ですぺら
ですぺら掲示板2.0
2.0








パソコンの修理  | 一考    

 自宅のパソコンが故障で立ち上がらなくなった。ハードディスクかマザーボードのどちらかが理由だと思う。共にスペアがあるのでなんとかなりそうだが、時間が必要である。よって掲示板はしばらくお休みである。明日は日曜日、休みの間に直ればいいが。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月19日 16:00 | 固定ページリンク




翻訳  | 一考    

 一九六八年十月から七二年の末まで、ちょっとした契機で某仏蘭西文学者を知った。名を俗に大先生という。大先生の名付け親を私は知らない。私が知り合ったときは既にその名が使われていた。というよりも、大学の関係者はみなさん、ゴダールの映画に登場するプロデューサー、プロコシュと重ね合わせていたようである。モラヴィアの原作をもとにしたゴタール初のオールスター商業大作である。
 某仏文学者の社会的地位がどのようなものであったのか、私は知らない。そのようなことにはいささかの興味もないからである。ただ、大先生の過去の翻訳には興味があった。だからお会いしたのである。
 その仏文学者のエキセントリックな人品骨柄についてここで書きたいのではない。書かなければならないことはいくらでもあるが、まだその時期ではない。自らに課したお題は翻訳である。
 前述した「ジョン・マンデヴィル卿の旅行」を読んで、こなれていない訳文と久しぶりに出会った。詳しくは東洋文庫の「東方旅行記」、ジョン・アシュトン「奇怪動物百科」、ジャイルズ・ミルトン「コロンブスをペテンにかけた男 騎士ジョン・マンデヴィルの謎」等々を繙かれたい。私がここで取上げたいのはあくまで翻訳文である。とは言え、「東方旅行記」を翻訳なさるような奇特な方の文章にケチを付ける気は毛頭ない。「こなれていない」の一言で十分である。
 大先生の翻訳原稿をはじめて頂戴したときのはなしをしよう。さらにこなれていない翻訳についてである。その原稿はなぜか拙宅にある。翻訳の対象は、国立古文書学校を卒業後、巴里国立図書館に勤務、アレクサンドル・コジェーヴの影響のもとに徹底的なヘーゲルの継承と批判から出発した思想家・作家である。その原稿を手にしたときは愕いた。「……」とだれそれが言った、とすべての会話の終わりに几帳面に添えられてあった。この「だれそれが言った」は確かに原文には入っている。しかし、それを端折っても誰の発言か分かるように翻訳するのが、翻訳者の務めであろう。ことごとく削除しろとはいわない。変化を持たせる、もしくは「とだれそれ」だけでもかまわない。「といった」を端折るだけでも随分とすっきりする。私はその原稿を真っ赤にした。そのときの大先生の御歳は四十六、翻訳者としては油が乗るころである。
 往時の大学の事務方から聞いたはなしだが、とある裁判でもめた折、大学に残れば名誉教授にはしない、辞めていただければ名誉教授にすると迫られて、躊躇なく高額な退職金と税金を納める必要のない終身年金を選んだ。人を育てるよりも金、授業なんざあやってられるか、これなどは大先生の大先生たる所以である。
 このような文章で名前を引き合いにだされると出された方が迷惑する。従って、比較や参考はなにもない。世の仏文学者の大方は大先生を認めてもいないが、それらの発言もここでは控える。ただ、一部のマニアの間ではいまなお持て囃されているようである。ちなみに辞書を引くと「「マニア」は英語の mania に由来するが、この語は「精神病」を意味し、その病気にかかった「狂人」は maniac。従って、何かの趣味に「熱中する人」の意味の「マニア」を mania とするのは正しくないし、maniac もむやみに使わないほうがいい」とある。されば「オタク」であろうか。大先生から自称愛書家まで、無菌培養の世界で成長した絶対論者であり、美の信奉者であればこそ、「オタク」が相応しかろう。
 「選ばれた少数者のために」が大先生の標語の一つだったが、これはゲッペルスが好んで用いた言葉である。ゲッペルスから採ったのか、それとも「時々は有益なことをいつてゐる」と茂吉が評した吹田順助訳ローゼンベルクから採ったのか定かでない。その標語に対して「話を書物に限っても、書物は複製芸術であり、いかに部数を劃ったところでそれすらが逞しき商魂。よしんば購入者にマイノリティー意識という妄想を抱かせたとすれば、それは偽善でしかない」と私は書いた。大体において、少数者という曖昧な文言を安易に用いるところに、大先生の思慮の底の浅さが窺える。そして、選ばれた少数者などと煽てられて脂下がるのはマニアやコレクターの常である。そうして、そのような土壌からファシズムが培養されてゆく。
 翻訳とは自らの権威や権力もしくは社会的な地位や名声を誇示ないしは保持するためのものであってはならない。翻訳とはついに男子一生の為事たり得ない。一笑の為事とすべく、努めて努力しなければならない。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月18日 08:01 | 固定ページリンク




宇宙の目  | 一考    

 「嗜み」で写真を撮っていただいた齋藤亮一さんから写真が送られてきた。礼状はまだ認めていない。佐々木幹郎さんのところへも送られているが、私は掲示板への写真の載せ方をしらないので遠慮する。
 今までいろんな方に写真を撮っていただいたが、直接写真を頂戴したのははじめてである。幹郎さん宛ての写真の目があまりに感動的だったので、「小さな目の反影のような赫き」と掲示板で書いた。それと比して私は小難しい顔をしている。しかし、どのような顔付きであれ、写真を頂戴したことは嬉しい。なにごとによらず、生れてはじめてというのは有り難いものである。齋藤亮一さんに感謝。
 彼のホームページを訪ねたところ、宇宙の目というのがあった。ひょっとしたら、幹郎さんご紹介のエンデヴァー号の写真も出自は同じなのかもしれない。私にとってはのんちさんの「波坐目」を思い起こさせる写真である。そしてホームページのはじめに戻って、ぜひ全体をご覧いただきたい。

 http://RSblog01.exblog.jp/5821068/


投稿者: 一考      日時: 2008年04月17日 23:13 | 固定ページリンク




水割りとソーダ割り  | 一考    

 今日、突然工事日が決まった。午後一からのガス工事である。雨が降るのにご苦労さんなことである。従って、サントリーのパーティーへは参加できなくなってしまった。担当者の方には迷惑をお掛けする、こちらでお詫び申しあげる。もっとも、七百名の宴会なので、私ごときが行かなくともどうということはあるまい。
 今日のパーティーは山崎の水割りとソーダ割りの試飲会だそうである。水割りは一対一で氷は用いない。ソーダ割りは一対三で、やはり氷は用いないのが理想である。この水割りとソーダ割り(ハイボール)はまったく異なる飲み物である。
 水割りは水で薄めるだけなので、水っぽくなるだけである。間違えても、カスク・ストレングスの水割りはやめていただきたい。ダグラス・レインやジョン・ミルロイのゴールデン・ストレングスは五十度に加水しているが、これは加水後、樽へ戻して後熟させる。後熟なしの水割りはウィスキーと水とが分離したまま飲むことになる。お薦めできない理由である。水っぽくなるのを防ぐために甘口のそれもフルボディのウィスキーが適している。例えば、ストラスアイラやマッカランである。
 ソーダ割りはそれだけで一種のカクテルである。どのようなウィスキーを用いようと甘くなる。よって辛口の腰のあるウィスキーが理想である。ひできさんはタリスカーのソーダ割りを飲まれるが、美味いだろうと思う。私のお薦めはラフロイグの十年である。ラフロイグは十年の加水タイプに限ってひどく不味い。あれを美味く飲むにはソーダ割りが理想である。
 今日、参加したかった理由は実はフードにあった。サントリーが提供するフードはよく選ばれている。前回のメロンのドライフルーツは絶品だった。こちらは後日、勉強させていただく。盛会を祈る。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月17日 12:15 | 固定ページリンク




物の上手  | 一考    

 ひとに手紙を送るのは難しい。誤記、脱字、その他の間違いがないだろうかと投函した後もポストの回りを彷徨(うろつ)くことになる。それが嫌で、二十歳になったときから手紙を一切書かなくなった。書かなくなったことを屡々非難されるが、こればかりは勘弁してほしい。最近はメールという安直なものができたのでよく利用する。
 掲示板もひっきりなしに弄くっている。要もないのに書き換えているのである。櫻井さんが管理人のときは叶わなかった推敲がいまでは可能である。もっとも、推敲とはいえ、私の場合は最適の字句や表現を求めての改変ではなく、ただ徒に捻弄しているに過ぎない。推敲とは「推」を改めて「敲」にしようかと迷い続けることであって、この三日間の書き込みも再三に渡って捻弄している。「ねんろう」は耕衣さんの造語である。
 さて、坂田さん(お名前は控える)からメールを頂戴した。面識はないが、もう苗字を書いても構わないだろう。前述のMSさんである。MSさんからの手紙にも誤記があった。暖房が暖防になっていたのである。他にもあったが、わがことのように羞ずかしく思った。
 去年のことだが、さる人の文章を非難したところ、絶交されてしまった。もっとも、私が非難したのは「視点の未分化」であって、それ以上でも以下でもない。大体が、付き合いと文章の是非はまったく次元の異なるはなしである。それが丼勘定されるのはとても不思議で悲しかった。おそらく幼児性が異常に強いか、もしくは文章によほどの自信があったのであろう。しかし、文章に自信があるなどという戯言は私には信じられない。みなさん自信がないからこそ、書き直すのでないだろうか。書き直すとは表面の取り繕いではなく、中身の一新でなければならない。私は雑誌社から何度原稿を突き返されたか分からない。いちから書き直せとの仰せを書くたびに聞かされたのである。
 その絶交が災いして、相手がプロでない限り、ひとの文章を非難するのは止めてしまった。それが坂田さんの原稿を読みたくないといった理由である。繰り返すが、活字になったものなら読ませていただきたく思う。その場合は活字にした人の責任が介在するからである。仮に非難するにせよ、その対象は介在したひとに向けられる。
 私は思うところをそのまま口にする。従って、ひとの反感を買い、世間を狭める結果となる。稀にべんちゃらを口にすることもあるが、それは励ますようなときで、下心がはっきりしている。いずれにせよ、飲み屋の親父にはあるまじき行為である。糅てて加えて、私は自らのの姿勢を何度も掲示板で著してきている。
 例えば「情念を重んじ非論理的な文言は赦さず、「賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る」輩が迷い込んできたときは弾劾する」と橋本真理さんに関する文章で書いた。この場合、「賞なしコネなし」はやる気さえあれば付いてくる。従って剰余を削れば「やる気なしで作家を気取る」となる。
 このようなことを書けば、話の接穂がなくて困惑する。そこで一条兼良の「小夜のねざめ」からひとこと。彼は自信家で権威主義者だが、たまにはよいことも言う。

 世の末にはあしき事もよくなり、よきこともあしくなることもあれども、物の上手、人の稽古などはかくれぬ物ぞかし。

 坂田さんのメールに「半分趣味ですが、趣味だからといって軽く考えているわけではありません。書くからには上達したいという思いは持ち合わせております」とあった。ここにも誤字があったが、それはさておき、趣味で結構、林達夫やヴァレリー・ラルボーのいうアマトゥールの精神だけは終生忘れないでいただきたい。あとは一語一語を大切にして、いつの日か素晴らしい作品を書いて私を愉しませてくださいな。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月17日 11:20 | 固定ページリンク




圏外文学  | 一考    

 ウェブサイトを私はあまり見ない。もっぱら書き込むか、もしくは耄けている。ところが、ゆきうりさんにマイミクになっていただき、一挙に花が咲いたようである。今日は「ジョン・マンデヴィル卿の旅行」をダウンロードした。

 http://blogs.dion.ne.jp/hinboh/

 「ジョン・マンデヴィル卿の旅行」や前述した「川の地図辞典」に限らず、探検・冒険にかかわる書物が好きである。拙宅には気象研究所鑑修になる「異国漂流記集」をはじめ、「海外渡航記叢書」「大航海時代叢書」 「異国叢書」の類いが積まれている。現代文学に興味が薄れた分、そうした書物に強く惹かれてゆく。海賊にまつわるさまざまな本と共に、血湧き肉躍る異聞の数々にこそ読書の醍醐味がある。私の欲望を充たしてくれるのは環海異聞のような書物を除いて他にはない。おそらく、拙宅から文芸書がなくなっても、そのような書物だけは居座りつづけるのではないかと思っている。
 東京海洋大学附属図書館のデジタル資料は貴重である。

 http://lib.s.kaiyodai.ac.jp/library/bunkan/tb-gaku/hyoryu/hyoryu.html

 それと何時もいうことだが、青裳堂書店の「日本書誌学大系」、「新聞集成 明治編年史」「新聞集録 大正史」あとは「明治事物起源」の類と辞書である。「明治事物起源」の類書だけでも四、五十点はあり、辞書がまた同じくらいはある。冊数にすればかなり膨大になる。
 私はかつて編輯を生業としていた。文芸書しか手掛けていないが、それらはすべて歴史資料の産物であった。編輯から校正、果ては装訂に至るまで、ことごとくが歴史資料に端を発する。用紙ひとつにしてからが、歴史を今に辿ってしかるべき末裔に漉いていただく。雁皮は斐紙、間似合紙、鳥の子、薄様などと呼ばれたが、「和漢三才図会」に出てくる越前鳥の子、正倉院文書の中で見いだされた出雲雁皮、文化財保存修復に用いられる近江鳥の子、「東大寺昭和大納経」の料紙に挙用された備中雁皮等々、産地が異なれば光沢も粘りも違ってくる。歴史書は私にとって必要欠くべからざる一級資料なのである。それらを統合して、私は圏外文学と呼んでいる。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月16日 15:39 | 固定ページリンク




Age閉店  | 一考    

 芳賀さんからの電話で、Ageの閉店が五月十五日に決まった。今週は私はひとりなので身動きが取られないが、週末からはちょっと動こうかと思う。清水弘子さんは何もするなというが、そうはいかない。連休の間にでも内藤三津子さんに薔薇十字社の思い出、長谷川郁夫さんに小沢書店の思い出を語っていただこうかと思っている。私も必要ならなんでもお喋りする。最初にして最後の企画、Ageの幕引きに相応しい飲兵衛が集まらねばならない。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月15日 21:01 | 固定ページリンク




映像身体論  | 一考    

 先日、高遠さんと入れ違いに宇野邦一さんが来店なさった。ちょっとした事情があって、暫くお見えでなかった。ドゥルーズ「シネマ」の翻訳の産物と聞かされたが、新刊の「映像身体論」を頂戴した。素っ気ないみすず書房の本としては珍しく、「裁かるるジャンヌ」のアルトーのカバー写真で飾らている。
 まだ読んではいないが、栞が挟まっていた頁を開くと「見るということは見られることであり、触れることは触れられること、知覚することは知覚されることである……メルロ・ポンティは、見ることと見られることの交叉を身体の現象学的考察のかなめとしたのである。身体は、たんに見る主体でも、主体に見られる客体でもなく、主体であると同時に客体である。見ることは見られることとともに成立し、見られることは見ることとともに成立する」とある。
 書かれていることは決して難しくなく、すこぶる分かり易い、そして間違っていない。ただ、そうした考え方がどうしてメルロ・ポンティの現象学的考察のかなめでなければならないのか、メルロ・ポンティを読まない私には雲を掴むはなしである。「見るということは見られることであり、触れることは触れられること、知覚することは知覚されることである。身体論を語るに際し、見ることと見られることの交叉はある種のものの考え方のかなめとなる。身体は、たんに見る主体でも、主体に見られる客体でもなく、主体であると同時に客体である。見ることは見られることとともに成立し、見られることは見ることとともに成立する」の方が私にとっては通りがよくなる。「ある種の」としたのは「現象学」をさらに暈かしたまでであり、私はそのような考えを永田耕衣から学んだ。
 「映像」という要素を取り入れた身体論は何倍にも複雑になる。ドゥルーズの豊かで錯綜した映画哲学から彼がどのような問いを受け取ったのか。それを読み解くところに本書の大事がある。見る、触る、さらに知覚するといった行為は相互に浸透しあう。要するに、身体は主体と客体の垣根を跳び超えるという辺りに論点があるようである。言い換えれば、身体を中心に置いた思索によって古典的哲学とはおさらばというのが論旨のようでもある。もっとも、そのような結論を安直に引き出すようでは宇野さんから叱られる。問題は彼の思考回路といっても渦のようなものだが、その渦に共に巻き込まれなければ、宇野邦一を読んだことにはならない。そして、その搖れは決して心地よいものではない。
 それにしても彼の思考回路は複雑かつ稠密である。複雑といって悪ければ、正確を期すために厳密である。なぜにここまで細やかな注意が行き届いたものの考え方をするのだろうかと思う。私などは実に大雑把で、読み手に自由な呼吸をさせるのを念頭に置いている。それ故、誤解されることも多いが、その誤解を私自身愉しんでいる。稠密と書いたのは、彼の読書家ぶりを指している。知識や教養があればこその稠密で、さまざまな書物、さまざまな考えが所狭しと立て込んでいる。いささか風通しが悪いようであるが、そこに彼の苦行僧のような俤を観る。
 ところで、最近彼の書く文章から目立って引用が少なくなってきた。それはよいことだと思う。対象を論ずるにお気に入りの文章を引用していてはあまりにも腑甲斐ない。その対象たる作品の新たな境地、領域を展開するには自らの言葉だけで綴らなければならない。引用を読まされるぐらいなら原典を繙けば済むはなしである。
 例えば、入沢さんの詩論は難解だが、詩はパロディに満ちあふれていて判読しやすい。それと比して相澤さんの詩は一筋縄でいかない。すべては厳密な構成と深刻な洞察力の裏側に秘められてゆく。同様に宇野さんの書くものは彼の思索の内側へ幾重にも巻き込まれてゆく。そのような消息を描いてこそのエッセイである。ちなみに、私にとって難解とは意味をなさないということである。宇野さんが書くときの読者想定が私にはとんと理解できない。おそらく、わが邦にあって想定可能な読者は極めて少数であろう。
 彼がですぺらへ入ってきたとき、「やっとたどり着いた」と一言。私は彼がまさか来られるとは思っていなかった。彼とは家族付き合いをしていた。それが理由で、去年の五月以降、私は彼と距離を取ることを心掛けてきた。従って、彼がたどり着いたのなら、私は昔の友とふたたび巡り会ったのである。久しぶりの渦であり潮の香である。ちょいと船酔してみようか。

追記
 ジュネのはなしをしていて鈴木創士さんがもっか翻訳中だと聞いた。なんの翻訳だかは聞かなかったが、堀口大学、朝吹三吉、生田耕作、澁澤龍彦、いずれの訳も困る。あれでは単なる好色小説になってしまう。とりわけ「泥棒日記」は改訳の必要があると思う。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月15日 10:04 | 固定ページリンク




消え去ったアルベルチーヌ  | 一考    

 「「食べれてゐない」「食べれればいいんですけど」などといふ、私の大嫌ひな言葉づかひをするので、私も不快な顔をしてゐたかもしれません。私がこの言葉づかひで許せるのは若い方々のみ。社会人、それも結構な年になつてそんな云ひ方をするんぢやないと怒鳴りたくなります」と高遠さんがお書きだが、若い頃から然様な言葉遣いをしているから歳を経ても直らないのであって、怒鳴りつけるのは若いときしかない。それは言葉遣いに限らず、視点の未分化全体にかかわる問題である。怒鳴られるまでもなく、弱年のおりに注意を受けなかったひとは必ずや自信過剰に陥る。自信過剰というよりも、自己中心性というべきか。アニミズムや実在論がそれで、自らの相対化や客観視ができなくなる。そしてひとたび自信過剰に陥ると病膏肓に入る。
 かくいう私も教養がなく、若い頃は生島遼一さんや多田智満子さんからずいぶんと叱られた。多田さんはとりわけ言葉遣いに神経質で、「ちょうふく」を「じゅうふく」などとうっかり発言しようものなら顰め面をして暫くは口も聞いていただけなかった。
 その生島さんからプルーストを教わった、といっても、授業を受けたのではない。プルーストの大冊を前に途方に暮れる私に「消え去ったアルベルチーヌ」をまず読めばとご教示くださったのである。同じことを曽根元吉さんからも示唆された。そのご恩を差しおいて、ご両人には申し訳ないが、戦後世代は生きたフランス語を知っている。それだけ、フランスが近くなったのである。スエズ経由の巴里はあまりにも遠かったのである。
 翻訳にあっては日本語の能力以前にフランス語の能力が問われる。翻訳はフランス語からの類比推理であって、いくら日本語に精通していてもそれだけでどうこうなるものではない。フランス語による思考回路を持ってはじめて馥郁たる日本語への置換が可能になる。そのような能力を有し、和文にも堪能したひとと申せば、高遠弘美を除いて他にはあるまい。この度、高遠さんの翻訳「消え去ったアルベルチーヌ」が出ると聞く。駒井さんが担当する光文社古典新訳文庫である。新刊書を買わないとの私の方針を切り換えるときがきたようである。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月14日 15:14 | 固定ページリンク




人形記——日本人の遠い夢  | 一考    

 佐々木幹郎さんが土師ノ里(はじのさと)について書かれているが、このような難読地名は全国にある。とりわけ北海道には多いが、西日本にも随分とあって、京都の御陵(みささぎ)、大阪の放出(はなてん)、阪急の「十三」(じゅうそう)、阪神の「青木」(おうぎ)、湖西線の「安曇川」(あどがわ)、関西本線の「平城山」(ならやま)、同じく関西本線の「柏原(かしわら)」と福知山線の「柏原(かいばら)」、赤穂線日生駅(ひなせ)の隣には寒河(そうご)駅がある。地元の人ならともかく、そうでなければ手に負えまい。
 土師氏の一族にしてからが、當麻蹶速(たいまくえはや)や野見宿禰(のみのすくね)を知らなければ皆目見当もつかない。その幹郎さんが一年半にわたって、月刊「なごみ」(淡交社)に連載してきた「人形記—日本人の遠い夢」が最終回(六月号用)をむかえた。最終回は、土偶と埴輪についてである。「人形を通して、どんどん日本文化の深遠に入っていったスリリングな感触。不思議な旅でした。いずれ単行本になる予定です」と書かれている。
 そう言えば、ですぺらで人形のはなしを聴かされたのは一度や二度ではない。人形を語るときの彼の目は煌めいていた。「なにもなにも、小さきものはみなうつくし」とは「枕草子」だが、幹郎さんの小さな目の反影のような赫きを忘れられないでいる。「埴輪の悲しさは眼にある」されば、いま在ることへの懐かしさ、うつくしみが幹郎さんの眼差しから匂う。単行本は淡交社から上梓されるのであろうか。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月13日 16:59 | 固定ページリンク




阿蘭陀雉隠し  | 一考    

 終戦直後に生れた私にとってアスパラガスは缶詰である。中学校へ上がったころからグリーンアスパラが市場へ出回るようになったが、やはり白いものでないと食べた気がしない。グリーンアスパラはバター炒めで頂戴するのが一般的だと思うが、私が子供の頃はマーガリンしかなかった。名はマーガリンだが、鯨油の臭いがするバターもどきの代物で、ひどく不味かったのを覚えている。
 ホワイトアスパラは当然サラダで頂戴する。レタス、キャベツ、トマト、胡瓜を盛り合わせた野菜サラダで、私の好物の一つである。ホワイトとグリーンの違いは葱と同じで陽に当たるか当たらないかの違いだろうと思う。その陽に当たらないという不健康さが堪らない。鶴田浩二や高倉健を思い起こす、要するに日陰者である。どう考えようが、ひとから尊敬されるようになるとお終いである。ひとから敬われる、親しまれる、必要とされる、そうしたことと静(誤字ではない)一杯闘い抗うのが人生である。
 野菜サラダに用いるマヨネーズもドレッシングも自家製だった。出来合いを用いるようになったのはこの十年である。規制のマヨネーズであっても、少量の砂糖と生クリームを加えると美味くなる、ドレッシングなら酢を二、三割と若干の香辛料を追加する。
 開店当時のですぺらをご存じの方ならお分かりだが、フードにはすべて漢字を当てていた。例えばアスパラガスは和蘭雉隠しもしくは阿蘭陀雉隠しで、これはmoonさんから教わった。そのおらんだきじかくしについてゆきうりさんが博識をお示しである。「貧忘録」と題するサイトだが、無闇矢鱈と面白い。とりわけ、『本草圖譜』の紹介は圧巻である。ウェブサイトの一つの範を示唆していると思う。
 公開されているのかどうかが分からないが、お読みいただきたいので、念のためにアドレスを載せておく。
 http://blogs.dion.ne.jp/hinboh/


投稿者: 一考      日時: 2008年04月13日 15:50 | 固定ページリンク




内的野心  | 一考    

 MSさんへ。ですぺら掲示板をお読みとか、恐縮しております。表現の場にあって野心を持つのは悪いことではありません。掲示板にしてからが、どこかに居るであろう見知らぬ友へ向けての恋文なのです。私がブログを忌み、解放された掲示板にこだわるのも、一種の野心なのかもしれません。
 ブログや掲示板と活字は本来、まったく異なるものでした。ところが、活字の世界がネット社会に擦りより飲み込もうとしているようです。ケータイ小説などはその最たるものでしょう。売れればなんでも有りというのは昔からの出版事業の常套です。この種の野心は困りものです。
 書くときは常に読者を想定します。この読者を想定すること自体が、自らの精神を鼓舞し、揺れ動くことになります。これは内的な野心です。だからこそ、読者はひとりかふたりに限定されます。逆にいえば読者を想定しなければものは書けない、もしくは非常に書きづらいのではないでしょうか。

 私は現役の編輯者ではございません。従って、あなたの原稿を読んだとて、そこから先はなんの役にも立てないのです。デビューしてしまった方への助力なら可能かもしれませんが、デビューを手伝うのはほぼ不可能です。そしてデビューの方法はいくらでもございます。世にいう新人賞ないしは文学賞です。この点に関して、私はプロの編輯者を半ば信じています。「半ば」と書かざるをえないところに問題がございます。文学賞の多くは商売です。従って該当作なしを何度もつづけられないのです。今回は決めてくれといった圧力がかけられることもあるのです。
 いまひとつ問題点がございます。昔の編輯者は作家と寝饋・寝膳を共にするといわれました。要は二人三脚のようなもので、編輯者が作家を扶け育てるといった趣があったのです。現今の編輯者は勤め人ですから、それらは望むべくもないのです。なにを言いたいかというと、書き手は使い捨てにされるか、便利屋として利用されるかの公算は大なのです。
 余談はさておき、活字になったものなら読みもしますが、いまの私にはひとさまの原稿を読むつもりもゆとりもございません。従って、ご期待には添えかねます。北九州は昔から文学の盛んななところで、北九州文学協会文学賞などもございます。そちらへの投稿などをお考えいただければ幸いです。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月13日 15:21 | 固定ページリンク




「はてな モルト会」中止  | 一考    

 「はてな モルト会」は参加なさる方が二名なので中止する。私も参加するつもりだったが、だとすると車で行かないと困る。五回連続のお遊びと思っていたが、機熟さず、日を改めようと思う。従って、今日は鉄馬でお出かけ。
 なお、二十六日のモルト会は開催する。詳細は追ってお知らせします。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月12日 16:25 | 固定ページリンク




内部事情  | 一考    

 某書店の名が当掲示板で続くことに対してクレームがついた。一方の趣旨は竹内利美氏への提灯であり柘榴口であって「柘榴口の装飾モティーフが再度花開くのは、売春防止法が施行された昭和三十三年以降の浮世風呂」を書きたかったからに他ならない。また一方は「フィールド・スタディ文庫」のこれまた提灯記事であり、末尾の書物に対する姿勢に論点がある。結果として某書店の名を出したが、それは芳賀さんの意見をちょいと曲げて記載したのである。「曲げて」とは「売られている」を「売れている」としたまでであって、おっきーさんはそれを承知で某書店のオンラインで購入なさった。それは「川の地図辞典」が例え一冊であっても売れたとの実績を残したかったからである。芳賀さんに代わっておっきーさんに感謝申し上げる。
 さて、クレームが内容に関するものなら無視するか反論するかもしくは腹立する。しかしながら、固有名詞の使用にあるのならいつでも削除する。芳賀さんと違い、私には某書店とのあいだに利害関係がなにもない。それでなくとも、大型書店の有りように私は常に反対しつづけてきた。いずれにせよ、今後某書店の名は出すまい。それでご諒解いただきたく思う。

 はなしがこれで終わっては身も蓋もない、そこで一言。
 私の回りには読書家をもって任じる方が多い。従って、本屋への不平不満を屡々耳にする。それが書店への苦言なのか書店員へのそれなのかは定かでない。対象が書店であればなにもいわない、ただ個人であれば問題である。書店の内部事情に精通していれば分かることだが、どこの書店にも書物に詳しいひとはいる。その詳しいひとは内部の仕事に必要なのである。よって、現場はアルバイトで間に合わせる。
 アルバイト相手に四の五の言ってみてもはじまらない。どこそこの書店員は態度が悪いとか本のことを知らないといった違乱はお門違いの落花狼藉。私に言わせれば、新刊書店で本を探すのは客の務めであって、書店員に訊ねるなどもっての他である。それはコンビニやスーパーの店員に料理のレシピを訊くようなものである。そのような身勝手な客は某古書店なら叩き出されるに違いない。新古を問わず、書店にあってはしかるべき人と個人的に親しくなる意外手立てはない。そのためには元手がたんと必要なのである。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月12日 13:07 | 固定ページリンク




麦汁  | 一考    

 かつて麦汁(ばくじゅう)という言葉を聞かされた。クライズデールのラフロイグを飲んだ感想で「この重みと力強さは麦汁のそれである」と、さる客からそれこそ力強く宣われたのである。さっそく「力強い麦汁の香り。口腔にダイナマイトの訪い。五臓六腑にずしりとくる存在感。ウィスキーとはかくも熾烈なもの」とキャプションを書き直した。ところがその後、麦汁を飲む機会を得た。聞くと飲むとでは大きな違いで、なんと甘くて穏やかなものかと驚かされた。これではまるで麦ジュースである。酒精は糖分が分解されて作られる。考えてみればビールの元なのだから甘くて当然である。前述のキャプションは「焼け焦げたヘザー、浜に打ち上げられひからびた海藻、ロープに塗り込められた防腐剤などが醸し出す沃素の臭い。九年ものとは思われぬ、ビッグでパワフルなフィニッシュ。是非ニートかつ常温で味わって頂きたい銘酒」に置き換えられた。
 ラフロイグには「五臓六腑にずしりとくる」ものが多い。エイコーンの水源地シリーズのキルブライド、またはインプレッシヴのラフロイグなどがそれに相当するだろうか。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月12日 04:08 | 固定ページリンク




ブレンダーは調香師  | 一考    

 「ボウモアはモルト・ウィスキーの夜間飛行である」と書いた。夜間飛行がタブーであろうが、ミス・ディオールであろうが、アルページュであろうが一向に差し支えない。思うに、ボウモアには香水が含まれているのでないだろうか。ボウモアの香りは謎である、と言われ続けてきた。しかし、かの芳香が香水に起因するのであれば、はなしはあまりにも明解である。
 一九二〇年代になってオート・クチュールのシャネルが合成香料のアルデハイドを配合した香水「No.5」を発表し、以後ランバン、ジャン・パトゥ、スキャパレリ、ディオールなど、デザイナー・ブランドの香水が陸続と発売された。どうもこの合成香料が怪しいのではないかと思う。
 古代エジプト、ペルシア、インドなどでは動物性香料(麝香、竜涎香、海狸香、霊猫香)や香木、もしくは没薬や乳香のような香油と香膏が用いられた。十九世紀になると各種の合成香料が用いられるようになり、数種から十種以上の香料が調合され、幻想香料と呼ばれる「みつこ」や「タブー」が誕生する。なにやらボードレールの詩篇めいてきたようである。
 子供のころ、紙石鹸や紙香水でよく遊んだが、ボウモアの匂いはそんな生やさしいものではない。表立ち、中立ち、残立ちという香水固有の流れが明確にあり、中立ちには調香師が作り出したいと考えている香りのイメージがもっとも強く表現されている。香水を英語ではパフュームperfume、フランス語ではパルファンparfumまたはエクストレーextraitといい、月桂樹の葉をラム酒に漬け、蒸留したベイ・ラムと称する頭髪用の香水まである。別にウィスキーに似たものがあっても不思議ではない。
 ボウモアの香味が安定しないのも、オーナーの好みに合わせてその度毎合成方法もしくは香料の成分を変えてきたからではないか。旧カスク・ストレングスを飲んでその思いを強くした。コンデンサーの取換えもしくはコンデンサーの位置替えなどで、こうまで香味が変わるはずがない。
 阿闍梨が仏道修行者の頭に香水を注ぎ、修行が終わったことを証明する儀式を閼伽灌頂というが、おそらくボウモアはシングル・モルトにおける閼伽灌頂のつもりで造られたのではないだろうか。もっとも、この件に関して、オーナーはじめボウモア蒸留所の役員はなんらのコメントも発していない。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月11日 16:04 | 固定ページリンク




フェノール香  | 一考    

 ウィスキーで繁く用いられるフェノール香とはどのような香りなのか。日本人であればまず漆を想い起こす、はたまた単寧のような鞣革剤、淡めたメントール、染めに用いるナフトール、写真現像薬、接着剤等々、どういってみたところで、フェノールの香りとの距離を縮めたことにはならない。
 友人の医師に訊いたところ、それはツベルクリンかリスターのようなものだと云われた。この医者はひとのはなしを茶化す癖があるので調べると、リスターとはイギリスの外科医で、石炭酸溶液による消毒法の開発で近代外科手術に貢献、と辞書にある。ならば薬用石鹸のことかと問い質すと、そうだとの応え。
 医師を信じると、フェノールはヨード、アルコール、ホルマリン、クレゾール、リゾール、クレオソート、硼酸、晒粉、昇汞、生石灰の類いと同じ仲間だそうである。ツベルクリンの臭いを私は知らないが、薬用石鹸なら身近に感じている。ピートがもたらすフェノール香が薬用石鹸と同一かどうかは定かでないが、なんとなく納得できる。アイラモルトのヨード香とフェノール香は通底するとみて間違いない。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月10日 21:25 | 固定ページリンク




柘榴口  | 一考    

 昨夜引用した文章についてひとこと。文中引用の仮名遣いには若干手を入れた。『銭湯新話』に於ける「風呂へはいる所」を「風呂へはひる所」の類いであって、これは校正をなさった方の見落しと思われる。その他、疑問に思われる箇所もあるが、間違いではないのでそのままにした。
 民俗学ないしは書誌学者には馴染めない文章の方が多い。その点、竹内利美氏の文章には花がある。「『幕末日本図絵』所収の」と「『日本遠征記』所載の」というように細かい気配りがなされている。重箱の隅を楊枝でほじくるのが書誌学であればこそ、文章には竹内氏のような細心の心遣いが必要である。

 お名前は伏せるが、昨夜ジュンク堂書店の方が見えられた。二十代半ばの女性だったが、柘榴口をご存じなので感心した。風呂六分湯四分とか風呂四分湯六分といって、柘榴口は出入口の引戸を垂壁式に変え、湯槽の湯を深くしたもので、風呂屋と湯屋の区別を一層曖昧にした。唐破風と共に江戸期銭湯の特徴といえよう。不衛生が理由で明治三十年頃には撤去され、やがて柘榴口の変わりにペンキによる風景壁画が誕生する。
 柘榴口に装けられた唐破風や千鳥破風、入母屋の妻に木連格子に懸魚や凝った彫物を施した書院造風、あるいは宮造りとか御殿造りとかいった柘榴口の装飾モティーフが再度花開くのは、売春防止法が施行された昭和三十三年以降の浮世風呂(今のソープランド)であった。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月09日 12:40 | 固定ページリンク




風呂敷  | 一考    

 柳田国男のいう「史心」を調べていて、有賀喜左衛門と竹内利美に行き着いたことがある。別に民俗学について書きたいのではない。過日、高遠弘美さんからドミニック・ラティの「お風呂の歴史」を頂戴した。引用が面倒なので紹介はしなかったが、竹内利美に「「青い目」でみた銭湯風俗」とのエッセイがある。
 ここまで書いて史心か銭湯かで迷うが、「史心」における主体性ならびに「疑問」については書くひとは多くいる。やはり、この場は銭湯であろう。ちょいと長いが引用しよう。当然、著作権は竹内利美氏にあって、版権は雄松堂書店にある。都合が悪ければ、ご一報いただければ削除する。

   「青い目」でみた銭湯風俗          竹内利美

 「入浴好き」はかなりきわだった日本人の習性だが、ことに開けひろげの銭湯風俗は、異邦人の好奇心を強くそそったらしい。鎖国解禁直後来訪した人々の見聞記で、それに触れないものはほとんどない。なかでもアンベールの『幕末日本図絵』所収の「江戸の銭湯(クレポン画)」と、ペリーの『日本遠征記』所載の「下田の公衆浴場(ハイネ画)」の二図は圧巻だ。どちらもザクロ口の模様などまでこまかく写実がゆきとどいているが、ただあまり天井が高く妙に広々しており、浴女の姿態もグラマーすぎてどうもそぐわない感じがする。
 ところで、前者は女湯風景であるが、本文の方をみると「同じ浴槽に男も女もごちやまぜに入れなければならない」としるしてあり、また後者はあきらかに男女混浴で、ハイネ書信にも「最後に熱い湯に浸る——実際この浴室はすべての人に用ゐられるので、老いも若きも男も女も娘も子供も、みんな奇妙に混じり合つてうごめくのがみえる」などと書いているのである。
 そこで幕末期に果して男女混浴の銭湯がまだひろく残っていたかどうかが、いささか気になるわけだ。というのは、すくなくとも江戸では寛政三年(一七九一年)の町触で、「入込湯」が一統に停止になったことは、周知のことであるからである。つまり、「町中男女入込之場所有之、右者大方場末之町々ニ多有之間、男湯女湯と相分焚候而ハ入人少ク渡世ニ相成不申候故、入込ニ仕来候儀と相聞——以来ハ場所柄ハ勿論、場末たリ共入込湯ハ一統ニ堅令停止候」とあるとおりで、「入込之儀ハ一体風俗之為ニ不宜事ニ付相止候」というのがその趣旨であった。当時の入込湯は浴槽が一つで、「是迄刻限を以相分、又者日を分男湯女湯と焚来候者」もあったが、おおむねは混浴にしないと商売にはならなかったらしい。それゆえこの町触にも従来の入込湯はかならず日限をきめて女湯を焚くこと、今後女湯を建て増す場合は「元株」のまま申付けることなどを書きそえているのである。それは寛政二年の布告に「新規湯屋願は今後認めない、ただし男女入込の湯屋が女湯を仕分ける儀は別で、一町を限りゆるす」とあるのと関連してもいた。
 その後は天保改革時の上申書(天保十三年)などにも、女湯は月六斎にし、女の留桶(特約入浴)は禁止することなどは指摘されているが、混浴の件は見当たらない。そして『甲子夜話』(文政四年起稿)に「江都ノ町中ニアル湯屋、予(松浦清、宝暦七年生)若年迄ハタマタマハ男湯女湯ト分リテモ有タルガ、多クハ入込トテ男女群浴スルコトナリ、因テ聞及ブニ暗処又夜中ナドハ縦ニ姦淫ノコト有シトゾ、然シ寛政御改正ノ時ヨリコノ事改リテ男湯女湯トテ男女別処ニテ浴スルコト陋巷ノ湯屋迄モ都下ハミナミナ此ノ制ノ及ビタルト見ユ、彼ノ寛政御政ノ中ニモ弛ミタルモアレドモコノ湯屋ノ事ノ今ニ違ハザルハ善政ノ御金沢ナリ」とあるのを信用すれば、ともかく例外的に男女別槽の件だけはよく浸透したとみてよい。
 宝暦四年(一七五四年)の『銭湯新話』は『浮世風呂』の先蹤といってよいが、そこにも「又片遠所の銭湯には男女入込とて昼中から女も男も一つに風呂へはひる所がござる、それへ表店も張つてゐる、人の女房子をやるはあほうの上品中生、又其様な猥な湯へ入、女中に手足が障つたなどと咎られてはおれが様な馬鹿でも面目を失ふ事、夫より利口発明な若い衆が女中と一時に入込るるは則あほうの上品下生」とあるから、男女別浴はすでに寛政禁令前でも次第に一般化しつつあったといえようか。ただ、京坂地方では「従来男女入込と云て——一槽に浴すことなりしを、天保府令後男槽女槽を分つ」と『守貞漫稿』にあるとおり、若干男女の仕分けがおくれ、また下田などの田舎ではなおそれが後まで残ったのであろう。
 アンベールの記述をよく読むと「ふつう浴槽は最低二つあり、低い仕切りか板の橋で区切られ、どちらも一度に十二人から二十人の客を入れるだけの十分の広さがある。ふつうは女と子供が一方に塊り、もう一方に男が塊まる」とあるから、すでに男女別槽は常態になっていて、混浴はただこの区別が励行されぬ結果にすぎなかったのである。幕末期の好色本の類にもまま混浴図はみられるが、概して浴女図絵は女湯に限られ、式亭三馬の『浮世風呂』(文化六年)もまた初篇四篇は男湯、二篇三篇は女湯と、礼儀正しくふりわけている。
 それにしても日本人の裸に対する開放的な感覚は、ひどく異邦人の目につき、銭湯や行水風俗に強い関心を持たせた。チェンバレンは「もつとも珍中の珍風俗は濡れた布で湯上がりの躯を拭くことだ」(「日本事物誌」)と書き、フィッシャーなる画家も「彼らは毎日入浴する——桶の中で湯を浴びるだけでそこで石鹸も使って桶で冷水をかぶる、だが湿つた拭き布ばかりは気持の良いものではない」(「日本の絵」一八九七年)などと、こまかい観察までしているのである。(新異国叢書 アンベール 幕末日本絵図下 月報13)

 江戸期の「お牢」から今般の鑑別所、少年院、拘置所、刑務所に至るまで風呂へ入るのを行水を使うという。前科者にしか分からぬ文言であって、これは明らかに禊とも潔斎とも異なる。辞書に記載されない語釈だが、平成の今日、行水との符牒が残っているかどうかは知らない。また、江戸時代には水上生活者のために小舟に据風呂を設けた行水船もしくは江戸湯舟も現れた。
 江戸前期までは、銭湯などで入浴の際には下帯や腰巻をするのが習慣で、別に持参した下帯や腰巻とつけ替えて入浴し、下盥で洗って持ち帰った。この下帯を風呂褌、腰巻を湯文字といった。また、濡れたものを包むため、あるいは風呂で敷いて身仕舞いをするための布を風呂敷といい、その名は今日に残されている。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月08日 22:12 | 固定ページリンク




川の地図辞典  | 一考    

 芳賀啓さん来店。之潮(コレジオ)から「フィールド・スタディ文庫」と題する叢書がいよいよ発刊となった。第一冊は「川の地図辞典(江戸・東京/23区編)」菅原健二著、第二冊は「江戸・東京地形学散歩(災害史と防災の視点から)」松田磐余著の二著である。
 「川の地図辞典」の腰巻きには、消えた川・消えた地形歩き(アース・ダイビング)必携。明治初期/平成 対照地図280ページ お買得「初版迅速測図」多数収録とあって、究極の大人のぬり絵本誕生と記されている。
 「江戸・東京地形学散歩」の腰巻きには、「氷河性海面変動」が巨大都市の地盤をつくりあげた。災害危険地域はどのように形成されてきたか。いま、切実な「都市の課題」を、その「場所」で学ぶ、とある。
 芳賀さんのいう「歩く・調べる・学ぶ」を地で行く圏外文学のひとつの到達点といえようか。「川の地図辞典」は464頁に及ぶ大冊である。同書から谷田川(藍染川)の項を引用する。

 上流部を谷戸川または境川と呼び、下流の千駄木・根津・不忍池までが藍染川と呼ばれていた。
 かつての石神井川の跡を流れる川である。石神井川が現在の川筋へ変流したのちは中央卸売市場豊島市場(現・豊島区巣鴨五丁目)と染井霊園(駒込五丁目)の間付近にあった長池を水源として北に流れ、北区と豊島区の境を東南に流れる。巣鴨・駒込付近の下水なども合わせていた。北区中里二丁目の先でJR山手線をくぐり、田端を流れる。その後流れを南東に変え、不忍通りの東側を平行して文京区と台東区の境を流れて不忍池に流れ込んでいた。また、一部は池の西側を流れ、池との間には土手が築かれていた。
 水源地付近には染井霊園(明治五年(一八七二)年に開園、高村家(光雲)、岡倉天心、下岡蓮杖、二葉亭四迷などの墓がある)や慈眼寺(豊島区巣鴨五丁目。司馬江漢、芥川龍之介などの墓がある)、本妙寺(巣鴨五丁目。遠山金四郎、千葉周作などの墓がある)がある。
 水路は関東大震災後の昭和七・八(一九三二・三)年から一〇(一九三五)年頃に暗渠化されて道路になった。
 現在、染井霊園付近の水路跡は狭い道路で、その下流部は商店街の染井銀座通りになっている。また、JR山手線の内側に入ると谷田川通りになる。
 谷田川は流域の宅地化の進行とともに、川が豪雨のたびに氾濫する事態が起きたため、大正二(一九一三)年に流れの一部を谷中初音町四丁目(現・台東区谷中三丁目23番付近)から分流する下水道計画が検討された。この工事によって、分流地点からJR西日暮里駅をトンネルで潜り、現在の京成本線の東側に沿って荒川区西日暮里・同荒川を流れて、三河島で隅田川に放流される谷田川排水路がつくられた。この水路も、現在はすべて暗渠化されて、道路になっている。JR山手線・京浜東北線西日暮里のガードを潜り、左へ入りすぐ右に曲がっている通りが旧水路で、藍染川西通りの標示がたっている。

 谷田川が大きく曲がる北端に西福寺(現・東京都豊島区駒込6丁目11-4)がある。この辺りは染井吉野の発祥の地で、江戸城内植木御用を命じられた植木屋伊藤伊兵衛政武の墓がある。その櫻の花に埋もれて辻潤が眠ってい、墓石には陀仙と刻まれている。前述の慈眼寺には辻潤をモデルとした小説「鮫人」を著した谷崎潤一郎も埋葬されている。
 掲示板で書いた記憶があるのだが、福島で芳賀さんに連れられて辻まことの墓へ参ったことがある。切り株の上に搭せられた小さな丸い自然石がそれで、親子共々、墓碑か記念碑か分からぬような塩梅で葬られているのにいたく感動した。
 このようなことを書くには訳がある。「地図は机上および野外における基本用具であり、地図利用の王道は、目的に応じ自ら色をぬり、発見した事項を書きこむ点にある」と「編集にあたって」で書かれているように、最良の地図は白地図である。同様に、図書館の本を読むのでなく、自ら書冊を所有するとは、利用目的に沿った、唯一でカラフルそして実用的な「ノート・ブック」を拵えるところに本意がある。執筆または研究の役に立たぬ蔵書など、さしたる意味を持たない。限定本であれなんであれ、襤褸襤褸になるまで読まれてのマスプロ本である。
 フィールド・スタディ文庫は池袋と新宿のジュンク堂書店で売れている。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月06日 15:28 | 固定ページリンク




癇疾  | 一考    

 出雲とか熊野とかいうだけで生理的嫌悪感を催す、ことほどさように歴史、文化、伝統等々、日本的なるものを憎悪している。にもかかわらず、入沢氏の詩を読むことが可能なのは「いつ、どこで」を「なぜ、いかに」へと切り換えるフェリーニ張りの魔術であろうか。もとより、リアリズムで夢を見させるのが幻想小説だが、そのリアリズムを刮げ落としてゆくのが詩歌の務めではあるまいか。幻視とは詩歌のための言葉であって、決して散文のためのものではない。
 先般、のんちさんから「おにがいた」とのメールを頂戴した。「おにがいた」をおそらく相澤さんは意識していないだろう。アナグラムの結果の「おにがいた」であって、ここにはのんちさんの眼力すなわち熟読だけがある。詩歌にあっては、なにもかもが用意されている。だからこそ、予想外の展開もあり得る。この「詩歌」は「想像力」と同義である。
 無理、無体、不可能、なんと言ってもよろしいが、出来ないということを信じなかったひとだけが、海に舟を浮かべ、空に飛行機を飛ばした。「出来ないということを信じなかった」と「出来るということを信じた」では意味合いがまるで違ってくる。それは蝶と猪との違いである。蝶が海を渡り、大陸を横断することは誰もが知っている。それは詩歌によって証明されている。
 永田耕衣、塚本邦雄、葛原妙子、三橋敏雄、加藤郁乎、高柳重信、春日井建、寺山修司、高橋睦郎等々を繙くまでもなく、言葉を覚えはじめた頃の誤用すれすれ、もしくは意図せぬ誤用が新たな面白味を生む。それを「痙攣的な美」という。意図すれば間の抜けた緩慢なものになってしまう。文字を正確(正確などという概念がどこにあろうか)に用いるとは、てんかん・ヒステリー・脳腫瘍・中毒・高熱・テタニーなどを起因とする癇疾を言葉から奪うことにしかならない。痙攣をさらに助長させるところに詩歌の大事がある。そしてその典型が西脇順三郎であろうか。
 イノベーションとネショーベンの違い、それは進化と退化。矜りはひとが纏う皮膚、そして埃は皮膚の残滓。こうしたことを垂れ流してゆくと西脇流の詩が出来上る。詩も死と同じで皆に平等に与えられている。従って、「詩は万人によって書かれなければならない」というのは間違っていない。間違っていないが故の失意であり絶望である。
 さて、のんちさん、どうだろうか。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月05日 16:21 | 固定ページリンク




言葉遊び  | 一考    

 「さくら さくら さくらが咲いた くらい くらい お蔵に咲いた」は便宜的に閉じたもので、元は「さくら さくら さくらがさいた くらい くらい おくらにさいた 」です。そのアナグラムから「おにがいた」を読み解いたのんちさんに感服。「さくら」の「くら」と「くらい」の「くら」を掛け合わせたものですが、はなしはそこで止まりません。さすがのんちさんですね。
 かような言葉遊びは中井英夫や相澤啓三さんにとっては日常のものでした。例えば、「幻戯」のなかにもそうしたアナグラムが秘められています。一握りの詩人や歌人、俳人はアナロジーとアナグラムを駆使します。入沢康夫さんもその一人です。だからこそ、「それにしても、相澤さんの詩を誰が読み解くのか。彼の失意の深さを知る」と書いたのです。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月03日 23:27 | 固定ページリンク




書店  | 一考    

 文鳥堂書店赤坂店で新刊雑誌を購入していた。同書店は昔、私が造る本をよく売ってくださった。その御礼を兼ねて訪ねたのだが、コーベブックスや南柯書局の本を扱っていたのは先代らしく、ひとしきり思い出話に花が咲いた。やがて文鳥堂書店赤坂店は閉鎖、東京ランダムウォーク赤坂店で雑誌を購入することにした。共に点数は少ないが、商品構成には目を瞠らせるものがあった。
 私は新本を買わないので、申し訳なく思いつつも、赤坂のような街に斯様な書店が在ることを誇らしく思っていた。ところが、ですぺら閉店後の2007年7月20日、東京ランダムウォーク赤坂店も閉店となった。
 先日、「嗜み」を買おうとして赤坂の書店を歩いた。書物に対して慈愛を抱く書店主はどこへ消え去ったのか。ひとは先を急いではいけない。居た堪らなくなったときこそ、自らの席に執心しなければならない。例え、それが破滅への途だと分かっていても。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月02日 23:26 | 固定ページリンク




展覧会ふたつ  | 一考    

 横須賀功光作品展「光と闇を極めた写真術」が催されている。
 4月1日から4月27日、10時から17時まで。入場無料。月曜日が休館日である。
 場所はJCII フォトサロン、千代田区一番町25番地JCIIビル1階。
 電話は03-3261-0300
 東京メトロ半蔵門線半蔵門駅5番出口から徒歩3分
 本展では作家本人が制作したオリジナルプリントが展示されている。それらを印刷したパンフレットが800円で会場にて頒布されている。撮影、印刷共にすこぶる良質。

 「時代を彩る女優展」へ横須賀さんのプリントが出品されている。
 3月28日から5月6日、11時から20時まで。入場無料。無休。
 場所は六本木にある東京ミッドタウン・ウエストの入口、フジフィルム スクエアー。
 電話は03-6271-3350
 都営大江戸線六本木駅8番出口と直結
 東京メトロ日比谷線六本木駅4a出口から徒歩5分
 東京メトロ千代田線乃木坂駅3番出口から徒歩5分
 フジフィルム スクエアー一周年記念写真展で、秋山庄太郎、稲越功一、大竹省二、坂田栄一郎、沢渡朔、白鳥真太郎、立木義浩、横須賀功光が出展している。功光さんのプリントが他よりひときわ傑出しているのは言うまでもない。

 一昨夜、横須賀安里さんが飲みに来られた。AGEのマダム清水弘子さんとの約束があったので一時でお開きにしたが、ずいぶんと話し込んだ。ですぺらへの思いは功光さんと共にある。私の身体の内側をすり抜けてゆく功光さんの肌触りを感じた。幹郎さんのいう絶望の果てにたたずむ刹那の悦楽であった。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月02日 19:56 | 固定ページリンク




無用のひと  | 一考    

 ですぺら引越の折、AGEのマダムから新宿への移転を強く薦められた。理由は痛いほど解っていた。だからこそ、新宿界隈の店舗を重点的に探した。しかし、いい物件に当たらなかった。家賃の安いところはやはり赤坂で見付かった。これ以上、私にできることはなにもない。
 昨夜はAGEで酒を飲んだ。ほぼ泥酔である。ちはらさんは私が泣き出すのではないかと心配したようである。べつに泣き出しても不思議はない。それだけの付き合いをしてきた。彼女と私を引き合わせた三枝和子さんは2003年4月24日に逝った。彼女が薫陶を受けた埴谷雄高が亡くなったのは1997年2月19日、遺品の一部はAGEのバックバーに飾られている。
 どうやら、世の中は必要とされるひとで満ちあふれているようである。必要とされるひとは泥酔などしない。シラケ鳥が群れをなして飛び交うと飲屋街では閑古鳥が鳴く。疾風怒濤の時代は遠くに去り、櫛風沐雨は記憶の襞から滑り落ちてゆく。共に、後になにを残そうというのか。生きるに証しはいらない。われら無用のひと。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月01日 23:53 | 固定ページリンク




嗜み  | 一考    

 「嗜み」が上梓された。発売は文藝春秋、定価は800円。カラー六頁を割いての紹介である。送られてきたのは一昨日だが、三月二十日に発売されたようである。ちなみに、ジュンク池袋店には二十部入ってもっかのところ三部売れたらしい。

 ああ、これは十四歳の不良だな、と考える。中学の上級生になって、ナイフなどを懐に入れて、粋がっている。まだ、世の中の怖さを知らない。一匹狼だが、喧嘩の仕方を知らない。春の漁港の突堤の上で、あぐらをかいて、睨みをきかせている。
 そんな風景を想像する。こいつがもう少し樽のなかで寝ていたら、どんなふうになるのか。
 それから数年経った、同じ蒸留所のボトルと飲み比べる。ゆるやかに熟成されていて、味のコントロールもいい。スモーキーさは少し薄れているが、飲み干したあと、香りの余韻が上がってくる。こいつは優等生だな、と思う。しかし、なんとなく儚い。樽の種類も蒸留した年度も違うのだが、勝手にさきほどのボトルと比べて想像する。
 白い夏の光りが見えてくる。十六歳の夏休み。少年が帽子を被り、田舎道を歩いていく。そのとき、突然、優等生を続けるのはもうやめようか、と思った。もっと好きなことをやりたい。蝉の声がジンジン響いて、初めての自由を覚える。海の匂いが吹きつけてくる。将来は何になるのか、まだわからない。

 モルト・ウィスキーを描いて佐々木幹郎さんの筆致は見事である。さらに裏の、別の意味が焚き込められている。詩人はこうでなければならない。それは私であり、あなたであり、誰かであり、そして個々の読者でなければならない。かかる恩愛を持ってモルト・ウィスキーを語ったひとが過去に幾人居ただろうか。耕衣のいう「出会いの絶景」がここにもある。
 
 詩の言葉が、小説と違って万人の好む味や香りに仕立てることができないように、シングルモルトも万人向けではない。好きな者が好きな味と香りを愉しむ。
 一つの樽から生まれるボトルの数が少ないから、飲み干してしまえば、この世から永久になくなる。同じものは二度と作ることができない。この、消え失せるという感覚が、また、いい。
 ・・・・・・
 シングル・モルトを飲んでいると、生きていてよかった、と思うことがしばしばある。いまここにいる手触りだけが確かなとき、酔いは、美しい本のなかの美しい言葉と同じように、グラスの内側で悦楽の極みになる。

 「いまここにいる手触りだけが確かなとき」いい言葉である。その手触りを求めて、否、手触りの確かさを探して、ひとは老い、朽ち果ててゆく。そうではあるまい、やはり翻訳は不可能である。「いまここにいる」という抽象が、「手触り」という具象に恋慕する。慥かなのは手触りだけ。「手触りだけが確かなとき」その手触りを感じているひとはおそらく生きてはいまい。存在しているのか、存在していないのか、透き徹ってしまった存在が、「白い夏の光り」の間を通り過ぎてゆく。
 幹郎さん、ありがとう。私が聞きたい言葉は「生きていてよかった」、ただそれだけ。


投稿者: 一考      日時: 2008年04月01日 22:39 | 固定ページリンク




はてな モルト会  | 一考    

 赤坂のテーブルスタジオタキトーでくらやみ食堂が催された。その名の通り、真っ暗闇でフルコースを愉しむのが主旨で、出てきた肉が魚肉なのか、豚肉なのか、鴨肉なのか、または飲んでいるワインが赤ワインなのか、白ワインなのかすら判然としないという。
 この類いは私も何度か経験済みで、常日頃口にしているものでも当たらない。しかし、同じものでも目隠しをしていないと意外と当たる。ひとがいかに視力に頼っているかを物語っている。
 さて、普段口にするモルト・ウィスキーに限って目隠し抜きで予測・推測を的中させようと思う。
 用いるウィスキーはスキャパ、タリスカー、レダイグ、ハイランド・パーク、アードベッグ、カリラ、ボウモア、ラガヴーリン、ラフロイグ、グレン・スコシア、スプリングバンク、アベラワー、クラガンモア、グレンファークラス、グレン・マレイ、グレンロセス、ストラスアイラ、バルヴィニー、マッカラン、アバフェルディ、エドラダワー、オーバン、クライヌリッシュ、グレンモーレンジ、タリバーディン、フェッターケアン、オールド・プルトニー、ロイヤル・ロッホナガー、グレンキンチーなどのディスティラリー・ボトルから八種類を選ぶ。
 ハーフショットで会費はお通し込みで4000円。八種類のうち六種類以上当てた方には、次回来店の折にスモーク盛り合わせをサービスする。
 四月十二日(土曜日)に第一回を催す。題して「はてな モルト会」。鼻の下ならぬ鼻と舌に自信のある方のご参加を乞う。

店主


投稿者: 一考      日時: 2008年03月31日 20:21 | 固定ページリンク




遠い思い出  | 一考    

 りきさんが「鏡花論集成」を誉めてくださった。彼のところへいきさつを書き込んだが、他にも思い出したことがあったので少々。
 同書の上梓は1983年9月だが、編輯は1971年1月にはじめられた。この間、1972年1月に「別冊現代詩手帖第一巻第一号泉鏡花」が思潮社から上梓され、小生も編纂を手伝った。当時の現代詩手帖の編輯長桑原茂夫(後のカマル社)さんとは随分酒を飲んだ。菅原(後の牧神社)、大泉(後の書肆山田)、渡辺(後の北宋社)各位を紹介され、宮園洋さんとは特に懇意にさせていただいた。洋さんの協力でバタイユの「大天使のように」を装訂したのが1970年。翌71年1月にサバト館を作る。I田との関係は「別冊現代詩手帖」の上梓以降おかしくなった。これはあくまで時期を指すのであって、理由は他にある。
 「鏡花論集成」は思潮社から出る予定が牧神社へ引き継がれ、十余年の年月を経て立風書房から上梓された。上梓に当たっては立風書房編輯長宗田安正さんの世話になる。田荷軒にて知り合い、阪急電車で多田智満子さん家へ向かう途次、鏡花のはなしになった。
 その多田さん、矢川さん、種村さんと知り合ったのは1969年。この間山本六三さんを招き、ずっと水曜会を催していたが、72年12月のコーベブックス入社によって中断。水曜会については項を改めたく思う。


投稿者: 一考      日時: 2008年03月31日 16:09 | 固定ページリンク




AGE  | 一考    

 ちはらさんから寒いので車で送ってと請われた。従って本日は車で店へゆく。先週、芳賀さんが来店、新宿のAGEが店仕舞するかもしれないと聴く。今日はAGEへ行く、清水弘子さんと話し合わねばならない。
 AGEは嬰児、如嬰児之未孩と老子にいう。私は南船北馬を専門としない。この場合の南船北馬は「胡人便於馬 越人便於舟」すなわち東奔西走の意ではない。北の孔子に対し南の老荘を指す。老荘思想のゆらゆら揺れ動くさまを船と例える。私はAGEではじめて嬰孩に接したというよりも、孩ったのである。言い換えれば、ひとの情に胸襟を開いた。
 彼女の生き方もおよそ不格好である。それでいいと思う。「定番を何種類か用意して撰ばせる風を装わなければならない」と先日書いた。この消息は飲み屋に限らない、サルトルやカミュの諍いから学んだものである。シュルレアリスムが腑に落ちないとは何度も書いてきたが、実存主義も私には眉に唾するものと思われる。私にとって人生とは迷いに惚けることであって、さだめなく振れ続けることでしかない。個と全体、行動する自由と世界の関係はなにひとつ解決されたわけではない。アンガージュはまだまだ遙か遠方にある。


投稿者: 一考      日時: 2008年03月31日 14:17 | 固定ページリンク




新来の客  | 一考    

 連日、新しいお客さんが来る。先だってはエナジェンの野田さんが飲みにいらした。領収書の宛名書きに会社名が必要なのでお借りしたが、名刺を受け取って欲しいとのことで拝領した。ちょいと検索してみたが、私にはちんぷんかんぷんで要を得ない。新しい技術を携えた起業家らしい。会社は平河町だが、ご自宅は赤坂だそうで、近隣の方に来ていただけるのはありがたい。
 バーナビを見て来られた方もいる。住所は新しくなったものの、定員は二十七名、食事ができると書かれている。これは何処のですぺらかと思う。いずれにせよ、プリントアウトしたものを持って来られる。便利な世の中になった。パソコンはおろか、複写機すらなかった戦後直近の世代にとっては愕きの日々である。
 常連客の小山さんや野島さんはモルト・ウィスキーの書き込みを持参なさる。その熱心さには頭が下がる。仕入れも彼等を意識したものに変わってきた。さまざまなところで、パソコンが有効活用されている。ウィスキーの書き込みを増やさなければと思う。
 月が変われば雑誌四誌の効果があらわれる。新生ですぺらははじまったばかりである。


投稿者: 一考      日時: 2008年03月26日 23:48 | 固定ページリンク




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