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一考 | 紫葵の花

 松岡達宜さんへ
 全文無事に掲載されておりますのでご心配なく。
 「記事を書く」の下段に、

 投稿(改行無効) (HTML で記事を投稿)
 投稿(整形済み) (整形済みテキストを投稿)
 投稿(改行有効) (HTML で記事を投稿、改行を
に変換)

の三項目が選択できるようになっています。一番上を選択なさったものと思われますが、通常は三つ目の(HTML で記事を投稿、改行を
に変換)を選びます。それにしても分かりにくい表示で申し訳ありません。いっそ、改行なし、投稿者のレイアウトのまま、自動改行とした方が理解できるかと思います。掲示板を覗かれる方のモニターの大きさや表示解像度はてんでんばらばら、またディスプレイに対する閲覧ソフトの展開面積比もめいめいの勝手です。従って自動改行がよろしいのではなかろうかと思うのです。
 出版社を営む友人の業務用パソコンのシステムを修復する程度の知識は持っているのですが、電脳の世界の専門用語はからきし駄目、それと面倒なことにはできるだけ首を突っ込みたくないのが本音で、櫻井、飯田両氏にすべてを管理していただいているのです。管理人との意見が折り合わず、たまに拗ねて書き込みをさぼるのも当掲示板の愛嬌かと。いづれにせよ、せっかく書き込まれたのですから、今後ともよろしくお願い致します。

 ひととひととが出遇ったとき、互いがたがいになにを求めているのか、押したり引いたり、どこまで対応すべきなのか、そのあたりの呼吸や消息を知るのに最短でも三十回は会ってはなしをする必要があると思います。でも貴方の場合はあいだに作品が介在しましたから、次回から対話が成り立つと思います。書きあらわされたものは過不足なく書き手の稟質を読み手に伝えます、たとえ「ひどく風変わりなobjet」であろうとも。いや風変わりであればあるほど、表現者の搏動は特異なものとして読者のこころに刻まれます。朔太郎の「紫葵(ゼラニウム)の花は咲きたり」を持ち出すまでもなく、表現のあらかたは「路地裏に咲く隠花植物」でなければならない、あってほしいと思うのです。「成長していやらしい陰毛が生え揃えば」、王国が崩壊する前に陰毛を剃り落とせばよろしいのであって、その覚悟がなくてなんの詩精神なのでしょうか。剃毛された陰部のいびつさや惨めさを知らずしてバルテュスの絵画を読み解くことはできません。貴方がおっしゃるorthodoxyが自慢げに語る精神の健康さ、懐疑のなさがわたしには許せないのです。
 わたしは基本的にオマージュを書くのが好きではないのです。好悪を決めるにたる確固たる価値基準を信じなければオマージュの書きようがないではありませんか。そうした固定観念、固着した価値観を持つのがわたしはいやなのです。どう考えてもオマージュは「目線の移動」の否定にしかなりません。第一、讃辞になるか非難になるかは書き始めてみなければ分からないのです。
 繰り返します。書物を繙くにさいして、詩であれ俳句であれ短歌であれ小説であれ随筆であれ、委細かまわないのと同様、頌であるか批判であるかといった形式的な問題はどちらでもよいのです。そのようなことではなく、作品について述べるに際して大事なことは、書き手の文言が文学たりえているかどうか、さらに申せば文学とはなにか、という自らの迷い・眩暈(めまい)のようなものが刻印されているかどうかなのだと思うのです。対象を敬愛するがあまり、身を引いてしまっては、自らの精神の(搖れ)のようなものを見喪ってしまいます。それでは毒にも薬にもならない文章しか著せないのです。身を引くという一見謙虚な振る舞いが、逆に対象となる作家のラディカルな部分を消し去り、凡庸な作家との印象を読者に与えてしまう、それを不遜といわずになんと呼べばよろしいのでしょうか。
 またまた勝手な与太を駄法螺を吹いてしまいました。ただ、「青空」の随所に顕れる深い哀しみに、貴方のこころの(搖れ)を間違いなく読み取ったのです。その嬉しさをわたしなりに書きあらわしたいと思ったのです。お喜びいただけたようで、こちらこそ恐縮致しております。お会いできる日の近からんことを願っております。



投稿者: 一考    日時: 2005年02月25日 22:07 | 固定ページリンク





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