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一考 | 「託ける」とは

 ゆきちさんへ

 「種村季弘流にいえば『渡辺一考から七、八人の人間がぞろぞろと逃げ出して、ひょっとするといまそこらへんが渡辺一考だらけになってしまうような』とデタラメばかりで溢れて、もうそこには一考氏の実体は存在しないのだから・・・。」以上は石川潤さんからの孫引きですが、文中ぞろぞろと逃げ出していくのは種村さんなのであって、いかように思いを致しても一考ではない。などと書き出すとそれ自体が種村さんの術中に陥ることになる。要するに、扱いにくいのですよ、種村さんは。と振ってみれば、何もかかる術策が種村さん固有のものではなく、いやしくもプロの物書きなら誰しもが了解している事柄であるのに気付かせられる。種村さんの随筆は常に書くという行為、即ち物書きの生き方のからくりを示唆しているのである。
 石川潤さんによれば「ぞろぞろと」をはじめ、駄洒落には深い意味があるそうな。そりゃあ、ありますよ。別のところで種村さんが「何ものにでもなれるこの男」と著していらしたと思いますが「何ものにでもなれる」と「ぞろぞろと」は同義反復です。「何ものにでもなれる」とは相手の望むところのものになるとの意志表示。自らを相対する人の鏡にしつらえる訳ですから、これほど人を小馬鹿にした文言はないでしょう。Bから視て、Aがちゃらんぽらんに見えれば、それはBがちゃらんぽらんな人間だと言うことです。何故ならAはBの鏡なのですから。そのからくりを承知でAが私はデタラメな人間ですと言った瞬間、Aを除くすべての人間はデタラメな存在と化してしまいます。種村さんの興味の対象はその辺りから派生するからくりの謎解きにあるのですから、化かし合いをするだけの暇と才覚を持ち合わせた人だけがお付き合いすればよろしいのです。
 「学問としての哲学を学んでいます」「ハイデッガーとドゥルーズを読んでいます」等と、とぼけたことを口にする人はまさかこの世に居ないと思いますが、もし居らっしゃれば抱腹絶倒。露伴が愛したという饅頭茶漬けにも似て、真性のデペイズマンコ。その異星人の頭の中でハイデッガーとドゥルーズがいかようにクロスオーヴァーするのか、そこのところを是非お聞かせ頂きたいと願う次第。小生は福原大学遊蕩学部放蕩学科酒席卒業ですが、学びしは「うんこと精液にまみれた哲学」。卒論は自然的存在や道具的存在から区別される基礎的存在論としての「蝿取り器と泥鰌鍋の研究」で御座いました。
 昨日の客は今日の餌。まじめに物を書いていると人生は退屈なものになってしまいます。人に託けて一筆啓上。因果な性格ですが、たまらんね、ウィッヒッヒ。石川さんの曰う「目をつぶってチョン」とはこういうことなんですかねえ。

 追伸。ですぺらの隣の「かさね」さんは料理の内容から押して安いお店です。しかし、一人二万円を下ることはありません。赤坂だということをお忘れなく。



投稿者: 一考    日時: 2001年11月19日 00:28 | 固定ページリンク





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