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■2001年11月 アーカイブ |
◆一考さま
梅子さま
本日、といっても昨日ですが、
たのしい一時を過ごさせていただきました。連れの者たちも喜んでおりました。すこしかしましくて、すいませんでした。
また、先日のレスの「アルザスワイン」についてのご教示は嬉しゅうございました。アルザスという土地の思い入れは、ウンターリンデン美術館があるからいつかいってやる、だから、フランス語をがんばるぞ、ということからはじまったのですが、実際訪ねると、土地の酒、料理に魅了され、フランスに行くごとにかならずアルザス料理を食する、というまでに増大しました。悲しいかな、東京でアルザス料理屋をみつけられないのですが、まあまあ似ているドイツ料理屋にいってちょっと雰囲気にひたったりしています。わたしはアルザスの白ワインももちろん好きです。蔵元で試飲したのはよい思い出です。
ムーンさんへ
鏡花と荷風の話は貴方の書込「伸縮自在」で触れたラブコール云々に対する反論ですよ。アルツ症状がひどすぎるよ。何時からボケ老人になったんだい。
フェミニズムなどと言う不用意な言葉を私は遣いませんよ。フェミニストでしょう。澁澤さんが拒否し、郁乎さんが称揚する円卓騎士の系譜を示唆したまでで、俗にいう女性崇拝家を指します。奥歯さんが仰るようにフェミニズムの世界は鬼門です。この話は書けば書くほど突っ込まれますので、私は年期の入った女嫌いであるとだけ、申しておきましょう。この女嫌いに就いてさらに一言。女性は好悪の対象になりますが、男は対象外、問題外でして、私にとってはどうでもよいことなのです。
文章を著して一番疲れるのは言い訳せざるを得ない時です。当然、書き手が悪いのであって、不用意にものを書くと弁明弁解の淵に立たされます。ところで、貴方のフェミニズム談義はハチャメチャですよ。プラトン的な要素と社会学上の問題、それに現象学的な要素と性愛学上の問題が入り乱れて、要点をなにも捉えていません。ここでもし私が「要点をなにも捉えていません」の後に「女に嗤われますよ」などと失言すれば、次回叩かれるのは当方なのです。フェミニンがかったポリティックスの話題はやめて、フェチかフェラがこの掲示板には相応しいのに。
10月31日、この掲示板に書込ありとの斎藤さんの連絡で高遠弘美さん来店。曰く、氏がフランスで日本製パソコンの取り扱い方を女性に教示中、16ビットと32ビットとどちらがよいか、女ども異口同音に32ビット。さて、フランス語のビットとは西鶴のいう竿のこと。
発言は慎重かつ無責任に、というのが私の標語ですが、この「無責任」が簡単に見えて結構難しい。無責任に書けではなく、責任を取らなくても済むように書けということなのです。文責を問われないようにちゃらんぽらんに、また言質を掴ませないようにのらりくらりと書く。しかも、文章に起承転結をつけるために、適度に純な肉声や雄叫びらしきものを掻払ってきて挿入する。早い話が、読者の読み手としての能力、すなわち読解力(もう少し正確に言うと再構築する能力、読み換える能力のことなのですが)を査定して、後はいかに気取られないように、狡猾に振る舞うかですよ。でもその狡猾さを逆手にとって、ぶっ跳んだ映画を作るのが鈴木清順、ぶっ跳んだ俳句を作るのが加藤郁乎、ぶっ跳んだ文章を作るのが種村季弘ということになりましょうか。
いずれにせよ、ムーンさんと奥歯さんという絶好の餌食が手に入りました。どこやらでも書きましたが、人を出汁にして自らの意見ならぬ異見を陳述する。堪りませんなあ、この快楽。
一考さま
>フェチかフェラがこの掲示板には相応しいのに。
全くその通りでございまして、フェミの話などしたくありません。
でも、一考さんがどういう意味で「フェミニスト」という言葉を使ったか書かれているので私もどういう意味で使ったか書きます。
フェミニスト:女は人間だとする者
フェミニズム:女は人間だとする考え方
女性賛美者を「フェミニスト」と呼ぶのはこれは誤用でございます。
基本的に私は誤用だろうが言葉の乱れだろうが通じればよい、通じることが第一だという考えです。(それと、実践での私の振る舞いはまた別です)。
しかし、「フェミニスト」を女性賛美者とすると、これは本来の意味(辞書的に言うと、男女同権論者・女権拡張論者)と正反対になり、言葉としての使い勝手がしごく悪く、会話を妨げ、通じるものも通じなくなります。
だから、女性賛美者は「女性賛美者」と呼んでくださいませんか、お願い一考さん。
ついでに申し上げますと、私のことは煮るなり焼くなり好きにしてください。
中嶋さま
昨夜お目にかかりましたが、ろくに挨拶も出来ず申し訳ございません。
ご就職おめでとうございます。
一考さんへ
はい、「荷風、鏡花のフェミニズム」なんて類の間違った事をオンラインで書いた僕が悪いんです。煮たり焼かれたりするのは御免ですから、一目散に逃げましょう。
ところで、何気なく書いた六三さんの名前ですが、別の場所で危篤状態だと知らされました。昨年、井上さんの作品展示会でお見掛けしたときは元気そうだったんですが。
◆二階堂奥歯さま
ありがとうございます。
こちらこそ、どたばたと帰りまして、申し訳ありませんでした。
またおめもじすることもあるかと思いますが、よろしくお願いいたします。
ムーンさんへ
かつて「神様も大あくび」を書肆山田より上梓して頂いた時、画家の武内さんの絵に大泉さんが難色を示されました。それを強引に説き伏せたのには訳があったのです。西区、当時の垂水区の枝吉に住んでいた頃、毎度のことなのですが、喰うや喰わずの生活で、2~3日の絶食は頻繁。体重も50キロを割り込んでいました。ある日、武内さんが奥さん共々自転車で見えられたのですが、玄関まで這っていく体力すら残されておらず。慌てた武内さんは私の体をいたわるようにさすり、その間に奥さんが米を取りに自宅へ疾走。冷蔵庫には梅干しの一片すら無く、塩を振り掛けて馳走になりました。一食の恩義を返す必要が私にはあったのです。
「生ゴミを喰って育った」とは種村さんがよく口にされる言葉ですが、私の場合も似たり寄ったりでした。近所の雑貨屋さんが届けてくださる変質したペットフード(犬用は美味でしたが猫用はまずかった)、近所のパン屋さんが届けてくださるパンの耳、近所の米屋さんが届けてくださる破砕米に賞味期限の切れた味噌、またてんかすとキャベツの炒めものだけで半年を暮らしたこと等、振り返るに、十代の頃懐石料理で賞を頂いた料理人の食生活ではなったなあ、と自責の念。ちなみに、それらご好意にお応えして、チラシやパンフのキャッチ・コピーは多量に著しました。
出版で生じた赤字とは申せ、1億を超える借金はさすがに重圧でした。睡眠時間を一日3時間に切り詰め、がむしゃらに働きました。土方で作業中、空腹と疲労で幾度となく失神、その度に頭から水をぶっかけられました。60キロのプロパンガスのボンベの配送で生じた掌の傷は消えるのに5年掛かりました。一考が土方をしているとの噂が東京で広まっているんだがとの電話が再三御座いましたが、すべては事実だったのです。でも、好きで始めた出版ですから常に平静を装いました。須永さんの「なりふり構うべし」を日々反芻していたのです。
明石の来住さんも大変らしく、綻びを繕うために古着を融通し合っています。ですぺらを始めて困ったのは、お客さんから靴ぐらい履けよと注意されたことです。靴下の購入費がないのによく言うよねえ。早速明石の山内さんが近所をかけずり回り、中古の靴下が30足ほど送られてきました。それをきっかけにパンツでも構わないかとの一言。今では下履きも中古を融通してもらっています。それでも、今回上京してからはいささか裕福になり、衣食併せて月3万円で梅子さんと暮らしています。この2年の間に梅子さんは1万円のへそくりを作りました。大したものでしょう、私ごとのように喜んでいます。
「人類よ消滅しよう」とか「自殺の薦め」のようなエッセイを多く書き綴ってきました。「不退転の意気込み」で生き延びるなど、とても人に奨められるものではないからです。先日、柿沼さんとの間で某有名女優のその後を語り合いました。山谷で30歳の生涯を終えたのですが、浮浪者の前での排泄行為を生業にしていたのです。おしっこやうんこを捻り出すことによって僅かな金数を得る。釜ガ崎には私が親しくする文筆家も幾人か居ますので、この話はよく判ります。そういった生活に堪えられる覚悟がなければ、志を持ち続けることは出来ないのでしょうね。「後方見聞録」の解説にも書きましたが、本当にみなさん貧乏でした。一箇の電球すら買えない生活だったのですから。
かような「なりふりを構わない」身も蓋もない話を綴ったのは他でもない。このところ山本六三の名が掲示板に二度も乗ったからです。
山本六三、私にとっては六さん。我が師にして我が友。そして私に倍する赤貧と困窮に立ち向かい、闘って来た思想家にして画家。思索の体現化というよりは思想そのものを一つのスタイルにまで昇華せしめた男。迷いや逡巡、要するに一切の躊躇いを断じて人前に出さず、誤解を懼れず、人を嘲笑し、地上を呪い続けて来た男。宝玉を拾い歩くごとく、悪意を蒐集する韜晦家。過去知り得た唯一人のアナーキスト。
六さんと私との間に共通項があるとすれば、それは「女性の厚志に甘んじて露命を繋ぐ」との一点のみ。六さんの過激さ、矯激さを学ぶのは最大の試練でした。何故ならそれは添い従うのではなく、事も無げに勝手に学べとの厳格な条件が付されていたからです。精神そのものに対する禁欲を六さんは私の体躯に刻み込みました。修道僧のような生活の中で、詰めてはならない人と人との距離、要するに存在することの失意と絶望を彼は私に身をもって教えたのです。
その六さんが危篤だとか、六さんが逝った時は必ず教えてください。私が彼を送る場所は地上に一箇所しかありません。それは北海道の美国の西端、かつて吉田一穂が佇んで海を眺めたという断崖絶壁。虚無に捧げる供物にと、名もない一輪の雑草を海に流しましょう。
ムーンさんへ
14行目の「懐石料理で賞を頂いた料理人の食生活ではなったなあ」は「懐石料理で賞を頂いた料理人の食生活ではなかったなあ」の間違い。時間がなく、また活字ではないので、推敲はせず、書き殴っています。お許しを。
名無しの権兵衛さんへ
一昨日、掲示板を見たとの客あり、「マスターは過去に興味を持たないとのこと。前向きな人なんですね」と言われました。お客さんが一人減ることになるのですが、邪推は許せません。
人は過去を曳きずって生きているので、その過去に興味はない、詮索するのは嫌だし、詮索されるのも嫌だとの意思表示をしたまでです。
で、明日ですが、過去以上に興味はありません。人は明日のために生きるのではないからです。一刻、一刻、人は歳を経て行きます。今日が一番若いのであって、明日はまた一日歳を喰うのです。そんな明日など、私にとっては呪われてあれなのですよ。本日、今日、現在、たった今のためにのみ人は生きています。ラジカルであらねばならないとする根拠はその一点にのみ存在します。明日を信じるほど、私は能天気な人間ではないのです。月賦やローンを拒否するのも、同じ理由です。どこのどなたか存じませんが、世の中あなたのような浅薄な人間ばかりではないのです。
大変ご無沙汰いたしております。明石の田村ペアです。
まっちゃんに「ですぺら」の掲示板のことを教えてもらいました。
懐かしさのあまり、ちょっとだけお邪魔します。
まっちゃんとは「きし」さんで再会し、時々お目にかかっては「ですぺら」での
思い出ばなしに花が咲いていました。そんなまっちゃんも関東へ行ってしまい寂
しい限りです。
ところで私たち2人は、と言えば相も変わらず、健康的に海や山で遊び、夜は
気ままに飲み食べしゃべり・・最近の彼の口癖は「休肝日つくろ」ですが、
飲みながら言ってるので、真実味が全くなく聞き流しています。
強がり言っても無理の利かないお年頃、お互い健康にはくれぐれもご注意を!
チャンスがあれば是非2人で「ですぺら」に行きたいです。
シングルモルト飲ませて下さい。では、また。
どひゃーと、雷に打たれたような。
日頃金が無い金が無いとわめいているパラサイトフリーランサーなのですが、私の場合は金が無くなるのは稼いだ分きっちりさっぱり使ってしまうからなんですけど、うーん、どうやったら貯まるのだろうかとずっと疑問だったんですが。
ここ、最近は華麗なジャムとパンチをラム飲みながら呑気に眺めさせてもらったんですけど、いきなり凄い話題が。てゆうか核心にどーんときたというか。
なりふり構わずという方針は同じでも方向性が全然逆だったということかなぁ?とか。
なりふり構わず貯金に励め!という事が自分出来るわけもないので、かといって前述の赤貧みたいなことは絶対逆立ちしても出来ないと思うし、なんていうか、きっと一生貧乏で決定だなと思った次第です。稼いで使って全然残らないとほほ、で終わりだなーとか。
どっちにしろトコトンやってみたら格好いいだろうけど、どっちに行くにも相当覚悟して気合いいれないと出来無さそうと思うのですが、あのような赤貧に耐えられたのは何故だろうかとちょっと考えてはみたいと思います。
わけわかんないと思いますけど、ありがとうございましたー。
白衣のくまさんへ
お懐かしゅうございます。お元気そうでなによりです。明石では本当にいろいろとお世話になりました。一考が病院から抜け出る手配をして下さったり、亀(焼酎)を一甕飲み干して頂いたり。
最近は、さすがのポルシェ(気分だけ)も16万キロを越えてボディはガタガタになってきましたが、エンジンのみ絶好調です。荒川を渡る橋の上で度々白バイに追いかけられ、警察官と口喧嘩をしております。でも今年目出度く一考もゴールド免許になり、見せびらかしています。
こちらに来てからはまだ一度も花見宴会していませんし、キャンプにも行けず、ヒステリー気味です。毎週のようにキャンプ場を梯子してましたのに。東京では深呼吸できる景色の良いところはありませんが、関東方面の山に挑戦しようなんてときには、是非「ですぺら」に寄ってください。亀も置いていますし、シングルモルトは日々増殖しております。なんでも極めないと気のすまない性格は、相変わらずのようです。自宅には車も置けますし、来客用の別室もあります。ご遠慮なく利用してください。
また明石、関西情報を教えてください。
朝子さんへ
東京へ行って丸ビルと東京タワーを買いましょうとの一考の言葉を信じてついて来たのですが、それは真っ赤な嘘でした。こんなにひどい貧乏人とは思ってもいなかったのです。東京へ来てからパンツ一枚買えません。ある日、ティーバックのいいのが欲しいなあと言ったところ、自分の中古のパンツを鋏で切り裂いてティーバックを作るのですから、冗談では済まされません。
私は騙されたのです。家賃が払えなくなって、どうするのと聞きますと「君には貯金はないの」ですって。朝子さん、くれぐれも男にはご注意あそばせ。
ご無沙汰しております、松友です。明石では大変お世話になりました。
関西を発って一月もたっておりませんのに、
遥か以前のことに感じてしまうのは不思議なものです。
以前にもまして、先輩お二方はパワフルに遊んでいらっしゃるのですね、
さすがです。
ただ、お約束しておりましたのに、くまさま、田村さまと
ご一緒できなかったのが残念です。
明石で、関東で、あるいは何処かで、是非またご一緒させてください。
まずは取り急ぎご挨拶まで。
そそ、同じメールで失礼致します。
梅子さま、白い単車とバトル(?)とはアグレッシブでいらっしゃいますね。
お店で拝見している印象とは全く異なる意外な一面かと。
一考さんの免許がゴールド成ったのはおめでとうございます。
でも梅子さまの免許は?
ちょっと心配です、お気をつけになって下さいませ。
しばし、お休みを頂戴しておりました m(_ _)m
梅子様ったら。
丸ビルと東京タワーですし、そもそも(にっこり)
あの一瞬天使が通り抜ける瞬間がきたんでしょうね「ま、いっかー・・」
とつい流されるというかなんというか・・・
えらんじまったんですから、腹くくって頑張ってくださいまし。
ってこういう台詞は野郎には一生わかんないだろーなーとか。
あたしだってわかったようなつもりで言ってるだけだけが。
まぁでも、幾ら自分で決めてそうした結果なんだから!と頭では解って
いてもですよ?「こいつ、火ぃつけたろか?」と思ってライター手に、
咄嗟に・・・て時も、無いとは思わないので、どうかキヲツケテ。
>自分の中古のパンツを鋏で切り裂いてティーバックを作るのですから、冗談では済まされません。
それはオートクチュール製Tバックではないですか。
ISSEYならぬIKKOUブランドの限定Tバックと云う訳です、しかも紙魚模様、おっとまた間違った、染み模様と薫香つきと云う一考さんコダワリの贅沢貧乏な一品です、感謝して履くべきでしょうね。
足穂「弥勒」を読んで頑張ります。
松友さんへ
明石ではで田村さんとは何時も車の話をしていたように思います。懐かしいですね。先日、20年前のボルボのアイドリングを調整しました。代理店で断られたとの話でした。たしかにアクセル・ワイヤーは複雑な取り回しだったのですが、ストッパーは定位置にあり、車の構造が分かっている人なら簡単な作業です。今時の整備士はマニュアルがない車だと何も出来ないようです。
このところ、古い車をぽちぽち調整しています。オルタネーターのダイオードの欠損、キャブのメイン・ジェットの数値がバラバラ、デストロビューターのタイミングが遅すぎる等、たわいない故障ばかりです。レガシーのシングル・ターボ(現行のレガシーはツイン・ターボ)車はインタークーラーの横に冷却用の煙突があるのですが、それが詰まるというとんでもない問題点を発見しました。BMWのバイクに乗っているので、よく分かっているのですが、水平対向エンジンのオイル洩れは激しいものです。それとあの車のタイミング・ベルトは長過ぎますよ。次回はインプレッサにでも乗ろうかなと思っていたのですが、その気がなくなりました。
ZもGTRも大排気量になってしまいました。やはり、トヨタの1Jか2JもしくはBMWの2.5リッターの直6ですかねえ。
先日、インテグラRの暴やん仕様とセルシオのツイン・ターボのノーマル車と競争しました。ホンダ車は問題外、セルシオはゼロ発進で僅かに負けますが、ターボが入ればこちらのもの。ブースト・コントローラーの威力を改めて知りました。
荒川を渡る橋の上の話ですが、あそこは県境のため、捕まらないのです。私も50キロ制限を130キロで走っていて白い単車に追っかけられました。スピーカーで「そこのボケ、止まれ」と怒鳴られました。叱られるだけと分かっていたのですが、今にも殴りかからんばかりの勢いで、随分謝りました。思うにあのポリさんは関西の出身者だったのかなあ。
免許証は二人共ゴールドですよ。なにしろ、優良ならぬ、要領ドライバーですから。それにしても、最近の彼女は飛ばし過ぎです。
白衣のくまさんへ
いろいろお世話になりっぱなしで恐縮。
それにしても腎臓にバイパスを拵えるのは痛かった。途中までモニターをみてたのですが、それどころでなくなっちゃいました。痛みにはかなり強いつもりで、脱臼や単純骨折なら脚であれ手であれ、自分で修理するのですが、内蔵はそうはいきません。でも、何度も入院したお陰で、ますますアイラ・モルトが好きになりました。消毒液の慢性中毒患者になったようです。
石割りだけでなく、上京後は体の不都合が吹き出しました。それも臍から下ばかり。やはり(無理の利かないお年頃)なんですかねえ。
最後になった人丸神社の花見の宴は忘れません。あの時、貴女に胸を押しつけられて、あれよかったなあ。だって、大きいんだもの。しかも尖ってんのね、貴女のオッパイは。東京へいらっしゃる機会があれば、オッパイではなく、腰を据えて酒を飲みましょう。店の営業日はカレンダー通りですから、休日をはさんでなら貸し切りでゆっくり飲めますね。正月でもいかがですか、田村さんのホンダ車で。
貴女をほったらかして、田村さんとは決まって車の話ばかりでしたね。チェーサーのスターター・モーターの磁石の接点が摩耗したものですから、田村さんから頂戴したクラウンのそれと取り替えて使っています。よろしくお伝え下さい。
つちのこ編集者こと 一考様
田村様とはやはり車の話をなさっていたのでしたか。時折盛り上がって店内遥かに聞こえる内容、
専門的なお話で、さすがだなぁ~と感じていたものです。
今の車はまずはテスターなどでエレキから調べると伺いました。機械式が主だと、対応方法、
いやさ原因も掴みにくいのかもしれないですね。
レガシーの煙突の持病は初耳です。ご存知の通り紅毛の悍馬の親の方(V12)は、実は180°バンクの
V型で、外観上水平対抗エンジンと近似なのですが、こちらもご指摘の通りオイル漏れと
長いタイミング・ベルトが要注意点、先輩方は結構気を使っていらっしゃるそうです。
交通整理時の言葉といえば、以前、(諸用で)高速湾岸系の車が集う某道PAを訪れた時、
台数が多すぎて溢れ出し渋滞していた事がありました。と、パンダさんの如き色をした車が現れ、
大声で場所を開けるよう指導。今にして思うと関西の言葉であったような。こういう事は
何処も同じなのでしょうか、不思議です。
以前ご指南を頂戴致しました「癒しの文学」。え~と、第一回配本は「ロリコン」。
確かに高齢化の時代にロリコンは大きなテーマです。加えて直接的合体を最終目標としない(-_-;、
でも身体を主要な媒体として得られる交流について追求するのであれば、結構ジャンルが広がりそうに
感じました。しばし考える時間を下さい~そういっている内にしわぶきにならないようにしませんと。
さて、この間、ようやく映画「宮廷料理人ヴァテール」を観ました。
が、その後、主人公ヴァテールは「華やかな食物誌」に於いて言及されていると伺いました。
~しくしく~拝読してから観ればよかったです。物語を先に知ってしまうと映画の楽しみが
半減すると思いこれまで避けてきましたが、ある程度の前知識があった方が楽しめる事を再認、
ちょっと失敗でした。でももっと料理が映っていて欲しかったです。
以上取り留めの無いお話まで。
一考さまへ
いや~オッパイを誉められ?嬉し恥ずかし・・
裸体を想像されたみたいで、やっぱり恥ずかしいかも。
脱いだらもっとスゴイ!!と言いたいけど、それは「彼のみぞ知る」です。うふっ
でも、もっと凄いのはあいちゃんのオッパイだと思います!
あー懐かしい・・彼女も元気でしょうか。NO1はあいちゃんです。
(昼間から、熱く語ることでもないけど・・)
彼の愛車は、昨年の夏に自宅事務所の前に駐車していてクラッシュされ廃車に・・
今は、二代目プレリュードです。よほど愛着があった様で、初代と同じ型式の奴を
(グレードはちょっと上らしい)探し出し美しく乗っています。
高速道路では、水を得た魚のように疾走し・・スピード好きが多いんですね
このお年頃は。
お体、気をつけて下さいよ。
脱臼、骨折は自分で治さず病院へ!
ちなみに、現在は整形外科の病棟で勤めております。
チャンスがあれば?手厚い看護を施して差し上げます!
ひろさんへ
ADSLについて、NTTは済みましたが、ソニー側がルーターを不承認。如何ともしがたく。御連絡乞う。
おしらせ係奥歯です。
来る11月12日(月)、種村季弘『偽書作家列伝』(学研M文庫)発売前夜祭として、サイン会が行われます。
サイン会自体おそらくもう二度とないと思われますのでこれは貴重な機会です。
種村さんの他の本にも、時間の余裕があればサインしていただけます。
みなさまどうぞいらっしゃいませ。
『偽書作家列伝』発売前夜祭
場所:ですぺら
時間:18:00~21:00
会費:3000円(サイン本付・飲み放題)
ムーンさんへ
既にご存じでしょうが、山本六三さんが6日午後2時に逝去なさいました。死因は食道癌。通夜は7日、御影教会にて、葬儀は8日のようです。山本さんの版画に出てくるような教会です。私の代わりにご出席頂けますまいか、話だけでもお聞かせ頂けれぼと願うのですが。
皆さんへ
訂正でございます。
お知らせ係の奥歯さん、ちがうってば~~(関西弁では、ちゃうやんか)
時間は18時から20時です。
20時以降は通常の営業とさせていただきますので、よろしく。
薫子さんごめんなさい。間違ってしまいました。
来る11月12日(月)、種村季弘『偽書作家列伝』(学研M文庫)発売前夜祭として、サイン会が行われます。
サイン会自体おそらくもう二度とないと思われますのでこれは貴重な機会です。
種村さんの他の本にも、時間の余裕があればサインしていただけます。
みなさまどうぞいらっしゃいませ。
『偽書作家列伝』発売前夜祭
場所:ですぺら
時間:18:00~20:00
会費:3000円(サイン本付・飲み放題)
一考さんへ
ニシキタさんから深夜に連絡を頂きました。六三さんの、透き通る程白く細長い指が、胸元に優しく合わさっている姿が目に浮かびました。奇跡的に意識が戻り退院されるそうだと、先日貴兄に連絡させていただいたばかりでしたのに、残念です。ご依頼の件ですが、ここ数日は仕事が立て込んでおりまして残念ながら出席できそうにありません、申し訳ないです。
「種村季弘のウェブ・ラビリントス」管理人です。
サイン会の情報を転載させていただいてもよろしいでしょうか?
かおる子さま 先ほどは酔っ払いの言いつのり、たいへん失礼いたしました。
かおる子さまと他人とは思えぬタレントの湯原嬢、サイトのアドレスは以下の
通りです。他人と思えぬと考えるのは私だけの思い込みでしょうか。
http://www.rey-s-in.co.jp/artists/yuhara_marie/
やっきさんへ
種村季弘さんのサイン会の情報をぜひ転載して下さい。どうかよろしくお願いします。
このところ、当方のパソコンはトラブル続きで通信の状態がおもわしくありません。ご返事が遅くなり申し訳ございません。
山本六三氏が亡くなったことを、女友達に知らせたところ、彼女、とんでもない声をあげて、絶句しました。この前、新幹線で大阪まで行って「死の舞踏」(間違ってたらごめんなさい)を買ったそうです。多分、最期のサインがあるもの。きのうかな、彼女は山本氏にファンレターを投函したそうです。山本六三氏のご冥福をお祈りします。
一考さんへ
昼時、中央郵便局での用事を済ませた帰りに、久しぶりに元町をぶらぶらと歩きました。黒木の前を通りかかると、シャッターが降りていたので今日は定休日なのかと思いましたが、ふと何気なく見上げると、何と看板まで外されているではないですか。張り紙も何もなかったので推測でしかないのですが、この御時世ですから、多分廃業されたのでしょうね。店主も随分とお歳を召されていたので、病気で臥されているのではないかと少々気掛かりではありますが。
渡辺一考さんにいろいろお教えを頂いている高遠弘美と申します。 初めて「書き込み」なるものをいたします。 実は先日、「掲示板」で渡辺さんが採り上げてくださった拙著『乳いろの花の庭から』(ふらんす堂刊。1998。中村真一郎序文)ですが、ついさきほど版元から連絡があり、税務署の調査が19日にはいるので、売れない本のひとつとしてほとんどの在庫を断裁するという決定に至ったようです。本の世界では日常的なことだとは思いますが、やはり辛いものを感じます。もし、奇特にもお需めくださるという方がいらしたら、ご一報くださると幸いです。掲示板をお借りして、私的なことを連ねました。お赦しください。
戸田の梅子さんの訪(おとな)いあり。ついてはですぺらに集う酒客への一助として渡辺一考との付き合いの極意(心構え)について些かの注釈を試みられよとの由。常々、あの厚顔無恥でしたり顔の一考氏の化けの皮をはいでやろうと・・・いやいや元薄幸の美少年、福原のアイドル渡辺一考氏のために一肌脱ぐかと、何の責任も(本当はやる気も)なけれどお引き受けした。一考氏の逆鱗にふれぬ(る)ことを願う。
そもそも渡辺一考とは何か。伝説の流れ編集者? 南柯かぽあんかれーらいす書局の主人? 赤坂のショットバーのハーテンにしてパーテン? 自転車作りのプロ? モツの煮込みから懐石まで何でもござれの料理人? 稀少本とビデオテープの蒐集家? ジャスコで買った2000円の皮ジャンを身に纏いさっそうと走るライダー? 金魚マニア? 喧嘩マニア? 書き込みマニア? ただの変態(これが一番ただしいかも)。まさにヴィアンも真っ青の百面相振りだが、一言で言えば、この人ただのペテン師である。大法螺ふきで無責任、その場限りのやけっぱち、どう転ぶかは気分任せの捨て鉢人生。いやいやこれは誉めすぎ、ただの口先三寸、3センチ5ミリの肉塊ならぬ魂を持つ男なのである。
一考氏、一度口を開けば他人から聞いた話は自分の体験談となり、数字の二桁三桁の水増しはあたりまえ。トイレの造花はたちまち百宝の花を咲かせ、路地の水溜まりはカスピ海を越えるほどの・・・とまあ、どこまで果てしなく大風呂敷が拡げられていくのかと、側で聞いているだけでクラクラと眩暈がするばかりである。そこの御一考様じゃなかった、御一統様早く目を覚ましなさい。
さらに詳しく言えば、一考氏、他人なんぞはどうでもよくて自分にまつわる面白話や下ネタをまくし立て、その話に酔いしれているのが楽しくてしょうがない人。ゆめゆめ、一考氏を信じることなかれ、裏切られる事を前提にしなければ、到底付き合うことの出来そうもない浅ましくかつ卑しい人品骨柄の持ち主なのである。さらにさらに言えば誠意、義理、情を三歩、歩いて忘れてしまうのが渡辺一考なのだから。人を貶す時の一考氏の口癖は「ゴミ、塵、あくた」であるが、要するに僕が何を言いたいかと言うと(これも口癖)、倫理観や社会的通念(そんなものがあるとすれば)から見れば、まさに一考氏こそが真性の「ゴミ、塵、あくた」なのである。一考氏は色街が産み落とした宛先のない小包、残飯にして夾雑物、うんこのようなものなのである。
しかしそれは至極当然のこと。なぜなら一考氏とてわが同朋、地上なんぞは仮の宿でしかないのだ。要するに現実と一考氏を結び付けているもの、それは「書くという行為」に他ならないのである。そう、このデタラメ一考氏、書かれた言葉の世界に対しては自他に関係なく、とても真摯なのである。(三日で消えるようなやつじゃなくて、キラキラしてないと駄目だけどね)その一点がなければ、一考氏の首はとっくの昔に空中の縄の輪を間違いなく通過しているのだ。現実なんてつまらない、あの鈍感な奴の首を目をつぶってチョンと飛ばしている方がよっぽど面白いのではないか・・・。そういえば先日、松山俊太郎も三人殺したって言ってたっけ。ねえ、一考さん堅気の人相手にそんな息巻いてもしょうがないよ。言って解らない奴は目をつぶってチョンでいいじゃないですか。(夷斎曰く、人間の最大の罪は鈍感の罪だからね)
さっきから僕が何を言いたいかというと、一考氏の話なんかに耳を貸さないで何でもいいからまずは一考氏の書いたものを読んでみなさいということである。「玲瓏たる虚無---ドラコニア紀行」「鏡花本の世界」「黄金のシャワー」もとい「黄金の日々」を。例えば「黄金の日々」311頁と312頁、特に311頁の最後の行から312頁8行目(が、もう抜群)を読め。そこには私の知っている加藤郁乎や種村季弘や・・・切ないまでの(存在を否定した上に屹立する、いまひとつの存在)、スッとした美しい後姿(立ち姿)が見えるではないか。これぞ文学(いい文章、いい俳句は勃起してなきゃ)。もう一度言う、これぞ文学。言葉の織りなす吸引力でどこか見た事もない、行ったこともない所へと誘ってくれる。文体とは精神の運動、即ち思想であり、肉声であり書き手の体臭に他ならない。内容なんて洒落臭いものはそこらに置いといて、そこに香り立つ詩を楽しめばよいではないか。(そう、渡辺一考の長所、それは文章がいい、それだけ)
要するに僕が何を言いたいかというと、一考氏の書いた文章の中に一考氏を探せばよいのである。スプリングバンクやラガヴーリンのように華麗な文章。こんな紙面上の人格は認めざる(全面的に降参)を得ないのである。そうすればあの酒焼けしたニタニタ顔ではなく、初々しくはにかんだ不良少年、まさに福原のアイドルの顔が見えるはずなのだから。もう一考ちゃんステキ!(分かるひとには三分で見つけられるだろうが、分からない人には一生分からないと思うけどね)。そうでないとカウンターをはさんで目の前にいる一考氏は口先三寸、種村季弘流にいえば「渡辺一考から七、八人の人間がぞろぞろと逃げ出して、ひょっとするといまそこらへんが渡辺一考だらけになってしまうような」とデタラメばかりで溢れて、もうそこには一考氏の実体は存在しないのだから・・・。
もしや渡辺一考って存在するのに存在しない、えっ、それってビンラディン。いやいや存在しないのに存在している(地上は仮の宿だからね)、えっ、それってもしかしてつちのこ。そう、渡辺一考とは自称するように「つちのこ」である。
そして頭にかえって渡辺一考と付き合う心構えとは・・・君たち、「つちのこ」相手にどこまで本気になれるかという事だよ。
ムーンさんへ
このところ悲しい話が続きますね。神戸も大阪も京都の街も、なべて未練や思い入れはないのですが、幼少期を過ごしたのは事実です。20歳を経てからの上方には憎悪しかなく、栖を流転しましたのも、その憎悪即ち自らの悔恨から逃れたい一心だったのかも知れません。若くして故郷を喪った者に安住の地などあろう筈もなく、またかかる地で心を許せる友を求めるなど烏滸の沙汰で御座いました。いや、こんなことを書けば貴方や山本六三さんには礼を逸することになります。確かに佳き友を得ました。でも、友を得たら得たで、それは新たな拒否を、更なる拒絶の芽を自らの中に生み出すだけなのです。落ち行く先で未知な友を拵えたところで、同じ消息の繰り返しとなります。
いかように託けようとも、人に存在理由はありません。ならば、友も同様にして、「私は友であった」と著した瞬間に、友は指の間から砂粒のように零れ落ちて行きます。「友であった」かどうか、逝った他者の真意を推し量るなど、欺瞞以外のなにものでもなく、もし仮に友たりえたとしても、相方の死と共にすべてのかかわりは消滅します。さればこそ、友の存在を退けるのが本音なら、友の死を悲しむのは建前ということになりましょうか。自らに対する偽善を厭うなら、暫時友は切り捨てて行くのが自らへの、ひいてはその友への唯一のはなむけであり餞別になりましょう。人の死の悲しみと生きることの哀しみ、この両端を結ぶ橋は存在しません。かつての友というよりは戦友の死を前にして、悲嘆に暮れるなど我が儘な振る舞いは許されるべきではないのです。彼が歩んだ思索者としての言動をいかに解釈し、いかに読み換えるか。山本六三さんに対して私に出来る供養と申せば、それを除いて他にはありますまい。
ちょっと切り口を換えてみます。「いかように託けようとも、人に存在理由はありません」と著しました。確かに人としての個体には生きる理由も生き延びる理由もなにもないのです。でも、それら余りにも茫漠とした風景に人の心は堪えかねます。そこで編み出されたのが、世のしがらみです。しがらみとは柵(さく)であり、渡しであり、堰なのです。要は流動する心を塞き止めるためのノーハウということになります。謀と言って拙(まず)ければ方策で結構です。その方策の中に人は胡座をかき、かかわりの中に存在理由を見つけ出そうとするのです。即ち人から必要とされる存在であるとの誤謬を自らに刷り込むために。また、存在理由により確とした信憑性を持たせるために、しがらみは時と共に複雑化され、更に錯綜したものになって行きます。しがらみの最たるものが家族であり、仕事であり、友であり、金品なのでしょう。
さて、しがらみの対極に個があります。個が個であることの証明はひとつ、それは才能と権威の拒否です。才能とは実績に他なりません。さればこそ、実績を積めば権威が生じます。いわゆるその道のプロというやつです。プロに成り果せるのは容易ですが、それを拒むのは然るべき意志力が必要です。何故なら、飯の種を自ら投げ出すことになるからです。山本六三さんは人生の後半、全力を傾注してやまなかった一群のタブローを一枚として売却しませんでした。氏の本意が孰れにあろうとも、六三さんが個に拘泥し続けたのは事実です。志をもたない山本六三さんに同志やともがらは必要なく、人を愛する能力が欠落した氏に連れ添いや伴侶は本来不似合いだったのです。また、特定の趣味を持たない氏に常に親しく交わる仲間の要もなく、定めのない氏の生き方に従者や道づれなど生じよう危惧すらない筈だったのです。そこのところを何時の日か綴らねばなりますまい。
先頃、高柳重信さんの若書きに「戸田橋へ乾反葉走る切通」との句があるのを知りました。故郷の風景ををかくまで冷淡かつ冷酷に描いた句があったでしょうか。一切の帰属を切り捨て続けた高柳さんの壮絶なまでの覚悟、苛烈なまでの現体験が過不足なく著されています。この句に登場するのは風を身にまとった虚無のみ。いや虚無を携えた風でしょうか。切通しの彼方にも此方にも趣はおろか、情念のひとかけらすら存在しません。重信さんの句を引用したのは他でもない、高柳重信の名を15歳の私に教えた人の名は山本六三。彼もまたマントの中に虚無をひそめて、さりげなく現れ、にこやかな微笑みを残して去って行ったのです。
タイトルの「友の氏に思う」は「友の死に思う」の間違いです。周章てています。いや、狼狽えているのかも。申し訳ない。
フーリエの使者さんへ
弔意忝なく存じます。「死の舞踏」を買われたお方にもよしなにお伝え下さい。
毎週、木曜日に須永朝彦さんがですぺらへ来店なさいますが、先週も山本六三さんと郡司正勝さんの話に終始致しました。何時か二人で山本六三さんについて著しましょうということになりました。私自身、六三さんの取り巻きとのお付き合いはうまくいかず、告別式にも参列かないませんでした。残念なことです。
高遠さんへ
初めての書き込みとは驚きました。「乳いろの花の庭から」は残念なことです。私の一押しの随筆集です。掲示板を読まれた方は是非購入をお急ぎ下さい。買って損は致しません。
15編のエッセイが含まれています。タイトルにも用いられた1部の「乳いろの花の庭から」は、詩歌を中心に日本文学にあらわれた乳房のアンソロジー。博覧強記の氏ならではの逸品です。2部には櫻井さんのホームページにもかかわりのある久生十蘭、ロミ、小津安二郎などにかんするエッセイ。3部はプルーストに纏わるエッセイが収められています。
「高遠弘美氏は自然と人工のあらゆる物に、美を発見するために生きている、現代における希有の奇人である」とは中村真一郎さんが寄せられた序文の書き出しです。
一考さんへ
拝読いたしました。
小生は、複雑且つ錯綜した柵(しがらみ)に多少翻弄されようがされまいが適当に楽しんでいる輩です。貴兄の様に自らを「孤絶」すると云う在り方は、実に素敵ですが、壮絶すぎて性に合わない軟弱者であります。それに、貴兄の単なるファンの一人ですから六三さんのお名前に連なるなど、それこそ烏滸の沙汰で御座いまして、流石にストーカー行為は慎んでおりますが、「もう一考ちゃんステキ!」てな具合ですからね。しかし実に上手く表現されていて感心した石川 潤氏の「取扱説明書」、貴兄の大風呂敷も口癖も、「ただの変態」も「3センチ5ミリの肉塊ならぬ魂」も、「色街が産み落とした宛先のない小包、残飯にして夾雑物」は勿論の事、「うんこのような」存在も、小生は好きです。つまりは、勃起不全を治すにはスカトロへ向かわなければ駄目だと云う事になりますかしらん。
山本六三さんについての記述が、下記掲示板にて多く見受けられます。興味ある方はどうぞ。
http://www.tcup5.com/525/takeshi.html
石川潤さんへ
「文字を書きつつ恥をかき、汗をかきつつマスをかき、金欠き礼欠き節操欠き、かくして今はですぺら店主。いっこうに懲りない一考さん」とはかつて荻窪にいらした永瀬由利子さんの弁。由利ちゃんよ、「ですぺら店主」とは「でたらめ店主」の誤植ではないのかい。
かようなメールを頂戴したあくる日には「一考取扱説明書」なる珍文書が掲示板に載る始末。私も大物になりましたなあ。それにしても、文の始まり位はオリジナルであって欲しいもの。あの書き出しはどこやらの大先生の文章の盗用ではござんせんか。落ちの巧さと比してバランスが取れてませんよ。「厚顔無恥でしたり顔の一考」は結構、かかる賛辞に私は弱いのです。先般もある女性編集者より「マッチョな男」との連打を受けました。相手方は非難のつもりだったのでしょうが、筋肉労働者の私としては栄光の糞づまり、単なるインテリではなく、些かでもインテリヤクザを髣髴させるではないですか。実は内心は嬉しかったのです。そこまで考慮してのマッチョならば、私は彼女にますます頭が上がらなくなるのですが。
文中、たって数行のお褒めに与りしは幸甚。以下、文章を著すに際しての質と量の問題について一言。骨法についてはムーンさん宛の書込で触れましたので、重複は避けます。
いつぞや、「一行以上三枚位」との原稿依頼が御座いました。どなた様であれ、言いたいことはほんの数行、他はその数行に至るための伏線、ないしは盛り上げるための前菜のようなもの、と私は心得ます。従って、当意即妙の依頼かと思われましたが、結果は惨憺たるものであったと聞き及びます。
エッセイにあって肝要なのは、あなたも仰るとおり「きらきらした部分が含まれているかどうか」です。前菜であるべき部分が前菜としての体をなさない、即ち結句の輝きを盛り上げる役を務めていない場合。言い換えれば、本来、前菜であるべき部分が知識のオンパレードに終始し、「きらきらした部分」との間になんら脈絡が見受けられない場合。そんな時は、いっそ結句の一行、二行だけの方が救われます。ところがほとんどの物書きは売文の明け暮れに精を出し、それこそ「社会的通念」の中にどっぷり浸って行くのです。著されるであろう中味は自らの記憶の襞にのみ在します。故に、引用に必要とされる最小限の書冊があれば十分なのです。ノン・フィクション作家は異なるカテゴリーに属しますので除外しますが、文章を著すに際して不必要に多量の書物を繙き、資料を漁り、取材を繰り返すような文章に私は些かの未練も興味も抱きません。何故なら、それは自らの体臭を希薄に、そして喪わせる結果にしかならないのですから。
商売柄、書物蒐集家や愛書家と称する人々とのお付き合いが御座います。元本における函、カバー、帯の有無並びに美醜に口角沫を飛ばしております。それと何処のラーメンが、ケーキが、干物が旨いか不味いかとの話の間に質的な差違が在るのでしょうか。私は愛書家を否定しているのではないのです。個人の持つ価値もしくはその判断としての価値観は認めます。ただ、愛好会(そのようなグループに限って少数者意識、選民意識を持つ)と称するような集団の持つ価値評価の判断は御免被りたいのです。さらに申せば、様々な価値観は並列にしか存在しないと言うことです。旨いウィスキー、旨いラーメン、旨い干物は存在するでしょうが、ラーメンと干物、どちらが美味かとの質問は意味を成しません。いずれにせよ、等し並に単なる知識じゃないですか。箇々の人が持つ「染み模様と薫香」の話ならいざ知らず、井戸端会議に興味が尽きないなんて、益体なしを通り越して慇懃無礼です。喋る側も訊く側も俗物ですよ。
私は通過し損ねましたが、多くの友の首が「空中の縄の輪を間違いなく通過」しました。先日も一人の思索者を喪ったばかりです。これからは愚鈍な輩の首を「目をつぶってチョンと飛ば」す覚悟と技量が必要になりましょう。悔恨の日々は何処かで断ち切らねばなりません。御意見、身に沁みて辱く思います。
話はあらぬ方へ滑りました。問題は質と量との相関関係についてでした。マルクスの大向こうを張って、貴方好みの結論を申し添えます。「文章の長短は、結句としてもたらされる一行の哀しみの深さに比例するものでなければならない」と。
ムーンさんへ
西北八島さんをご存じなかったのですね。昔からのお付き合いで、32歳の頃、明石へ引っ越しする際に随分とお世話になった方です。ここでは憚りますが、京都の大先生との悶着の後は神戸の友人はめっきり減りました。今では貴方だけなのかも、逆に京都の友人は増えました。孰れにせよ、私を東京へ向かわせたという点で、幸いな事件だったのですが。
石川潤さんは西明石時代に知り合った、若い友人です。物書きではないのですが、読解力に非凡なものがあります。「内容なんて洒落臭いものはそこらに置いといて」には私もドキッとさせられました。今度東京へいらっしゃる時に紹介致しましょう。
もっか、掲示板を利用して頭の中を整理しています。次の仕事の必要に迫られてのことです。ウィスキーの本を済ませて取り掛かる予定です。店が暇なため、編輯が捗ります。様々な書物が順次出版されます。乞う御期待。
訂正します。山本六三兄が死去されたのは、11月6日午前2時5分、神戸市西区医療センターにおいて。私が山本芳樹氏を通じて神戸新聞社に連絡したのですが、文化部の糸野氏が念のために遺族に確認を取って、訂正されました。この時点で喪主が亜里さんから佐保子さんに変更。一考さんには7日の夕刊をコピーして送ります。記事中、日本キリスト教会とあるのは日本基督教団の間違い、大混乱の中の電話連絡ですから仕方がありません。
良書から先に断裁されて行くのですね。恥ずかしながら私は貴書の存在すら知りませんでした。投稿によって今頃知ったのが残念です。早速、ふらんす堂のHPから二部注文しました。他の方法だと断裁日に間に合いそうもないので。
Campagnolo様、渡辺一考様。
勝手な書き込みにすぐに温かいお返事を頂き、本当に忝なく存じます。売れない本であれば、断裁は必定。在庫の本に税金がかかるこの国の税制とあらばやむなしとは思っておりましたものの、突然の報にいささか周章狼狽。見苦しいところをお見せしました。須永さんの「なりふりかまふ」というお言葉。いまさらに噛みしめております。
いまはこれのみ書き留めて、感謝の思いを申し上げたく。
フラフラのおかっぱ女子学生、ムラチカです。
無事、自宅に辿り着きました。
種村先生にお会いするのは勿論、バーという空間に足を踏み入れるのも初めてだった為、大混乱。
右も左も判らぬまま遂には沈没してしまいました。お恥ずかしい……
ゆきちさんをはじめ、BEEさん、やっきさん、お邪魔ビンラディンさん、
それからお店の美人さん(お名前聞き忘れてしまいました)、そのほかの皆様、
ご迷惑おかけしたにもかかわらず本当に親切にしていただきました。
感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
◆一考さま
帰り際にお話できて本当によかったです。
なんだか慰められました。
筵のうえで280歳、最高に素敵です。
図々しくもまたお店にうかがうことがありましたら、是非お話お聞かせください。
それでは失礼します。
ムラチカさんへ
肩の力を抜きましょう。試験の時も、面接の時も、逢い引きの時も、いつ、なんどき、例えいかなる状況にあろうとも、肩の力を抜いて生きましょう。肩に力が入っていると、非常事態に対処出来なくなります。
ちゃらんぽらんに生きるのはよくないことですが、心根だけは常にちゃらんぽらんを装っていないと自らが傷つきます。
愚鈍な人に傷つけられれば傷つけられるほど、自らも愚鈍になって行きます。それに対応するに「ちゃらんぽらん」はすこぶる有効な手立てです。
貴女はステキな娘さんです。精神の初まりを、純粋さを忘れないために「ちゃらんぽらん」を装って生きて下さい。またお会い出来るのを楽しみにしています。
カンパさんへ
わざわざのご報告ありがとうございます。コピーを鶴首。
campagnoloとのハンドルネームに些か嫉妬と羨望を抱きつつも、過ぎ去りし日々が懐かしく思い起こされます。
戸田から赤坂まではたかだか片道22キロです。一昔前なら苦もなく自転車で疾駆できた距離なのです。休むことなく日々60キロを走っていた頃もあったのですから。でも、近頃は酒量が増えました。ただ量が増しただけではなく、酔いが深くなりました。記憶がなくなることも繁くなりました。その度に須永朝彦さんや石川潤さんから叱られております。体力の減衰と比例して、アルコール依存症は進捗して行きます。他に地上を肯う術はなく「分かっちゃいるけど止められない」ありさまです。
一考様
昨日はありがとうございました。平日ということもあり、人数は少なかったものの落ちついた楽しい会で、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。
種村先生の「大学を辞めて暇になったのでどんどん書いている」との言葉、倒れられて以来の停滞を吹き飛ばすような宣言にも聞こえ、インターネット宣伝担当としては何よりもうれしいことです。特に「ユリイカ」での連載を準備中との仰せは、不覚にも涙しそうになりました。笑われるかもしれませんが、澁澤の死後数年してようやく澁澤・種村両氏の文章に触れた私にとって、かつての「ユリイカ」は光り輝いてみえるのです。私にしてからがかように種村神話に毒されているわけで、私より若いムラチカさんが緊張のあまり倒れてしまうのも仕方のないことでしょう。「種村季弘スペシャル」の一考さんとの対談がそのあたりの毒消しの役を果たしていただけるのではないかと期待しております。
ところで、会費に含まれているサイン本とは別に知人のためにもう一冊購入させていただいたのですが、帰宅して鞄を開けてみると一冊しかありません。私はムラチカさんのように緊張していたわけではないのですが、生来の下戸にしてコップ三分の一のワインに(さもなくば下ネタに酔いしれる店主の吐息に)いささか酔っ払っていたもので、あるいは鞄に入れたつもりが床に落としていたのかもしれません。そちらで見つかりましたら、保管しておいていただけないでしょうか。もし見あたらないということであれば、もう一冊購入させて頂きたく思いますので、取り置きしておいていただけないでしょうか。
また、サイン本はまだ十数冊ほど残っていたように思いますが、それらは今後そちらで購入できるということですよね。その旨ホームページの方で宣伝させていただいてもよろしいでしょうか。
高遠様
ご著書ありがとうございました。署名をしていただいたうえ、割引価格で購入させていただきまして、逆に申し訳ないくらいです。さらには新聞連載「壺中の天を求めて」のコピーや種村先生の新聞書評までお貸しいただき、お心遣い痛み入ります。あまりお話はできませんでしたが、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
ムラチカ様
初来店にしてその存在をアピールするには絶好のパフォーマンスでしたね。あなたのような方が倒れるぶんには可愛いもので、私なぞが倒れた日にはただの粗大ゴミ、吉野家の残飯と一緒に捨てられてしまうのがオチです。これに懲りずにまた機会がありましたらぜひご参加ください。そういえば種村先生のご子息の友人で古書店を営まれている方をご存知とか。そんなおいしいネタがあるなら種村先生に言えば色々楽しい話が聞けたでしょうに。次の機会にはぜひ聞いてみてください。
Nessieのほうが良くないですか?ネス湖の妖精。ハイランドだし。
多分酔っぱらってるからずーっと水中に居ても平気なんだろう。
繁殖法の秘密に長けてそうな所も、つちのこより、本当にそこに
おる感じがするし、ネッシーのほうが似合うと思うんですけど>一孝様
先日、ネッシーのフィギュアを手に入れました。いまパソコンの上に
飾ってます。ネッシーのフィギュアって時点でおいおい!と思いますが
なにげに可愛かったりします。
おじゃましました。
11月12日 種村さんのサイン会の日に
「エレンディラ構想」というメモを置き忘れていかれた方、
ですぺらに保管しています。
ご一報下さい。
やっきさんへ
べろべろ店主を引きずって帰ろうとテーブルを片づけていたところ、
端の方に一冊ありました。誰が忘れていったのかしらん、またこれを売ろうか
などとつちのこが申しておりましたが、やっきさんのだったのですね。
こちらも気が付きませんで、すみませんでした。ちゃんと置いておきます。
サイン本については、やっきさんのホームページで宣伝して下さって結構です。
よろしくお願いします。
ムラチカさん
忘れられない一夜になったのではないでしょうか、私もお酒には弱いので
昔はよくぶっ倒れたものです。ですぺらではオープン以来一年半の間に数名の方が
床の上で休んでいかれました。あの床は横になるには具合がよいようで、
なかなか好評なんです。
それにしても「お店の美人さん」ってもしかしてあたくしのことかしら?
(如月さんかな・・・)夜目遠目ですぺらの中、昼間はお会いしないように
いたしませう。ちゃらんぽらんが服着て歩いてるような店主の話に
お付き合い頂けるのでしたら、またいらして下さい。
朝子さん
石川潤さんは、一考の体型からつちのこを連想されたのではないでしょうか。
ネッシーじゃ可愛すぎません?つちのこって、食べ過ぎて糞詰まった短小の蛇って
感じで、やっぱりぴったりでしょ。それにネッシーはネス湖にしか出現しないけど、
つちのこは日本各地にいるらしいし。つちのこのフィギュア作ってみましょうか。
饅頭茶漬けを食べにお店には一度お邪魔いたしました。サイン会にも是非
伺いたかったのですが、風邪をひき断念しました。
まだ在庫がおありとの事、購入させていただきたいのですが。
よろしくお願いいたします。
一考様・梅子様
種村先生のサイン会ではありがとうございました。
ですぺらで種村先生にお会いするのは二回目ですが、前回は遠巻きにして矢川先生とお話されてる姿を拝見してるだけでしたが(といっても、ちゃっかり一緒に写真を撮ってもらいましたけど)、今回は近くの席で話を聴くことができました。
11月で東京を引き払って、兵庫県の山奥で仙人生活をすることにしてるので、最後の東京土産として最高の夜になりました。(といって、ちゃっかりまた東京に出没するのでしょうが)
種村先生のサイン本、大切に読ませていただいてます。
ありがとうございました。
久し振りに訪れました。相変わらずの大盛況。種村さんのサイン会は今週の月曜だったのですね。私は地元の書店で予約しました。そろそろ入荷の電話が入る頃でしょうか。楽しみにして待っております。一考さんの装丁された本は美しいとのこと。早くですぺらに行って、そちらに置いてあるたくさんの本を拝見したいです。マスターのお話も楽しみです。チャージが要らないとは嬉しい限り。お酒も手頃だそうだし、何といっても料理が旨いらしいし、何だかわくわくです。ですぺらのコックさんを貸して下さい。
高遠氏のお名前は、全くの初見ですが、ネット注文しました。返信が来るまえに本が今届きました。なにせ乳房は好きなので。まだ本文は読んでおりませんが、乳房というと、志賀直哉「暗夜行路」の結末を思い出します。では。
どうも、ゆきちです。月曜はとても楽しかったです。
さて、あれから、種村先生のご本、通勤途中に読ませていただいています。非常に面白くて、離せないほどです。なかでもトマス・チャタトンの話は若年天才に弱い僕としては、とても面白く読みました。
それでは、また、機会ありましたら、ですぺらに伺わせていただきたいと思います。それから、ムラチカさん、よかったら、今度、ですぺらと隣のお店をはしごしてみましょう(笑)。
山本六三さんは、いつも時間をかけてゆっくりと署名された方ですが、「死の舞踏」の際は、衰えた体力に自ら鞭打ち、これが最後だと最後だと覚悟しながら、一枚一枚、見届けるように、丁寧に署名されました。あの作業で寿命は確実にニヶ月か三ヶ月分は短くなってしまったと思えます。「死の舞踏」未だ半分ほど残っています。僕は他の作品を六枚買いました。後日三枚買って、「六三」にする積りです。「ばかなことするんだね。何の意味があるの」と小さな声で煙草に火を付けながら、六さんが囁いている声が聞こえます。それが僕の美意識だからと答えたら、「あ、そう」と一言つぶやいて、微笑みながら後ろ向いてコーヒーをご馳走してくれそうな気がします。必要な方は、急がないとなくなりますよ。 わんたんには他のものも、まとめて一セットにして送るから、ちょっと待ってね。それから神戸のSKIN2とその系列数店は、裏の会員制の所も含めて、今はやりのソフトSM風スナックだよ、時々ぼくも遊びには行けど、こんな物置くんじゃないとか余計なことばかり僕が言うので、いつもけんかになってしまうの。蛇を置いてるからって、どうだっていうの。ただの、まがいものの店でしかないよ。だいたいコスチュームにラバーをけちってビニール使っちゃダメ。La peau!て二回言ってこないだ帰ってきた。ここで働いてた子としばらく付き合ってたんだけど、かわいいだけの普通の子だった。やっぱり新大阪か十三まで行かないとダメよ。ところで「漁火」は僕が景子と一緒に最初に連れて行ったんじゃない。エッチャンどうしたんだろう。しげチャンも死んじゃったし、一番仲良かった二丁目の「さざえ」のヨッチンも死んじゃった。 カンパの話は又ゆっくりね。
昨晩、「死の舞踏」を買った近所の女友達に電話して、このサイトを教えました。彼女は、たどり着いたので、電話をきりました。で、今朝。なあんだぁ、彼女、書き込んでいないんですね。その彼女は、某銅版画家に師事して、ビュランで銅版画を作っています。まだまだですが。
初めての個展も何とか無事に終了いたしました。 ですぺらを通して来てくださった皆さん、どうもありがとうございました。 せっかく上京するのだから、毎日のようにスモークを食べに行こう!と息巻いて いたのに、心身ともに以外にヤワで、結局1度しか行けず残念、無念。 狂牛病の会は実現したのですか?いきたかったなあ。
小さな星がひとつ消えました。小さく見えるのは距離の遠さゆえ。 俗世間からなんと遠く離れたひとだったことでしょう。この小さな喪失ゆえに 宇宙の暗黒が少し広くなったようにさえ思います。 死の舞踏を買った人へのお便りありがとうございます。私の最後の手紙は届き ませんでした。生前、一度だけいただいたお手紙を読み返して泣きました。
大変失礼いたしました。酔っ払いものゆきちです。
あのあと、渋谷でカプセルホテルに一泊。その後、シュバンクマイエルを見て帰宅しました。学研の方(申し訳ありません、お名前を失念しています)、本当にお世話になりました。大変不躾なお話をぶつけてしまいまして、今でも反省のいたりです。
それでは、またうかがう機会もあるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。もちろん、電車で帰れるまでの時間までにします。
石塚さんへ
サイン本は店に置いてありますので、お越しいただければ幸いです。
Bさんへ
兵庫県の山奥ってどこでしょう。 篠山、生野、神鍋・・・。
それより北は知らないもんで。どこに住んでいてもお喋りできるのが
ネットの良いところ。
東京出没の折りには、是非ですぺらにお越しやす。
さくらさんへ
ですぺらのコック、ええ、いつでもお貸しいたしますよ、どんどん持ってってください。
ちょっとかさばりますし、少し口うるさいですし、やや勝手きままなところがありますが、
あり合わせのものや、出来合のものをちょちょいで、それなりの味にしてしまう技は
持っております。
できるだけ近いうちに伺いたいと思います。
お知らせ係奥歯です。
郡司正勝さんの遺稿集『芸能の足跡』が須永朝彦さんの編集によって柏書房から上梓されました。これを機会に在りし日の先生を偲ぶ会を催します。
会費は四千円、十一月二十三日(金曜日・祭日)午後六時よりですぺらにて。
葡萄酒とウィスキーはたっぷりと用意いたします。
朝子さんへ
十代の頃、惚れた女性宅への行き帰りに動物園の横を通りました。夜ともなれば、いろんな動物の鳴き声が聞こえて来るのですが、今なお耳にこびりついているのがアシカの叫びです。糸を曳くような切なげな声で、悲しそうに泣いているのです。哀愁に充ちた声を確認すべく、日中かの王子動物園に幾度も通いました。セイウチ、アザラシ、トド、アシカ、似た動物達なのですが、やはり鳴き声は異なります。しかも、昼と夜とでは鳴き声の響きが変わります。セイウチはコントラバスを思わせる重低音、アザラシはホルン、同じアシカ科の生物でも、トドがバスサックスならアシカはアルトサックスになりましょうか。木下大サーカスの曲芸で馴染んでいたものの、かくまで遣る瀬ない声を聴かされたのは、あの時が初めてだったのです。
月日は流れ、私は54歳になりました。昨今では泥酔し寝転がった私を見て、梅子さんは何時も爺トドと呼びます。何となく粗大ゴミより悪意があると思いませんか。私の中でアシカに対する好ましい印象は崩れ去りました。折角のお申し入れですが、ネッシーはトドをうんと大きくしたみたいで、あまり気乗りがしないのです。突き出てきた腹を眺めやるに、私のあだ名は爺トドを通り越して老怪獣になりそうです。
ゆきちさんへ
「種村季弘流にいえば『渡辺一考から七、八人の人間がぞろぞろと逃げ出して、ひょっとするといまそこらへんが渡辺一考だらけになってしまうような』とデタラメばかりで溢れて、もうそこには一考氏の実体は存在しないのだから・・・。」以上は石川潤さんからの孫引きですが、文中ぞろぞろと逃げ出していくのは種村さんなのであって、いかように思いを致しても一考ではない。などと書き出すとそれ自体が種村さんの術中に陥ることになる。要するに、扱いにくいのですよ、種村さんは。と振ってみれば、何もかかる術策が種村さん固有のものではなく、いやしくもプロの物書きなら誰しもが了解している事柄であるのに気付かせられる。種村さんの随筆は常に書くという行為、即ち物書きの生き方のからくりを示唆しているのである。
石川潤さんによれば「ぞろぞろと」をはじめ、駄洒落には深い意味があるそうな。そりゃあ、ありますよ。別のところで種村さんが「何ものにでもなれるこの男」と著していらしたと思いますが「何ものにでもなれる」と「ぞろぞろと」は同義反復です。「何ものにでもなれる」とは相手の望むところのものになるとの意志表示。自らを相対する人の鏡にしつらえる訳ですから、これほど人を小馬鹿にした文言はないでしょう。Bから視て、Aがちゃらんぽらんに見えれば、それはBがちゃらんぽらんな人間だと言うことです。何故ならAはBの鏡なのですから。そのからくりを承知でAが私はデタラメな人間ですと言った瞬間、Aを除くすべての人間はデタラメな存在と化してしまいます。種村さんの興味の対象はその辺りから派生するからくりの謎解きにあるのですから、化かし合いをするだけの暇と才覚を持ち合わせた人だけがお付き合いすればよろしいのです。
「学問としての哲学を学んでいます」「ハイデッガーとドゥルーズを読んでいます」等と、とぼけたことを口にする人はまさかこの世に居ないと思いますが、もし居らっしゃれば抱腹絶倒。露伴が愛したという饅頭茶漬けにも似て、真性のデペイズマンコ。その異星人の頭の中でハイデッガーとドゥルーズがいかようにクロスオーヴァーするのか、そこのところを是非お聞かせ頂きたいと願う次第。小生は福原大学遊蕩学部放蕩学科酒席卒業ですが、学びしは「うんこと精液にまみれた哲学」。卒論は自然的存在や道具的存在から区別される基礎的存在論としての「蝿取り器と泥鰌鍋の研究」で御座いました。
昨日の客は今日の餌。まじめに物を書いていると人生は退屈なものになってしまいます。人に託けて一筆啓上。因果な性格ですが、たまらんね、ウィッヒッヒ。石川さんの曰う「目をつぶってチョン」とはこういうことなんですかねえ。
追伸。ですぺらの隣の「かさね」さんは料理の内容から押して安いお店です。しかし、一人二万円を下ることはありません。赤坂だということをお忘れなく。
campagnoloさんへ
私の記憶違いで申し訳ない。エッチャンとやらは鉄板焼きを売りにしていたとの話を聞きましたが、それも震災のはるか前のことです。コーベブックス在籍中が最も飲み歩いた時期ですが、三宮も京都も行きつけの店はほとんどが廃業致しました。北へ行くことはあっても、もう上方に戻ることはないので、どうでもよいのですが。
きまいら舎さんへ
ビュランで制作なさっている方ですね。文中あなたが触れておられる「距離」は山本六三さんも執心なさった言葉です。氏がこよなく愛した詩に吉田一穂の「母」があります。
あゝ麗しい距離(デスタンス)、
つねに遠のいてゆく風景……
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。
いつ読んでもいい詩です。悲しみの深さと会った回数は比例しません。あなたが投函なさった手紙はきっと届いています。山本さんはそういう方でしたから。
> 「学問としての哲学を学んでいます」「ハイデッガーとドゥルーズを読んでい
> ます」等と、とぼけたことを口にする人はまさかこの世に居ないと思いますが、
> もし居らっしゃれば抱腹絶倒。露伴が愛したという饅頭茶漬けにも似て、真性の
> デペイズマンコ。その異星人の頭の中でハイデッガーとドゥルーズがいかように
> クロスオーヴァーするのか、そこのところを是非お聞かせ頂きたいと願う次第。
> 小生は福原大学遊蕩学部放蕩学科酒席卒業ですが、学びしは「うんこと精液にま
> みれた哲学」。卒論は自然的存在や道具的存在から区別される基礎的存在論とし
> ての「蝿取り器と泥鰌鍋の研究」で御座いました。
もう、酒の肴にされるのは百も承知、身の丈に合わないおしゃべりをするのは生来
からのことでして、後悔だけが先に立つばかり、一夜のぐてんぐてんで渋谷であれ
やこれやをめぐらしておりました。おっしゃるとおり、何一つ反論はいたしませ
ん。
これで勘弁してくださいm(__)m。
この点、忘れておりました。
「追伸。ですぺらの隣の「かさね」さんは料理の内容から押して安いお店です。しかし、一人二万円を下ることはありません。赤坂だということをお忘れなく。」
どうもありがとうございますm(__)m。しかし、二万円となると、安月給の身には少しばかりきつくなってしまいます。もうすこし、いろいろと算段してから赴いてみようかと思います。
情報、ありがございました。
智里さんへ
無事に岡山まで帰られたのですね、お疲れさまでした。
せっかくの機会でしたのに、個展には伺えませんでした。申し訳ありません。
また上京された折りには是非店にいらして、岡山情報を教えてください。
梅子こと薫子
もう、首は麒麟状態でしょうけれど、わたくしの仕事がご存知のように多忙を極め、毎日、一時間か二時間寝ることが出来たら幸運という毎日です。約束の物が遅れて申し訳無い。先日、その反動で、560SLのAMGを衝動買いしてしまいました。排気量も6リッター近くとなると、やっぱり、尋常じゃありませんね。今度、戸田橋で勝負しましょうか。昔320に、ラジエーターを改造して(収まる場所が無いので)、3000のエンジンを積み替えて、デフからミッションまで、足回りを全部壊してしまったのは覚えてますか。その倍近いのですから、ストレートだけなら負けないでしょう。去年、180キロオーヴァーで赤切符。拝み倒して、免取だけは逃れたばかりなんですけどね。200km/h越すとオービスに写らないなんて、あれは嘘ですよ。ご用心下さい。最近のカメラは、性能が良くなってますよ。 ところで、高遠さんて8000cc位の方ですね。
やっきさんへ
種村さんとの対談の中で、話題は芝公園で野たれ死にした作家藤澤清造に及びました。その時、私も君もひどい生活だったが、もっと壮絶な暮らしをしている出版人がいる。それは金沢の勝井隆則さんであり、「藤澤清造貧困小説集」の刊行者であると教えられました。種村さんが金沢で倒れし折の見舞客の一人ですが、以降お付き合いは続いているという。
聞き通いによると、勝井さんは法政大学を卒業後、郷里の金沢へ帰り、亀鳴屋と号する出版社を一人で営んでいる。今なお、「蛍の光 窓の雪」を地でゆく家に女房と住み、テレビはなく、窓にガラスの痕跡すらなく、冬ともなれば家の中を吹雪が舞うにまかせるとの風流な暮らしぶり。今回上梓された「藤澤清造貧困小説集」にしてからが、刷り部数を500に限り頒価は2800円、締めて140万円じゃないですか。それでは全冊完売しても制作原価がかろうじて賄えるだけ、人件費はおろか、編集費すら出てこない。しかも頒布する書冊は餓死文学叢書とでも名付けるべき代物ばかり。次回配本は、戦後石川県小松市に在住した森山啓の著作と聞きます。森山啓は金歯を売って生活したとの伝説を持つプロレタリア作家です。
今どき、こんな純な出版人が、しかも地方に居たというのが驚きです。風紋さんの言う、明るい表通りばかりを歩きたがる昨今の表現者や出版人から抜け落ちているのが、こうした不退転の意気込みであり、貧窮をものともしない強靭な精神なのです。物欲にまみれ、日々の金数を求めて蠢くような輩に表現なんざあ出来るわけも御座いません。芝公園でホームレスの頭領になってからでも遅くはないのです。表現者や編輯者に必要なのは不死鳥のように蘇る気力と無頼の精神のみと信じます。いずれにせよ、種村季弘さん推薦の「藤澤清造貧困小説集」を読んで貧困を謳歌しようではないですか。
書物の佇まい清楚にして申し分なく、手染めの布表紙とつげ義春の絵とのバランスは美事。また、同書の巻末に付された粕井均さんの編纂になる「同時代評・ゴシップ細見」と小幡英典さんの「清造がいた場所」と題するアルバムは逸品。前者は書誌学の範にもすべき必読の文献、生田長江、島崎藤村から遺骨の焼却料を負担した長谷川時雨に至るまで、藤澤清造にまつわる証言と文献を稠密にときほぐし、おのが清造感をそれこそ干鰈を陽に翳すがごとく浮かび上がらせている。かかる書物が藤澤清造を愛する人々によって拵えられたのは何よりの供養。文学史の書き換えに直接結びつく行為のみが出版であるとの勝井隆則さんの身を呈しての異議申し立てに三拝九拝。貴方のような存在こそが私が生き延びるための唯一の糧なのです。
地方の方は下記住所へご注文を、東京在の方はですぺらへご注文を頂ければ幸甚。ちなみに、ですぺらには取りあえず10冊送付して頂く予定です。
「藤澤清造貧困小説集」亀鳴屋本第二冊目 限定500部 頒価2800円
亀鳴屋 石川県金沢市大和町3-39
一孝さま>>
海馬は脳味噌ん中にありますね。なんか賢い感じがよい感じです。いや。
ネッシーのフィギュアみたけど、結構なんていうか、ヒルにヒレが4つ
ついただけで、麒麟のよに伸びた首、ふたコブで角が生えているらしい
ですよ。つちのこはビール瓶大でしたっけ・・・なんかな・・・しょぼい
から、もちっと、格好いい方が良いべか、と思っただけなのでした。
そのうち又見に行ってきますよ、ロッホ・ネスに!行った事ありますか?
今時分の北関東の空は丁度なんていうかスコットランドみたいで好きです。
所でゆきち君ことゆっきーをいぢめないであげてください、いや、いぢめて
下さい。ヤツは根っからのぼんぼんで困ったモノなので鍛錬が必要です。あ
たしに言われたくないだろうけどっ(あははー!)
物の怪に対抗するのにカミングアウトしなきゃだめか?とか言ってますが
彼には宗旨替え以前に修行が必要だという事をコンコンと言ってるのですが
私の言葉なんぞ素通りする模様ですなさけなや。
どうすればいいんでしょうか?
だっーーーー! そないなこと書くな! 誰も対抗しようとかしないとか考えてませんて。堪忍しとくれやす。というわけで、僕は、良心に基づいて、いぢめにはこころから反対です。
それから、僕は、10秒たりともぼんぼんだったことなどないぞ(笑)。朝子さんからは、そうみえるのかい?
っていうか、マジ頼むわ。これ以上はプライベートメールにしてくれ……。
以上、失礼いたしましたm(__)m。
お久しぶりの暫定管理人です。
一考さんの中年パワー炸裂してますねえ。
団塊の世代はパワーがあるということかな(もっとも一考さんにパワーがあるだけかもしれない)。
エロと貧困がこんな形で共存するとわ。
ところで「藤澤清造貧困小説集」、面白そうだけど、読みたいような読みたくないような気分。はっは。
今の若者、もっと力をださんかい。
一考さん
「藤澤清造貧困小説集」については先日の出版前夜祭のときにも
おっしゃっておられました。「落ちぶれた男ほどエロティックなものはない」
と書いた種村さんのご推薦、これはぜひとも読みたいと思っていましたが、
入手方法がわからなかったので、お知らせ下さって助かりました。
一冊注文させていただきます。よろしくお願いいたします。
高遠さんの『乳いろの花の庭から』読みました。
博学と色気を併せ持つ稀有のエッセイですね。
断裁に際し、高遠さん自ら数十冊を引き取られたとのこと。
知人に宣伝して回ろうと思っています。
本書と出会えたのもこの掲示板のおかげです。ありがとうございました。
亀鳴屋のホームページがありますね。ヤフーで一発でした。金沢では、名の知られた方のようですね。
ゆきちさんへ
自分というのは人が望むところのものでしかない、というのが私の持論です。自分が自分の思っているような人間であるかどうかは自分にはなにも判りません。人が判断するところの自分が常に正しい自分の像なのです。これは松友さん宛の文章で著した賓辞の問題と同じことなのです。いついかなる状況にあろうとも、判断を留保し行使するのは他者なのです。どうしても酷い誤解があるというのであれば、五解を六解に七解にしつらえ、自らの快楽の対象にしてしまえばよろしいのであって、「そないなこと書くな」では些か見苦しくはありませんか。男の子はもう少しダンディに行きましょう。また、人の意見に対して異議があるのであれば、どうどうと議論すればよろしいのであって、それを「余計なこと」とか「いじめ」と退けたところでなにも始まりますまい。繰り返しますが、他人にかく見られたいという望みがもし有るのであれば、自らの立ち居振る舞いを然るべきものに改めるのが先決かと、爺トドからの心にもない親切心です。
藤澤清造は朝日書林の全集刊行の広告を見て以来 (まだ出ていないようで
すが)、こんな作家がいるのかと気になっていた一人でした。表紙がつげ
義春というのも狙いすましたかのごとき人選で嬉しいです、一冊頂戴した
く存じます。
昨日、私のメールボックスがウイルスに汚染されてしまいました。 このため、これまでメールの遣り取りをしたことのある人すべてに私の名 (実名)でウイルスメールが送られてしまったようです。 あやしいメールが届いた人は、すぐに削除してください。 なお、このウイルスの被害状況等は、拙掲示板に書きこんであります。
奥歯さんへ
敷衍曲と題するつちのこ編集者の戯れ言第三弾。例によって、奥歯さんへ託けての戯れです。
かつて郡司正勝さんは日経新聞の「オリジナリティーとはなにか」とのアンケートに応えて一言「オリジナルなんてありません」。また貴女がお好きな澁澤さんはオリジナリティーを過価なるものとして嗤い飛ばしていました。確かに貴女が仰有るように、文学と哲学にはパラフレーズとの言葉が似合います。ただし、敷衍ではなく、敷衍曲の方がより相応しいでしょう。
金子千佳という詩人を私は存じ上げませんが、結構な詩です。男女の稟質の違いがよく表現されていると思います。素敵なイントロです。
第一節からはじめましょう。まず『「人が考えたから考えなくて済む」をいうわけにはいかない領域こそが哲学であり文学』であるとの御指摘。「いうわけにはいかない」を「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」と転じ、「言えねえところが文学よ」と結ぶ方が通りがよくなります。冗談はさておき、物理学にせよ天文学にせよ、大方の学問は類推の上に成り立ちます。例えば天体の運行をつぶさに観察し、任意の一点にブラックホールがなければ、運行の整合性が得られないと言った案配です。現象を統一的に説明することが可能な仮説をまず打ち立て、それを検証し、妥当するところの真理を導き出すのです。
一方、人間には先天的な概念と後天的な概念とが混在します。でも、人生に仮説としての設計図はないのです。人はまず存在ありきで、生きて行く課程で双方の概念が絡み合って概念構成がなされて行きます。サルトルが示唆したことは半分正しく、半分は間違っています。その問題点の整理は後日述べるとしましょう。
文学は書き手個人の倫理観、価値観、歴史観を綴るものであって、アナロジーもしくは一般化とは所詮馴染まない領域のものです。三島由紀夫の死と共に三島の文学も終了するのであって、三島文学とは三島由紀夫の存在そのものだと申せましょう。要するに、百人の物書きが居れば、百通りの文学が存在するのです。だとすれば、他者が著した文学なり哲学を以て自らを諾うには常に危険が伴います。特定の他者にいくら恋い焦がれたにしても、すべてのシチュエーションが重なり合うような人生はおそらく望むべくもないからです。仮に体験に頗る似通ったところがあるにせよ、それを読み換える変換機能としての内的体験までが同じというのはおおよそあり得ないことです。従って、文学にあっては他の学問に見られるように類推が入り込む余地はほとんどないのです。
「人が考えたから考えなくて済む」のが思惟の結果なら、その推論は個人の否定になりますし、そうでなければ、内包した自家矛盾にも気付かない不自然な存在、即ち馬鹿者ということになります。いずれにせよ、支配されるのを望むファシズムの立派な構成要員なのです。もちろん、考えたからと言って何が解決されるわけでもないのですが、それに関する発言は後段に譲ります。今一つ、類推とイマジネーションの問題がこれでは解決されませんが、属性に関する類似の否定が、イマジネーションを羽ばたかせるのではないかとだけ指摘しておきます。
第二節と第三節は言葉とその概念の問題です。これはどこかで触れたので繰り返しませんが、「言葉はアリアドネの糸です。思考の軌跡を残しておかなければ同じところをそれと気づかぬまま何度もぐるぐるまわるだけにもなりかねません」の中の「思考の軌跡を残しておかなければ」はとても大事な文言だと思います。ただし、文意は貴女とは異なります。
「独語録」か「三位一体論」が貴女の脳裏を去来しているのでしょうが、同じところをぐるぐるまわるのは単にその人の頭が悪いだけであって、気付こうが気付くまいが大した問題にはならないでしょう。問題は思考の軌跡です。
言ってしまえば文学好き、されど思想のない文学なんぞ読みたくもない、そこまでは問題ないとして、考えるとの行為すなわち思考が迷いであり、逡巡であり、躊躇いであると、恐らくこの定義も問題なし。ただし、なにが迷いなのか、なにを持って逡巡とするのか、なにをして躊躇いと名付けるのか、ここには個体差が生じます。その逡巡の過程を取り敢えず試行と名付けましょう。試行を包み隠さず書き著すことによって、読者は筆者の搏動即ち個体差を識ることが可能になります。逆に言えば、包み隠さず綴られた試行は個体差を認識した人の生存の課程であり、まさにドゥルーズのいう流動の相の自ずからなる表明になります。また、搏動とは個としての書き手の生の証しに他ならず、搏動を伴わない文学とはその意の通り、思想のない文学ということになります。……と書いてきて、貴女との亀裂をいつも思い浮かべます。「なぜ、思考が迷いなの」との質問を度々受けます。一方、私はよく懐疑との言葉を用います。私が用いる「懐疑」はヘレニズム時代の懐疑派のそれとは全く異なります。私は個人的平安を与える処世術や思い煩いのない平常心など求めていませんし、判断中止に陥ったこともありません。より重要なのは思考にいかなる形であれ、結果や結論を求めていないという点です。懐疑が思考のエネルギーの唯一の源ではないかと思っているだけなのです。
自己に懐疑を差し挟まない、言い換えれば、自己を信じて疑うところがない、否これは言い過ぎかも知れません。でも、例え博捜の上、自己の立場を見出したにせよ、状況は同じでしょう。たどり着くとの概念自体が私には胡散臭くかついかがわしいものに思えるのですから。ピュロンが言うように、確かに言葉への不信は人間不信に直結します。そして、真理の探究、本性の認識は不可能だと私も思っています。西洋で哲学がその目標とエネルギーを新たにして甦る時、否定するにせよ、肯定するにせよ、必ずキリストの問題が立ち顕われます。私は日本で生まれ、日本語で育ちました。キリストという概念が希薄ですし、キリスト教の文化と伝統も審らかにしません。でも、好奇心は旺盛です。その好奇心が私にエポケーを拒否させるのです。懐疑の原語である「スケプシス」skepsisというギリシア語は元来探究という意味でした。真理の探究は無理でも、生きた人間すなわち戦友の苦衷には大いに興味を抱きます。この点に関しても後日述べます。
第四節に問題なし、第五節の「言葉を軌跡としてただ飛べばよい」は貴女らしい詩的な文言ですが、それこそ飛んじゃっています。おそらく「名前、自己同一性、そんな重いもの」からの脱却を示唆しているのだと推察します。昔、安部公房が「砂の女」でこの問題と格闘していたのを憶い出します。弛緩した文学者が陥る二律背反を「夢見のわるい道学者」と論断し、止揚としての実作者を「俳に濡れそぼるシュルレアリスト」と讃じたのは加藤郁乎さんですが、同じ飛ぶなら今少しなりふりを構いましょう。
第六節の『フラットな世界が「すべては同じ」』には重なり合う問題点があります。私が試みたのは、価値としての等価を認識することによって存在そのものが滲透し合う、言い換えれば、孤独や失意の中に溶解してゆく自分の様を言いたかったのであって、ひいては人の存在には価値がないとの立論を示唆しようとしたのです。ところが、貴女は「同じ」ではなく「すべて」に論点を移しています。私が用いた「すべて」は「人の存在には価値がない」との立言に例外はないということを強調したまでなのです。ここでの「例外はない」は自己に懸かってきます。自己の内部に向かわない思惟なんぞ、机上の空論に過ぎないのですから。幻想文学でも著したのですが「他のいかなる人間とも完全に等価である」ということを識った時、人はまず苦悩に陥ります。「そんなことを認めてしまえば、今までの私は一体なんだったのか」との疑問に逢着するからです。等価は今まで当たり前の存在として容認してきた自分をまず否定することになります。大仰な言い方をすれば、等価への認識は人間存在の極限、絶望の果てを意味します。しかし、かかる境地の向こう側には風通しのよい球形の荒野が拡がっているのですが。
繰り返しますが、「すべて」との言葉を用いたのは論理的整合性を強調するためではなく、また他者に向けての物言いでもないのです。自分に対して「例外はない」「等し並」であると言い聞かせる、自分自身へのイエロー・カードの随時発行であり確認なのです。同列、同様、一様との文字を私が好んで用いるのも他者と自己を差別したくない、もしくは差別など出来る筈がないとの立言に則ってのことなのです。「すべての存在は虚しい」それが「大雑把すぎ、楽すぎ、危険すぎ」るものの考え方なのでしょうか。
第七節は難解です。特に「無数の価値体系を同時に持つことによって、どこにも帰属しない無意味なオブジェとしてすくいあげる」この文意は私にはよく解りません。経験を抽象そして捨象することによって得る概念であれ、経験から独立した先天的概念であれ、「無意味」との概念上の文言と価値体系を強いられるであろう「帰属」との関わり合い。「価値」に含まれる「反価値」と「無意味」との関わり合い。そして「無意味」と「価値体系」との関わり合い。最後に「無意味」と「オブジェ」との関わり合い、その辺りが私には読み切れないのです。主旨が単数の立言とは限らない、これは若い人の文章に多くみられる欠点のひとつです。そういう場合は文章を長くし、論点を分割するように心掛けるべきではないでしょうか。結論を急ぐのはよくないことですし、結論を導き出さない方が説得力が増す場合すらあるのですから。
概念は確かに意味として存在するのですが、表現する際には言語になります。いかに「優れた」と予想させる思想であっても、表現が拙ければ、それは拙い思想にしかならないのです。なお、価値体系における優劣の階層的序列に私はなんら興味を抱きません。そんなものは端から信じていません。それは貴女がよくご存じの筈。
第八節の「振幅」はムーンさん宛の「ガラガラポン」に記載。
「思考は螺旋を描いて下降し、地獄巡りがはじまる」これにはちょっと異議あり。思うに、貴女の頭の中にはアウグスティヌスやダンテのイメージがあるのでしょうが、幸田露伴や稲垣足穂のシャボン玉やパンティを括りつけた風船を千里の空に飛ばした下着デザイナーの鴨居さんのようなパラフレーズの方が、夢があって楽しいではありませんか。「地獄巡り」は好みではありません。
もう一つ、「言われきったこと、書かれきったこと、それはもはや目的ではなくて手段です」にも異議あり。既に口に出したこと、書き著したことはさほど重要でなく、大事なのは今現在の思惟なのでは、ということが仰りたいのだと思います。でも、思惟は生き延びるための数少ない手立てではあっても、目的ではありませんし、思惟そのものにも目的はないと思うのですが。人の生、即ち人の存在に目的や価値がなにも無いのと同様です。たって申せば、滅びるためとでもしておきましょうか。
終章の二行に関してはゆきちさん宛の文章で触れました。自己と他者の問題は安直に境界線が引けるようなものでなく、片側だけでは議論の対象にすらなりません。それは自らの主辞と賓辞を繙くことにもなりますし、それだけでも数冊の書物を著すことが必要になります。前記文章ではあくまでかかわりのカラクリのひとつを述べたに過ぎませんが、誤解を畏れずに結論のみ申せば、「人は人の望むところのものになるしかない」ということになりましょうか。きっと、お付き合いした人の数に比例した複数の貴女が、そして一考さんがあちらこちらで蠢いているのでしょうね。
他者が自らの鏡であれば、自己とは他者の投影、されば、言葉とは思考の酩酊なのでしょうか。
「考えたからと言って何が解決されるわけでもない」との疑問を前述致しました。それについて一言。話をマラルメに持って行きたいのでアナロジーから始めます。アナロジーは自動記述やデペイズマン同様、文芸上の技法としては有効です。マラルメの「イジチュール」からボリス・ヴィアンの「日々の泡」に至るまで、それこそマラルメの言う「類推の魔」を書物の世界から抽出し列挙するのは容易いことです。
「後方見聞録」所収の「西脇順三郎の巻」の中で「マラルメのメはまなこなり」との西脇さんの駄洒落を郁乎さんが引用しています。思うに西脇さんは洒落の達人で、とりわけ酒席における駄洒落の切れ味には怖いものがありました。「マラルメのメはまなこなり」にしましても、マラルメの散文詩におけるアナロジーの地歩を過不足なく示唆するに際し、他ならぬアナロジーそのものを援用するという芸の細やかさ。東大、京大、九大のノータリン学者(とりわけ「種の論理」を唱えたヘボ学者)が一冊の著書で著したことを一言の駄洒落で切って捨てる、頭脳というのはこのように使われなければなりません。かような高級な会話、即ち晤語の中で読解力の妙味を味わわせてくれる人を私は達人と呼びたいのです。
「考えたからと言って何が解決されるわけでもない」この文言は言い換えれば「読んだからと言って何が解決されるわけでもない」と同一の意味内容を持ちます。読者の智力が書き手のそれに肉薄するものでないかぎり、読書は虚しいものです。単なる時間の浪費でしかないのです。私事にわたり恐縮ですが、かつて限定本に興味を持つ人で読書力、読解力を持ち合わせた人と一度も出会ったことがないのです。そしてある日、南柯書局の一部の本がコレクターの愛玩物ないしは投資の対象と化していたのに気付かされました。私が出版を止める日が訪れたのです。
このような話を始めるととめどがなくなります。最後に繰り言を一言。櫻井さんがご指摘のように、年齢に相応しい覇気といいますか、負けん気の強さが望まれます。年長者に立ち向かう時は常に玉砕を覚悟しなければならないのです。破綻を懼れていては精神にダイナミズムは生まれません。そうして繰り返される抗いの果てにのみ、新たな精神の領域が立ち顕れてくるのです。
昨日如月さんからウイルスメールが二通来ました。
Re: ENbN
Re: ヘkV
という件名のメールが如月さんから来た方は、速攻削除なさったほうがよいと思います。
アウトルックに感染するようです。
>一考さま
ご存知の通り、秘密のお仕事で手いっぱいですので、レスは来月にさせていただきます。
皆さんへ
今回のウイルスもウインドウズ専用です。マック用のウイルスはここ4年ほど聞いたこともなく、当方のOSにはなんら影響は御座いません。念のために申し上げますが、ウインドウズとマックの双方に有効なウイルスは存在しません。ウイルスを開発する人は愉快犯のため、マックのような少数派は相手にしないのです。恐らく、テロリストはマック・ユーザーではないかと思われます。
メッセージありがとうございます!ぼっけぇー、でえれぇー、もんげぇー (岡山弁、標準語で大変、とても、すごく、という感じ)うれしかったです。 また会えるのを楽しみにしています!たまには暴走トド号に乗って、こっちにも 遊びに来て下さいね!
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