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一考 | つちのこ編集者の戯れ言2

 石川潤さんへ

 「文字を書きつつ恥をかき、汗をかきつつマスをかき、金欠き礼欠き節操欠き、かくして今はですぺら店主。いっこうに懲りない一考さん」とはかつて荻窪にいらした永瀬由利子さんの弁。由利ちゃんよ、「ですぺら店主」とは「でたらめ店主」の誤植ではないのかい。
 かようなメールを頂戴したあくる日には「一考取扱説明書」なる珍文書が掲示板に載る始末。私も大物になりましたなあ。それにしても、文の始まり位はオリジナルであって欲しいもの。あの書き出しはどこやらの大先生の文章の盗用ではござんせんか。落ちの巧さと比してバランスが取れてませんよ。「厚顔無恥でしたり顔の一考」は結構、かかる賛辞に私は弱いのです。先般もある女性編集者より「マッチョな男」との連打を受けました。相手方は非難のつもりだったのでしょうが、筋肉労働者の私としては栄光の糞づまり、単なるインテリではなく、些かでもインテリヤクザを髣髴させるではないですか。実は内心は嬉しかったのです。そこまで考慮してのマッチョならば、私は彼女にますます頭が上がらなくなるのですが。

 文中、たって数行のお褒めに与りしは幸甚。以下、文章を著すに際しての質と量の問題について一言。骨法についてはムーンさん宛の書込で触れましたので、重複は避けます。
 いつぞや、「一行以上三枚位」との原稿依頼が御座いました。どなた様であれ、言いたいことはほんの数行、他はその数行に至るための伏線、ないしは盛り上げるための前菜のようなもの、と私は心得ます。従って、当意即妙の依頼かと思われましたが、結果は惨憺たるものであったと聞き及びます。
 エッセイにあって肝要なのは、あなたも仰るとおり「きらきらした部分が含まれているかどうか」です。前菜であるべき部分が前菜としての体をなさない、即ち結句の輝きを盛り上げる役を務めていない場合。言い換えれば、本来、前菜であるべき部分が知識のオンパレードに終始し、「きらきらした部分」との間になんら脈絡が見受けられない場合。そんな時は、いっそ結句の一行、二行だけの方が救われます。ところがほとんどの物書きは売文の明け暮れに精を出し、それこそ「社会的通念」の中にどっぷり浸って行くのです。著されるであろう中味は自らの記憶の襞にのみ在します。故に、引用に必要とされる最小限の書冊があれば十分なのです。ノン・フィクション作家は異なるカテゴリーに属しますので除外しますが、文章を著すに際して不必要に多量の書物を繙き、資料を漁り、取材を繰り返すような文章に私は些かの未練も興味も抱きません。何故なら、それは自らの体臭を希薄に、そして喪わせる結果にしかならないのですから。
 商売柄、書物蒐集家や愛書家と称する人々とのお付き合いが御座います。元本における函、カバー、帯の有無並びに美醜に口角沫を飛ばしております。それと何処のラーメンが、ケーキが、干物が旨いか不味いかとの話の間に質的な差違が在るのでしょうか。私は愛書家を否定しているのではないのです。個人の持つ価値もしくはその判断としての価値観は認めます。ただ、愛好会(そのようなグループに限って少数者意識、選民意識を持つ)と称するような集団の持つ価値評価の判断は御免被りたいのです。さらに申せば、様々な価値観は並列にしか存在しないと言うことです。旨いウィスキー、旨いラーメン、旨い干物は存在するでしょうが、ラーメンと干物、どちらが美味かとの質問は意味を成しません。いずれにせよ、等し並に単なる知識じゃないですか。箇々の人が持つ「染み模様と薫香」の話ならいざ知らず、井戸端会議に興味が尽きないなんて、益体なしを通り越して慇懃無礼です。喋る側も訊く側も俗物ですよ。

 私は通過し損ねましたが、多くの友の首が「空中の縄の輪を間違いなく通過」しました。先日も一人の思索者を喪ったばかりです。これからは愚鈍な輩の首を「目をつぶってチョンと飛ば」す覚悟と技量が必要になりましょう。悔恨の日々は何処かで断ち切らねばなりません。御意見、身に沁みて辱く思います。
 話はあらぬ方へ滑りました。問題は質と量との相関関係についてでした。マルクスの大向こうを張って、貴方好みの結論を申し添えます。「文章の長短は、結句としてもたらされる一行の哀しみの深さに比例するものでなければならない」と。



投稿者: 一考    日時: 2001年11月12日 02:02 | 固定ページリンク





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