ですぺら
ですぺら掲示板2.0
2.0








スランジバー  | 一考    

 こちらでは書かれないが、本当に嬉しいことがあった。まずはTさんにおめでとう。五十年後に生きる同時代人に乾杯。


投稿者: 一考      日時: 2008年07月04日 18:57 | 固定ページリンク




食み出た荷物  | 一考    

 シェリー香はシェリー樽ですが、バニラの甘さやクリームの滑らかさを附与するのはバーボン樽です。元々、ウィスキーの熟成にはシェリー樽が用いられてきました。昨今さまざまな樽が用いられるのはシェリー樽が減ってきたからです。世界中の人がシェリー酒を飲めば、シェリー樽の供給は潤沢になります。
 日本酒から洋酒に至るまで酒は甘いもの、というよりは甘いものほど高級品でした。カクテルは洋酒をさらに甘く飲むための調法ですし、羊羹は日本酒の肴として開発されました。ただ、世界的な傾向として、甘いものは流行らなくなりました。その端緒になったのがスモール・バッチ・バーボンであり日本のビールであり酒だと思うのです。
 ピートの効いたウィスキーが男性の飲み物で、シェリー香のある甘いウィスキーが女性のそれ、というのはまったく理解できません。そして、嗜好品であればこその棲み分けというのは何に対しても当たりません。
 あなたが女性であるとして、さらに甘いウィスキーが好きであるとして、それはあなたの嗜好であって女性一般の嗜好ではありません。6月19日の「シングルカスク」で「最初からサントリーのウィスキーとして生れてくるのではない」と書きましたが、女性は最初から女性として生れてくるのではなく、半ば強制的に女性として育てられるのだと思います。
 男女という分類、それ自体に私は反感を抱いています。世の中には男、女といった区分に収まりきらない人が多くいらっしゃいます。「茶毒蛾その二」で「昨日単独行の幼虫を発見した。毛虫の世界にまで欄外に食み出すやつがいるようである」と書きましたが、私はそうした食み出し者に共感を抱いて、当掲示板を開きました。ちなみに、食み出し者とは男女の問題に限りません。


投稿者: 一考      日時: 2008年07月04日 16:38 | 固定ページリンク




ブナハーヴン・ヘヴィリー・ピーテッド  | 一考    

 「本品(シグナトリー)に先行してドイツのスコッチ・シングルモルト・サークルから97年蒸留、8年もの、57.8度のボトルあり。同じくシグナトリー社のアン・チル・フィルタード・コレクションからリフィール・シェリー・バットの加水タイプがボトリングされている。共にヘヴィリー・ピーテッド」と6月5日の「新入荷のボトル」で書いた。
 昨日、栗林さんからファクシミリがあって、もう一品あることが分かった。サマローリ社の97年蒸留、10年もの、45度である。なお、九月にはジャン・ボワイエ社のベスト・カスク・オブ・スコットランドの一本として43度のヘビーピートがボトリングされる。スリー・リヴァーの扱いだが、ボワイエのボトルはユニークである。
 サマローリのブナハーヴンは塩素系で、シグナトリーのそれとは香味が異なる。ピーティーな味わいではなく、市営プール(都営でないところがミソ)の水に含まれる消毒剤の臭みが強調されたものらしい。プール熱(咽頭結膜熱)やあたまじらみに注意。なお、あたまじらみに消毒剤は効かないことに留意。

 ところで、M・フォレスト氏のボトリングになるジュラ・ヘビーピート・カレドニアが入荷の予定。99〜02年の3年もの、水色ラベルは既に市場になくクリームラベルの方である。水色ラベルは60.7度、447本のリミテッド・エディション。パワフルでスモーキーなジュラだったが、クリームラベルはどうだろうか。ディスティラリー・ボトルはフェノール値40ppmのポート・エレンのモルトを使用しているが、こちらは60ppm。楽しみである。


投稿者: 一考      日時: 2008年07月04日 14:48 | 固定ページリンク




残念です  | tk    

返信読みました。
ピートのウィスキーが新しく出始めたからテースティング会なのですね。
やはり男性や紳士向けの会のようで残念です。
だけれど嗜好品なのでこうして住み分けをされてしまうのも仕方ありませんね。
最近やっとこの現実も仕方のないものだと受け止められるようになりました。


投稿者: tk      日時: 2008年07月04日 09:35 | 固定ページリンク




ウィスキーの寡多録  | 一考    

 クレッグホーンについて書いていて思ったのだが、ホームページの記述はおよそ十年前、半数はそれ以前の西明石時代に書かれた。従って、すべてに亘って記述が古い、早いはなしがなんの役にも立たないのである。その間に、蒸留所は閉鎖されては新たに生れ、蒸留所のオーナーは変遷し、多くの食料品店やワイン商がボトラーとなった。なかにはブローカーがボトラーになった例もあって、その逆も現在進行中である。
 オーナーの変遷と書いたが、それに伴って夥しい数のディスティラリー・ボトルが誕生した。昨今ではディスティラリー・ボトルしか飲まないような人がいる。それはそれで構わないのだが、ディスティラリー・ボトルを頒していない蒸留所はその人にとって存在しないのかしら。ちょいと不思議な気がする。
 先日のヘヴィリー・ピーテッドのように、新たな情報はできるだけ掲示板で触れるようにしている。今だからこそ書くこともあって、いっそホームページを書き直せばよいのだが、その気力は既にない。とても一人で処理できるものではないのである。ただし、店内のカタログだけは最新のものに常に書き換えている。二週間に一度、約三分の一ずつ更新している。要は一箇月半毎にカタログは生まれ変わっている。もっとも、読まれる人はほとんど居ないが。
 情報だけならウェブサイトに濫れている。気になる人はそれらを糊と鋏でコラージュすれば済むのであろう。先日の書き込みにプラスカーデンを忘れていた。書き加えるに際し、一部字句の修正を施した。


投稿者: 一考      日時: 2008年07月03日 19:02 | 固定ページリンク




クレッグホーン・ディスティラリー  | 一考    

 サマローリやムーン・インポートなど著名なボトラーのボトルは少々古いものでも手に入る。他方、いくら探しても入手が難しいボトルもある。例えば、クレッグホーン・ディスティラリーなどがそれに相応しようか。
 クレッグホーン・ディスティラリーはリバプールの元ワイン商。クレッグホーン・ヴァントナーズ社と同資本のカンパニーで、ラナークに本拠地を置き、リバプールに熟成庫を持つ。白ラベルの時代を想わせる透明の角瓶を用い、カスク・ストレングスを専門とする。このオールドボトルを連想させる角瓶を現在用いているのはキングスバリーの関連会社アベイヒルぐらいなものだろう。概してコンディションはよいが、酒名から蒸留所を判断するのはきわめて困難である。例えば、アバフェルディをグレン・クェッチ'、タムドゥーをオーキンドゥー、グレンロセスをブルイマレイ、ダルユーインをベルチャロン、プルトニーをワリゴー、ミルトンダフをプラスカーデンと名付ける。この中でなんとか連想できそうなのはブルイマレイぐらいであろうか。
 スコッチ・ モルト・ウイスキー・ソサエティのボトルにみられるヒントやエイコーンが扱う水源地シリーズなどは判りやすい。ラフロイグがキルブライト、ボウモアがザ・リヴァー・ラーガンあたりはさしずめ初級篇である。また、ダグラス・レインのクレディタブルがクラガンモア、グリーミングがグレンキンチー、タクティカルがタリスカー、ローダブルがラフロイグも消息通ならすぐ判る。ところが、クレッグホーンのボトルはひとつひとつ味見するしか手立てはない。
 クレッグホーンを取上げるのは、ここのボトルが蒸留所の素顔に近い香味を持っているからである。例えば、オーキンドゥーは色濃いタムドゥーの中にあって珍しいプレーン・タイプであり、グレン・クェッチはディスティラリー・ボトルと比してよりクリーミーにしてリッチなフレーバーを持つ。ベルチャロンは蕃椒の辛さが著しく、ワリゴーはかつてスリーリバーズが扱ったビーン・ア・チェオと似て、結構な甘口。こちらが本来のプルトニーの香味ではないかと私は思っている。
 スコッチ・モルト・セールスが扱っていたような記憶もあるが、私が知っているインポーターは武蔵府中酒類販売有限会社で、上記六種類だった。欠点はと云えば、売り出しのときの値が少々高かったことであろうか。94年から95年の販売だったが、当時税抜きで八千四百円から一万円のあいだだったと記憶する。田中屋の栗林さんと高いですねえと喋ったのを思い出す。しかし、その値も今となっては安い。どことは書かないが、某所に在庫があると聞く。当掲示板をご覧の方はしかるべき「某所」へお出掛けあれ。

追記
 ですぺらホームページではクレゴーン・ディスティラリーと表記しているので訂正する。スペルはCleghorn Distillers。ちなみに検索では孫引き以外に出てこないボトラーである。


投稿者: 一考      日時: 2008年07月02日 21:24 | 固定ページリンク




物語  | 一考    

 七月五日の土曜日に有志が集まって酒を飲むとかで愉しみにしていたのですが、新宿のナベサンは山梨のコンサート行き、数年ぶりの休みだそうです。従って、新宿はあきらめて赤坂にしましょう。
 先日、用事があってナベサンと会ったのですが、近頃近隣で飲み屋を営む方がよく来られるので、朝の八時、九時になるとのこと。それに対する彼女の意見は伺わなかったのですが、私は同業者の内で金が回るのは反対です。私のことですから、身内意識など端からないのですが、来られれば行かないといけない。そのような義理掛けがいやなのです。赤坂で飲まないのは来られると困るからなのです。親しくしている方もいるのですが、そこへは店がはじまる前に行くように心掛けています。よって、そういう心配のない赤坂亭や白木屋といった飲み屋が私が行く場所になります。ですぺらのような個人商店は避けるのが互いのためなのです。
 亡父が晩年、福原振興会の理事をやっていたので、あの世界の醜悪さは身にしみて解っています。組織のいかんを問わず、理事とか役員とかいった人たちは改革を嫌います。
 これはウィスキーの世界でも同じで、佐々木幹郎さんのように一杯のウィスキーから物語を紡ぐひとこそが酔っ払う資格を持っていると思うのです。今は情報ばかりが大事にされます。大麦麦芽がどちらの、水はどちらの、蒸留所の歴史はオーナーは、過去のボトルはと囂しいかぎりです。ボトラーは一部を除いて歴史は持たないので安心していたのですが、五年も経つと中堅で十年も経つと老舗だとか、嗤わせるではありませんか。
 「ところで、もし作品が他日を期してとりおかれ、後世になってはじめて日の目を見るとしたら、後世はその作品にとって後世ではなく、五十年後に生きる同時代人の集まりということになるだろう(プルースト・高遠弘美訳)」五十年はともかく、ここに描かれた消息はウィスキーにとっても同じである。モルト・ウィスキーほど流行りと縁遠いものもありますまい。飲む前ならいざ知らず、口に含んでしまえば、その瞬間からウィスキーは一切の情報を拒否します。
 初めてまみえた時のほのかな潔い香りや透明感に充ちた、つややかな黄金色の階調、口に含んだ時のこくとしか称しようのない物そのものの持つ甘さ、酒が玉になってコロコロと音を立てて喉三寸を通って行くきわやかな快感。酒との出会いは多くの物語を生みます。幹郎さんが著したように「シングルモルトの味と香りを語ることは人生を語ることに似ている」
 情報の量が一種の権威になるような、そんな世界が嫌になってのモルト・ウィスキーではないのでしょうか。情報は物語ではないのです。再度、幹郎さんの文章を引用する。
 「ああ、これは十四歳の不良だな、と考える。中学の上級生になって、ナイフなどを懐に入れて、粋がっている。まだ、世の中の怖さを知らない。一匹狼だが、喧嘩の仕方を知らない。春の漁港の突堤の上で、あぐらをかいて、睨みをきかせている。
 それから数年経った、同じ蒸留所のボトルと飲み比べる。ゆるやかに熟成されていて、味のコントロールもいい。スモーキーさは少し薄れているが、飲み干したあと、香りの余韻が上がってくる。こいつは優等生だな、と思う。しかし、なんとなく儚い。
 白い夏の光りが見えてくる。十六歳の夏休み。少年が帽子を被り、田舎道を歩いていく。そのとき、突然、優等生を続けるのはもうやめようか、と思った。もっと好きなことをやりたい。蝉の声がジンジン響いて、初めての自由を覚える。海の匂いが吹きつけてくる、将来は何になるのか、まだわからない」
 以前にも引用したのだが、何度でも引用したい。かつてウィスキーについてこのような文章が著されたことがあっただろうか。この文章を読んで、私は嗚咽を怺えることができなかった。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月30日 21:33 | 固定ページリンク




次回モルト会  | 一考    

 去年の六月から十二月の半年を除いて、ですぺらモルト会は2002年から毎月第四土曜日に催してきました。バニラ香はともかく、シェリー香のあるウィスキーだけのモルト会は当分開く予定はありません、悪しからず。
 次回は「差し替え」で書きましたようにアードベッグとその他のヘヴィリー・ピーテッドになります。その他は稀少なウィスキーばかりです。従って今月のモルト会とは異なり、会費はずんと高くなります。

 6月5日の「新入荷のボトル」をまたまた書き直した。オールド・バランデュランの香味についてよく分からないままに人の文章を盗作した。掻っ払ったのはよいのだが、意味不明である。昨夜、飲む機会があったので序でに全文を訂正した。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月29日 23:05 | 固定ページリンク




参加したかったのですが。  | tk    

こんにちは。
1ヶ月位前から分かっていたら参加させていただけたのですがお財布の都合がつきませんでした。
私はバニラやシェリー香のあるウィスキーが好きなのですが
甘いウィスキーは紳士はお嫌いですか?


投稿者: tk      日時: 2008年06月29日 11:34 | 固定ページリンク




第四土曜日  | 一考    

 今日はヘヴィリー・ピーテッドのですぺらモルト会。モルト会のために購入したボトルばかりである。にもかかわらず、都合悪しく、参加くださる方は過去最小の人数となった。
 木村さんはいつも後日飲まれているが、今回は遅れてのおさらいが他にも出そうな雰囲気である。店主としては力を入れてきただけに残念。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月28日 16:27 | 固定ページリンク




茶毒蛾その二  | 一考    

 ウィキペディアのチャドクガの項目には「幼虫は若齢のうちは一箇所に固まっている。数十匹が頭を揃えて並び、葉を食べていて、ひとつの枝の葉を食べつくすとまるで誰かが指揮でもしているかのように一列に並んで隣の枝に移動していく。何らかの刺激があると、思い出したように頭を上げ左右に振るのを見ることが出来る。数十匹の幼虫がいっせいに同じリズムで頭を振る姿はユーモラスだ」とある。その通りなのだが、昨日単独行の幼虫を発見した。毛虫の世界にまで欄外に食み出すやつがいるようである。「群にあつてただひとり、反対をむいてすましてる」がごとき毛虫を私は断腸の思いで殺害した。チャドクガには殺戮が相応しいが、この場合は単数であって殺害である。
 引用は達者な文章だが、問題は肉声とおぼしき「ユーモラス」にある。毛虫のダンスがユーモラスに見えるのだからよほどの虫好きと思われる。この場合、毛虫そのものに滑稽の素養があるのではなく、観察する側の諧謔的な性格が問われている。もしくは双方が完全変態ということだって有り得るのである。
 北朝鮮のマスゲームを観てユーモアを感じたとすれば、それはシンパサイザーか皮肉家に決まっているが、上述のような完全変態だとはなしは面白くなる。何も北朝鮮に限らない、オリンピックであれ国民体育大会であれ連帯感あるいは集団のもつ表現力を目的とするようなマスゲームなら結果は同じである。この消息には学生から警察官や自衛隊、もしくはスクール水着から制服美少女愛好家に至る制服組ことごとくが内包されるのかもしれない。私にとっては背広にネクタイだって立派な制服としか思われない。
 中学生のころ、体育のない日にはトレーニングパンツを、体育のある日には黒いズボンを穿くのを常としていた。これは単なる天邪鬼に過ぎないが、とにかく学校を、組織を憎んでいたことに違いはなかった。「子供の頃は生まれを理由に学校でよく虐められた。応じるに暴力をもってしたが」と「付木突き 」で書いたが、その殴り合いは丸一年にわたって休みなく続けられた。お陰で教職員から不良とのレッテルを張られ、それは転校を強いられるまで止まなかった。当時の私には同級生をチャドクガに見立てるだけの度量はなかった。もしあれば、学校がユーモラスに見えたのだろうか。
 先日、成田一徹さんが来店。彼は私がわずか一日にして放校された高校の後輩である。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月27日 12:29 | 固定ページリンク




口籠りてはきとは聞こえず  | 一考    

 鈴木さんが来られた。もっとも、新店には既に何度もお見えになっている。鈴木さんのことは書きづらい。どうして書きづらいかというと、彼が話す内容のおそらく二、三割ほどしか聞き取られないからである。すこぶる論理的な方なのだが、酔っ払った振りをして口のなかでもぐもぐ言う。ひとつには私の耳が遠いせいもあるのだが、それ以上に彼は聞き取りにくく喋る。従って、私の応答は大半が生返事なのである。それを申し訳なくも思うが、他方それでよいとも思っている。どうしてよいかというと、互いの意思表示はできていると信じているからである。
 彼の喋り方には常に曖昧さがつきまとう。そのくぐもった様子を私は半分芝居ではないかと訝っている。何故そのような疑念を抱くかといえば、彼の喋り方はかつて近しく付き合ってきた話法であって、私の記憶に深く刻みつけられているからである。本音は別なところにあって、韜晦とまではいわないが、なんとなく世の中を暈かしていたい、そのような雰囲気が垣間見られるのである。
 彼のあやふやな物言いは隠れようのない素直さと衒いのなさを示唆している。それは団塊世代固有のものではないだろうか。照れくささ、羞ずかしさ、ぶざまさ、至らなさ、きまりの悪さ、面目なさ、気後れ等々、どういってもよいのだが、基部には存在そのものへのはじらいが横たわっている。きっと彼がそのような羞恥を示すのは仕事を離れたときだけなのだと思う。私もそうなのだが、仕事の場では人品が豹変する、要するに遣り手に化けるのである。化けると書いたが、どちらが化けているのかは定かでない。ひょっとしたら仕事をしているときも離れたときもどちらもが仮装であって芝居なのかもしれない。
 そもそも含羞があればこその酔いである。酔いとは実体をさらに不確かなものにしてゆく。それは避けるでもなく逃げるでもなく、ただ曖昧さのなかに自己を意図して拡散させてゆく。きっと彼は今とは違う自分を夢見たこともあったと思う。しかし考えるに、確かな自己ほど好い加減かつ如何わしいものもあるまい。ここまで書けば、あやふやと素直さとのある種デペイズマンな関わりがお分かりいただけようか。
 おそらく、はにかみやはじらいと縁のないひとに酔いは解るまい。酔いは決して心地好いものではない、しかしここちよげに振る舞わなければならないとの宿命を背負っている。彼の酔い方はその辺りの消息を十二分にわきまえている。
 一抹の投げ遣りもしくは捨てばちな態度の底辺には他者を愛おしむこころがいつも流れているように思う。飾り気のない彼の酔態は一種の苦い愛情表現とも受け取られるのである。彼のような淋しい酔い方をするひとは目に見えて減ってきた。いなくなったわけではないが、滅法寡なくなった。なんらの迷いなく酔いつぶれるひとは自己に酔いしれている。体力にまかせて酒を呷るように飲むひとは彼を見倣うべきである。私自身、一度店を離れて心ゆくまで彼と酒を酌み交わしたいと思っている。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月25日 22:52 | 固定ページリンク




茶毒蛾  | 一考    

 6月5日の「新入荷のボトル」をさらに書き直した。ただし、ジュラの一部分のみ。

 5月8日に「蕁麻疹騒動」を書いた。その皮膚炎の理由がチャドクガであることが判明した。NHKのニュース番組で岡山でのチャドクガ(茶毒蛾)の大量発生が伝えられ、毛虫の姿形が大きく写されたからである。拙宅の庭に椿の木があって、同じ毛虫に葉をことごとく喰われて壊滅状態になった。あとには生け垣をはじめ至るところに数百匹の毛虫の脱け殻が残された。
 チャドクガの幼虫には、毒針毛が1匹に50、600万本あり、危険を感じると毒針毛を空中へ大量に発射して身を守るとか。 毛虫に触れていないのに毛虫に近づいただけでやられるのはそのためらしい。また、サナギの脱皮殻や殺虫剤散布後の死骸に残された毒針毛も要注意だそうである。
 椿の木は根を残して伐り捨てたが、その際にも皮膚炎が発症した。検索してみると幼虫は5、6月と8、9月に現れるとある。年二回のサイクルで発生するが、それは何としても防がねばならない。噴霧器とスミチオン乳剤を買ってきた。これからチャドクガとの格闘がはじまる。まずは伐った椿と毛虫の残骸を火に焼べることからはじまる。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月25日 06:11 | 固定ページリンク




読書  | 一考    

  昨夜ですぺらへ電話があって、「古本を扱っておられますか」「当方はショットバーです」「インターネットを見たのですが、同じ名前のバーと古本屋があるのですか」「私には分かりませんが、当方はショットバーです」「済みませんでした」との遣り取りがなされた。
 なんとなく気になるので、「ですぺら古本」で検索してみた。辻潤がいくらでも出てくるし、店の客には古書好きが多い。面倒なので頭の二頁だけでやめてしまった。その一頁目に南輝子さんが書いておられた。題して「 神戸バンビひりひり」

 http://home.kobe-u.com/lit-alumni/essey67.html

 「ひりひり感覚」はともかく、「ロクサンにピッタリくっついていた」のは事実で、「いつもロクサン家にいて、いつも本を読んでいた」のも「毎夜酔っぱらって」いたのも事実である。その理由はロクサン家には書物があったからである。私にとっては「一宿一飯の恩義」どころではない。南さんが書かれたのは私が十代の頃のはなしだが、六十歳を出た今にしてなお金とは無縁である。預金通帳には一万円以上あったためしがない。預金がないものだから入出金の手数料を何時もふんだくられている。
 文中、「三冊百円の文庫本」とあるが、私が買うのは文庫は十円、単行本は百円、そして田村書店の玄関には無料の本が山積みである。その値以上の書冊を購入するのは三年に一回二冊までと決めている。人が読む本を私は読まない。その理由は、人気筋は百円で売っていないからである。日夏耿之介から薄田泣菫、松永延造から野村隈畔、鈴木善太郎から山田一夫、そして野溝七生子などはかつては振り向く人などいなかった。だから百円で買えたのである。
 その癖はいまも続いていて、ブックオフで誰も知らないであろう本を購っている。当然百円を超える本には見向きもしない。そのような本は図書館を利用する。問題は如何に読み解くかであって、なにを読むかは私の眼中にない。どのような書物にもなにかしら引っ掛かるところがあって、そこから私の物語がはじまる。読書とはその物語であって、夢見だと思っている。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月21日 20:31 | 固定ページリンク




シングル・カスク  | 一考    

 前項で「さまざまな種類のウィスキーを造らなければ、香味を安定させることはできない」と書いたが、それはディステラリー・ボトルのこと。ボトラーズ・ボトルは多種多様をあるがままに味わうのである。原材料のモルトも違えばカスクもひとつひとつ異なる。これが同じ蒸留所のウィスキーなのか、というところにモルト・ウィスキーの、シングル・カスクの味わいの醍醐味がある。
 九十年代の後半、蒸留所の多くがディステラリー・ボトルを持った。そして最近、蒸留所がシングル・カスクを扱いはじめた。これは慶賀すべきことである。ケイデンヘッドやゴードン&マクファイルの戦略を、延いてはモルト・ウィスキーの愉しみ方の原点を理解したようである。
 一方、わが国にあっては製造から販売までをメーカーが独占している。ブローカーやボトラーに類似する存在が皆目見当たらないのである。日本酒に於ける樽買いすらウィスキーの世界にはない。だとすれば、メーカーがシングル・カスクを拵えるしか手立てはない。ところが、ヴィンテージの違いはあっても、味も香りも一本調子、拍子抜けするほど穏やかなウィスキーが大半を占める。これにはわが国の水の特性が大きく影響している。わが国の水は世界中でもっともクリアなのである。軽い飲み口と加水に強い性質はそこに起因するが、ブレンダーにとっては悩ましい日々が続く。そのような状況下で山崎のヘヴィリー・ピーテッドは愕くべきウィスキーだった。
 話序でに、サントリーのウィスキーにしても、最初からサントリーのウィスキーとして生れてくるのではない。原材料のモルトはさまざまなモルトスターから提供を受けているし、カスクは実に雑多である。それらいろんなウィスキーをブレンダーがヴァッティングを繰り返してサントリーのウィスキーらしきものを拵えてゆく。なんだか、ボーヴォワールの第二の性になってきたようである。ここから先は書くまでもない。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月19日 09:28 | 固定ページリンク




差し替え  | 一考    

 6月5日の「新入荷のボトル」を書き直したので差し替えた。その後、判明したことがあまりに多かったのが理由である。

 「ルネッサンスが入荷した折、ベリーヤング、スティルヤング、オールモストゼアを含めて四種類のアードベッグの飲み比べを試みる」と書いた。そのルネッサンスの入荷日が七月の二十六日午後六時と決まった。加えるにアリー・ナム・ビーストとウィスキー・フェア用のスティルヤング等々が七月のモルト会のメニューとなる。
 アードベッグ、ラフロイグは共に高級品は十万円を軽く超えた。旧店舗閉店前に催したような六十年代や七十年代のヴィンテージの飲み会はできなくなった。オークションの悪しき影響か、売り切れから僅かに二、三年のモルト・ウィスキーが高値になる。それ故、新生アードベッグを愉しむのも一興かと思う。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月19日 08:22 | 固定ページリンク




ですぺらモルト会  | 一考    

6月28日(土)の19時から新装開店後、六度目のですぺらモルト会を催します。 会費は9300円。
ウィスキーのメニューは以下のごとし。詳しい解説は当日お渡しします。

 97年のブナハーヴン、99年のジュラ、01年のブルイックラディと続いて、これでアイラ島のすべての蒸留所がピーティーなモルトを造るようになった。他方、スペイサイドやハイランドの多くの蒸留所がピーテッド・モルトを造るようになった。なかにはベンリアックのように昔から試みている蒸留所もあるのだが。
 未入荷はトマーチンの試作品(13年ものカスク・ストレングス)とポート・シャーロット、そしてグレン・キース蒸留所で造られたクレイグダフとグレンアイラである。もっとも、ヘヴィリー・ピーテッドと名付ける以上は山崎、白州、レダイグ15年、ロングロウが仲間入りする。ヘヴィリー・ピーテッド・モルトの第二回をいずれ催したいと思っているが、クレイグダフとグレンアイラはきわめて高値のモルトなので迷っている。
 アイラモルトは仕込み水と加水に用いる水とが異なる場合が多い。その理由はキャンベルタウンのスプリングバンク蒸留所のボトリング設備を利用しているからである。ウィスキーは加水のあともう一度樽へ入れてウィスキーと水を馴染ませる。それを後熟という。後熟では水だけでなく、樽もプレーンな癖のないものを選ぶ。せっかく造ったウィスキーに妙な影響が出ては困るからである。
 ディアジオ社はその傘下に四つのモルトスターを持っているが、どのモルトがグレネスクのグレン・オードのブレチン(グレンカダム)のと飲み分けているひとはいまい。ポートエレン・モルティング社のモルトを使っているからフェノール値が高いなどということもあり得ない。モルトスターは蒸留所の指示通りのモルトを造るのである。
 それでなくとも、ポートエレン・モルティング社のモルトの値上がりによって、現在アイラでポートエレンからモルトを調達する蒸留所は減っていると聞く。そしてフロアモルティングを行っているところでも、他のモルトスターからグリストを購入する。さまざまな種類のウィスキーを造らなければ、香味を安定させることはできない。ブレンダーの技術が活かされるにはカスクのみならず、ウィスキーの香味自体も多種多様でなければならない。

ですぺらモルト会(ヘヴィリー・ピーテッドを飲む)

01 アイル・オブ・ジュラ・ヘヴィリー・ピーテッド '99※
 ヘヴィリー・ピーテッド・エディション。56.9度のカスク・ストレングスにしてディスティラリー・ボトル。
02 ブナハーヴン・ヘヴィリー・ピーテッド '97(シグナトリー)
 カスク・ストレングス・コレクションの一本。リフィール・シェリー・バットの9年もの、59.1度。585本のリミテッド・エディション。
03 ブルイックラディ 3D ピートプロポーザル※
 46度のディスティラリー・ボトル。
04 グレン・スコシア・ピーテッド '99※
 アメリカン・オーク・カスクの8年もの、45度。325本のリミテッド・エディション。
05 キャパドニック・ピーティー・バレル '98(ジャン・ボワイエ)
 ベスト・カスク・オブ・スコットランドの一本。スモール・ピーティー・バレルの9年もの、43度。970本のリミテッド・エディション。
06 オールド・バランデュラン※
 ヘヴィリー・ピーテッド。オーク樽の8年もの、50.0度。
07 ベンリアック・キュオリアシタス10年※
 10年もの、46度。フェノール値は55ppm。
08 ベンリアック・ヘヴィリー・ピーテッド '94(シグナトリー)
 アン・チル・フィルタード・コレクションの一本。ホグスヘッドの11年もの、46度。389本のリミテッド・エディション。
09 ベンローマック・ピート・スモーク※
 46度のディスティラリー・ボトル。
10 アードモア・トラディショナル・カスク※
 2007年発売、46度のディスティラリー・ボトル。
11 ブレッヒン '02※
 46度のディスティラリー・ボトル。
12 クロフテンギア '01※
 アメリカン・オーク・ホグスヘッドの5年もの、45度。430本のリミテッド・エディション。

ですぺら
東京都港区赤坂3-9-15 第2クワムラビル3F
03-3584-4566


投稿者: 一考      日時: 2008年06月18日 09:44 | 固定ページリンク




付木突き  | 一考    

 削除するには淋しいものがあって、出だしを書き直してみる。
 言葉は生き物であり、時代の風俗を担っていると書いた。同じように想像は個人の生活に基盤を置く。その想像力が私は逞しい。煙は大火に、煙のないところには煙草の煙でもよろしいから精一杯撒いてくる。時には火のないところに火種を、煙のないところには煙草の燃えさしを置くことすらある。勢い余って創作することも再三である。
 奴のいうことは信用できない、のっけから割引して聞かないと間尺に合わない、思うに余談しかなくて為合がどこにもないなどとよく言われる。それらは一見正しく思われる。しかし、真実とか有用とか善悪などといった時代と添い寝するような概念を私はいかがわしいものと思っている。
 ことごとくを疑って掛かる性癖は出自と関係するのかもしれない。子供の頃は生まれを理由に学校でよく虐められた。応じるに暴力をもってしたが、それだと偏見という名の社会全体を敵にまわすことになる。それでは躯がもたないので一計を案じた。それが書物であった。
 社会全体を敵にまわしても書物の世界だと対応できる。それが私のいう想像であって解釈である。従って、私にとって文学はなによりもまず反社会であって反道徳である。文学で身を立てたい名を馳せたいなどという柔な輩は傍に寄らないほうがよいに決まっている。恋愛や友情に薄いのもそうした人倫に反する考えに則ってのことである。そして当然のことながら官学ふうをもっとも忌嫌っている。
 一事が万事で、私にはなにが結構で、なにが悪しき作品かといった価値基準がない。「化鳥は鏡花がはじめて試みた口語体の小説で、少年の一人称による内的独白の形式をとっている」にしてからが、それが正しいかどうかは私の生半可な知識では解らない。当てずっぽうに書いたまでである。そして、「哄笑に彩られたとびきり淡麗な辛口文学」で触れたが、私は文学を学問だなどと思ったことは一度もない。
 私の人生にあって、唯一縁がなかったのが学問である。職歴は三十を軽く超えるし、多くの現場を踏んできたが、勉学だけは常に避けてきた。誇大で華美な文辞を用いた駢儷体には興味があるが、勉励とか刻苦にはいささかの興味もないどころか逃げ出したくなる。学問や技術に精を出したい人は高校や大学へ行けばよろしいのであって、私は御免蒙る。
 編輯者とはいえ、それが生業たりえたのは僅かに五年、いまはひょんな偶然で、飲み屋の親父を演じているが、人生の大半は自由労働者として過ごしてきた。自由といえば聴こえはいいが、あんこう、にこよん、土方、日雇いの類いで、私の制服は長らくにっかぽっかだった。さすがに老いてからは車の運転に従事。北海道がどうのこうのと宣巻くが、実体は身体があまりにつらいので免許を取得したまでである。
 さて、新生ですぺらにも常連客がついたようである。酒はどんな無理をしてでも集めてくる。しかるに、店はいまだに勉強しない。これも勉強嫌いがなせる業か。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月17日 21:25 | 固定ページリンク




有害玩具  | 一考    

 先日、幹郎さんから「小粋」を教わった。現在のところ唯一の国産刻み煙草である。
 タバコはナス科の植物だが、煙草、丹波粉、淡婆姑などの字をあて、糸煙、相思草、返魂(はんごん)草などとも呼んだ。ちなみに草がつく名称なら、他に延命草、養気草、大平草、南霊草、思案草、分別草、長命草などともいう。相思草の相を取って、思い草もしくは忘れ草との異名もよく知られている。
 紀元前から中央アメリカのマヤ族によって用いられ、コロンブス等によってヨーロッパへ伝えられた。日本へは近世初頭に南蛮船によってもたらされた。葉巻、巻煙草、刻み煙草、嗅煙草、噛煙草などの種類があるが、わが国では刻み煙草のみが発達した。近世初頭と書いたが一般化するのは元禄以降のことで、欧州同様、伝搬にはかなり時間がかかっている。なかには煙草に対する弾圧政策で首をはねられた国王もいるが、それらは歴史書を繙かれたい。
 それにしても、刻み煙草は綿毛のように細かく柔らかい。しかし、触感の繊細さとは異なって香味はずんと辛口である。聞くところによると、香料や添加物が使われていないのはマイルドではない証拠で、両切ピースと小粋だけだそうである。
 キセルでパイプ煙草は喫まれないが、パイプで刻みを喫むのは可能である。そこで、小粋と分割される小粋用のキセル、それと小さなパイプを買ってきた。このパイプは使い捨ての玩具ですよ、と煙草屋の店主。おもちゃで結構、煙草そのものを私は有害玩具と理解している。千円以下での遊びなら耄けてみたいと常日頃から思っている。
 幹郎さんが仰有っていたが、火皿の煙草の火が消えないうちに掌に載せて転がす、その火で新しく丸めたキセルの煙草に火をつけるのが通だとか。習熟しなければできない芸当である。それよりなにより、火をつけるのが難しい。パイプならライターの火を強く吸い込む、ところが刻み煙草はそっと火を置くようにして着火しなければならない。
 私は普段はシートタバコ(葉タバコを原料として人工的に紙状に成形した模造タバコ)で巻いた安価な葉巻シガリロとパイプ煙草を喫んでいる。敷島や桔梗は知ってはいたが、嗜まないままに廃盤になってしまった。そこへ新たな玩具が加わったのである。もっか小粋に打ち興じている。
 日本各地の銘葉の芳香を生かした喫味と共に、タバコ入れ(刻みタバコの携帯容器)、タバコ盆、がちゃがちゃ煙草、タバコ休み、タバコ銭、煙管焼き、羅宇屋(羅宇のヤニ取りやすげ替えを生業とする露天商)など、さまざまな言葉が喪われてゆく。言葉は生き物であり、その消長は時代の風俗と共にある。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月17日 19:38 | 固定ページリンク




雨天  | 一考    

 今日は読みが甘かったので、ずぶ濡れになった。昼は降っていたが夕方出しなに雨はやんでいた。戸田にいて東京の雨は予測できない。晴れていたのは全行程二十二キロのうちわずか四キロ、川越街道へ出た途端に雨にひどく打たれた。池袋を通過するときはヘルメットの前方が見られない。瞬時であろうが、篠を突く雨とはよく言ったものである。思わず愉しくなって笑い出してしまった。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ 丈夫ナバイクヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニハシッテヰル

 車は改造するものの、バイクは改造しない。改造する必要を覚えないからである。小型で百十キロ、大型で二百三十キロ、これだけ速度が出れば充分である。車を改造する理由は加速をよくしたいからである。バイクは馬力あたりの重量が車と比してはるかに少ない。マフラーを変えたところで、排気音が大きくなるだけでトルクは抜ける。目立つのはいやである。トコトコと何時も静かに走っていたいのである。

追記
 川越街道には適当な場所がない。池袋の高速道路の下へ寄り道、雨具に着替えた。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月09日 22:34 | 固定ページリンク




「長い季節」について  | 一考    

 「大言海」の猫にまつわる大槻文彦と芥川龍之介との経緯の一端は「澄江堂雑記」に書かれている。しかし、澄江堂について書きたいのではない。澄江という人から「西九州文学」なる同人誌が送られてきた。澄江と書いてすみえと読む、氏は菊坂である。彼女との面識はない、従って履歴や人柄についてなにも知らない。ただ、作品を読めばおおよそのところは推測できる。これは詩についても同じことがいえる。一篇の詩だと対処に困惑させられることもあるが、一冊の詩集となれば調法は自在になる。それだけ、張りぼての舞台裏が透けて見えてくるのである。
 (以下、簡略に突っ走る)思いを著す時、いくつかの問題が生じる。その思いがひとに伝えるに相応しいかどうか、思いが自分のなかで十二分に反芻、咀嚼されているかどうか。思いと自分とのあいだに必要な距離が保たれているかどうか。次に文章力の問題だが、これは美すなわち個人差が大きくかかわってくるので触れない。美の定義はいかなる手立てを用いても不可能だし、それに触れた瞬間からファシズムの讃美に陥ってしまう。同様に、固着した考えもファシズムの賞揚にしかならない。要は自信のなさ、定見のなさ、自らのふがいなさ、なんの役に立たない様などが文章を綴る折にもっとも求められるものである。文学とは髪のほつれのようなものと心している。
 最後に、なぜ書かねばならないのか。多くの人はこのことを深く考えない。自らの人生のある側面を書きとめておきたいといった軽い気持から、あるいは人を啓蒙したいとの尊大な気持ちから書くような人もいる。他方、作家になりたいもしくは作家と呼ばれたいといった能転気かつお手軽なひとたちもいる。そうした人たちはひとが個であることを失念している。
 書くという行為は「なぜ書かねばならないのか」ということを書き綴る、もしくは「なぜ書かねばならないのか」ということに躪り寄るためのいとなみだと思っている。先頃、知己がプルーストの翻訳を出したが、読むほどに、アルベルチーヌの浮沈も消息もさらに云えばストーリーすらがどうでもよくなってゆく。脳裏を去来するのは「なぜ書かねばならないのか」のひとことだった。ここで思うのはベケットにせよ、アルトーにせよ、根本は同じということである。

 さて、「西九州文学」に掲載された菊坂澄江さんの一篇の小説、題して「長い季節」である。文章はこなれてい、書き慣れた雰囲気すら感じさせる。しかし、起承転結にこだわるあまり安易な結論を、それもハッピーな結末を据えたところに、この小説の破綻がある。結果として身辺小説の域を一歩も脱していない。書き手が実生活に充足していて小説は書かれない。さらに云えば、書き手は書くという行為を生きるのであって、実生活や実体験に対しては背を向けるしかない。言い換えれば、想像力という自らの妄想のなかをさ迷うしかないのである。今回の小説にしても、読者が求めるのは恋愛に於ける著者の内面的な葛藤だと思う。これだけはどうあっても書いておきたかったのであれば、何もいうまい。ただ、書き手の迷いが、揺れ動く精神が見えるような作品を次回は望みたい。

追記
 「活字になったものなら読ませていただきたく思う」と書いた。それは誤字、脱字が極端に減るからに他ならない。雑誌に誤植が多い場合、それが理由で私は目を通さない。その点、「西九州文学」の校正はしっかりなされていた。
 同人誌における合評会とは辛辣極まりないものである。作品の否定にとどまらず、人間性の全否定にまで及ぶことも屡々である。存在が存在を潰しにかかる、それが同人誌の唯一の取り柄であり利点だと思っている。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月08日 14:19 | 固定ページリンク




アードベッグ・ルネッサンス  | 一考    

 1980年に閉鎖を余儀なくされたアードベッグ蒸留所だが、1997年にグレンモーレンジ社が操業を再開。そのモーレンジ社自体のオーナーが移り変わっているが、アードベッグの香味にはいささかの変化もない。2004年にベリーヤング、2006年にスティルヤング、2007年にオールモストゼアと、1998年に蒸留された原酒が熟成される過程を順次ボトリング、スモーキーかつピーティーな味わいをさらに増してきた。
 オールモストゼアを継ぐ10年ものがいよいよボトリング、7月25日に限定発売される。題してアードベッグ・ルネッサンス。55.9度のカスク・ストレングスで、定価は税込みで7500円ほどになる。

 ところで、オールモストゼアの平行輸入は1万円を超えていた。その正規品が入荷したので値下げする。実はアードベッグ・ルネサンスの発売を前に、蒸留所からオールモストゼアのラストストックが出荷された。国内入荷本数は300本だが、その内の数本を入手したのである。
 なお、ルネッサンスが入荷した折、ベリーヤング、スティルヤング、オールモストゼアを含めて四種類のアードベッグの飲み比べを試みる。このようなこともあろうかと、拙宅に隠匿していたのである。ご期待あれ。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月07日 08:42 | 固定ページリンク




沈黙  | 一考    

 ガーリッシュなるファッション用語がいつごろから文芸に用いられるようになったのかは知らない。ただ出版社の標語なのであろうが、「志は高く心は狭く」の文言はすこぶる面白い。
 自分の意識だけが実在し、他の自我やいっさいのものは、自我の意識のなかで存在するにすぎないとする独我論ないしは唯我論の薦めのように思われて仕方がない。シュティルナーやウィトゲンシュタインの主観的認識論のプロパガンダであろうか、蓋し名言である。「志は高く心は狭く」との標語は妄挙、妄執、褊狭といった言葉を想い起こさせる。
 偏愛という言葉は修辞として用いるには面白いが、真面目に取り扱うようなものではない。偏愛はある種の開き直りの表明であって、もしそうでなければモノマニアを示唆するに止まる。澁澤氏が用いていたが、あのふてぶてしさがおそらく氏の唯一の魅力であった。
 モダニスム、シュルレアリスム、構造主義等々、なんでもよろしいが、そうしたラベル貼りでしか文学は理解できない(という逆説のひとつも書きたくなる)。ファム=アンファンにしてからが、籌木のようなものがきらきら輝いてくるから不思議である。
 江戸期、盲腸も結核も梅毒も死の病だったと思われる。「思われる」としたのはかかる病名が存在しなかったからである。在ったかもしれないが、なにぶん抗生物質のない時代である、照査したところで詮無いはなしである。病名のないところに病は存在しない、それが云いたいだけである。シュペルヴィエル風にいえば、ひとりの詩人が現れるまで、世界は沈黙していたとなる。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月06日 06:34 | 固定ページリンク




哄笑に彩られたとびきり淡麗な辛口文学  | 一考    

 文学は学問である。従ってまず学ばなければならない。幼少期の乱読がこれに充当する。当然、思い込みが優先され、歪な鳥瞰図が引かれる。歪であればこそ、その正当性を巡って侃々諤々の議論が巻き起こる。文学青年の誕生である。しかし、そこで踏み止まらなければならないのは、読書は古典からはじまるという点である。現代文学へ至るには相応の時間が必要とされる。時として、生きているうちに現代文学へ辿り着かれない。そこで一部の若者は手続きを簡素化する。極端なはなしが流行りの現代文学から読み始める。もしくは触りを読むだけでレッテル張りに興ずる。古典は「早わかり世界文学」の類いで間に合わせるのである。そこまでゆけば半可通が跳梁するに、あと一歩である。
 吉行淳之介が昨今読まれなくなったと聞く。それは吉行に限ったはなしでない。花田清輝も石川淳も既に時代遅れなのである。時代に取り残されては自らの存在が危うくなる。吉行を読む暇があれば、「diaries」を繙いて今様のカルチャーを学ばねばならない。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月05日 21:58 | 固定ページリンク




新入荷のボトル  | 一考    

 最後のロイヤル・ロッホナガー以外はヘヴィリー・ピーテッドであって、今月のモルト会用に購入した。キルホーマンはかつて紹介した。ブナハーヴン、ジュラ、ブルイックラディと続いて、これでアイラ島のすべての蒸留所がピーティーなモルトを造るようになった。
 未入荷はトマーチンの試作品(13年ものカスク・ストレングス)のみ。もっとも、ヘヴィリー・ピーテッドと名付ける以上はレダイグの15年ものやロングロウも仲間入りする。
 ところで、ごく最近モルト・ウィスキーのファンになった方にとって、前述のアイラ・モルトはいかように評価するのであろうか。私にとってはピーティーなブナハーヴンは例外として扱うしなかいのだが。
 先日もシグナトリーのブナハーヴンは旨いという客が来られたが、シグナトリーがかつてボトリングしたブナハーヴンはピートをほとんど焚いていない。これではブナハーヴンが旨いのでなく、シグナトリーが旨いのでもない。97年の585本のボトルのみが旨いということになる。当然、モルト・ウィスキーは一樽の限定品であって香味はさまざま、従って評価もさまざまでよい。同様に、どこそこのボトラーのウィスキーは旨いというのは妄言である。
 ごく一部の蒸留所を除いてアイラ・モルトは加水にキャンベルタウンの水を用いている、と客に喋ったところ、その理由を執念く訊かれた。聞きかじったままに云ったまでで、他意はない。蒸留所がどこのモルトを使おうが、どこの水を用いようが、私の知ったことではない。例えばグレン・オードは最大のモルトスターだが、モルトの出自を確認して酒を飲む人はいまい。それとモルトスターは蒸留所の要請に応じてどのようなモルトでも造る。ポート・エレン・モルティング社がやたらと有名だが、そのポート・エレンにしてからがピートを焚かないモルトも造っている。正確には蒸留所に卸すのはモルトではなくグリストだが。
 近頃、ウィスキーを学問なさっている方が多い。それはそれで結構だが、困惑させられる質問は願い下げである。私にとって酒は飲んで旨いか不味いか、ただそれだけである。この消息は文学も同じである。
 ※はディスティラリー・ボトル

 アイル・オブ・ジュラ・ヘヴィリー・ピーテッド '99※
 ヘヴィリー・ピーテッド・エディション。56.9度のカスク・ストレングスにしてディスティラリー・ボトル。06年、600本ののボトリング。
 ヘヴィリー・ピーテッドが最初にボトリングされたのは、パシフィック・カレドニアンから頒された99年蒸留、02年ボトリングの3年もの。フェノール値は60ppm。ジュラ蒸留所のマスターブレンダーのリチャード・パタースンと同蒸留所長マイクル・ヘッズ両氏によるボトリングだった。その後、同じヴィンテージの5年ものが頒されている。
 従来のディスティラリー・エディションと異なり強烈にピートを焚いている。レダイグ15年ものを想起させる強いピート香、パワフルでスモーキーなフィニッシュ。本品にはフェノール値40ppmのポート・エレンのモルトを使用。同じヴィンテージで58.0度のピーテッド・モルトも頒されている。
 二回目は08年6月26日の発売。リフィール・シェリーバットの9年もの、59.1 度、300本の入荷。仁丹、靴磨きクリームやミンクオイルの香り、歯科医で食べるポークリブの味わい。

 キルホーマン '07※
 フレッシュ・バーボン・バレルによるニュー・スピリット。熟成は49日間、62.4度。2樽のリミテッド・エディション。
 キルホーマン蒸溜所はアイラ島に2005年にオープンしたスコットランド最西の蒸溜所。現在はアイラ産の麦を自らフロアモルティングした麦芽とポートエレンの麦芽と二種類の麦芽が原料に使われている。ピートもアイラ産でフェノール値は50ppmと非常にピーティ。麦の栽培からボトリングまでのすべての工程を自社で行う。

 ブナハーヴン・ヘヴィリー・ピーテッド '97(シグナトリー)
 カスク・ストレングス・コレクションの一本。リフィール・シェリー・バットの9年もの、59.1度。585本のリミテッド・エディション。
 ブルイックラディ蒸留所に先駆けてブナハーヴン蒸留所はヘヴィリー・ピーテッドを頒布。こちらはポート・エレンのモルト(38ppm)を使用。今ではすべてのアイ ラ島の蒸留所がピーティーなタイプのモルトを造っている。
 本品に先行してドイツのスコッチ・シングルモルト・サークルから97年蒸留、8年もの、57.8度のボトルあり。同じくシグナトリー社のアン・チル・フィルタード・コレクションからリフィール・シェリー・バットの加水タイプがボトリングされている。共にヘヴィリー・ピーテッド。

 ブルイックラディ 3D ピートプロポーザル※
 46度のディスティラリー・ボトル。
 1989(5ppm)、1998(25ppm)、2001(40ppm)の三種類のモルトをヴァッティング。ちなみに、カスクもリフィールシェリー、リフィールバーボン、フレッシュバーボンとそれぞれ異なる。結果としてブルイックラディ蒸留所初のピーティーなモルト。本品はやや物足りなさを感じるものの、この2001年蒸留のモルトがやがてポート・シャーロットへと結実してゆく。
 94年蒸留のブルイックラディ、01年蒸留のポート・シャーロットとアイリッシュをヴァッティングしたフェノール値18ppmの「ケルティックネイションズ」もある。
 ブルイックラディではポート・シャーロット、ロッホ・インダール、オクトモア(未頒布、80ppm)と呼ばれる三種のヘヴィリー・ピーテッドを造っている。現在、かつてのロッホ・インダール蒸留所の建物にインヴァーレーヴン蒸留所の設備を移設してポート・シャーロット蒸留所の名前で蒸留所を開くプランが進行中。アイラ島の蒸留所がまたひとつ増える。

 グレン・スコシア・ピーテッド '99※
 アメリカン・オーク・カスクの8年もの、45度。325本のリミテッド・エディション。
 同じピーテッドに00年蒸留06年ボトリング、45度、350本のエディションもある。共に美味。
 最近はピートを深く焚き籠めたモルト・ウィスキーが増えてきたが、その魁をなしたのがスプリングバンク蒸留所のロングロウ。グレン・スコシア蒸留所はもっかスプリングバンクが操業を手伝っているので、ヘヴィリー・ピーテッドを造るのはお手の物である。

 キャパドニック・ピーティー・バレル '98(ジャン・ボワイエ)
 ベスト・カスク・オブ・スコットランドの一本。スモール・ピーティー・バレルの9年もの、43度。970本のリミテッド・エディション。
 ヒビテン液(洗浄剤)のような不思議な香りはなく、スペイサイド特有の西洋梨や完熟林檎の馥郁たる香りを伴った辛口。その方がよほど不思議である。キャパドニックのヘヴィリー・ピーテッドは現在のところ本品のみ。
 グレン・グラントの第二工場として1898年創業。その後長い間閉鎖され、1965年に再操業。シーバス・リーガルの原酒として使用されているため、シングルモルトのディスティラリ・ボトルは現在なお発売されていない。グレン・グラントと同じ仕込み水や麦芽を使っているのに味わいは異なる。

 オールド・バランデュラン※
 ヘヴィリー・ピーテッド、オーク樽の8年もの、50.0度。
 トミントール蒸留所で仕込まれた初のヘヴィリー・ピーテッド、熟成年数や蒸留年の記載はない。オーク樽8年の記述はウイスキー・マガジン56号に基づく。
 ヘザーの煙と癖の強い柑橘系の香り、どことはなしに甘酸っぱさが感じられる。スモーキーかつピーティーなフィニッシュ。
 現オーナーはアンガス・ダンディー社で、トミントールの他グレン・カダム蒸留所を所有。オーナーが変わったのが2000年、その折に試験的に少量生産された。ちなみに、バランデュランはマザーウォーターを採る川の名。
 他ではジャン・ジャック・ウィバース社から60.7度のカスク・ストレングスが、イアン・マキロップ社から62.1度のカスク・ストレングスが頒されている。共に2001年蒸留、2005年のボトリング。

 ベンリアック・キュオリアシタス10年※
 10年もの、46度。フェノール値は55ppm。
 シグナトリー社のボトルにはない苦みが感じられる。通常のボトルと比してかなり辛口。
 2004年に、バーン・スチュアート社の前オーナーだったビリー・ウォーカー氏が中心となってペルノ・リカール社から蒸留所を買収。現在はアンゴスチュラ・グループの傘下。ノン・ピートからヘヴィリー・ピーテッド、そして様々な樽を用いたダブル・マチュアードをボトリング、積極的にシングルモルトを商品化。
 ピーティーなモルトとして本品の他「オーセンティカス」「オロロソ・ピーテッド」などが頒されている。

 ベンリアック・ヘヴィリー・ピーテッド '94(シグナトリー)
 アン・チル・フィルタード・コレクションの一本。ホグスヘッドの11年もの、46度。389本のリミテッド・エディション。
 キュオリアシタスと比して柑橘系の香り高く、さらに嫋やかな味わい。
 ドナート社とゴードン&マクファイル社のコニッサーズ・チョイスから40度のボトル、他ではダンカン・テイラー社のピアレスから長期熟成のカスク・ストレングスが頒布されている。コニッサーズ・チョイスは古く、69年蒸留のいわゆる白コニの時代からボトリングされている。インデペンデント・ボトラーのボトルが極端に少ないが、シグナトリー社とダグラス・レイン社はかなり樽を持っている。
 ヘヴィリー・ピーテッドとして本品以外にもジャン・ボワィエ社からピーティーバレルがボトリング。1994年蒸留の12年もの58.1度が樽ごと輸入され、伊勢丹限定でボトリングされている。

 ベンローマック・ピート・スモーク※
 46度のディスティラリー・ボトル。
 本品にはベンローマック特有の茗荷を思わせる苦みがなく、美味。
 スペイサイドでもっとも小さい蒸留所ベンローマックからヘヴィリー・ピーテッドがリリース。フェノール値55ppmの麦芽を原料に2000年に蒸留、2007年にボトリング、生産本数は6000本の限定品。
 フェノール値とは麦芽に炊き込まれたピートの度合いを測る指標。ボウモアで平均22ppm、ラガヴーリンやラフロイグで35から40ppmといわれており、本品の55ppmという数値はアードベッグに匹敵する。
 他では、ベンローマック蒸留所が1940〜50年頃に造っていた原酒を再現した繊細で品の良いピーティーなモルトをオーナーのゴードン&マクファイル社がボトリング。ベンローマック・トラディショナル40度がそれである。

 アードモア・トラディショナル・カスク※
 2007年発売、46度のディスティラリー・ボトル。
 雑味のなさはヘヴィリー・ピーテッドも同じ。癖なく破綻なく飲みやすい、要するに少々物足りなさを感じる。
 十九世紀の伝統的な製造方法を再現したとされるトラディショナル・カスクは、ピートを焚き込めた麦芽を使用し、通常サイズのアメリカンオークで熟成後、バットの四分の一サイズの樽に移して後熟。一回り小さな樽に入れることで、結果的に樽の個性がより深くウィスキーに浸透する。ラフロイグやグレンファークラスに同種のクオーター・カスクがある。
 ウィスキー・エクスチェンジ社からヘヴィリー・ピーテッドが頒されている。94年蒸留の11年もの、リフィル・バーボン樽での熟成、289本のリミテッド・エディション。

 ブレッヒン '02※
 46度のディスティラリー・ボトル。
 バーガンディー・カスクの4年もの46度。900本のリミテッド・エディション。エドラダワー蒸留所のセカンドラベル。
 ブルゴーニュはコートドールのバリックと呼ばれるオーク樽由来の複雑な香味。パヒューム香の替わりにゴムの臭い、フェノール値が高く薬品臭が強い。ボディは厚く、ココアパウダーもしくは胡瓜のへたのような苦みが感じられる。慣れるのに時間がかかるモルト・ウィスキー。
 と書いたのだが、五箇月ぶりに飲んで愕かされた。封開け時と違って香味にまとまり有り、ずいぶん美味くなった。

 クロフテンギア '01※
 アメリカン・オーク・ホグスヘッドの5年もの、45度。430本のリミテッド・エディション。
 アイラ系の鼻を突き抜ける鋭さはなく、ピートやスモーキーフレーバーは口腔にゆっくりと拡がる。ピカールのような錆落としの臭い、白酒や茅台酒を思わせる味わい、蒸留所特有の湿った土の匂い、そして強烈な塩辛さが特徴。
 ロッホ・ローモンド蒸留所は型の違うポットスチルやピートの乾燥度合を変え、様々な原酒から四種類の銘柄をボトリング。インチマリン、オールド・ロスデュー、ロッホ・ローモンド、クロフテンギアである。
 ヘヴィリー・ピーテッドなモルトはクロフテンギアで、ディスティラリー・ボトルに先行する形でSMWSから12年ものが、2004年「ウイスキーマガジン・ライブ東京」の記念ボトルが204本それぞれボトリングされている。

 ロイヤル・ロッホナガー '91(シグナトリー)
 カスク・ストレングス・コレクションの一本。リフィール・シェリー・カスクの16年もの、58.3度。640本のリミテッド・エディション。
 カスク・ストレングスはレアモルトと本品のみ。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月05日 21:30 | 固定ページリンク




酒の肴  | 一考    

 吉行淳之介が最近は人気がないらしい。その理由を書けとの仰せだが、それは吉行に限ったことではない。わが国では物故作家はあっけなく忘れ去られる。それに対して理由などいくらでも書けようが、書いてみたところで詮無いはなしである。大方は書物を繙くに鳥瞰図を自ら拵えない。
 「東西の文学運動の類似点もしくは時代の要請に関して、再考し何度でも整理し直すひとが現れてほしい。例えば、ヌーボーロマンやアンチロマンはフランスで生まれた文学運動だが、作品として花開いたのは吉行淳之介の「砂の上の植物群」以降の作品、とりわけ「夕暮まで」が呼応すると思っている。・・・「夕暮まで」とその後の「鞄の中身」はすぐれて実験的な小説だった」
 と先日書いたが、世間一般はそのような理屈には斟酌しない。好きだから読む、琴線に触れなければなにひとつ読まない。例えば、少年小説、探偵小説、私小説、幻想小説、写実主義小説、童話、口語文体の実験等々、多くの文学は硯友社を源とする。では、尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、巌谷小波、江見水蔭、大橋乙羽、川上眉山、広津柳浪、さらに紅葉門下の泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声をいかほどの人が読んでいるのだろうか。せいぜいが鏡花の一部しか繙いていないのではなかろうか。それらは文学を学ぶに基本図書といわれるものばかりである。読まずに文学を語ろうとする。だから、ですぺらはモルト・バーなのである。
 「読まれない」理由を書くと腹立たしくなるだけである。生憎心は酒を不味くさせる。それが嫌で新宿へ飲みに出掛ける。先週の土曜日も、水道管から泥鰌が出てきたとのニュースがあった。新宿なら即座にボリス・ヴィアンの「日々の泡」が返ってくる。もっとも、ヴィアンなら水道管から鰻だが。泥鰌と鰻とどちらが旨いか、そこで一頻りはなしに花が咲く。それが酒の肴である。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月02日 23:09 | 固定ページリンク




キルケニー入荷  | 一考    

 キルケニーが先月の三十日から入荷している。美味だが、飲み方にちょっとしたコツがいる。大きめのグラスに全量をゆっくり注がないとフローティング・ウィジェットが活かされない。その点はギネスと同じである。もっとも、ギネスが造るビールなのだから当たり前である。酒屋での人気はいまいちだが、それは味に慣れていないからであって、生と比してなんら遜色はない。
 ですぺらでは切らさずに置くつもりだが、聞くところによると、どこぞのスーパーと提携したのが理由で、一般業務店は六月二十日までは自由に入らないらしい。キルケニーがスーパーで売れるとは思わないが、営業の考えることは分からない。サッポロで一度ビールの講演をしたが、会社に都合のよい情報だけに限定された。あのような講演は真っ平御免である。


投稿者: 一考      日時: 2008年06月02日 22:14 | 固定ページリンク




血について  | 一考    

 おそらく、野溝七生子をもっともセンシブルに描いたエッセイを著したのは種村季弘でなかったか。

 野溝七生子という作家が、都内のさるホテルの一室にもう十数年も終身亡命者のようにひっそりと暮らしていると聞いたのはいつの頃のことだったか。ひょっとするとそれは、私の記憶違いかも知れない。けれどもかりに記憶違いでないとすれば、いかにも『女獣心理』の作家にふさわしい生き方ではあるまいか。大隠住朝市、小隠住丘樊。どれだけ奥深い山林に入っても、そこがしめっぽい風土と地続きであるならば、すでにして隠遁の尻は割れてこれ見よがしのナマ法師が顔を出す。さもあらばあれ、俗塵の只中に空中に吊るした鳥籠のような一室がビル街に宙吊りになり、そこにその人が棲っているのならば、この地面に根づかない箱ほど彼女にふさわしい空間はあるまい、と考えたのである。もっぱら通り過ぎる人のために作られたその部屋はあらかじめ風土から疎隔されており、大地との接触を禁じられているからだ。
 ありきたりのシングル・ベッドを置いた何の変哲もないシングル・ルームが目に浮ぶ。しかし一旦そのなかに純粋な魂がはたらきはじめると、この部屋は化学実験室のようなものに変容するはずだ。そこでどんな化学実験が行われるか。いささか古風な、いまではもう誰も見向きもしなくなっている「対立」という名の実験である。白と黒、童貞と淫蕩、幾何学的知性と非合理、純潔と本能のような、クレロ・オスクラのくっきりと目にあざやかな命題と反対命題とが、一瞬のうちに結合され、攪拌され、みるみる宇宙大の渾沌と化して、さて、その渾沌をたぎらせたビーカーから卵のようにぽんと生み出されたのは、ファウスト博士のホムンクルス。いや、あの不思議にあえかにもはかなげな野溝七生子のファム=アンファンたちである。(「アリアドネーの子ら」種村季弘)

 林礼子さんはこの文章がことのほかお気に召したようである。平成元年二月、名古屋の今池ヘルス通りに独りの部屋を持った彼女はその僑寓をしばしば「鳥籠」と呼んでいる。また、「希臘の独り子」所収の「なめし革の鞭の下で」では、種村さんに倣って野溝七生子の短編「往来」を繙いている。
 「私の中にある生きることへの躊躇は誰から習ったのだろうか。・・・口をひらくたびに誤解をうみ、周囲との不調和に苦しむことが多い。これは私には、野溝一族に流れる血のなせることのように思われるのであるが・・・」と林さんは著す。「幼い頃にうけた父親のなめし革の鞭の痛さ」すなわち現実からの逃避が底辺にあって、「人生は苦悩と悔恨の堆積にほかならない」としながら、一方で父系制社会そのものである血筋から抜けられない。こうした撞着に林さんも取り憑かれていたようである。
 野溝七生子や林礼子に限らない。名前を書きたくないので匿名にするが、前項で触れた「ガーリッシュな私小説の系譜」に属する作家たちは総じて血筋を一大事と捉える。「風土から疎隔されており、大地との接触を禁じられている」のであれば、率直に個としての自己を認め、自らを解放すればと思うのだが、そうはいかないらしい。私も彼女たちから「あなたの血筋にはどのような作家が輩出されているのですか」との質問を幾度となく訊かされた。思うに、これほど傲慢かつ無礼な質問はあるまい。しかしながら、彼女たちに悪意はない。善意に則った上からの、お仕着せの問い掛けなのである。上意にもとずく好意では誤解や不調和が生じるのは当たり前である。言っておくが、林さんのことを書いているのではない、某作家のことである。

 種村さんは誰も見向きもしなくなった二項対立がもたらす渾沌と書く。カオスを相容れないものとして忌み嫌った種村さんであれば、上記文章を素直にオマージュとして読むことはできない。二重、三重の絡繰りがありそうである。「くっきりと目にあざやか」であればこそ、これはもう疑ってかかるしかないのである。いや種村さんなら、あるがままに書いたまでだよ、としらばくれるに違いない。実は種村さんが「アリアドネーの子ら」を書いた83年末、彼と新橋の中華料理屋で酒を酌み交わした、それも一度ならずである。その折に「異形もひとつの形だし、血もある種の風土だからね」と聞かされた。野溝さんが住んでいたのは新橋の第一ホテル、中華料理屋のすぐ傍だった。そのホテルへは矢川さんに連れられて何度か行ったことがある。


投稿者: 一考      日時: 2008年05月30日 12:06 | 固定ページリンク




開店時間  | 一考    

 お名前は書かないが、昨夜も客に迷惑をお掛けした。せっかくいらしたのに店が閉っていたのである。これから梅雨を迎える。従って再度繰り返しておく。
 普段は六時に店へ出るように心掛けているが、雨降りはそうもいかない。雨天は車で出勤しているが、理由があって麹町の駐車場を利用している。そこは六時半からしか利用できない。駐車場から店まで歩いて十五分はかかる。それゆえ、雨天の開店は六時五十分になる。こちらの都合で申し訳ないのだが、費用節約のため、ご協力をお願いする。


投稿者: 一考      日時: 2008年05月30日 11:18 | 固定ページリンク




同時代に生きる幸ひ  | 高遠弘美    

 ピンポンのやうで申し訳ありません。
 あの四葉の、プルーストのタイプ原稿の写真についてひと言のみ。あれは原書ではばらばらに配されてゐます。それをページ数との絶妙な調整とともに、あそこに入れてくださつたのはひとへに光文社古典新訳文庫編集部の方々のお力です。ぴつたりページが合つたときには、わたくしも感激いたしました。

 一考さんや駒井編集長以下光文社古典新訳文庫編集部の方々、また温かきお言葉を拙訳に寄せてくださつたすべての方々と同時代の空気を吸つてゐることに限りない喜びを感じてをります。


 追記
 タイプミス「わくしの」を「わたくしの」と訂正してくださつてありがとうございました。


投稿者: 高遠弘美      日時: 2008年05月28日 00:54 | 固定ページリンク




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