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一考 | 松岡達宜歌集「青空」

 イエーナ時代のヘーゲルは宗教における屍体解剖を非難しつづけた。現象を個別的に見て統合しえない思考の能力、非弁証法的な反省的・抽象的認識能力を悟性として論難し、意志・感性、さらに理性とも峻別した。若いヘーゲルの示唆するものが、例えカントの受け売りであったにせよ、生きた宗教、揺れ動く宗教を提示しつづけた姿勢には着目すべき点が多くある。
 形式的には意識主体に現れている事実一般を現象という。しかし現れている「すがた」がどう捉えられるかによって、現象はさまざまな意味を持ち様相を変えてゆく。例えば、動物・植物・化石・鉱物など、採集の対象がなんであれ、採集に到る目的によって、留意すべき事項は異なってくる。もしくは、どのような目的で採集するにしても、留意すべきことは、いつ、どこで、どのような方法で、何を採集するか、ということになる。
 植物も動物もそれぞれの生活史を、分布域を持ち、それぞれの分布域の内部においても、生物は特定の生息場所にのみ生息している。はなしを複雑にする気はないが、採取者もまたそれぞれの生活史や生息場所を有してい、採集される側にしてみれば異邦人なのかもしれない。ただ、いくらはなしが込み入ったところで、上述の事項についての正確な知識それ自体が、非弁証法的な反省的・抽象的認識能力であることに違いはない。いつの時代にあっても客体は抽象であって、抽象は知識でしかないのである。
 「いつ、どこで、どのような方法で、何を採集するか」と著したが、ここにはもっとも大事な「誰が」が抜け落ちている。自然界のものに限らず、切手や書物やフィギアなど人口のものを集めるのであれ、ことばを談話や文献のなかから拾い集めるのであれ、そこに秘められた歴史的時間や価値や道徳を、誰が、どのように統合しようとしているのか、主体であるところの蒐集者は採取した対象と語り合い、そして語り続けなければならない、みずからの思想について。採集地のわからない標本にはほとんど価値がない、同様に採集者の肉声を伴わない標本にもなんら価値は賦与されない。ものの収集にあって肝要なのは当事者の思想・哲学である。現象と自己、言い換えれば自己と他者との統合を意識した思考、現象と自分自身とのあいだで繰り返される弁証法的な搖れ、その「搖れ」のなかにヘーゲルは生体解剖を、そして生命を捉えようとしたのではなかったか。

 誕生会の日、大部な著書を頂戴した。松岡達宜(まつおかたつよし)さんの歌集「青空」である。実は松岡さんとは二度目の邂逅で、共に間村俊一さんの紹介であった。初手はうまくはなしが噛み合わず、たがいに消化不良に終わっている。「遠い彼方の闇から漣が寄せてくる」ような舌足らずの情念、純情、含羞、慟哭、そうしたものが未整理のまま、なかば暴力的にどっと吐き出される、彼のやさしい心根や深い悲しみは伝わるのだが、それを私がどう読み解けばよろしいのか、有り体に申して途方に暮れた一夜であった。間村さんにしてからが、すばらしい歌人だと宣うだけで、どのように結構なのかを説明せず、また肝腎要の作品を私は読んでいない、雲をつかむとはこのことで、いささか不機嫌な態度をとったのではないかと、松岡さんへの非礼を顧みて忸怩たるものがある。ただ、維新以降の日本の現代史の側面のひとつをひたすら聞かされた記憶がある。思うに、「青空」一巻を繙くための、あれが松岡さん一流の解説であり、跋であったと、いまにして諒解できる。

 赤軍の夕づつかげろうあじさいの影踏みていきたるや遠山美枝子
 斉藤和よ誰もが忘れしおおかみのたてがみ靡く 赦されよ酒 
 鉄もまた汗をかくのだ白昼の電車揺られて浴田由紀子は
 青森県三沢古びた写真館にて遠きまなざしせし沢田教一

 ここに記された名前に心当たりのないひとに「青空」を読む資格はない。それほどにこの歌集は尖鋭かつラディカルな文学なのであって、松岡達宜の一回限りの精神の軌跡をぎりぎりと刻み込んだ崇高な墓碑そのものであるといえよう。「墓碑」と書きはしたものの、松岡さんを殺す気はさらさらない、松岡さんほどの御仁であれば、権威や権力を求めるような気遣いはまったくない、それどころか、彼の作品がいつなんどき断ち切られたからといって、それを彼自身が惜しむ懸念すらないと思われる、ということを強調したかったのである。ひとは明日のために生きるのではないが、間違いなく過去を曳きずって生きている。だからこそ、たったいま、この一瞬になにかを賭けて生きている、書物を繙くことによって、そんな呼吸に出遇えたのは久しぶりである。なんの義理もない松岡さんについてものを書こうと思った理由の一である。そして、本書に七十枚のエッセイを寄せられた福島泰樹さんと装丁をなさった間村俊一さんが松岡さんの歌のどこに嘱目し、なにをどう読み解こうとしたのか、それを私なりに擦ってみたくなったのである。

 不幸が帽子のごとく似合ふ父ありき風ばかりのボストンバッグも
 銭湯の湯気のかなたに佇ちゆくはわが父ならむ 菖蒲を愛す
 ジンタ遠離りしのちを自転車来 あれは酔っ払いの父上ならん
 大きな鉄塔ありまして疾風怒濤ありまして行方不明のわが妹は
 後髪(オールド・バック)ポマード匂わせ外套(コート)羽織る「少し早いが昭和を閉じて街に出る」
 唇を重ねることもなき夜々を過ごせしことも性愛(エロス)なりき
 鞭のように風、黄昏(たそがれ)雑踏泪橋すっからぴんの男がゆくよ
 丘に登れば波止場の灯口笛さえも病んでいるのだ美空ひばりよ
 散り散りの風の橋上(はし)にて花火見ゆ夜空(そら)に抱かれ苦しひまわり
 十四戦一敗敗れし日の真珠湾その日エディ鉄拳袋置きしと聞く
 リングサイドの灯よ天井桟敷の灯よみんなみんな消えゆきて外套佇てり
 おとうとはかえらぬ風の五月にて角川文庫「岸上大作歌集」
 ひそやかに夜目にバラなぞ咲きおれば唯一人(いちにん)を愛でしことあり
 西成区天下茶屋北一丁目流転の果てか御茶ひきおりぬ
 昭和四十七年わが終末のヘルメット一条さゆり濡れた欲情
 あこがれの「上海航路」ゆきしまま還らず父の戦後やあわれ
 六月のみそら映せしスプーンを蒼くひばりの翔びゆきにけり
 こもごもの生活(たつき)っていう悲の器 煽りておる匕(ひ)の首あわれ
 「ニンゲンは燃える屍せいぜい六〇ワット三時間」愛するひとへ
 人生を消す消しゴムの彼方より光さしくるおさげの治子

 先だって、当掲示板で「経験を含むあらゆる事象は風化して記憶となり、記憶はさらに風解されて歴史になる。その歴史という厚い風化層から自らの搏動を伝えるに相応しいと思われる砕片を撰び取り、さらにそれに形式を与える。その形式によってのみ経験は文学になり、人間の文化を表すことが可能になるのではないか」それゆえに「真の経験とは風化層の博捜にある」のではなかろうかと著した。
 松岡さんの作品をひとことで要約すれば、吃音系短歌とでもなりましょうか。ここでは新旧仮名遣いが入り乱れ、短歌の世界にあっては不用意としか思われないような文言が平気な顔で登場する。言い換えれば、ここには短歌固有の修辞法を無視した奔放さと、かかるレトリックに感けていられないほど極端に孤絶された一箇の主体がある。巻末には「この歌集には多くの引用があります。申し訳ないので、せめて著者の名を列記します」とあり、荒川洋治、辻征夫、村上一郎、萩原朔太郎、美空ひばり、桑田佳佑、北原白秋、吉原幸子、ローリングストーンズ、伊東静雄、中原中也、塚本邦雄、吉本隆明、鮎川信夫、横光利一、山本太郎、ビートルズ、中島みゆき、森山大道、藤原新也、埴谷雄高、福島泰樹、そのほか。と著されている。
 かつて吉岡実さんの晩年の詩を「括弧で括られた〈引用〉への旅」と名付け、澁澤龍彦さんの「唐草物語」を「球窩譚(アンボアトマン)」として珍重させていただいた私であれば、松岡さんが試みようとする相互嵌入をうながすような作品には大いに食指が動く。その相互嵌入が「作者」と「作中人物」と「読者」といった位格(ペルソナ)であれ、「自己」と「他者」と「歴史」といった弁証法的生体解剖であれ、それらの質は同一である。本書にあって相互嵌入、すなわち入れ子構造は技法ではなく、ずばり、書き手ののっぴきならない思想として強く脈搏っている。個々の作品は時間軸を持たない。時間軸がありそうでどこにもない、という方が正確であろうか。時間軸は縦に流れず、横に配列される。時間すらが入れ子として恣意的に扱われ、会津藩士も赤軍派もボクサーもストリッパーも、ことごとくが一つの平面に包括的に置き換えられるのである。そうした手法を、精神の置換法を松岡さんはブルトンから学んだと覚しい。
 「短歌の世界にあっては不用意としか思われないような文言」と先に記したが、思うに短歌的文言とはなにか、さらに「歌人ではない」とか「専門歌人」とかいうような無意味かつ無定見な言葉を書き殴るがごとき歌壇プロパーはどこまで行ってもプロパーであって、いかなる意味においても表現者ではない。そのようなことを書くのも、おそらく「青空」はかかるプロパーからは一顧だにされないと信じるからである。歌集であるかどうかよりも、もっと大切なことがある。それは作品になっているかどうか、言い換えれば、書き手の肉声が、存在の眩暈(めまい)が十二分に表現されているかどうかである。「青空」一巻は短歌という狭量なジャンルで評価しきれるような柔な文学ではないのである。六十年代から七十年代における歴史という名の風化層を博捜し、寄せ木細工のように何度もなんども組み立てては執拗に壊す、その悲鳴のなかに彼の作品は踏みとどまり、哭きながら、小刻みに揺れ動き、そして屹立している。
 最初にヘーゲルに託つけながら「採集者」について書いた理由は松岡さんと彼の人生、要するに時代とのまぐわい、さらには彼の歴史観を私なりに図式化してみたかったからである。そして彼の歴史観を知れば知るほど、このような感想を認めること自体が小賢しく思われてくる。書きものとはそして作品とは、取りも直さず、書き手の目線の移動を伴うものでなければならない。目線の移動を伴なわない作品はディレッタントやコレクターが著すオマージュの域を一歩も出ない。「非弁証法的な反省的・抽象的認識能力」要するに固着した観念をいくら並べ立てられてもそれは毒にも薬にもならない。文学にたとえいささかの趣味性があるにせよ、趣味は趣味であって、それはそのままでは文学にはならないのである。一見、稚拙とも受け取られかねない松岡さんの作品の裏面にどす黒く渦巻くメタファーの洪水、そこにこそ松岡達宜の思想があり、哲学がある。
 彼はあらゆる概念の垣根を取り払い、さまざまな領域を気ままに飛びまわる、絵画や写真・音楽のタイトル、歴史や民俗学の断片、流行歌や出典不明の文言、手を加えられもしくは新たに書き直された箴言、そしてかつて著された自らの作品から他人のことばや作品までもが一人歩きし、勝手気ままに出入りする。内と外との弁証法、内面性と膨張の弁証法が三十一文字の襦袢をまとい、墨東向島の横町の朝ぼらけに、ぼんぼりを点けて顕れた。一読をお薦めする。


 「青空」松岡達宜歌集 2005年2月15日発行 定価2400円+税  
 洋々社 東京都新宿区南町15-101 電話03-3268-0796



投稿者: 一考    日時: 2005年02月18日 19:26 | 固定ページリンク





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