいう物語が立ち上がってくる。そこにこそ、ウィスキー飲みの醍醐味がある。
初手は柔らかく、爽やかな喉ごし、馥郁たる香りを持つものの、気づけば後になにも残らない、ダフタウンやシングルトンもそういったウィスキーである。特にシングルトンは一級の悲恋ものとしてわたしは高く評価している。
イナミさんお手製の麺麭は旨かった。無塩だとそのもみなさ(もみない=味気ないの意)にバターを多量に用いる。従って塩分一グラムの減塩麺麭の方が結構と思った。たくさん焼いてきてくださったので、次の日は終日麺麭を囓っていた。久しぶりの麺麭の感触に涙する。
ナカザワさんのハーブオイルはにんにくの香りが強く、麺麭には不向きと思われたが、炒めもの、特にパスタには最適、併せて感謝する。
聞くところによると、山小屋に麺麭工房を造るようである。釜は大谷石、いよいよ嬬恋村も忙しくなってくる。
かつてNさんの限定本を企画した。挿絵はUさんにお願いした。NさんもUさんも亡くなり、企画はそれきりになった。先日、わたしの誕生日にPさんが現れ、あの本を造りたいと仰言る。問題はふたつ、ひとつは綴じ込み本をわたしは造る予定だった。版画は単品だと高いが本文に綴じ込むと挿絵となって安くなる。しかし、綴じ込みだと数物製本では間に合わない、例え数物であっても、少なくともルリュールの心得のある方の製本でなければならない。
いまひとつは、Pさんが代金のことを口になさっていたが、あまり安く売ってUさんの他の画が値下がりするようでは困る。これは大きな留意点である。
わたしの余命はいくばくもない。従ってPさんのような奇特の士が現れるのは嬉しい。企画を練り直してもらえないだろうか。
福原のすぐ横、多聞通に上島珈琲があった。木造家屋だったのを昭和三十五年に立て直し、神戸本社ビル(現UCC第1ビル)となった。山本六三さんが珈琲好きで、珈琲豆を買いに日参していた。焙煎はじめ、いかにうるさい注文であっても、店員は快く応じてくださった。
ミルを股で挿み、がりがりと挽くのである。西明石のですぺらには古い鉄製のミルが大小取り混ぜて四、五台飾っていたが、あれは当時のなごりである。とにかく、山本さん共々、珈琲にはこだわりを持っていた。どこの喫茶店へ行こうとも、ブレンドの豆の配分が手に取るように透けて見える。山本さんはブルーマウンテンかキリマンジャロ単品がお気に入りで、漆黒の濡れたような輝きを持つ、深煎りを好んだ。シングルモルトに嵌る素因はすでに当時から醸されていたのである。
そんなことを思い出したのは、先日知己に罐珈琲を出したところ、ブラックしか飲まないのでと断わられたからである。罐珈琲は出来合いであって、大量生産されたものである。微妙な香りなんぞ楽しむためのものではない。わたしもちゃんとした珈琲ならブラックで飲む、しかし罐珈琲なら何でもよいと思っている。運送屋で働いていた頃、職場の自販機に牛乳屋のミルク珈琲というのがあって、冬の早朝それを飲むのを楽しみにしていた。
書物でも同じである。マスプロ出版で拵える本の装訂なんぞ、なんでもよいとわたしは思っている。逆に云えば、綴じ糸に麻が使われていない書物なんぞ糞食らえである。無線綴じや網代綴じの本を手に装訂がどうのこうのというのはまさに笑止。
ああ、云われたばかりなのに、また悪態をついてしまった。
花柳界では女性客は嫌がられる。その理由のひとつが風景に溶け込まないからである。女性はどのような場にあっても自らの立ち位置を探し出してきて主調する。抽象化された、すなわち濾過された話題にはついていかれないのである。もしくは年端もいかない芸妓から風景のように扱われることに堪えられないのである。まるで見下ろされているかのごとく錯覚するのであろうか。
個と個のあいだにあって、分離はあっても対等はないとする考え方をわたしは福原で学んだ、例によってちょんの間である。浮世風呂の一時間は四十分、ちょんの間のそれは二十分である。わずか二十分の交接のあいだに、男は思いの丈を吐きだし、女は男の思いを眺めやる。おそらく、ここには愛と名付けられるさまざまな種類の思いと行為が凝縮されている。
「仮象と客観的な実在性とがさかしまになっていた」と書いたが、いつも女は風景を眺めている。きっと、受け取るお足すらがひとつの風景だったに違いない。この消息はジュネのような男色家にとっても同じだった。男にしてからが、排泄と同時に逸るこころは鎮められ、一瞬の後には「ばつの悪そうな、済まなさそうな顔」に戻って立ち去ってゆく。
前述した女性客が持つ主体性を娼婦は持たない。もっとも、眺めるという行為も一種の主体である。しかし、能動的な主体ではなく、著しく静的な主体である。娼婦には選択も参画もない。あるがままに過ぎゆく行為を眺めているだけである。まるで神のように。
理屈が優先されるのがわたしの癖で、立ち位置を探しているのはわたし自身なのかもしれない。知己から悪罵は書くな、主観を除いたところに悲しみが派生するといわれた。表現の骨幹を端的に示唆されたようで、身震いした。感謝する。
お茶屋では仕事、経済、政治のはなしは禁句である、時として趣味のはなしすら。お茶屋に上座、下座はあっても、みなさん常連であって平等に扱われる。それでなくとも、人品に上下などあろうはずがない。従って仕事のうえでの上下関係は無視される。花柳界はどこまで行ってもフィクションの世界であって、それがいやなら席へ上がらなければよいのである。
スナックやクラブは水商売ではないのでお茶屋とバーを一緒にできないが、仕事に関するはなしは極力避けるのが無難である。そのための共通の話題として当店ではモルト・ウィスキーがある。とは申せ、吉行のような遊び人はめっきり寡なくなった。飲み屋へまで自分の世界を引きずってくる方がいらっしゃる。飲み屋はしがらみから離れ、ひとり静かに酔いを愉しむ場であろうに。
昔、なぜワーさん、ターさん、ナーさんと名前を呼ばずに符丁で呼んだかといえば、名前だと現実に引き戻されるからであった。時計がないのも同じ理由である。里ことばも同様で、芸妓に出自は無用である。祇園に就職(置屋に所属すること)した若い女性が雲と蜘蛛、箸と橋、雨と飴を同じ発音にするに腐心していたのを思い起こす。
フィクションの世界と書いたが、パーソナルな部分を捨てた、謂わば人形劇の世界をわたしは花柳界に視ていた。裏側では集娼や散娼、または黴毒や麻薬などが蠢いていたが、お茶屋の席もしくは花魁(これこそ一緒にならないが)というものは、そうした雑事一切に関わりなく、常に美しく輝いていた。「夢こそ真」ではないが、あの世界では仮象と客観的な実在性とがさかしまになっていた。その危うさに少年がどうして惹かれていったのか、そこのところを描きたいのだが、思うに任せない。
いずれにせよ、苟且の場とはなにかと、いまにして考えさせられる。大切にとはしかるべき距離を指し、諛いとは一足飛びに相手の胸元へ蹴りを入れることに他ならない。距離をなくしてひとときの囲いは提供できない。
昨日、ヒデキさんがMさんからと云って、マンナンライスをお持ち下さった。去年の七月、メーカーは違うが、でんぷん米をはじめて食した。人間の食い物ではないというのが、その時のわたしの印象だった。たしか掲示板でも書いたように記憶するが、外米と同じで炒飯や雑炊もしくはカレーライスに向いているとも思った。
でんぷん米と書いたからには製法は同じなのであろう。しかし、何のでんぷんかでおそらく香味も違ってくるのだろう。 コーンスターチと小麦粉でんぷんで作ったものを食べたのだが、今回のマンナンライスは菎蒻、すなわち芋である。このところ、LGC米ばかりで、でんぷん米からは遠ざかっていた。折角のMさんのご好意を無にすることはない、再チャレンジしてみようと思う。何事によらず、印象が変わるというのは実に楽しいことである。
「雨過ぎて雲破れるところ」を読んだ時のことを思い出します。2008年09月24日に掲示板で書きました。「生きなくっちゃ。夢なんか見ている暇はない。という息せき切った思いが、山のあちこちにみなぎっている」との幹郎さんの言葉がわたしを熱くさせます。
イナミさん、ナカザワさんにもお世話を掛けました。いよいよ動かれない身になりつつありますが、山小屋のはなしは幹郎さんから伺っております。
清見自体が交配種ですが、デコポンの母御ですね。先頃、親しくしている編輯者が来店「カツ丼や焼き肉を食べたくならないか」との訊いに「欲しいのはオレンジジュースかアップルジュース、それも腹一杯」と応えました。それほどに柑橘類や林檎はわたしにとって手の届かないものになってしまいました。
チレ・セラーノ(Chile Serrano)はさわやかな酸味が特徴の青唐辛子ですね、あまり辛くないとの印象を持っていますが、おいしそうなハーブオイルですね。さっそく試してみましょう。糖尿ではないので、エネルギーは糖分と油分で補っています。従って、ハーブオイルは有り難く頂戴致します。
以前、山小屋でお会いしました地元のメンバーです。
関さんから伺いましたが、私の使っているハーブオイル(無農薬のチリセラーニョ・ローズマリー・ニンニク入り)が、パンに塗ったり、炒め物に良い味を出しますので使ってみては如何でしょう。
関さんに持っていってもらいますので、ご試食下さい。
山小屋メンバーのものです。
関さんからお話のあったパンの件、12にちまでに少しだけですが研究してみます。オレンジピール、おもしろいアイデアです。自家製のもの(清見タンゴール)があるので早速作ってみます。減塩パン、乞うご期待!!
今般、中村裕を主宰として、ナベサンに於いて句会を始める事になりました。広く参加者を募ります。
一、経験の有無、性別、年齢、不問
一、提出句は有季無季、定型不定型、不問。但し俳句である事
一、自由題(雑詠)にて五句、当日、提示の席題にて一句
一、参加料無料、飲代のみ、花代可
主宰・中村裕 勧進元・渡辺ナオ
日時 2月9日(火)夜7時半〜
場所 ゴールデン街 ナベサン 電話03-3208-0627
中村 裕さんは1948年北海道生まれ。三橋敏雄に師事。フリーランスの編集者、ライターとして活躍。句集に「石」、著書に「名句で味わう四季の言葉」「やつあたり俳句入門」「俳句鑑賞450番勝負」など多数。
来週の金曜日(12日)、ですぺらは貸切になります。佐々木幹郎さんと山小屋の仲間たちのパーティーです。
関さんへの伝言です。昨年の七月以来、療養食なるものを食べていますが、飽きてしまったのです。あまりの拙さに食欲不振で、そちらからの解放もあって透析を今月中にはじめることにしました。ところで、かつて赤坂のパン屋をまわった折、食塩を減らせばもみないパンになる。それよりも食する量を減らせばどうか、と逆提案されました。正論で、食事量が減ったいまなら納得がいく意見です。
例えば、わたしは一日二食ですが、肉饅だとひとつ食べれば半日は大丈夫です。腎不全用の肉饅もあるのですが、ひとつだけなら中華屋の肉饅を食するに如くはなし。この伝でいけば、大概のものは大丈夫ではないかと勝手に判断しています。大食漢の方には申し訳ないのですが。
パンにはなしを戻しますが、一部のパン屋さんは生のオレンジの皮を磨りつぶして塩の代わりに使っているようです。でもこれだとカリウムが禦がれません。そこで、一般で売っているオレンジピールならいかがでしょうか。生ほどの香りはありませんが、ごく僅かカルダモンを追加してやればいけそうな気がします。そして食パン程度の塩(バゲットに換算して二グラム以下)だといかがでしょうか。期待しております。
「書物の整理の件ですが、お役に立てるかどうかは判りませんし、また東京のそれも専門店の方が便利で安心で高価とは思われるものの、もしそれら馴染みの店でどうにもならない本がありましたらどうぞ小さな古本屋の戸を敲いてみてください」との挨拶を添えて、神戸の荻野勝さんからメールがあった。
荻野さんはコーベブックスのお客さんで、神戸の拙宅へ来られたことがある。探偵小説をよくする読書家で、当掲示板をご覧になる方には垂涎ものの古書店である。ぜひ紹介しておきたい。書肆風狂を改め、現在では吉祥古書店と号しておられる。URLは以下のごとし。
http://homepage2.nifty.com/huni/
荻野さんには取り合えず、ハヤカワポケットミステリーを整理していただこうかと思う。初期のものばかりだが、二百冊余蔵している。
生ける屍、深き森は悪魔のにおい、アバ、アバ、キングとジョーカー、猫城記等、計48冊のサンリオ文庫が拙宅に在る。もう少しあったと思うが、取り敢えずそのようなところ。
おっきーさんからデジカメを拝借できたので、このところ、持ち物の整理をはじめた。とにかく拙宅にはものが濫れている。そして、雑誌(約三千冊)や文庫本(約一千冊)は出入りの古書店では金にならない。自転車のパーツはオークションで処理をはじめたが、こちらは月に十点しか出品できない。五百点はあろうかと思われるので、業者登録が必要である。登録費用は月間18000円。
いままで、書物が常に転居のネックになってきた。昨今はやりの空調設備の整ったレンタルルームならいざ知らず、コンテナの類いに詰め込んでで多くの書物を駄目にしてきた。そして阪神淡路大震災では蔵書の中枢を一万点ほど失った。爾来、三村竹清の嘆きがよく分かるようになった。
いずれにせよ、目の前に陳べることができない書物は蔵書にならない。これに関して幹郎さんの意見は正しい。糅てて加えて、わたしは極端に視力が弱くなった。ぼちぼち店仕舞の季節(書物であって飲み屋ではない)である。
先日は上田敏、矢野峰人、蒲原有明、薄田泣菫が関係する雑誌を各一口で売却。このあたりだと出入りの古書店でも取り扱うようである。過日、近松秋江の一口が右から左へ売れたので店主は自信ありげである。日夏耿之介、平井功、正岡容が関係する雑誌も一括で売ったが、サバトは買い叩かれた。店主曰く、復刻が出たからね。誰があのようなものを拵えたのでしょうねェ。
流行りの古書店ならいざしらず、わたしが馴染みの古書店では幻想文学関係は金にならない。一冊、十円とか百円にしかならないのである。上記サンリオ文庫は金高にはまったく這入らない。とはいえ、オークションは面倒である。そこで、病気見舞いを兼ねて高値で知己に買っていただきたいと思っている。
追記
さっき眼鏡が壊れた。幹郎さんから頂戴した眼鏡があるが、わたしは幼少の砌から淫乱の気があって、老眼だけではあまり役に立たない、新調しようかと思う。
一昨夜、雪に気付いたのは八時。マスタングはFRで、しかもタイヤはミシュラン、雪道は走られない。川越街道から17号バイパスへの道は毎年何度かアイスバーンになる。降雪の具合から十時までが限界と判断する。駐車場へ走るも、車はすでに雪の中、十分な暖機を取らないと窓の曇りが取られない。走り出したが、みなさんのろのろ運転で一向に捗らない。池袋までは極力飛ばしたが川越街道はひどく吹雪いている。大山市場の交差点も毎年凍り付く場所だが、道はシャーベット状態、タイヤにごつごつした感触が伝わってくる。
山形での氷上運転の訓練を想い起こす。氷上では四駆もチェーンもなんの役にも立たない。車の立て直しはアクセル操作だけである。なにかしら嫌な予感に襲われる。ぐんと速度が落ち、車間距離が開いてゆく。17号バイパスの入り口は大丈夫だろうかと気が気でない。
17号バイパスの入り口は前後が遮音壁と高速道路で囲まれているが、中央部だけが吹き曝しになっている。そこに路面凍結注意の看板、分かっているのだからなんとかしろと云いたくなる。17号バイパスの入り口部分を抜けると笹目橋だが、ここから先は高島平から回り込む大型トラックが走っているので余程の降雪でないかぎり大丈夫である。
帰宅は恰度十時、今回は無事だったが、いよいよインプレッサの車検が近づいてきた。しかし、タイミングベルト、ウォーターポンプ、ドライブブーツ、ブレーキディスクの研摩、ガソリンタンクの洗浄、右後部窓ガラスのモーター、左サイドミラーのモーター交換など、車検と併せて最低でも二十五万円ほど必要である。車は四、五万円で買えるが、走れば走った分、維持費がとんでもなく掛かる。さて、どうしようか。
山崎医師が血液検査の推移が一目で分かる数値表を作ってくださった。それによると、尿酸、ナトリウム、カリウム、血糖などが標準値にまで下がっている。確かに食事制限が効いているようである。特にカリウムは生野菜や果物に大量に含まれているために、制限が非常に難しい。水漬けのフルーツ罐を無理をして食しているが、カリウムが減るのはいささか嬉しい。
このところ、日常生活が二進も三進もゆかないので、血液検査表がわたしの唯一の話相手となっている。などと書けばお寒い限りだが、いまのわたしに必要なのはどのようなことでもよろしいから自信をつけることなのである。カリウムが減っている、それだけでエッヘンと威張りたくなる。それが内弁慶だというなら甘んじて受けようではないか。
山崎医師からカリメートを減らして活性炭を増やす、もしくは活性炭だけでもよいかもとの指示を受ける。早速、そのように書き直した処方箋を頂戴する。わたしは医者ではないが、自らの病症についてあれこれと思いを巡らしたい。考えることによって少しでも客体化できるからである。
ここまで書いて外を覗くと雪、帰られなくなるので今日は早仕舞である。
「最後の鍋会」の後半はちょいと難しく書いた。理由はこれ以上ひとを傷つけたくないからである。しかし、病人が感じる疏外感はわたし個人のものではないだろう。繰り言がどなたかの役に立つかしらとも思う。
例えば、風呂へはいるとさまざまな問題が生じる皮膚疾患に罹った場合、苦痛を避けようとして風呂から遠ざかる。しかし、回りは疾患に罹ること自体が非衛生にしているからだと憶測する。湧いているよ、這入んなさいよ、旺んに薦めるが、それで駄目なら、たまさか入浴した際に、やはり気持いいでしょ、無精髭はない方がいいよ、男前があがったねなどと褒め上げる。しかし、これは鬱病のひとに頑張れと言い続けるのと同じ効果をもたらす。この場合の「頑張れ」は気にかけているもしくは気に病んでる、同情しているとの意思表示なのだが、これが患者にとっては新たな苦痛のたねになる。ひとに迷惑を掛けて生きているといった種類の自覚ないしは自意識が患者のなかでいやまさり、一段と鬱を昂進させる。要はデフレのスパイラル現象と同じである。
基礎疾患に限らないが、ひとつの病はさまざまな症例をもたらす。わたしのような慢性腎不全の場合は血液が異常になるために、なにが起こるか予測不能になる。そのような場にあって成因論は意味をなさない。なぜ罹患したかではなく、いま出来ることはなにかが問われなければならない。ひとつひとつの病例に則した薬物の種類と量が必要になる。よって、当方の心掛けも症例に応じて揺れ動く、対応するに精一杯で、まわりへの気配りは疏かになる。ところで、気配りというものは双方向ではじめて成り立つものである。気配りが方向性を見失ったときの結果は明らかである。
以上は気配りが病を進行させる典型なのだが、この構造は看る側、看られる側の双方に通じる。どちらかが諦めるまでつづく構造なのだが、諦めた時は双方の関係は新たなディメンションに立ち至る。
「鬱病」はかつて「怠け病」と揶揄されてきた。そしてあらゆる病気は鬱病同様、怠け病と解されかねない症例を抱えている。「今回の病症から感じる疏外感を顧みて、鬱病と同種のものを嗅ぎ取った」と書いた内容のほんの一部だが、ここから先は書きたくないので以下削除。
おっきーさんのご好意によって一羽九千円の鴨がみなさんの胃袋におさまった。当方で用意した鴨が恰度二羽分、併せて三羽の鴨が地上から消えた。おっきーさんには後片付をお願いした。そうでなければ、後片づけに朝まで掛かっていたに違いない。これでですぺら最後の鍋会が無事に終了した、それほどに身体が弱っている。おっきーさんに深く感謝したい。
片づけが終わり、帰ろうにも身体が動かない。店で休憩しているところへ山崎医師が来られた。他にも一時を過ぎてから常連さんが複数来店、事情を説明して早急に切り上げていただく。帰宅は三時半だった。
今週も血液検査で山崎医師を訪ねる予定だが、病院外で話し込むのは久しぶりである。このところの体調不調など、人前では憚られることを細々と相談する。全身に拡がってきた発疹、皮膚の剥離感、睡眠中にまでつづく痛み、むくみと頭痛、倦怠感と疏外感、目に見えて衰えてゆく生気等々、ことごとくがはじめての経験なので施す術が分からない。
「よく喧嘩をしたのは吃音がもたらす精神的緊張と意志疎通が思い通りにいかないことが理由である」と前項で書いたが、精神的緊張が吃音をもたらすのでなく、吃音が精神的緊張をもたらす。今回の病症から感じる疏外感を顧みて、鬱病と同種のものを嗅ぎ取った。健常者(この言葉の概念はいまだに理解できないが)にも、さらには医師にすらどこまで理解できているのかすこぶる疑問が残る。医師の場合は症例に対する記憶の引き出しが一般と比して格段に多いのは認めるが、理解という点では同じように心許ない。医師としての発想が時として患者の疏外感を昂進させることもありうる、と医学の本質に迫るような会話がつづいた。
看る側と看られる側、双方がより多面的な発想法を持たない限り、医学が医学として成立し難いのではないだろうか。かかる柔軟な意見を持つ山崎医師の素晴らしさを思う。吃音と同じで、病人にとってはまず症例ありきである。症例がすべての発端となるのであって、そこに意志力や精神力の軟弱を読み取るのを藪医者という。日本の医学は遅れている、とりわけメンタルな面にかんしては未だに戦時のそれ(大和魂)と大差ないのではないだろうか。
さて、わたしは看られる側だが、そのわたしに多面的な発想法の持ち合わせがあるのだろうか、自らの生と死をどこまで客体化できるのだろうか。山崎医師から学ぶことは多い。
種村薫さんが亡くなられた。種村季弘さんの奥様である。
通夜は二月二日(火)十八時より。告別式は三日(水)十時から十一時。
西湘ホール 足柄下郡真鶴町真鶴1902-2 電話0465-69-1444(代表)
明日は鴨鍋会です。この種の会はなんども催していますが、ですぺらでの消費量は半端でない。鴨一羽で胸ロース二枚、もも肉二枚が採れるが、これでやっと二人前にしかならない。前回は七人で二十人前を食している。今回はつくねを作らないので、さらに量が増えると見込んでいる。
あしらいに白菜、葱、椎茸、しめじ、豆腐などを用意したが、青物で困ってしまった。季節から推して芹を用いたいのだが、芹は香りが強く、合鴨とバッティングする。そこで水菜を使用することにした。食べ方にコツがいるがそこはよろしくお願いします。
例によって午後七時半から閉店までの貸切。会費は5000円。酒は別料金だが、モルト・ウィスキーはアフター以外は厳しく、前述のビールと今日焼酎をお持ちします。
なお、あと一名は参加可能です。
鴨鍋に必要なものの一部を仕入れにゆく、併せてビールもである。何時ものマーフィーズ、ボディントン、ギネス、白生などを各四本づつ、手に持ってですぺらへ戻る。道半ばにして動かれなくなる。あとは休みながら時間を掛けて歩くしかない。
わたしが子供のころ、アトピーなる概念は一般的でなかった。よって分類はアレルギーもしくは蕁麻疹である。そしてわたしは蕁麻疹に苦しめられた。因果関係はいまだに分からないが、発疹、鼻炎、吃音等々、さまざまな疾病に遭遇してきた。
例えば、よく喧嘩をしたのは吃音がもたらす精神的緊張と意志疎通が思い通りにいかないことが理由である。先日、「すうどん」のことを書いたが、あれは「かけうどん」の最初の「か」が発音できないからである。わたしが「かけうどん」を注文すると必ず「ぶっかけ」が出てくる。それが分かっているので「すうどん」としか注文できないのである。これは吃音者にしか理解されないが。
蕁麻疹は二十歳ぐらいで収まっていたのだが、腎臓が悪くなってから同じ症状が再発した。わたしが風呂嫌いになったのは、風呂自体は良いのだが、その後は全身が引きつれたようになる、あの感覚が嫌なのである。毛細血管かリンパ管か汗管かなにか分からないが、その一本一本に七味唐辛子を擦り込むようなぴりぴりした感覚なのである。弱電気を流されて皮膚が剥がれ浮游してゆくような感覚、それが長く続くといつしか激痛に変化する。
人と暮らすと、風呂へ這入ることを強く勧められる。当たり前といえば当たり前なのだが、それがいかような苦痛をもたらすかについては前述の吃音と同じで、おそらく経験者にしか理解されない。
右足の痛みもさることながら、ビールをぶら下げた手にはじまって、ぴりぴりしたもしくはびりびりした痛みが全身を蠢く。それが理由で立ち止まってしまったのである。狂いそうになる種類の痛みであって、全身を掻きむしりたくなる。この種の痛みには慣らされてきた筈なのだが、どうにもならない。汗をかく夏が思いやられる、その頃まで生きていたとしての話だが。
近所のプラセールでおまけの葉巻をもらってきた。パンター・カフェとパンター・アロマ(共にオランダ)、前にも頂戴した記憶があるのだが、ダヌマン・ムーズ(ドイツ)、そのほかにパイプ煙草を二種。ありがたいはなしだが、ゴールデンバットの客にしてはサービスが過ぎるようである。
それにしても、昨今喫煙量がめっきり減った。同時に食事の量も減り続けている。飯は一食140グラムにまで減ったが、それすら残すことがある。ますますもって喰うことへの執心が薄らいでくる。そして血圧は上がり続けている。
血圧で思い出したが、先日ディスカバリー、チャンネルでブロンクスの救急病棟を見た。血圧が85-55の急患が抛り込まれるシーンがあった。体内出血だが、CTスキャンを中断して血圧の維持をはかる。医師は明日まで生きるかどうかは五分五分といっていたが、二十時間ほど生きてその患者は死んでしまった。思い起こせば、わたしが大腸の出血で入院したときの数値と同じである。やはり、死んでいたのかもしれないな、と思うと妙に悲しくなってくる、生き残ったことがである。木村さんが血圧が50にまで下がるとフラットになると云っていたが、人の精神がフラットになるとどうなるのだろうか。もっとも、変化がなく平板であるのが人生の常なのだが。
モルト会の土曜日は大入り満員だった。立ち客が出る始末、みなさまに迷惑をお掛けして申し訳なく思います。終日、元Ageのママ清水弘子さんに手伝っていただいた。満席のですぺらは珍しいとのことで、さっそく写真を撮ってですぺらファンが営まれる山口のバーへ送る、夢の一日だった。営業は三時半まで続き、往時の新宿を思い起こさせる雰囲気となった。
かような席でプライベートなはなしは禁句である。飲み屋にあって絶対に避けなければならない事態に陥り、いささか気まずい思いをさせられた。酒はまだあって、話題は尽きることがない、そして話はオチを拵えてからでなければ語ってはいけない。店主としての至らなさを痛感させられた。幾重にもお詫び申し上げる。
1月21日の訂正箇所で書き忘れた。
12月16日の「水と茶」で「濃縮還元なのでカリウムの心配もなさそう」などと書いたが、濃縮還元の方がカリウムは高い。わたしの勘違いで、やはり飲まれるものは葡萄ジュースぐらいなもの。
大方は検索で当掲示板へ這入ってこられる。従って、違う箇所で訂正しても訂正の意味をなさない。遡って加筆か削除、もしくは追記でもって訂している。諒とされたい。
今回の解説を書き上げてふうっと溜息をつく。右手の人差し指一本で一時間半キーボードを叩きっぱなしである。かつて書いた稿のコピーペーストの部分があるので助かっているが、いつもぎりぎりになってから書きはじめる、悪い癖である。すぐ白髪葱に取りかからなければ土曜日に間に合いそうもない。
今回はともかく、来週の土曜日(三十日)の鴨鍋会はどなたかに手伝っていただかないと一人では処理しきれない。今月なら手伝えると仰有っていた方がいらしたが、いかがかしら。もっかのところ、参加者数は五名もしくは六名、鴨肉の仕入れは六名分にする。おっきーさんがなにかお考えのようだが、味見用に二、三人前もあれば十分でないだろうか。後はこちらで潤沢に用意する。
追記
二十九日に野鴨が送られてくる。こちらでバラすのかと思いきや、部位ごとに下ろしたものがくるそうな。鳥をまるごと下ろすのは久しぶりなので、どうなることかと気をやんだが、一安心である。
ですぺらモルト会解説(スペイサイドを飲む)
01 アベラワー '90(ブラックアダー)
ロウ・カスクの一本。シェリー・ホグスヘッドの11年もの、61度のカスク・ストレングス。限定283本のシングル・カスク。
蒸留所はヴィクトリア朝の美しい建物。モルトもまた、その佇まいに似て、華麗なシェリー・ホグスヘッド。酒質は軽いが甘口のため食後酒に。
ソフトな口当たりとクッキーの甘さ、我が邦でいえばティー・キャンディの「純露」。とめどなく拡がる芳醇なバニラ香とまろやかな喉ごしはニート(水を加えない)がお奨め。くつろぎの一本。
ブラックアダー社は1995年にザ・モルトウイスキーファイルの著者であるジョン・レイモンドとロビン・トゥチェクが創業したウイスキー専門のボトラー。ロウ・カスクの発想はきわめて単純でユニーク。大きな木片のみを除去、オリ(沈殿物)も一緒にそのままボトリングする。もちろん、氷点下フィルターもカラメル着色も施さず、すべてはカスク・ストレングスである。
02 オスロスク '89(ケイデンヘッド)
オーセンティック・コレクションの一本。シェリー・バッドの15年もの、59.5度のカスク・ストレングス。限定636本。
15年を経てもフッと居なくなるようなあっ気ないフィニッシュに変わりはない。香味とフィニッシュのなさとのバランスがユニーク。クラガンモアと共に、スペイサイドのよさをすべて備えた銘酒。
ケイデンヘッド社は1842年、エディンバラにて創業。現在はキャンベルタウンを本拠地とし、エディンバラのキャノンゲートとロンドンのコヴェント・ガーデンに店舗を持つ。スコットランド最古のインデペンデント・ボトラーにして、ゴードン&マクファイル社と共に業界の雄。オーナーはJ&Aミッチェル社でスプリングバンク蒸留所とは同資本。「オーセンティック・コレクション」「オリジナル・コレクション」「ボンド・リザーヴ」「チェアマンズ・ストック」等のコレクションがある。着色と低温濾過を施さず、樽と樽とのヴァッティングも一切行わない。一樽限定のシングル・カスクという贅沢な飲み方を世界に広めた第一人者。子会社にダッシーズ社とイーグル・サム社(現キングスバリー社)があり、サマローリ社やスコッチ・モルト・ウィスキー・ソサエティー社等、多くのボトラーに樽を供給している。ユナイテッド・ディスティラーズ社のボトルに満足せず、さらなる刺激をお求めの方にお薦め。
03 クラガンモア・カスクストレングス '93(DB)
ボデガ・ユーロピアン・オークの10年もの、60.1度のカスク・ストレングスにしてディスティラリー・ボトル。15000本のリミテッド・エディション。
熟成年とアルコール度数を感じさせない柔らかさを持つ。コーヒーやビターチョコレート、グレインや皮、マディラ酒などの香り。加水すると、スモーキーさからウッディな芳香へ、さらにナッツ系の香りへと変化してゆく。ハーブやスパイス(月桂樹・胡椒の実・ナツメグ等)のキャラクターを内包。さまざまな暗示があり、名状し難い複雑な味わいを呈している。
他にリフィール・アメリカンオーク・ホグスヘッドの17年ものと29年ものがボトリングされている。
04 クレイゲラヒ19年(イアン・マクロード)
チーフテンズ・チョイスの一本。43度。
香りは非常に華やかで、フルーツの香りが濃厚。はじめにビールのホップのようなほんのりとした苦味を感じるが、アップル、ライチ、フレッシュな洋梨の味わい。クリーミーでバランスが良く上品な味わい。心地よい余韻が長く続く。
1999年に頒された「チーフテンズ・チョイス」は2001年に「チーフテンズ」と変更。ラベル、パッケージ共に一新、フルラインナップとなった。初入荷は14点、同シリーズの売りは、ラム、ポート、シェリーなど、さまざまなカスクが用いられる点にある。ダグラス・レイン社の「オールド・モルト・カスク」と共に今後目の離せないシリーズとなった。他に「ダン・ベーガン」「アズ・ウィ・ゲット・イット」「シールダイグ」「ファラン・イーラ」等、多彩なボトル展開をしている。
05 グレンアラヒ '91(シグナトリー)
シェリー・バットの8年もの、43度、限定902本のシングル・カスク。
女性に人気のエレガントな食前酒であり、僚友アベラワーと通底する味わいを持つ。きれのよさは心地よく、極上のフィニッシュに飲み手を誘う。オーク・カスクにはない、アーモンドのようなナッツ系の香りが特徴。
シグナトリー社からは数種の加水タイプが、ケイデンヘッド社、ゴードン&マクファイル社、スコッチ・シングル・モルト・サークル社、ダグラス・レイン社、イアン・マクロード社からカスク・ストレングスが頒布されている。
06 グレン・マレイ '89(シグナトリー)
シェリー・バットの9年もの、59.5度のカスク・ストレングス。限定640本のシングル・カスク。
ディスティラリー・ボトルではシャルドネやシュナンブランの樽を熟成に用いたものが知られる。本品は過去飲んだグレン・マレイのなかで一押し。
インデペンデント・ボトラーのボトルでは加水タイプがイタリアのドナート社から、ケイデンヘッド社、シグナトリー社、ブラックアダー社、マキロップ社からはカスク・ストレングスが頒布されている。現在グレン・モーレンジの傘下から離れた。
シグナトリー社はゴードン&マクファイル社、ケイデンヘッド社に次ぐ三番目のボトラー。同社のカスク・ストレングスにあって、ダンピー・ボトルのシリーズは逸品揃い、ぜひ味わって頂きたいモルト・ウィスキーである。上記シリーズに取って代わったカスク・ストレングス・コレクションは同社の総力を挙げての快挙。グレンキース蒸留所で実験的に造られたクレイグダフ等が入っている。
07 グレンロッシー '81(シグナトリー)
甘口シェリー樽の17年もの、43度、限定595本のシングル・カスク。
とりわけ81年は珍重される。ヘイグとディンプルの重要な原酒モルトで、ブレンダーの間でも高い評価を受ける。
清々しい白檀の香りが特徴。ミント香とクリーミーなピート香。U.D社のものと比して円熟度高く、よりスイートな味わい。重厚な香りと切れ上がりの暖かさが絶妙。
シグナトリー社は1988年、リースで創業。現在はエディンバラに事務所兼倉庫を持ち、ボトリングから保管に至るすべての業務をを行う。「ダンイーダン」「サイレント・スティルズ」等、他では飲めない稀少なシングル・カスクが多い。ヨーロッパ向け限定商品として「アン・チルフィルタード・コレクション」をボトリングするなど、多彩なコレクションで識られる。
08 ダフタウン '87(イアン・マクロード)
チーフテンズの一本。シェリー・フィニッシュの14年もの、43度。996本のリミテッド・エディション。
軽くドライで食前酒向きだが、ベクトルが定めなく稀薄、総体として纏まりに欠ける。おなじ飲むなら、兄弟蒸留所のピティヴェアックのほうが美味。ベルの原酒モルト。
蜂蜜、バター・キャラメル、クッキーのような柔らかく甘い香り。ただし口に含めば、さらさらと流れるが如き辛口。こくのなさが淋しく、些か物足りない思いに。フィニッシュは軽く短く、舌先に苦みが残る。
スカイ島の豪族、マクロード家のイアン・マクロードがオーナー、エディンバラ近郊のブロックスバーンに本拠地を置く。同社はイングランドでの「グレンファークラス」の発売元。「タリスカー」をベースに用いたブレンデッド・ウィスキー「マリー・ボーン」「アイル・オブ・スカイ」や「クイーンズ・シール」で識られる。蒸留所名を記載できるボトルはイアン・マクロード社、蒸留所名を記載できないボトルはスコティッシュ・インデペンデント・ディスティラーズ社というように区分している。
09 バルヴィニー '89(DB)
ポート・ウッド、40度のディスティラリー・ボトル。
ポート・ウッドの21年もの43度のディスティラリー・ボトルとは異なり、初のヴィンテージ・ボトル。
スペイサイドのみならず、スコットランドのすべてのモルトを代表する酒のひとつ。グレンフィディックとは兄弟蒸留所だが、フィディックが二級酒とするならば、バルヴィニーは大吟醸。加水にもバランスを崩さない腰の強さが身上。
シナモン、ジンジャー、オレンジピール等、稠密な芳香と甘味、香りの迷宮に立ち至った感あり。タンニンが支える味わい。ずしりとくる重厚なフィニッシュ。
ディスティラリー・ボトルには、ファウンダーズ・リザーヴ10年、ダブルウッド12年、シングルバレル15年、ポート・ウッド21年、他に数種のヴィンテージものシングル・カスクがあるが、すべて製法が異なる。職人の妙技と芸の細やかさに脱帽。かかるこだわりこそが、愛飲家の耳目を峙たせる。 麦はすべて自家栽培、現在なお、フロア・モルティングを行う数少ない蒸留所のひとつ。5世代にわたる家族経営にて、モルト担当が4人、マッシュ担当が3人、タンルーム3人、スティルマンが3人の計13人ですべてのモルト・ウィスキーを醸す。
10 ブレイヴァル '96(ダグラス・マクギボン)
プロヴァナンスの一本。シェリー・バットの9年もの、46度。
アルタナベーンとは兄弟蒸留所だが、こちらは重厚な味わい。メイプルシロップや干し葡萄の甘い香り、蜂蜜のような深くまろやかなこくとオレンジ・ピールの風味。フィニッシュは長くドライ。創業は73年と新しいが、ストラスアイラと共に傑出したモルト。ストラスアイラが甘すぎるという方に強くお薦め。
蒸留所名はブレイヴァルだが、長くブレイヴァル・グレンリヴェットの名でボトリングされていた。シーバス・リーガルの原酒モルトのためディスティラリー・ボトルはなく、インデペンデント・ボトラーを介してやっと入手可能になった。しかし近年、入手がむずかしくなっている。
ダグラス・マクギボン社は1949年、グラスゴーで組織された瓶詰業者。蒸留所の作業に携わった職人の末裔による同族会社にして、ダグラス・レイン社の系列。広大な熟成庫を持ち、60年代以降、色付けとチル・フィルターを拒み、「プロヴァナンス」の名のもとにコレクションを頒布。特にアイラ島の蒸留所とは太いパイプを持つ。2008年にラベルを一新。
11 マッカラン '96(ウイルソン・モーガン)
バレル・セレクションの一本。マルサラ・フィニッシュの10年もの、46度。
マルサラ・フィニッシュのマッカランは本品がはじめてでないだろうか。ラムやポート樽のダブル・マチュアードと比して、甘すぎず、適度の酸味が加味される。これはマルサラとマディラに限られる。すこぶる美味。
ウイルソン&モーガン社は古くからエディンバラに拠点を置きさまざまな樽をリリースしてきたイタリア資本の会社。謂わば、イタリア系ボトラーズ・ブランドの「はしり」ともいえる老舗で、ムーン・インポートやサマローリよりも幅広い支持を受けている。バレル・セレクションの名でコレクションを頒し、イタリア国内の三ツ星レストランやバーなどではよく知られた瓶詰業者である。
12 モートラック '90(ヴィンテージ・モルト)
ヴィンテージ・モルト社のクーパーズ・チョイスの一本。シェリー・カスクの8年もの、59.1度のカスク・ストレングス。
濃厚なピート香と僅かに青林檎のキャラクター、柔らかいタンニンを持つミディアム・ボディ。シェリー樽由来のナッツ香とソフトなバニラの味わい、甘さとピート香のバランスに優れる。フィニッシュは長く、U.D社の16年ものと比べ、より爽やかにしてエレガント。
ヴィンテージ・モルト社は1992年、ブライアン・クルックによってグラスゴーのバーズデンで創業。ヴァテッド・モルトの「フィンラガン」をボトリング。シングル・モルトでは「クーパーズ・チョイス」の名でコレクションを頒している。クーパーズとは樽職人の意。2001年5月にラベルが一新された。
前述したように頭が尿毒素でピンボケなので、このところの書き込みに誤字、脱字が多い。気付けば遡って訂正しているが、変換ミスのように分かるだろうと思われるものはそのままにしているものもある。平井功のように一部文章を差し替えたものもある。要は気分次第、申し訳のないことである。
グレンロッシー '81(シグナトリー)の購入価格が思いのほか高くついたので、9700円の会費を10000円にさせていただきます。それとクライヌリッシュを一杯おまけに付けさせていただきます。ラ・トゥールのワイン樽をフィニッシュに用いた逸品で、おっきーさんのご協力によるもの。お通しは前回同様、合鴨もも肉の白髪葱和えを考えております。
なお、アードベッグのコリーヴレッカンが入荷しました。請求書が届いていないのですが、売価はシングルショット1500円です。
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