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2001年12月 アーカイブ

松友 | 12月01日、今宵は満月


ご無沙汰しております。先日所用にて関西を訪れました。
幸い終電には時間があったので、いそいそと西明石の割烹「きし」さんへ。
ついこの間も期せずして常連さんがカウンターに大集合なさったそうです。
礒自慢と共に頂戴する久方ぶりの活ひらめのお造り、鮎の一夜干。
時節には、鮮度の良い鮎の「西瓜のような」香を教えて戴いたりもしました。
こちらのご主人は、以前、一考さんがタイトル「月見で一献」で
モルト・ウィスキーの香について縦横に語り合える~と仰っていた御一方と
存じます。お店のカタログにもお名前が紹介されていたような気がします。
やはり懐石料理のプロは一方ならないものをお持ちなのでしょうね。

さて、過日の獅子座流星群は明石ではそれは美しかったそうです。
どうせ見えないだろうと、たかをくくっていたらこのありまさま。
幸い今夜は満月なので、一人で公園ででも月見で一杯します。
ムーンインポートのスプリングバンクあたり欲しいところですが
高価で手が出せないかも。
では。

付記:一考さんは「トド」説が有望視されつつあるようですが???
   「つちのこ」説は何処へ跳んでしまったのでしょう。



投稿者: 松友    日時: 2001年12月01日 16:57 | 固定ページリンク




あやめ | ごちそうさまでした。

一考様
薫子様

加藤郁乎先生を囲む会、その他何度かお店にはお邪魔しているのですが、
初めて書き込ませていただきます「あやめ(本当は殺め)」と申します。

昨晩は須永先生のカルチャー講座池袋チーム懇親会でお世話になりまし
た。お料理、とっても美味しかったです。ありがとうございました。
私、お酒は飲みはじめると取りあげられるまで延々と飲んでしまうので
すが、何故か初めてお酒の席で御一緒した方には「これや意外」と、驚
かれてしまいます。昨晩も先生をはじめ、他の受講者の皆様を心配させ
てしまったようで、ちょっとヒヤヒヤ。でもまだ暴走してない…。

さて、宴の後は、家に帰るのを諦めた4名の方々とお店近くのジョナサ
ンで青汁を飲みながら楽しく夜を明かし、無事に帰宅いたしました。
青汁のおかげで(?)二日酔いもございません。

ふつつかな娘で恐縮ですが、またお邪魔させてくださいませ。
よろしくお願いいたします。



投稿者: あやめ    日時: 2001年12月02日 22:11 | 固定ページリンク




櫻井清彦 | はてさて


一考さんのPowerMac 7600は無事復旧したのだろうか?
一考さんの年齢でパソコンばらせるとは大したものだと感心した次第。
私もばらせるけど、こわいからホントはばらすの好きじゃない。ははは。



投稿者: 櫻井清彦    日時: 2001年12月03日 23:26 | 固定ページリンク




御邪魔ビンラディン(伊藤敬) | マラルメ学者の件(どうでもよいことながら……)

昨日は、いつぞやの記事の「九州大学のマラルメ学者」というのが誰かな、
と質問をいたしましたが、それはK藤美雄氏のことだよ、と御返事いただ
きましたけれども、K藤氏は、同志社予科→大阪市大→関西大学という経歴をたどっておられるようで、九大には、集中講義で出張なさったことがあるかどうか、といった関わりにとどまるようです。
それにしても、仏語を学び始めてすぐの人にも分かる初歩的な誤訳の多い西脇順三郎訳マラルメの方が、「作品としての訳詩」として、仏文系の「碩学」たちによるものよりも、ずーっと優れているのは皮肉な話ですね。(そういえば、新潮社版世界詩人全集の名伯楽として、マラルメに西脇氏の起用を決定した河盛好蔵氏が、誰もそのスゴさを認めないことを、何かのエッセイでこぼしていました)
そういえば、いま、アマゾンドットコムで弥生書房版K藤美雄訳マラルメ詩集の書影を呼び出すと、小沢書店版の西脇訳の写真が出てくるのは、御愛嬌というものでしょうか。
以上、どうでもよいことながら、一考さんのメールアドレスわからぬので、こちらに投稿申し上げる次第です。



投稿者: 御邪魔ビンラディン(伊藤敬)    日時: 2001年12月04日 10:14 | 固定ページリンク




御邪魔ビンラディン(伊藤敬) | マラルメ学者の件(どうでもよいことながら……)

昨日は、いつぞやの記事の「九州大学のマラルメ学者」というのが誰かな、と質問をいたしましたが、それはK藤美雄氏のことだよ、と御返事いただきましたけれども、K藤氏は、同志社予科→大阪市大→関西大学という経歴をたどっておられるようで、九大には、集中講義で出張なさったことがあるかどうか、といった関わりにとどまるようです。
それにしても、仏語を学び始めてすぐの人にも分かる初歩的な誤訳の多い西脇順三郎訳マラルメの方が、「作品としての訳詩」として、仏文系の「碩学」たちによるものよりも、ずーっと優れているのは皮肉な話ですね。(そういえば、新潮社版世界詩人全集の名伯楽として、マラルメに西脇氏の起用を決定した河盛好蔵氏が、誰もそのスゴさを認めないことを、何かのエッセイでこぼしていました)
そういえば、いま、アマゾンドットコムで弥生書房版K藤美雄訳マラルメ詩集の書影を呼び出すと、小沢書店版の西脇訳の写真が出てくるのは、御愛嬌というものでしょうか。
以上、どうでもよいことながら、一考さんのメールアドレスわからぬので、こちらに投稿申し上げる次第です。



投稿者: 御邪魔ビンラディン(伊藤敬)    日時: 2001年12月04日 10:15 | 固定ページリンク




一考 | 押し寄せた貧困

 皆さんへ
 やっきさんが引用していた「落ちぶれた男ほどエロティックなものはない」はいい言葉ですね。頻繁に風呂に入りたがる男と財布を持ち歩く男を私は信用しないことにしているのです。ひと昔前ならポマードを塗りたくった男とネクタイを締めた男だったのですが。
 私が女だったら、浮浪者に輪姦されるのを夢に見ますね。顔が見えないというのが刺激になって、具合がよろしいのではないでしょうか。落ちぶれるとは自らの顔、すなわち矜持とか自信とか誇りなどが肉を削ぐように喪われて行くことでしょう。人品が赤裸になる、落ちぶれるとはなんと麗しい契機ではないですか。
 「ですぺら」に貧困が押し寄せて来ました。と言っても「藤澤清造貧困小説集」が金沢から送られてきたのです。御注文頂いた伊藤、柿沼、金光、斉藤、高遠、樽本、芳賀、増田各氏に感謝。勝井さんに代わりて満腔より深甚の謝意を表します。鹿島の鈴木さんにも深謝、貴方の好きなドライ・ジンは英国では労働者が好んで嗜むお酒。貧困小説集は肴に相応しいものと思われます。残部は一冊ですが、それに関係なく、一層の宣伝を皆様にお願い致します。
 書冊に勝井隆則さんの長文の手紙が添えられていました。種村さんからの聞き通いに補正を施したもの。「戸や窓をしめても、ちゃんと家の中に吹き込む雪が盛り塩の如く積もります。暖房はコタツひとつ、厳冬には部屋が0゜近くまで冷えこみ、死ぬ気で買ったMacが寒くて立ち上げられず、毎冬、Macは冬眠を余儀なくされることになりました」と著されています。いい味の出た書簡です。いずれ詳細を御紹介致しましょう。
 阪神大震災の後、拙宅は壁が崩れ、窓や戸がきちんと閉まらなくなり、部屋の中を煙草の煙が走り、庭を乾反葉が舞う有り様。金沢ほどではないにせよ、室温は常に2~3゜、女房から苦言と小言を頂戴する日々を送りました。何時の日か種村さんをお呼びして「ですぺら」で、勝井さんを囲む会でも催したいものです。題して「餓死作家列伝」を語る会。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月05日 16:23 | 固定ページリンク




津原泰水 | お邪魔をいたします


一考様 薫子様

 広島に戻りました。東京ではお世話になりました。
 私はですぺらに、帽子を忘れてしまったかもしれません。
ただどこかで無くしてしまったのかもしれません。
 帰途、気がつくと頭の上が淋しかったような次第です。



投稿者: 津原泰水    日時: 2001年12月06日 01:56 | 固定ページリンク




一考 | パソコン解体

 櫻井さんへ
 2台のPowerMac 7600を解体。ロジックボード、ハードディスク、フロッピードライブ、メモリー、Vラム、ディスプレイカードを組み合わせて1台を完成。ちなみに2台ともなんとか機能するようになりましたが、片側はジャーンがジのみにて起動します。これはおかしいのかな。
 解体の前から、どうせどこやらは壊すであろうとの予測通り、電源スイッチの外側の細長い板状のプラスティックを折りました。どこかで手当して返却せねばなりません。
 CPUをメルコのG4に取り替え、片側に装着されていたNewer TechnologyのG3をPowerMac 7500の604と差し替えました。G3の方のドライバーとしてXLR8 MACh Speed Controlを用い、こちらは快適。ただし、XLR8 MACh Speed Controlがどのようなコントロールパネルなのかは私には解りません。念のためにMAXpowr G3 v1.3.9J Installerをダウンロードしているのですが。
 G4に用いたHG4Utility ver1.40は調子が悪く、HG4Utility Ver1.31に切り替えるつもりです。起動時にHG4機能拡張が起きたり起きなかったりで頗る不安定。何時もドライバーでは困惑させられます。
 セレクタがプリンターを認識しないトラブルはモデムのジャックに接続することで解決。先日、津原さんから教わったのですが、これには大感謝。
 いずれにせよ、PowerMac 7500が十全に機能していますので、心配はなし。7600へのソフトのインストールはのんびり致しましょう。いろいろありがとうございました。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 04:35 | 固定ページリンク




一考 | 竿の先

 御邪魔ビンラディンさんへ
 K藤氏は大正4年生まれにて昭和13年に京大を卒業致しております。1974年に森谷さんのところからマラルメ詩集が上梓されてい、その森谷さんから九州大学とお聞きしました。調べもせず、いいかげんなことを書き、申し訳ございません。ちなみに、森谷さんから聞き及びしは60年代の話にて、モーリス・セーヴ作品研究が上梓されし頃かと思います。わが邦にあってリヨン派の研究者は少なく、幻想文学で澁澤龍彦さんの訳詩集を編みし折りは同書のお世話になりました。
 バタイユが退化せし頭頂の目を松毬の目と名付けたのは有名ですが、ピエール・ルイスによれば竿の先にも退化せし目があったのではないかとのこと。二十歳にしてロリコンに陥り、生涯を通じて幼女の裸体の写真撮影にしか興味を示さなかったルイスならではの逸話かと思われます。だとすれば、その師のマラルメのマラは陰茎にして魔羅LE目(敢えて単数)が正しい訳語かと推察されます。
 月曜日は久しぶりに貴方と種村さん、そして高遠さんの四人で話し合うことが出来ました。愉快にしてデタラメな時を過ごせましたことに感謝します。当方のメールアドレスは despera@mac.com ですが、どうせなら掲示板でヨタ話に華を咲かせましょう。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 06:19 | 固定ページリンク




一考 | かっとびカンパ

 Campagnoloさんへ
 約束の物の詳細は判じかねますが、委細お構いなしにて結構、気になさらないで下さい。
 なお、私の愛車は15年前のトヨタのチェイサーです。いくらブースト・コントローラーを取り付けたところで300馬力が限界、現行の2Jなら500馬力、1Jでも400馬力は軽く出ます。ところが1Gは2リッターにして、もともと160馬力のエンジンです。6リッター近い化け物ベンツにかなうわけが御座いません。
 私がオービスでやられたのは75キロオーヴァー。メーターが180キロまでしかないので自覚はないのですが、どうやら185キロで走っていたらしく、こっぴどく叱られました。車重を同じとすれば、加速は軸トルク、最高速は馬力に比例します。それにしても、今のリッター・バイクは300キロ以上のスピードが出ます。400~500馬力にチューンしたGTRやRX-7ですら置いてきぼりを喰らいます。しかも前方にナンバー・プレートがないのでオービスはフリー・パス。長期免停が解除された暁には、ぜひバイクでぶっ飛ばして下さい。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 07:12 | 固定ページリンク




一考 | 完売御礼

 勝井さんへ
 かつての「江戸っ子」編集長の小倉さんが来店、共にいらした宝島社の富永さんと京都文化振興機構の板倉さんが「藤澤清造貧困小説集」をお買い上げ下さいました。目出度く完売、どころか私の分が無くなりました。追加注文を出しますのでよろしくお願いします。
 「銀花」の編集長もこの掲示板をご覧になっているらしく、書評をお願いできませんかねえ。切なくなるほどいい本なんですよ。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 07:30 | 固定ページリンク




フーリエの使者 | 江戸っ子

わあ、「江戸っ子」に「銀花」!「江戸っ子」は大好きな雑誌でした。でも、いつ廃刊になったのか、知らないうちに見えなくなっておりました。私の住む地方には配本されませんでしたから。手元には十冊あまりあります。「銀花」は17号から飛び飛びで買っています。「銀花」で明治後半の木版口絵の紹介なんかしないかなぁ、と思っているんです。今、神保町では木版口絵がひそかにブームなんです。



投稿者: フーリエの使者    日時: 2001年12月06日 10:06 | 固定ページリンク




石川潤 | 渡辺一考の裏の裏は表

 過日の事、ですぺらにて一考氏と20年ぶりの再会を祝して、法悦の一夜を送っていると、この店にいよう筈がない種の酔っぱらいに遭遇し、大変不快な思いをした。詳しくは割愛するが、この御仁「単なる酔っぱらいなんです、すみません」などと言いながら、私や周りの人々の話に馴れ馴れしく割り込んでくるのである。
 酔っているという状態に甘えて、少々の事だったら何をやっても謝ればすむと思っているこの精神。私に言わせれば「酔っているので話かけました、すみません」も「酔っているのでちょっと殺してしまいました、すみません」も全くの等価である。仮面を被って日常を送りながら、毎週2、3人殺して、ケロリと「はい、すみませんでした」の一言ですむと思っているのならば、何も言いますまい。
 要するに酔うなら自分の存在(自身で決意した、自分と生を結びつけている存在)をかけて酔うべし。話しかけるなら相手を殺す、否定する気で話しかけろということ。酒場だって紙の上だって、いくらでも殺しあいの場になるのだから。勿論遊びの場だって構わないが、酔っぱらっていた御仁は「私は物書きです」と言っていたので、このように一言いわずにはおれなかったのである。
 それともう一つ、渡辺一考の裏の裏は表ということ。これは何かと言うと、首をチョンと飛ばす一番の相手は、自分を差し置いて存在する筈がないということを渡辺一考は了解しているのである。一考氏は十八番である下らない冗談や下ネタの裏の裏に、「人は描かれては波に掻き消される暫定的な存在」でしかないという事を、まざまざと実感させる様な言葉を忍ばせている。さり気ないところにチラリ、キラリと匕首を忍ばせているのが渡辺一考なのだ。まあ、50回に1回ぐらいで、あとの49回は本当に何の裏もないお下劣話だけれど・・・。よっぽどシャイなのか、ただ意地が悪いだけなのか、ストレートにものを言わない一考氏の「書き込み」も注意して読めば、他人への返事に託けて、ブスリとこちらを刺す勢いで構えている、言葉の殺戮確信犯の顔がそこら中にある事に気が付かれるであろう。
 要するに僕が何を言いたいかというと、かこつけカッコつけ魔の一考氏が、自分の店の屋号をどうして「ですぺら」と名付けたのか、その悪意、いやいや誠意をゆめゆめ忘れる事なく、大いに酔うべしという事である。
 これってもしかして営業妨害?



投稿者: 石川潤    日時: 2001年12月06日 17:56 | 固定ページリンク




一考 | 手技

 フーリエの使者さんへ
 「江戸っ子」は80年の25号で廃刊になったと記憶します。77年の15号に加藤郁乎さんの原稿を掲載したのが「江戸っ子」と私のお付き合いの端緒。16号からは「江戸の風流人」と改題の上、郁乎さんの連載が始まりました。他では藤浦富太郎さんの鏑木清方に纏わるエッセイが秀逸です。
 小倉一夫さんとは古い付き合いです。彼は在学中から博報堂に所属し、独立してからは編集者の地位向上のために励んでおられます。「江戸っ子」廃刊の後は「TEWAZA(テワザ)」の編集を手掛けられました。「江戸のデザイン」とのサブタイトルを持つ季刊誌で発売元は福武書店。85年の創刊でしたが、こちらは6冊で終わりました。「銀花」と共に稿料がよく、恩恵に与りしことが思い出されます。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 19:12 | 固定ページリンク




一考 | 楽しきは誹謗中傷

 石川さんへ
 今回の文章には前回ほどの切れはありませんなあ。舌足らずで落ちも甘く、点数を付ければ100点満点で11点といったところ。
 御仁もしくは私を否定したいのか肯定したいのか、定かでないところが歯痒いですね。「匕首」や「言葉の殺戮確信犯」など、気の利いた言葉も鏤められているのですが、表現が直截に過ぎるようです。悲しさを描く時に悲しいとの言葉が遣えないように、表現とは二重三重に慎重かつ周到に対象に迫らなければなりません。悲しいと書いてしまえばただそれだけのこと。悲しいもしくはそれに類する言葉を用いずに悲しみを表現すれば読み手は思わず落涙します。相手の気持ちを高ぶらせる、言い換えれば、読者の心情を徹底的にいたぶるには然るべき手立て、即ち時間差攻撃の繰り返しが必要なのです。
 起承転結がなく、起結に終始する文章をユル褌(ふん)と申します。書誌学者や編集者によく見られるパターンです(そうですよねえ、増田さん)。これに懲りず、次回また頑張りやす。
 なお、営業妨害は大歓迎です。管理人はどうやら暫定らしく、最終責任者がいないのが当掲示板の特異なところ。少なくとも禁句は御座いません。種村さんの迷句「影法師 唖(おし)で聾(つんぼ)でど瞽(めくら)で」であろうが、参加者への個人攻撃、中傷、誹謗、なんでもありでよろしいのではないでしょうか。特に僻み、妬み、謗り、差別の類を私は好みます。だって、恋愛なんぞは誰それでなければならないとの独りよがりの思い込み、世迷いごとでしょう。差別の極北に位置するのが恋愛でなければ何なのですか。心の病んだ人すなわち精神がいびつに歪んだ片端者にしか恋愛は出来ません。ちなみに、いびつとは飯櫃の略にして、その心は楕円形であること。これは花田清輝の最も得意とするジャンルではありませんか。楕円の思想は不肖私めが率先して範を垂れると致しましょう。他者に対して悪口雑言を吐けない輩に文章なんぞ著せる筈もなく、また文学から悪意と毒と嘲笑を除けば一体なにが残るのでしょうか。ホラーやミステリーのような唾棄すべきオポチュニストの読み物しか残らないではないですか。
 ただし、管理人だけには敬意を表しましょう。時には小さな親切大きな下心も必要なのです。何故なら、かの人を怒らせると掲示板を閉ざされますから。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 19:22 | 固定ページリンク




一考 | 三橋敏雄さん逝く

 三橋敏雄さんに「顔押し当つる枕の中も銀河かな」という句がありますが、ここには文学の要諦が示唆されています。「枕の中が」であれば興は褪めます。「枕の中も」と閉じることによって、大宇宙の銀河と枕の中の銀河とが融合するのです。ここでは大きな銀河と小さな銀河とが、入れ子構造となって立ち顕われます。即ち、大と小の弁証法が十七文字に昇華されているのです。

 との書込をしたのが10月11日。そして12月1日、胃ガンで三橋敏雄さんが死去、享年81歳。弟子筋にあたる中村裕さんが葬儀の後、わざわざ来店なさいました。
 医師を厭がり痛みを堪えての晩年、入院わずか6日目の最期であったとか。点滴その他の管の挿入を潔しとせず、自分で引きちぎる有り様を伝え聞くに、死期を迎えた弧絶者の自らへの矯激なまでの弾劾に思いを致し申し述べることなし。苦痛に顔をゆがめながら「ですぺら」へ挨拶に行かなきゃあと幾度となく口にされたとか。そんなことを知っていたら、挨拶状なぞ誰が送るものですか。
 貴方は俳壇一のダンディさん、それは私が最もよく了解していました。間違いなく、最期の一瞬までダンディに振る舞われたのですよね。
 何時でしたっけ、貴方と二人きりで福原で朝まで飲み明かしました。西東三鬼が金も払わず登楼し、日本丸のパーサーだった貴方は航海中無駄金を一切遣わず貯金し、その金数を三鬼に代わって女郎屋に支払っていた。そんなことを貴方はどこにも書きはしなかった。三鬼の愛人だった愛々のお玉ちゃん、懐かしい名前です。ちっぽけな飲み屋の壁一面に張られた三鬼の色紙、三人で三鬼お得意の体位の話もしましたっけ。的屋や香具師を集めて昔話に花を咲かせましたね、終戦直後の話題ゆえ、私は頷くのみ、よこっちょでしんみり酒を呑んでいました。私は福原で生まれて育ったのですが、貴方と連れだって歩くときはその福原が遠い異郷の地に思えました。小便臭い路次を右左に折れ曲がって傾いだドアを開ける、返ってくる声は決まって「まあ、お久しぶり、敏ぼん元気」。一緒に歩くと幾人もの博徒が挨拶します。私だって顔は広いのですが、とても貴方にはかないません。お玉ちゃんが亡くなって20年にもなりましょうか。今頃は雲の上で、否貴方のことだから海の底でなくては、三鬼とお玉ちゃんと三人で詰まらなかった地上の憶い出を肴に浴びるほど酒を呑んでいますよね。
 1月の偲ぶ会には加藤郁乎さんと共に伺います。地上に残された僅かな時間、此岸では郁乎さんと私が浴びるほど酒を呑んでいます。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月06日 21:55 | 固定ページリンク




暫定管理人 | 一応おことわり


昨今はインターネットの世界にも法の規制が入り込んできておりまして、
個人情報(携帯電話とか)の無断なる掲載とか愚かなる誹謗中傷には刑法が適用されてしまいます。
一考さんはそんなあほなことはしないとは思いますが、その点だけは気をつけて下さいね。
世の中には追従する馬鹿な輩や、無闇に法令を振りかざす困ったちゃんが多数いるようですから。

>片側はジャーンがジのみにて起動します。これはおかしいのかな。
アクセラレータを載せるとよくある現象です。サウンド関係では動かない部分が出るかも。

>電源スイッチの外側の細長い板状のプラスティックを折りました。
ここはすぐ壊れるんですな。僕も壊しました。はは。

>ただし、XLR8 MACh Speed Controlがどのようなコントロールパネルなのかは私には解りません。
たぶんバックサイドキャッシュのクロック設定ができるんじゃないでしょうか。クロックをあげすぎると
動かなくなります。

>G4に用いたHG4Utility ver1.40は調子が悪く、HG4Utility Ver1.31に切り替えるつもりです。
メルコはたしか韓国だか台湾で作られたものを輸入していて、しかも機能拡張はどこかよそに作らせて
いたと思います。だから外国製と同じく、若干信頼性に乏しいですね。
もうひとつ、G4のAltivec(Verocity Engine) を動かす為にはOS8.6(だったかな)以上でないと
動かなかったような記憶があります。そうしないとPhotoshopなどでフリーズします。



投稿者: 暫定管理人    日時: 2001年12月07日 02:40 | 固定ページリンク




フーリエの使者 | 合掌

三橋敏夫氏が亡くなったことは、存じませんでした。新聞記事で気づきませんでした。合掌。ところで、 鏑木清方の名前に反応しました。最近、彼の若き日の木版口絵にぞっこんです。今、加藤一雄という方の「鏑木清方の芸術」(『雪月花の近代』京都新聞社、1992年収録)に感銘しているところです。『江戸っ子』のそのエッセイ、探してみます。では。



投稿者: フーリエの使者    日時: 2001年12月07日 10:01 | 固定ページリンク




朝子 | 内親王の名前はラヴ&リスペクトって事か。ええやん。


えーそれって貧しすぎませんか?そりゃ楽しく飲んでるトコ邪魔されて
お怒りなんでしょうけど、酒の勢いを借りて、素面では出来なかった事
にチャレンジしてみるのは、なにもマイナス方向にだけじゃーないと、
思うんですけどねぇ。

酔った勢いでベッドまで持ち込んでやるぞー!とか?
酔った勢いで誰兵衛のサインもらってきちゃったー!とか?
酔って勢いをつけた所でステージで楽器もって大暴れ!とか。

色々あると思うんですけど。

絡まれたときのあしらい方の問題じゃないんですか?それって。

なんて、偉そうに、言ってみましたぁん(はぁと)
<<公開私信>>

ゆっきーちゃぁん。
あたし、まだ、待ってるからねぇ!
反論しないうちは、プレゼントももらってあげないし、
デェトもしてやらん。良いか?



投稿者: 朝子    日時: 2001年12月08日 00:18 | 固定ページリンク




B | お悔やみ申し上げます お悔やみ申し上げます

「顔押し当つる枕の中も銀河かな」という句に、死さえも、何も心配するようなことはない、
大丈夫だと微笑まれているような、懐の深さをしみじみと感じています。

フーリエの使者さんへ
はじめまして。鏑木清方、伊東深水、竹久夢二といった浮世絵は、
遅寝をした春の陽気の中でみる夢のようで好きです。
美人画の女の人は、時折植物のようにも見えます。
浮世絵版画の技術で継承されないまま消え去ったものもたくさんあるのでしょうね。

一考さんへ
一考さんの仰る信用できない男の条件は、女のほうにも当てはまりそうですね。
ひと昔前ならスニーカーを履いた女と香水をつけない女だったのですが。
ところで、女だったら浮浪者に輪姦されたいというのも結構ですが、
一寸それに付け加えるとしたら、浮浪者という肩書きさえないような
「芋虫」(江戸川乱歩)のほうも刺激的かもしれません。
それでも女の欲望は果てしないもので芋虫の目まで突いてしまうものです。

12月に入り、晴れて爪に火灯す贅沢な生活が始まりました。兵庫県の山奥で、とい
っても甲斐性がないのでそんなに大したものでもなく、西宮市内にぎりぎり留まって
います。京都の丹後なぞであれば日本海も拝めて良い風情なのに、とは身の丈に
合わぬ風流のため諦め顔。



投稿者: B    日時: 2001年12月08日 01:26 | 固定ページリンク




B | (無題)

題名を2回入力してしまいました。
失礼致しました。



投稿者: B    日時: 2001年12月08日 01:28 | 固定ページリンク




フーリエの使者 | 曖昧な記憶

パソコンは仕事場(職場)にありますので、帰宅して『江戸っ子』を調べましたら、38号まで25冊持っておりました。加藤郁乎氏から教えられて買ったことを思い出しました。加藤氏の連載が終えて、買うのも途絶えたのでした。どうも物覚えが、頭以上に悪くて。勝浦氏の2巻にわたるエッセイを読みまして、記憶力の差をまざまざと痛感しました。『銀花』も、9号からあって、アレアレです。『江戸っ子』では、知らない世界がいつも開けて、忘れがたい雑誌でした。小林礫斎の極細芸術も、これで知りました。今年7月、季刊『版画芸術』のインタビューを受けたとき、待ち合わせに渋谷のたばこと塩の博物館前を指定し、二人の若い女性編集者をそこでの小林礫斎展へ案内しました。二人とも、感嘆してました。



投稿者: フーリエの使者    日時: 2001年12月08日 15:36 | 固定ページリンク




金光寛峯 | 新編大手拓次全集


沖積舎から出る予定(?)とか、「新編大手拓次全集」はいったいどうなっているのでしょうか。
どなたかご存知ありませんか。
もうみんな諦めていた「ノヴァーリス全集」ついに刊行 (1・2巻が既刊)、それじゃあ大手拓次
どうなっているの?



投稿者: 金光寛峯    日時: 2001年12月09日 09:37 | 固定ページリンク




二階堂奥歯 | 乱反射

世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ。
(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』6.44)

「敷衍曲」に対した時のおののきは、難解さによるものではありません。細かな点にまでいたる無数のすれ違いの集積を前にして、どこから手を付ければいいのか決めかねるからです。
(とりあえず金子千佳の詩が「男女の稟質の違いをよく表現している」というご意見には異議があるということを明らかにするにとどめます。)

(私に言ったのではないでしょうが)玉砕など私がするものですか。私にとって議論は戦いではありません。そもそも、戦う戦わない以前に、私と一考さんは議論の場で出会ってもいません。私たちそれぞれが持つ前提と言葉遣いは余りに大きく隔たっています。
呼びかけに返ってくる声の方向とその響きだけを頼りに、さまよいながらめぐりあおうとすることが、私と一考さんの言葉の交わしあいでなされていることではないでしょうか。
一考さんがなさったように、一節一節にこたえることは、すれ違いの集積をいたずらに大きくするだけのことでしょう。違う方法で私はとりあえずの立ち位置を示したいと思います。

学問としての哲学を学ぶとは哲学史を学ぶことに過ぎず、自分が哲学することとはまったく異なるということは、私と一考さんの共通認識かと思います。
しかし、一考さんはかつて私に次のようなことを言いました。哲学科に行ったと言うから、じゃあソクラテスなりプラトンなりアリストテレスなりの哲学をそれぞれ説明して見せろと言ってもやってもみんな答えられない。それで哲学科に行ったなんてちゃんちゃらおかしい、と。これは学問としての哲学を重視し、哲学科はそれを学ぶところだと考えているからこその発言ではないでしょうか。

「有名哲学者の学説」をうまい具合に切り取って説明できることは、哲学する上で必須の能力ではないでしょう。そんなことは、(一考さんがそうしているように)哲学のデータベースを適宜参照すれば済むことです。過去の哲学者が役に立つのは、その人が考えたことを引き受け、それをヒントにして自分が考える時だけです。そしてその時その「哲学」は変化し続ける生きたものになり、「○○の」と所有格で語られる「哲学(説)」ではなくなります。他者が考え出した概念をこのように自分の中に接木し、自分の考えと一体化させて育てたならば、その哲学者の用語は自分にとっても便利な使い勝手の良いものになりますし、理解を共有する相手と話すときにも役立ってくれます。
私も哲学用語を使うことがありますが(でもあまりない。一考さんと話すときにはほとんどないと言ってもいいくらい)、使うために使っているのではないし、必要もなく哲学者の名前を出すこともしません。先日の書き込み「パラフレーズあるいは」の背景にはエックハルトとアウグスティヌスとダンテがあったのは確かです(私の血肉と化したヴィトゲンシュタインは常にあります。そして今回の書き込みにはディヴィドソンとローティーが響いています)、だからと言って彼らの名を知ることも書物を紐解くことも必要ではないのです。私が考えたことをかつて彼らも考えたことがあるというだけのことです。私の中では重層的に響いてはいても、それはそれだけのことです。
(ところで、一考さんが会話や文章の中でばらまく哲学者の名前や用語、あれはなんのために使っているのでしょうか。(多分煙幕をはるためだと思いますけど……)。私は一考さんが「ヘーゲルの弁証法」という言葉を発するのを何度も聞きましたが、その内容に言及しているところに立ち会ったことは一度もありませんし、その言葉が議論を補強していると感じたことも一度もありません。)

私は哲学(なり文学)は、書き手がその人生によって生み出す(一対一で結びついた)ものだとは考えません。書き手は思考が生まれる為の場に過ぎないと考えます。その場が非常に細かな設定を必要とするものの場合、たまたま同様の場があらわれることがなく、ゆえに書き手と書かれたものがわかちがたく思えることがあったとしても、それは偶然に過ぎません。思考はふさわしい場におのずから立ち現れるものだというのが私の考えです。
(厳密に言うと、思考と書かれた物は異なり、書かれた物は書き手固有のものだと言えると思います。だから、文学は書き手の人生哲学なるものと固く結びつくものでもあるかもしれません。そういうものなら私はあまり興味がありませんが。)
ある人が雷雨の中びしょぬれになりながら山の天辺で鉄竿を掲げていたら、そこに雷が落ちたとします。そこでその人がそうしていなかったらそこに落ちなかったとしても、その雷をその人がおこしたとは言わないでしょう。そのような奇怪な儀式をやり続けようという決意と覚悟を持つ奇特な人物を哲学者や文学者と呼ぶことに異論はありません。でもやっぱり雷はその人のものではないでしょう。私は思考をこのようなものとして捉えています。
だから、(便宜的にそう呼ぶことはあるとしても)「○○の哲学」というものは存在しないでしょう。誰かがかつて考えたことを、私もまた考えるか、あるいは考えないかです。それはその誰かのものでも私のものでもありません。
議論が戦いではないというのは、そういうことです。「私の考え」と「一考さんの考え」がぶつかり合って一方が勝ち一方が負けるという図式を私は持っていません。私の思考と一考さんの思考があらたな場をつくり、そこに新鮮な考えが立ち現れることを期待しているのです。結果的に、両方あるいは片方の思考は大きく変化するかもしれません。しかし、それは思考のおのずからなる変化であって、「負けて屈した」ためではありません。

個やアイデンティティやオリジナリティを否定する一考さんが、「文学は書き手個人の倫理観、価値観、歴史観を綴るものであって、アナロジーもしくは一般化とは所詮馴染まない領域のものです。三島由紀夫の死と共に三島の文学も終了するのであって、三島文学とは三島由紀夫の存在そのものだと申せましょう。」と語るということが私には解せません。

多くの場合、一考さんは形式と内容を混同し、カテゴリーミステイクをおかしているのではないかと思います。
肯定・否定する(判断する)為には前提が必要です。「黄が嫌い」、「青が好き」というのと同列に「色が嫌い」ということはできません。色はこの場合判断の前提だからです。色を形式、黄・青を内容と言い換えることが出来ます。ちなみに、「色」を判断するためにはたとえば他に「温度」や「形」などを内容として持つ「感覚」という形式などを前提にする必要があります。
このように、形式と内容は入れ子になっていて、どのレベルにでも設定することができます。しかし、それ以上外側を持たない特別な形式があります。それは(もっとも根本的な意味での)「存在」、「世界」などといった形式です。
可能なのは「存在するものに対して」、「ある規準に照らして」有意味・無意味を判断することだけです。だからまず第一に、判断を可能にする土台である存在自体を判断することはできません。
そして第二に、前提や条件を伴わないならば、どのレベルでも判断はできません。

一考さんが「すべてを否定する」などと言うたびに「安易です」とか、「どこに立っているつもりなんですか」などと言うのは、自分の判断を可能にする前提をないことにして(ひょっとして、気がつかないで?)「すべて」と言ってしまうことに異議を唱えるからです。
そしてまた、一考さんの存在が「孤独や失意の中に溶解してゆく」といった内容を持っていようとも、それであらゆる人の「存在」という形式を否定しようとするのは混同も甚だしいと思います。安易と言って据わりが悪ければ、粗雑だとでも、慎重でないとでも、懐疑が不徹底とでもなんとでも言えましょう。強調しておきたいのは、一考さんの人生が安易だと言っているわけではないということです。カテゴリーをごちゃ混ぜにした上、一気に結論してしまうことを安易と言っているのです。「すべての存在は虚しい」という発言は、たしかに「大雑把すぎ、楽すぎ、危険すぎ」るものの考え方です。

どんなにつらかろうが不幸だろうが、それは世界の中の一登場人物のつらさであり不幸なのです。そんなものはこれまでもありこれからもあるありふれたものであり、この世界の一挿話に過ぎません。そんな一挿話を全体に敷衍して世界を語るなんて、結局自己を特権化していることになりはしないでしょうか。
(孤独を感じ、自分を憎み責め、負の感情に苦しんだことがないわけではありません。それが私にとっていかにリアルであろうとも、それは世界という形式とは違うレベルにあるということです。)

そしてまた同時に、世界は私と離れたものでもありません。
(二階堂奥歯の人生の内容に関係なく)私が存在しているということ、そしてそこにこの世界が開けたということ、その点において世界と私とはわかつことができないのです。視界と視点が離れては存在しえないように。
そして私が語りたいのは、何かが見えているということ、見える範囲、見え方です。具体的に何が見え、それが孤独な景色だとかそうではないとかいうことは、私にとって最重要事項ではありません。

一考さんは、書き手固有の人生哲学が見えてこない文学など文学ではないとおっしゃいます。そのように個の屹立を求める心性と、個を否定しようとする心性とが、どのように関係しているのかを私は知りたく思います。等価であることに絶望したがゆえに、生き延びるため・自己を肯定するために、ことさらに個人の倫理観・価値観をつづるのでしょうか?
私は誰もがひとしなみに人間であることには絶望などしません。そもそも何を希望して(それがかなえらないからといって)そんなに絶望しているのですか?
人間というカテゴリーの中にはたくさんの人がいて、それぞれの内容を持っている。皆同じ形式の中にいると気がつくことと、その個々の内容を無意味とすることはまったく次元の異なることでしょう。そして、私が形式の次元に気がつく時に感じるのは絶望ではなく、新しい視野に対するおどろきであり、よろこびです。
まさか、絶望なんて! できるならもっともっと他の次元を知りたいのです。他の次元を知ったからと言って、これまでの次元内の価値はなくなりはしません。
もちろん、それらの次元の内、どれかを重視することはできます。私は基本的に外側の次元(形式)を重視します。それだけに、内容と形式を混同し、形式を内容で汚染することによって成り立つ一考さんの考えに対して異議を唱えずにはいられないのです。



投稿者: 二階堂奥歯    日時: 2001年12月09日 15:25 | 固定ページリンク




二階堂奥歯 | 乙女的変態話

お邪魔「伊藤敬」ビンラディンさま

昨夜は上野文庫買い出し自慢ありがとうございました。
会社が割と近くにあるので上野文庫はたまに行くのですが、まさに宝の山。貞操帯の記述がある本はないかと血眼です。

サドの「悲惨物語」が少女(!)漫画化されていると昨日お話ししましたが、うちに帰ったらタイトル等わかりました。
高階良子「十字架に血の杯を」(「なかよし」掲載)です。
掲載されたのは何十年も前、単行本収録はされていないようです。
私も見たことがありません。ご覧になったら教えてください。



投稿者: 二階堂奥歯    日時: 2001年12月09日 15:45 | 固定ページリンク




フーリエの使者 | 高階良子

『十字架に血のさかずきを』1974年は、『真珠色の仮面』講談社コミックスなかよし225巻、1975年11月刊に収録されているようです。探してみよっ。



投稿者: フーリエの使者    日時: 2001年12月09日 18:07 | 固定ページリンク




朝子 | 高階女史は


黒とかげ、も書いてましてね、それは漫画文庫になっておりますので、
お手にとりやすいかと思われます。ずいぶん昔の絵柄でアナクロは
アナクロなんですけど、でも、高階さんはこの手のゴチックな漫画を
書かせたら一番だと思います。迫ってくる感じが。無駄なゴージャス
感とか。



投稿者: 朝子    日時: 2001年12月10日 02:07 | 固定ページリンク




御邪魔ビンラディン伊藤 | 映画「マロンブラ」讃

現在、京橋のフィルムセンターで開催中の「イタリア映画大回顧」は、たいへんな好企画です。(昨日までにわたしが見た全プログラムの3分の1強にあたる作品については、少なくとも一本もハズレがないと言うことができます。)
全作品とも一見の価値ありといって過言ではないと思いますが、この掲示板を御覧になる方にゼヒお薦めしたいのは、マリオ・ソルダーティ監督の『マロンブラ』(1942年)。今度の日曜日(12月16日)午後4時の回が、今回の特集における最終上映ダ。フィルムセンターちらし所載のあらすじによると「叔父に引き取られた、身寄りのない侯爵令嬢マリーナ。その叔父は彼女に、結婚するまでコモ湖畔の豪華な別荘を出てはならぬと命じる。」となっていますが、ファーストシーンの湖上の美しさに始まり、「別荘」はいわくありげな古いお城で、道具立てはまったくのゴシック・ロマンスそのもの。物語は終盤の破局に向けて、いろいろな複線を張りながら展開してゆきますが、これを詳細にわたって紹介すると、これから見る人の楽しみを奪ってしまいかねないので、ディテールの紹介は控えておきましょう。ジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』をやや通俗化して映画にすると、こんな雰囲気になるのではないかな?(前売券は、かなり残っておるぞ!!)
途中までの盛り上げ方やハズシ方によいものをもちながら、大団円に向けて突如失速するような気配のあるキーロフ・クラサコフ氏など、この映画の呼吸を学ぶと、本当の凄みのある作家に化けるのではないかと、わたしはニラんでおります。
妄言多謝、では又
追伸:管理人への注文ですが、前回の小生の投稿、改行位置を間違えて投稿したものと、送りなおしたものが並んで掲載されていますが、どちらかひとつを削除した方がよろしいのでは? そこんとこヨロシク!



投稿者: 御邪魔ビンラディン伊藤    日時: 2001年12月10日 18:21 | 固定ページリンク




梅子 | 帽子

津原さんへ

ですぺらにて大切に飾ってあります。
てっきり某書房の某社長の帽子だと思いこんでおりました。
近々上京されますでしょうか。
お送りしましょうか。この冬はとっても寒そうですし。



投稿者: 梅子    日時: 2001年12月11日 03:24 | 固定ページリンク




一考 | 多田智満子さん入院

 多田智満子さんが子宮ガンで先週入院なさいました。詳細は控えさせて頂きますが、今週から7週間の放射線治療がはじまります。快復をお祈り申し上げます。



投稿者: 一考    日時: 2001年12月12日 09:59 | 固定ページリンク




フク | 新年会予約

一考さま、薫子さま

こんばんは。昨晩にお願いしました通り、幻想的掲示板新年会、1月12日の
方向で進めております。本来は改めて御伺いしてお願いするところ、まずは先
に掲示板にて失礼します。
年内に改めて相談に伺わせて頂きますが、よろしくお願いいたします。



投稿者: フク    日時: 2001年12月14日 01:44 | 固定ページリンク




梅子 | フクさんへ

毎度おおきに!
一週間ぐらい前に人数を教えて下さい。
一考は編みタイツ履いてお迎えしようと申しております。
よろしくお願いします。



投稿者: 梅子    日時: 2001年12月15日 03:26 | 固定ページリンク




津原泰水 | RE:帽子


梅子様

 緑色のものでしたら、私のです。
 長年の酷使にへたりきった、とても送付のお手間をいただくほどの代物ではありませんが、
そのぶん幼児的な愛着がありますから、例の朗読の際にでも引き取らせていただきます。
 それまで、ですぺらに咲く議論や猥談を聞かせてやってください。
 よろしくお願いします。



投稿者: 津原泰水    日時: 2001年12月15日 06:35 | 固定ページリンク




栗田ひづる | はじめてお邪魔いたします。


 一考様・梅子様

 先日はお世話になりました。
そして来年の語りの件では、更にお世話になります。(^_^)
初めての試みの上、無理等も申し上げましたが、
ご承諾頂き感謝しております。

 その後、まだ作品が決定していない状態ですが、
もし例の作品に決まった場合、
お忙しい中恐縮ですが、お手隙の時に
方言指導をして頂けましたら幸いです!m(__)m

 また、詳細が決まり次第ご報告させて頂きます。
いろいろご相談させて下さい。
どうぞよろしくお願い致します。



投稿者: 栗田ひづる    日時: 2001年12月16日 17:24 | 固定ページリンク




steward | 文字化けも失礼いたしました。

 下の書き込み、ひどい文字化けで大変失礼しました。以下の内容で書き込みしたつもりでした。
 

 
 先程は高遠様、二階堂奥歯様にお目にかかり、お話を伺うことができて大変うれしゅうございました。ありがとうございました。
 高遠様には仏語、仏文学についてとても興味深いお話を伺って楽しい時間を過ごさせていただきました。balconの深い意味などを巧みな話術でお聞かせいただいて勉強になりました。
 奥歯様にははじめてお目にかかって数秒後に抜歯した奥歯を見せていただいて、近頃希有な言行一致のお方だと感じ入りました。
 今後ともdesperaさんでお目にかかった際はよろしくお願いいたします。



投稿者: steward    日時: 2001年12月18日 00:12 | 固定ページリンク




暫定管理人 | サルベージされました


下の書き込みが一部の機種で文字化けしていましたのでサルベージしました。

steward  文字化けも失礼いたしました。 2001年12月18日(火)00時12分57秒
 下の書き込み、ひどい文字化けで大変失礼しました。以下の内容で書き込みしたつもりでした。
 

 
 先程は高遠様、二階堂奥歯様にお目にかかり、お話を伺うことができて大変うれしゅうございました。ありがとうございました。
 高遠様には仏語、仏文学についてとても興味深いお話を伺って楽しい時間を過ごさせていただきました。balconの深い意味などを巧みな話術でお聞かせいただいて勉強になりました。
 奥歯様にははじめてお目にかかって数秒後に抜歯した奥歯を見せていただいて、近頃希有な言行一致のお方だと感じ入りました。
 今後ともdesperaさんでお目にかかった際はよろしくお願いいたします。



投稿者: 暫定管理人    日時: 2001年12月18日 02:32 | 固定ページリンク




Campagnolo | なべちゃん

MOONさんが、かつて投稿されていた折、resしようとして忘れていましたが、神戸元町の「黒木書店」は先月正式に廃業されたことを報告します。春頃から、古書組合に大きな酸素ボンベを引きずって、管を口にくわえてやって来ていました。「古書の鬼」のような執念を感じました。落札した書物を持って帰ることなど出来ないので、よく僕が手伝いましたが、奥さんもご病気で、店に寄ると「今日も1冊も売れなかった。」「いやな客が来たので追い返してやった。」等が、例によって、いつものセリフでした。バブル期のままの値付と入札価格ですから、売れるわけありません。それでも僕は授業料のつもりで、寄る度に損を覚悟で何万か買っていました。だからという訳ではないでしょうが、いつもココアの出前をしてくれて、なべちゃんこと一考氏の話題になり、いつまでも帰してくれないものでした。ご本人はお嬢さんのお宅に転居、いたってお元気です。処分する商品は東京の古典会に送る筈です。今週あたりから、目録を見ていたら出品しているようですね。但し飛びっきりの珍本は自宅に秘蔵する由。僕も中学生の時はじめて行った古書店が黒木さんでした。



投稿者: Campagnolo    日時: 2001年12月19日 10:07 | 固定ページリンク




今松泰 | 多田智満子さんのご快復を祈っております。


はじめまして。
こちらの掲示板にははじめて投稿させていただきます。
今松と申します。

多田智満子さんとはたまたま同じ町内に住んでいる(らしい)
というだけのファンに過ぎませんが、
どこかの通りですれちがうことがあるかもしれないな、
いつかサインをもらいたいな、などとミーハー精神丸出しの
期待とも妄想ともつかぬことを考えたりしていました。

一日も早くご快復されることを心よりお祈り申し上げます。



投稿者: 今松泰    日時: 2001年12月20日 00:09 | 固定ページリンク




Campagnolo | 多田さんへお見舞い

彼女はきっと、元気になって退院される筈です。実は私も同じ町内に住んでいて、ローカルな話で申し訳ありませんが、昔は篠原公設市場という所へ初代マツダキャロルに乗って買い物に毎日来られていました。処分される折には、必ず声をかけて下さいねと言ってたのに、いつのまにか別の車に替わっていました。入院先は自宅そばの海星病院ですか、それとも婦人科なら市民病院でしょうか。小学校に行く時は多田さんのお宅のそばを通っていましたし、あの庭の裏には多田邸とは知らず勝手に入って遊んでいました。お渡ししたいものがあるのですが、自宅に届けれればいいですね。



投稿者: Campagnolo    日時: 2001年12月20日 20:53 | 固定ページリンク




梅子 | すみません

 随分と書き込みさぼってしまいました。どこかのダスターが、いえ、マスターが
家のマックをいじくりたおしては、調子悪くしてしまったもので。
(何でも人のせいにするのは、どこかのダスターに倣って)

伊藤ビンラディンさま
 土曜日に店に来て下さった時はいつも「今日はどんな映画見たんですか~」と
聞いているばかりで、せっかく良い映画情報を教えていただいているのに、
なかなか見に行くことができずにいます。二日酔いで倒れているおっさんは放っておいて
独りで行くしかない!来年の目標にします。

栗田ひずるさま
 朗読会はですぺらにとっても初めてのことなので、試行錯誤になるやもしれませんが、
どうぞよろしく。私はとっても楽しみにしています。スケベ店主はひずるさんに
カウンターの上に乗れだの、天井から釣り下げて、そこで語れだの勝手なことを
申しておりましたが、聞き流してください。
 方言は店主は柄の悪い福原弁、「おんどりゃ、われ、なにしてけつかんねん」
なんていうのが得意だと思います。私は大阪弁でもなく、神戸弁でもない阪神弁が得意です。
ってそんなもの必要ないかしらん・・・。



投稿者: 梅子    日時: 2001年12月27日 05:56 | 固定ページリンク




梅子 | 営業日のお知らせ

ですぺらは年内無休で、三十一日まで営業します。
店主は二十九日ぐらいから飲んだくれる予定を立てております。
(いつもと一緒じゃないの)
大晦日は零時過ぎたら初詣にいきませんか。
(去年も店主はそんなこと言っていたけど、飲み続けてただけだった)

新年は四日から通常通りの営業です。
四日は新年会をいたしましょう。



投稿者: 梅子    日時: 2001年12月27日 06:07 | 固定ページリンク




御邪魔ビンラディン伊藤 | 今年最後の御邪魔ムシ

サドの『悲惨物語』のマンガ化という高階良子『十字架に血の杯を』は、講談社漫画文庫の「高階良子傑作集」第4巻『血まみれ観音』に収録されています。(角川ホラー文庫版の『血まみれ観音』の方に収録されているか否かは未確認)
主人公の名前とシチュエーションはサドの『悲惨物語』そのままですが、少女マンガとしての「制約」のためか、サドの小説の根幹をなす近親相姦のテーマが欠落してしまい、マンガそのものとしては充分に楽しめるものの、これを『悲惨物語』のマンガ化とするのは、ロジェ・ヴァディムの映画『悪徳の栄え』 (映画の原題は『美徳と悪徳』。それにしても、サドの映画化というと、なぜ、みんなナチスを持ち出すのだろう?)をジュリエット物語の映画化と称するのと同様の無理を含んでいると思われます。
実際に時代考証なぞをはじめると……文学的感性やマンガ的感性を疑われざるを得ないような野暮な指摘のオンパレードになってしまうので、ここは,高階良子さんが、サドのモチーフを借りて、おもろいマンガ書いてるでぇ、と言うにとどめておくべきでしょう。
それから、二階堂奥歯さんへ
佐藤紅霞の『貞操帯秘聞』という本入手しました。未入手なら、いづれ、小生が読んだ後に御進呈申し上げませう。ただで差し上げると、こちらの下心を疑われかねないので、ホイスキーのビンラディン(フィンラガン)とタリバーン(タリバーディン)を一杯づつ御馳走してもらおうかな。
では又



投稿者: 御邪魔ビンラディン伊藤    日時: 2001年12月28日 13:30 | 固定ページリンク




二階堂奥歯 | 年越しは実家で

『十字架に血の杯を』、私もその後入手しました。
悪の美少女物になっていてだめでしたね。『悲惨物語』後半の、母親の元に娘が帰ってきてからがメインですし。
『悲惨物語』の魅力は無論前半。父と娘だけの甘い蜜の部屋での生活と教育の様子が良いのに、やはり「なかよし」的に実の父娘近親相姦はまずいのでしょう。

御邪魔ビンラディン伊藤さまへ
貞操帯のこと、気にかけてくださってありがとうございます!
佐藤紅霞の『貞操帯秘聞』は私も持っています。一冊丸ごと貞操帯の本かと期待させておいて、貞操帯関連はタイトルになっている文章のみという。
酒井潔も貞操帯について書いているし、あの辺を探せばきっともっとあるんでしょうけれど、書いてあることはもうほとんど同じなのですよね。図版だっていつも使いまわし。
それでも買ってしまう貞操帯本。
今年はすでに実家に帰ってきてしまったので、また来年フィンラガンとタリバーディンをご一緒できたらうれしいです。

私にメールを下さるみなさまへ
プロバイダを乗り換えた関係で、なんと実家にいる間(来年4日まで)主要メアドでメールを受けられません。御用の方は携帯メールの方に下さるかお電話で願いします。



投稿者: 二階堂奥歯    日時: 2001年12月29日 01:30 | 固定ページリンク




金光寛峯 | シーシュポスの神々


ここ数ヶ月、友人の同人誌作りを手伝っておりました。
ずいぶん手がかかりましたが、ともかくも見本が刷り上るところまでは
こぎつけました。
いま手元にその現物があるのですが、見ていると、今にして了解できる
ところもありました。この場を借りて書いておきたく存じます。

「才能とはすなわち実績である」と以前お聞きしました。それでは実績と
はなんなのか。
今回私が手伝ったのは昔の作品の復刻でした。著作権者との交渉から、校
訂作業・入力・校正, 解題書きまで、途中いろいろトラブルや差し戻しを
経て、特にここ 2ヶ月というのは、仕事以外の私的な時間ほぼすべて編集
作業にかかりきりになってしまいました。お金も使いました。
他にもいろいろやりたい事や、本来ならばやっておかねばまずい事なども
ありました、本も読みたかったし映画や展覧会も良いものがたくさんあっ
た。義理ごともあった。いろいろ調べてみたい事も多くありました。
でも、体はひとつです。これはどうしようもありません。同時に二つも三
つもできはしませんし、限られた時間で何を優先するか、なんとか決める
しかありません。
ほんとうにたくさんの事を見送りました。

要するに何かを選ぶということは、その他の多くの選択肢を切り捨てると
いうことに他ならないでしょう。
「これに集中するんだ」と自分で決めた、そしていちおう結果は出た。拙
いものではあるけれども、一応これも実績といえば実績であるのでしょう。
だけれども、この選択をしていなかったのならば、もっと他のより良い事
があれもこれもできたのではないか?

しかし、その可能性は自分自身で切ってきたのです。多くの選ばれなかっ
た選択肢、あり得たかもしれない数多くの可能性や未来、他ならぬ私自身
の意思により切り捨ててきたものと引き換えに、実績はできました。

いま刷り上った見本誌を手に振り返り、見送ったものたちの多さを思いま
す。
才能とは実績、そして実績とはどんどん切り捨てることそのものでした。
なにかある事をやるとする、でも同じ時間で別のことをやった方がよりよ
い結果があったかもしれない、しかし両方は取れないのだからどちらかい
ずれかを取るしかない。捨てて、捨てて、捨てまくって挙句、無数の未来
を捨て去った、その代償として、1つの実績はここにある。

さてそれで、そもそも私の "実績" とやらがそもそも何からの意義なり、
意味なり価値なりあるのでしょうか。
無いでしょう。
「無為である、それを知悉した上で、なお行う。だから良い」。

思うに私がやっていることは大岩転がしのようなものでした。カミュの
「シーシュポスの神話」です。シーシュポスは山の頂上まで巨大な岩を転
がしていきますが、頂上は鋭角になっており押し上げられた岩はそのまま
向こう側に転がり落ちていきます。彼はまた麓まで降りていって最初から
岩を押し上げてゆきます。
永劫に続くというこの苦役は、一見は悲劇の構図です。しかし、何かを求
める行動に身を投じること。そして探求の陶酔に浸ること。ただそれのみ
が人間に許されている幸福なのではないのでないでしょうか。

私の岩は下まで転がり落ちたようです。さてまた上げると致しましょう。



投稿者: 金光寛峯    日時: 2001年12月29日 08:32 | 固定ページリンク




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