ですぺら
ですぺら掲示板2.0
2.0








新規ボトル  | 一考    

 野島さんから頼まれたリストだが、こちらへ掲げておく。開店に際し、自宅から持ち込んだ六十余本の新規ボトルである。解説は全文を端折った。
 新規ボトルとしてあと四十本を予定しているが、現状では棚に入らない。みなさん、飲みに来てくださいな。

タリスカー '79(スコッチ・モルト・セールス)
  ディスティラリー・コレクションの一本。フィノ・シェリーの21年もの、58.0度のカスク・ストレングス。
レダイグ・シェリー(ディスティラリー・エディション)
  ミレニアム記念の限定エディション。シェリー・フィニッシュにして、42度。
レダイグ '92(クライズデール)
  熟成は6年11箇月、63.4度のカスク・ストレングス。限定300本のシングル・カスク。
スモークヘッド(イアン・マクロード)
  43度。中身はアードベッグ。
アードベッグ '91(ゴードン&マクファイル)
  スピリッツ・オブ・スコットランドの一本。13年もの、52.6度のカスク・ストレングス。318本のリミテッド・エディション。
アードベッグ '91(スコッチ・モルト・セールス)
  ディスティラリー・コレクションの一本。バーボン樽の10年もの、60.1度のカスク・ストレングスにしてシングル・カスク。ボトリングはグラスゴーのマルコム・プライド社。
アードベッグ '00(インプレッシブ)
  6年もの、62.7度のカスク・ストレングス。
アードベッグ '93(ダグラス・レイン)
  オールド・モルト・カスクの一本。10年もの、50.0度のプリファード・ストレングス。限定348本のシングル・カスク。
カリラ '00(キングスバリー)
  ザ・セレクションの一本。ホグスヘッドの6年もの、43度、1397本のリミテッド・エディション。
カリラ・カスク・ストレングス(ディスティラリー・エディション)
  55.0度。ディスティラリー・ボトルのカスク・ストレングス。
カリラ 18年(ディスティラリー・エディション)
  43度のディスティラリー・ボトル。
ボウモア '91(イアン・マクロード゙)
  チーフテンズの一本。バーボン・ホグスヘッドの10年もの、43度。2樽、798本のリミテッド・エディション。
ボウモア12年(ディスティラリー・エディション)
  40度のディスティラリー・ボトル。
ボウモア・ダスク(ディスティラリー・エディション)
  クラレットの14年もの、50度のディスティラリー・ボトル。
ボウモア '89(ディスティラリー・エディション)
  16年もののディスティラリー・ボトル。51.8度のカスク・ストレングス。
ボウモア '82(ダンカン・テイラー)
  ピアレス・シリーズの一本。オーク・カスクの24年もの、51.5度のカスク・ストレングス。165本のリミテッド・エディション。
アイラ・ストーム12年(ジェームズ&ソンズ)
  40.0度。中味はラガヴーリン。
アイラ・ストーム・カスクストレングス(ジェームズ&ソンズ)
  58.0度のカスク・ストレングス。中味は10年ものと思われるラガヴーリン。
シングル・アイラ・モルト '98(グレン・スコマ)
  オーク・カスクの5年もの、46度、420本のシングル・カスク。中味はラガヴーリン。
ローハン・ソラン '90(スコッチ・モルト・セールス)
  ケルティック・クロスの一本。オーク・ホグスヘッドの11年もの、46度のシングル・カスク。中味はラガヴーリン。
アイラ '90(シールダイグ)
  シールダイグの一本。12年もの、55.0度のカスク・ストレングス。2樽583本のリミテッド・エディション。中味はラガヴーリン。
ラガヴーリン・ペドロヒメネス '79(ユナイテッド・ディスティラーズ)
  ザ・ディスティラーズ・エディションの一本。本品はフィニッシュに甘口シェリー・カスクを用う。43度。
ファラン・イーラ '91(イアン・マクロード)
  バーボン・カスクの12年もの、56.7度のカスク・ストレングス。318本のリミテッド・エディション。中味はラガヴーリン。
ラフロイグ・クオーターカスク(ディスティラリー・エディション)
  48度のプリファード・ストレングス。正規ボトル。
ラフロイグ10年(ディスティラリー・エディション)
  43度のディスティラリー・ボトル。旧ボトル。
ラフロイグ '90(シグナトリー)
  アンチルフィルタード・コレクションの一本。ポート・フィニッシュの12年もの、46度。
ラフロイグ '96(インプレッシヴ)
  インプレッシヴの一本。10年もの、56.6度のカスク・ストレングス。
グレン・スコシア12年(ディスティラリー・エディション)
  40度のディスティラリー・ボトル。
グレン・スコシア '92(キングスバリー)
  14年もの、46度のリミテッド・エディション。カスクはBRL、オロロソ・シェリーである。
スプリングバンク・ファウンダーズ・リザーヴ(ロッホデール)
  46度のミディアムボディ。ファースト・リリースは1800本のリミテッド・エディション。
スプリングバンク '97(ディスティラリー・エディション)
  10年もの、55.2度のカスク・ストレングス。
スプリングバンク '67(シグナトリー)
  32年ものにして49.1度のカスク・ストレングス。限定225本のシングル・カスク。
ヘーゼルバーン '98(アルシェミスト)
  オーク・カスクの8年もの、46度。2007年のボトリング。
ロングロウ '89(ディスティラリー・エディション)
  シェリー・バットの13年もの、53.2度のカスク・ストレングス。テキスト・ラベル2350本のリミテッド・エディション。
アベラワー10年(ディスティラリー・エディション)
  43度のディスティラリー・ボトル。
アベラワー15年(ディスティラリー・エディション)
  40度のディスティラリー・ボトル。
インペリアル22年(ロッホデール)
  オーク・カスクの22年もの、45.1度のリミテッド・エディション。
オスロスク '89(ケイデンヘッド)
  オーセンティック・コレクションの一本。シェリー・バッドの15年もの、59.5度のカスク・ストレングス。限定636本。
クレイゲラヒ '81(シグナトリー)
  オーク樽による16年もの、43度、限定410本のシングル・カスク。
グレンダラン8年(ディスティラリー・エディション)
  40度のディスティラリー・ボトル。
グレントファース '90(ウィスキー・ガロア)
  12年もの、46度。
グレン・マレイ・シャルドネ(ディスティラリー・エディション)
  40度のディスティラリー・ボトル。ノン・エイジだが7〜8年熟成のモルト。
グレンロッシー '89(マクギボン)
  プロヴァナンスの一本。10年もの、43度。
ノッカンドオ '87(ディスティラリー・エディション)
  12年もの、40度のディスティラリー・ボトル。
バルヴィニー '91(ディスティラリー・エディション)
  15年もの、47.8度のディスティラリー・ボトルにしてシングル・バレル。
ピティヴェアック '86(イアン・マクロード)
  チーフテンズの一本。バーボン・ホグスヘッドの14年もの、43度。4樽、1074本のリミテッド・エディション。
ピティヴェアック '93(ゴードン&マクファイル)
  コニッサーズ・チョイスの一本。14年もの、43度。
ベンリアック '91(ドナート)
  ダン・イーディアンの一本。10年もの、46度。295本のリミテッド・エディション。
マッカラン12年(ディスティラリー・エディション)
  シェリー樽熟成の12年もの、40度のニュー・ボトル。
マッカラン12年(ディスティラリー・エディション)
  並行輸入の12年もの、43度の旧ボトル。
マッカラン・グラン・レゼルヴァ12年(ディスティラリー・エディション)
  45.6度のディスティラリー・ボトル。
マッカラン '73(マーレイ・マクデヴィッド)
  リフィール・シェリーの26年もの、46度のシングル・カスク。
ロングモーン '96(キングスバリー)
  ザ・セレクションの一本。ホグスヘッドの10年もの、43度。1110本のリミテッド・エディション。
ロングモーン '90(ウィスキー・ガロア)
  バーボン・カスクの12年もの、46度。
ロングモーン12年(ゴードン&マクファイル)
  40度。
アードモア '90(ドナート)
  ダン・イーディアンの一本。12年もの、46度。375本のリミテッド・エディション。
エドラダワー '76(ジェームズ・マッカーサー)
  オールド・マスターズの一本。25年もの、49.0度のカスク・ストレングス。
エドラダワー '76(シグナトリー)
  オーク・カスクの23年もの、53.1度のカスク・ストレングス。限定260本のシングル・カスク。
エドラダワー10年(ディスティラリー・エディション)
  10年ものの旧ボトル。43度のディスティラリー・ボトル。
グレンドロナック '90(ドナート)
  ダン・イーディアンの一本。13年もの、46度のリミテッド・エディション。
グレンモーレンジ10年(ディスティラリー・エディション)
  43度のディスティラリー・ボトル。
グレンモーレンジ・シェリー(ディスティラリー・エディション)
  43度のディスティラリー・ボトル。
ノックドゥー21年(ディスティラリー・エディション)
  オーク・カスクのミディアムボディ、57.5度のカスク・ストレングスにしてリミテッド・エディション。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月20日 06:39 | 固定ページリンク




大晦日  | 一考    

 ですぺらには年末も正月もなにもない。二十五日か二十六日に岡田夏彦さんが店の営業に牴触しない時間帯で出版記念会を催してくださる。気仙沼の出版社とかで、おそらく唯一の忘年会になる。
 大晦日は平日なので営業する。例によって蕎麦か饂飩でも喰って豊川稲荷へゆく。意味もなく、徒に初詣でを繰り返している。明石に居た折は恵方参りをしたが、東京では近場で間に合わせている。護符、破魔矢、だるま、それと御神籤などは買ったことがない。阪神淡路大震災に遭遇してからというもの、災厄から身を守るのはお笑いぐさとなった。
 今年は酒を飲む算段をしている、何時まで続くか分からぬ店なれば、偶には店で店主が酔っ払うのもよいことである。正月は四日からの営業だが、この間に寡多録の文章の手直しと在庫するウィスキーの寡多録を作る。ところで、大晦日も駐車監視員は活躍なさるのであろうか。

追記。
 二十二日の海螺貝だが、年末ゆえ、正月用品の販売に追われるのでどうなるか分からないと魚屋からいわれた。入手不可能なときは日を改めて。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月19日 22:31 | 固定ページリンク




噫、肉体は悲し  | 一考    

 押しがけのバイクが池袋で故障、追い越し車線でのエンジンストップだったので周章てる。無事に追突を避けて歩道へ、押しがけを繰り返すもなんの反応もなし。交番を訪ねるが近隣にバイク屋はなし、さりとて工具の持ち合わせもない。近所の車屋を片端から交渉して歩き、親切なところを見付ける。ここまでで一時間半が経過。
 点火プラグが乾いていたので、ガソリンの供給がストップしたものと思われる。キャブは掃除してから間がなく、コックからもガソリンは吹き出ている。ガソリンタンク、コック、ホース、キャブレター、エンジンというシンプルな構造なので、ガス欠の理由は解らずじまい。車のバッテリーを拝借してエンジン始動、しかし始動に不必要なほど時間がかかる。その足で行き着けの戸田のバイク屋へ戻り、コックを注文。そのまま自宅へ戻って工具一式をバイクへ積んで赤坂へ。以上が九時出勤の言訳なのだが、この間に店へ来られた方がいらっしゃれば申し訳なく思う。
 それにしても、なにが理由なのだろうか。キャブは問題なし、とすればコック上部のプラスチックのフィルターの目詰まりしか考えられない。その目詰まりの理由はなんなのか。それでなくとも古いバイクなのでリザーバーは使わない。タンク底部の水が錆をもたらす、これはヤマハにはよく見られる症状であるが、ホンダやカワサキではあまり聞かない。そして、乗っていなかった間はひとまずタンクを空にしてから満タンにした。錆がひどかったのはスプロケットとチェーンの方である。
 一九八〇年代のバイク(CBX125)なので、時の経過は予期せぬ事態をもたらす。私の肉体同様、使い古すと因果関係の分からないトラブルが続発する。「生心を伴わないこと」と言ったのはかかる事態、すなわち肉体の悲しみを指すのであって、他意はない。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月19日 22:18 | 固定ページリンク




押しがけ  | 一考    

 気温が十度を下がるとバイクのエンジンがかからなくなる。昔のバイクはストロークが長いので排気量に関係なく、始動性がよろしくない。もっとも、現在乗っているのは小型バイクなので、押しがけは苦にならない。速度が二十キロほどになるまで車を押してクラッチを入れるとエンジンはかかる。この場合、ギアはサードへ入れておく。従って、押しがけはキャブレター方式かつマニュアルトランスミッションを搭載した車両に限られる。
 日々、行きしなと帰りにはこの儀式を繰り返している。これが大排気量だとそうはいかない。まず二十キロでは始動しない、三十キロは必要である。それとクラッチミートの際に後輪がロックしそうになるのを振り切るだけの力が必要となる。BMWやハーレーを押しがけするには相応の体力が必要とされる。この体力が歳と共に衰えてくる。勝井隆則さんではないが、「青息、吐息、風の息」ならぬ虫の息となる。
 歳には触れたくないのだが、このところ生心を伴わないことが多くなってきた。今年は寒さが意気を消沈させる。そのような時は部屋を暖めればよいのだが、布団を被ってくぐもっているばかりである。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月17日 22:25 | 固定ページリンク




モルト・ウィスキーと肴  | 一考    

 山葵と酢の物はワインに合わないと思っている。山葵菜と山葵大根は別で、私が言っているのは下ろした山葵である。酢の物は土佐酢に限られる、牡蠣酢のような二杯酢は合わない。ワインは食中に飲むものなのだが、刺激の強いものは合わない。とりわけ酢はダメで、ヴィンテージがさっぱり判らなくなる。従って、鮨屋でのワインは鬼門である。同じ醸造酒なのだが、日本酒との違いがここにある。理由は過去に書いたので繰り返さない。
 天ぷらが白ワインと相性がよい。その理由は天つゆの甘さにある。鱧や白鱚の天ぷらなどは最高、こちらは日本酒も同様である。此の伝だと羊羹も合うかもしれない。もともと羊羹は酒の肴として開発された。
 店を営んでいると、モルト・ウィスキーに合う肴をとよく訊ねられる。しかし、ウィスキーは食事をしながら飲む酒ではない。グレンアラヒ、グレンダラン、グレン・マレイ、フェッターケアンなどの食前酒を除き、ほとんどのモルト・ウィスキーは食後酒である。とりわけ、ハイランド・パーク、ラガヴーリン、アベラワー、インチガワー、クレイゲラヒ、グレンファークラス、ベンリネス、マッカランなどはその典型だろう。
 わが邦特有の水割りという飲み方ならともかく、カスク・ストレングスに相応しい食い物などあるわけがない。ですぺらの強烈なスモークは最初からあったのではない、アードベッグとラフロイグを傍らに試行錯誤を重ねるなかから生れた。既存の食品ではおそらく鮭トバ、それも宇登呂のものだけと私は思う。
 インポーターが試飲会でバゲットを薄く切って供している。あれとミネラル・ウォーターは必須と心得る。これはワインも同じである。口を変えるにあれほど便利なものはあるまい。やはりパンとチーズとスモークかしらん。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月15日 19:15 | 固定ページリンク




海螺貝  | 一考    

 先日、海螺貝(つぶ)について触れた。早速リクエストがあったので二十二日の土曜日に六人前に限って取り寄せる。旧ですぺら閉店間際のモルト会でも出したのでみなさんご存じである。
 「室内を海風がよぎり、海藻の香がほのかに漂う。微かなヨード臭とわずかな苦み、斜里で、網走で、紋別で、さらには浜頓別で知った「Briny」な匂い。小さな皿の向こうにオホーツクが拡がる。穏やかな日のオホーツクの微波、清漣な塩味、韃靼を渡っていった蝶々・・・」
 かつて海螺貝について書いた。その潮味を堪能していただきたい。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月15日 19:06 | 固定ページリンク




グレン・スコシアのニュー・ボトル  | 一考    

 ときを同じくして、キングスバリー社からグレン・スコシアの十四年ものがボトリングされた。四十六度のシングル・カスク、樽はBRL。
 グレン・スコシア蒸留所は一九九四年に操業中止。蒸留所は前世紀末にロッホ・ローモンド・ディスティラリーが買収。スプリングバンクと共にキャンベルタウンに残された僅か二つの蒸留所の一だったが、スプリングバンクの援助を得て操業を再開。特徴のないラベルと月並なブランドで損をしているが、一本筋の通った貴重な味わいと絶妙のバランスを内に秘めたモルト。陽にかざすと骨まで透ける干鰈のごときデリケートなこく、フレッシュな味わい。スプリングバンクの持つ押しの強さはないが、微かなスモーキー・フレーバーと芯のある甘味が心地よい余韻をもたらす。
 十四年ものディスティラリー・エディションがなくなり、かつての十二年ものに戻った。ボトルとラベルはロッホ・ローモンド・ディスティラリーのリトル・ミルと同一。なお、ディスティラリー・エディションよりキングスバリーのボトルが数段美味。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月14日 19:52 | 固定ページリンク




キングスバリーのザ・セレクション  | 一考    

 キングスバリー社から「ザ・セレクション」が発売された。ロングモーン、カリラ、グレン・グラント、マッカランの四種である。ロングモーンは十年ものホグスヘッドの三樽、カリラは六年ものホグスヘッドの三樽、グレン・グラントは十一年ものホグスヘッドの三樽、マッカランは八年ものBRLの四樽である。度数は四十三度、頒価は三千二百円ほど、マクレランズと共にもっとも安いモルト・ウィスキーである。ちなみに、マクレランズのアイラはカリラ、スペイサイドはオスロスク、ハイランドはダルモア、ローランドはグレン・キンチー。オスロスクはシェリー・カスクだが、カスク・コンディションがよく、ケイデンヘッド社のそれと比して遜色ない。また、ダルモアとグレン・キンチーはディスティラリー・エディションにまさるとも劣らない。かかる安価なモルト・ウィスキーが増えるのは嬉しい。
 キングスバリー社のマッカランはオロロソ・シェリーだが、グレン・グラントにもシェリー香が強く感じられる。ですぺらでは取り敢えずロングモーンを開栓する。ロングモーンとカリラを私はまだ味見していない。どなたかとご一緒できるのを娯しみにしている。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月14日 19:47 | 固定ページリンク




道産いと少しを  | 一考    

 昨日は三時間の予約。手伝いがいらしたので、厨房へ籠ることができた。油が使われないので、煮物ばかりのコースだったが、最後にお好み焼きも焼いた。この次はいつ作られるか分からない。それにしても、食べ物が予約制ではどうにもならないのだが。
 専門と言っては烏滸がましいが、魚を捌くのは得意である。カサゴのことを関西ではガシラという。そのガシラからオコゼ、鯤、鱧、太刀魚、十種ほどの鰈や河豚など、瀬戸内で捕れる魚ならなんでもこいである。もっとも東京では魚が高いので煮物に専心している。こちらは関西風で、東京のひとには物足らない味付けだと思う。しかし、肉じゃがから烏賊と蒟蒻の煮付けに至るまで、妥協する気はまったくない。私には私の調法があって、気に入らなければ食さなければよいのである。
 煮付けはことごとくが濃口醤油と薄口醤油が一対一に味醂が二の同割である。濃口はキッコーマン、薄口はヒガシマル、味醂はタカラの本醸造を用いる。これは料理人の基本で、ややこしいものは滅多に使わない。ややこしいものとは饂飩や蕎麦の出汁に東京でよく使う溜醤油である。溜は中部地方ではさまざまな料理に活用されているが、関西では主に刺身醤油として用いられる。
 味醂には小細工を施す。焼き味醂がそれで、甘味を調整して天つゆと湯豆腐の出汁を作り分ける。天つゆは甘く、湯豆腐の出汁は辛くである。辛いで思い出したが、上述の烏賊と蒟蒻の煮付けには鷹の爪が必需品である。蒟蒻が入る料理にはほとんどと言ってよいほど鷹の爪を用いる。従って、筑前煮の隠し味にも使う。
 少量の鷹の爪は結構だが、朝鮮料理のそれは遠慮したい。キムチから冷麺に至るまで、あればかりはご勘弁願いたい。モルト・ウィスキーはおろか、日本酒の香味もなにも分からなくなる。やはり、朝鮮料理には甲種の焼酎しか合わないのであろうか。そういえば、中華料理もタイ料理もモルト・ウィスキーには合わない。モルト・ウィスキーには積丹の生海胆かエゾ・アワビの肝、海螺貝、イバラ蟹の内子、牡丹海老、サロマ湖の北海シマ海老、宇登呂の鮭トバなどがよく似合う。一度、道産の海産物をごく少量取り合わせてモルト会を催したいと思っている。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月14日 08:26 | 固定ページリンク




寡多録  | 一考    

 モルト・ウィスキーのカタログが出来上った。あとは文章の手直しだが、そちらは順次書き直してゆく。「肴あったりなかったり」の方は店に鎮座する壊れた冷凍庫が処理されなければどうにもならない。で、その処理だが、明年の二月か三月になりそうである。
 スモーク盛り合わせ、焼き豚、ウィンナ、ビーフジャーキー、チョコレート、干し葡萄、ナッツ、田舎饂飩、蕎麦雑炊、梅しらすのチャーハンが現在可能なフードである。焼きそばや焼きうどんも出来るのだが、このところモヤシを三袋ほど棄てている。同様に、蕎麦雑炊も椎茸、三つ葉など野菜類の日持ちが悪い、従って三、四日を期限にあったりなかったりを繰り返している。
 上記フードは可能とは言え、二、三人前の用意しかない。他店で腹拵えをなさってからの来店を望みたく思う。

 一月からモルト会を催す。例によって第四土曜日だが、この日は貸切とする。もっか思案中だが、ちょいと面白い企画を考えている。モルト会もそうだが、原点に戻って簡単なおつまみだけを提供する。繰り返すが、事前に食事を済まされてからの飲み会であってほしい。もしくは飲み終えてからどこぞで旨いものをたらふく喰っていただきたい。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月12日 19:26 | 固定ページリンク




ザ・カスク・オブ・ヤマザキ1993  | 一考    

 過日、紹介した山崎のヘヴィリー・ピーテッド・モルトが入荷した。題してザ・カスク・オブ・ヤマザキ一九九三。ホワイト・オークのパンチョン樽で熟成された十四年もの、五百三十九本のリミテッド・エディション、六十二度のカスク・ストレングスである。ホワイト・オークとはアメリカン・オークを指す。
 業務店のみの販売で、当店は三本購入、一般には頒布しない。それとマッカランのグラン・レゼルヴァ十二年が先月末から販売されている。こちらはどなたでも購入可能。
 オロロソ・シェリー樽熟成のグラン・レゼルヴァがボトリングされたのは一九九九年が最後と記憶する。蒸留は一九八〇年の十八年もの、当時の価格は一万六千五百九十円だった。従って、八年ぶりの復活になる。十八年ものが主流だったが、十二年の方がオロロソ特有の苦みが少なく、私には好ましく思われる。購入価格は五千七百八十円、こちらもこなれた価格だと思う。十八年ものは今では三万円を超える。コレクターズ・アイテムには手を出さないのが賢明、現在手に入るボトルを楽しむのが愛飲家の智慧というもの。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月06日 16:23 | 固定ページリンク




蔵の中  | 一考    

 さくら さくら さくらが咲いた くらい くらい お蔵に咲いた

 暗い蔵のなかいっぱいに桜の花が咲く、これは戦慄である。そして詩とはなにかを伝えようとするなら、「くらい くらい お蔵に咲いた」と詩うしか手立てはない。相澤さんと話していて上記の歌に至った。曰く、詩人は自分にしか判らない暗号を以て、誰かに伝えようとして書き綴る。同じ暗号を解する、どこかに居るであろう見知らぬ友へ向けて。
 詩人の原風景とは、かくまで冷たく凍りついたものかと思い知る。エロディヤードを口吟んでいた十代の頃を想い起こす。「息めよ。ただわが前に鏡を支へよ」の一節である。冷え冷えとくまなく澄んでいた遠い遠いあの日、憶いだすことすら拒否したくなる日々。恐怖で、蔵のなかを覗くことすらかなわなかった。闇のなかで花開いた狂気、真っ白な狂気が漆黒を填める、満開のさくら。
 それにしても、相澤さんの詩を誰が読み解くのか。彼の失意の深さを知る。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月06日 15:11 | 固定ページリンク




汝の敵  | 一考    

 「ボア付きの長靴」と書けば恰好良いが、値は千八百円である。普通のゴム長であって、バタイユの「長いぶわぶわのゴム長」を想い起こす。ゴム長は長いものであって、殊更に強調する要はまったくない。かててくわえて、ぶわぶわ等という副詞は原文には含まれない。しまりなく、ぶかっこうにふくらんだ翻訳である。評論はともかく、バタイユの小説の翻訳は読まれるものがない。おそらく、なにひとつないのではなかろうか。バタイユに限らない、ブルトンやマンディアルグについても同様のことが言える。しかし、そのことは掘り下げない、掘り下げて書けば身の回りが敵だらけになるに違いない。
 さて、この場合の敵とはなんだろうか。家に寇する敵とは鏡花の言い種であり、ギュネイは内面の葛藤を家族、とりわけ女房とのあつれきに求める。家の外であれ内であれ、そのようなことはどうでもよい。対象を自己の外側に求めるのは非合理的である。仮に他に求めたとして、敵は抽象的な存在である。抽象的とは固有名詞を持たない、特定の個人ではないということ。
 「アイラ・ストーム2」で「驚いたのは偏見のなさについてである・・・意見の持ち合わせはない、なければこそ、個別の香味のみではなしをする。そしてその意見は大旨正しい」と著した。憖な意見というが、意見とはことごとくが軽率であり中途半端なものである。極論すれば、意見を持つとは先入主や僻見を持つに他ならない。「無以先入之語為主」と言われるがごとく、偏見は思考の自由を妨げる。しかし、そのいい加減さには利点もある。なぜなら、いい加減であればこそ、付け入る隙きをひとに与える。隙きがなければ世間話は成り立たない。
 意見の持ち合わせがなければどうなるのか。黙して語らず、一途にひとの意見に耳を傾ける、まるで吸取紙のように。ただし、ここには下心が垣間見られる。さらなるディメンションへ至るまでのステップの無料盗用である。もっとも、それは次元解析を心得たひとに限られる。未知の関係式を推定するなど、生半なひとでは不可能事である。されば、黙して語らずとは単に己が無知を曝け出すに過ぎない。真っ正直か、もしくは世間話を拒否する方便かもしれない。
 意見の持ち合わせがあろうとなかろうと大した違いは見受けられない。せいぜいが世間話の是非にとどまる。しかるに、敵とはそうしたものである、世間向の敵など高が知れている。怖いのは自分の内にひそむ敵である。群れたがる自分、慢心する自分、選民意識を振りかざす自分、無知を曝け出すのを恥辱と思う自分、自己解体の繰り返しを拒む自分、自分の内にひそむ敵はその勢力圏を拡げようとして虎視眈眈と窺っている。気を緩めるわけにはいかない、間断なき闘いが必要である。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月06日 14:26 | 固定ページリンク




色は匂へど  | 一考    

 店のパソコンはネットに繋いでいない。しかし、辞書は積んでいる。辞書で諸行無常を引き、いろは歌が出てきた。面白いので引用する。
 諸行無常は(色は匂へど散りぬるを)、是生滅法は(我が世たれぞ常ならむ)、生滅滅已は(有為の奥山今日越えて)、寂滅為楽は(浅き夢見じ酔ひもせず)となる。
 諸行無常とは三法印の一であると同時に念仏の大事を説く、ここにもアナロジーがある。法則と概念を重んじれば、さまざまな法則と概念は同化してゆく。この同化という言葉を類推の意で用いている。法則や概念は変わりにくいが、自らが変わることによって概念の色合いは自在に変わる。言い換えれば、解釈ひとつでどのようにもなる。
 言うまでもないが、諸行無常は諦観ではない。諸行無常が諦観になった理由は上述のいろは歌にある。繰り返すが、諸行無常は恒常的な世界の否定ではなく、むしろ、変化し生滅してとどまらない世界を積極的に捉えた言葉である。いろは歌では困る。なぜなら無常が、日々消え去ってゆく過去への咏嘆としてのみ捉えられるからである。つまり、諦観は諦感に、諸行無常は諸行無情になってしまう。
 かつて部派仏教について書いたが、「つくられたもの」と「つくられないもの」とを峻別し、無常の構造を縦横に考究しなければならない。ここでの考究とは「諸行」そのものへの問い掛けを意味する。
 もはやない過去といまだない未来との狭間に今があり、とは屡々言われることだが、だからこそ「今」は刻々変化し、さまざまな相貌をひとに招来する。ひとはその対応に追われる。対応に追われるとは、個々の生滅を自ら解析し消化し、そして昇華させるに他ならない。耕衣句の「少年や六十年後の春のごとし」にはその昇華すなわち抽象化の過程がつぶさに描かれている。
 そして問いは繰り返されなければならない。繰り返しのなかにこそ実証主義がある、コモン・センスがある。万古不易という概念がもしあるとすれば、その問い掛け自体を指す。


投稿者: 一考      日時: 2007年12月04日 15:43 | 固定ページリンク




ルンプロとルンルン  | 一考    

 ボア付きの長靴を買った、これで雨天のバイク乗車が可能になる。足先が暖かいので嬉しい。先々週は連荘(麻雀用語だとりきさんから教わった)で雨に打たれて靴はびしょ濡れ、乾かす暇がなく濡れたまま履く。足が冷たくて考え事ができない、というよりも考えを纏めることがかなわなかった。
 素足の松山さんを想起する。芭蕉から秋成、馬琴を経て明治末まで文筆で飯は喰えなかった。漱石あたりから原稿料や印税がやっと安定するに至る。もっとも、それには漱石のいささか姑息な算段あり、正月に各社の編輯者を集めての入札会を催したという。漱石が獲得した三割五分の印税に嫉妬した秋江が詳細を記述している。
 ルンペンプロレタリアート、略称ルンプロとのマルクス主義の用語があった。ファシズムの手兵として利用もされたが、そちらについては触れない。襤褸を纏い、仕事につかず、就業の意思なく、定住せず、塵あさり、物乞、ときには犯罪、売春などでその日の糧を得る。他人の救護のみに頼って生活し、相対的過剰人口からも落ちこぼれた極貧層である。ルンペンのさらなるルンペンをルンルンという。こちらは至って享楽主義的で金のないのを謳歌する。ルンプロとの違いは身なりがよく、教養もあり、ときとして非凡な才能を持つ。肉体労働だが、ちゃんとした職業を持つ。その職業の名は男妾、別名を物書きと称す。昔、新世から更新世に広く分布したジゴロフォドンという長鼻類がいたが、現代のジゴロとの関連はない。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月30日 16:21 | 固定ページリンク




無力と喪失  | 一考    

 「自分が無力である事、そして喪失感を学ぶ」と言ったとき、ではかつては力があり、喪失をもたらすところの所有があったのかと揚げ足のひとつも取りたくなる。「見るべきものを喪ったのか、それとも端から見るべきものなどなかったのか」と書いた理由がそこにある。否、これほどに曖昧な文言もあるまい。なぜなら、主語は略かれているものの、ここには確たる自意識がある。
 はなしを複雑にしたくないのでもとに戻る。「元々無力であって、今も亦無力である、なにかしら喪失感があって、今尚それは続いている」と書きなおした方が通りはよくなる。しかし、それではますます詩から遠離る。私は曖昧なら曖昧である、と断定形で文章を綴る癖がある。どうせ大したことは書かれないのだから対象を絞り込む。この場合の対象とは自分自身に他ならない。言い換えれば、考えの側面のみを捉えることになる。螺旋のような思惟の一断面なのだからますます持って恣意的にならざるを得ない。絞り込むことによって振れは小さくなり判断は甘くなるが、その分わかり易くなる。わかり易いのがよいこととは思わないが、読み解くに難渋させられるのは迷惑なときもある。もっとも、この難渋には二種類あって、表現の難解さがもたらすものと、書き手のおつむの風通しの悪さからくるものがある。後者は手の施しようがない。
 なにを言いたいかというと、詩歌と散文の違いを述べたまで。「振れは小さくな」ると書いたが、それを補って余りある力が詩歌にはある。なぜなら、詩歌はひとに類推を強要する。従って、思案を巡らすことなしに詩歌は読まれない。謂わば、読むための能力と感性が必要になる。この訓練は若ければ若いほど有効である。では散文は、となるが、こちらについては触れない。字面を追うだけの読者が多くて、このところ悲しみばかりが弥増す。
 思うに、ひとは変わらない。と言うよりは、変わらないでいようと務めるひとが多い。しかし、変えてはならないものなど、この世にあるのだろうか。世の中を変えるとは、自らをを変えることに他ならない。「自分が無力である事、そして喪失感を学ぶ」その無力を怒りに、喪失を悲しみに置換できないだろうか。のんちさんは若い。若ければこそ、その転換は易い。「怒りと悲しみ」それは書くという行為のおそらく唯一の元手であり、そして苗床である。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月29日 15:54 | 固定ページリンク




謎の美少女  | 一考    

 詩のボクシングのスタッフが連荘(れんちゃん)でいらした(連荘は勝手に変換されたのだが、麻雀用語であろうか、私には理解できない用語である。ただ面白いのでそのまま用いる)。気持の良い方々で、ご紹介いただいた幹郎さんに感謝せねばならない。
 摂食障害のひとが彼等にかかると謎の美少女となる。殊更に彼女を話題にするつもりはないが、謎の美少女の「謎」には興味がある。正体が分からないのを謎とする。この場合の謎は正体があるのを前提にしている。しかし、前提を外せばどうなるのか。要するに、正体がなければどうなるのか。
 例え正体不明であっても人はひとである。また、正体だと思っているのは本人だけで、他人から見ればそうでないこともある。その逆もある。さらに、人に正体があるとは限らない。ありそうでないのが正体で、ある日突然にあなたの正体はと問いつめられれば、誰だって返答に窮する。そして大方は属性概念で応えるのを常とする。この場合は「美少女」である。
 ところでデカルトによれば、実体のもつ本質的な性質は、物体と精神という二実体の属性をいうらしい。これでは端から実体が二分割されている。もっとも、二分割されようが、三分割されようが一向にかまわない。哲学とは概して便宜的なものである。「それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質。それなしにはある事物を考えられないような性質」は好きなだけ分割すればよい、私の知ったことではない。
 さような分割よりも、正体すなわち本当の姿といったものがあるのなら偽の姿もあると切り返すのが私の好みである。しかし、それでははなしが長くなる。ここで触れたいのは正体の持ち合わせについてである。
 さて、正体への観察は謎を招来する。謎は謎を呼び、やがて世界は謎だらけになってゆく。にんまりとほくそ笑むデカルトとスピノザ、どうやら罠に嵌まったようである。「謎の美少女」とはひとつの単語であって、分割不可能な属性概念だった。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月29日 15:17 | 固定ページリンク




無常  | 一考    

 佐々木幹郎さん来店、アイラ・ストームをリカー長谷川で註文なさったようである。店では当然アイラ・ストーム、絶妙の甘味(うまみ)に舌つづみを打つ。
 掲示板を読みて小生の情緒もとにもどりたるを確認、それを傳えに来られた由。そちらでは彼は先輩、黙坐しつつ聴きいる。「遠に投首」でも書いたが、歳を取るとエネルギーを喪う。切ないほど、ものごとに対応する力が衰える。だからこそ、書くしかない。このところ、自らの心事を暴くがごとく赤裸々に綴った。それが唯一の抽象化になると信じて。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月27日 10:17 | 固定ページリンク




はがゆい叙情  | 高遠弘美    

一考さんのブログ、いつも謹んで拝読いたしてをります。
このたびのお書き込みも心にしみました。
ただ、ひとつ、私の名前をお書きくださいましたが、もともとはqfwfqさまの以下のブログにあつた言葉です。
そちらを皆様にはごらん頂ければ幸ひです。

http://d.hatena.ne.jp/qfwfq/20070325/p1



投稿者: 高遠弘美      日時: 2007年11月27日 10:12 | 固定ページリンク




まなざし  | 一考    

 このところ、摂食障害のひとが来る。とは申せ、二度目の来店である。名前はまだ知らない。名を知らないのか覚えていないのか、定かでない。摂食障害というのも自己申告だけで、真偽は分からない。ただ、見るからに摂食障害者である。摂食障害と書いたが、正確には神経性食思不振症である。極度の不食と高度のやせとを主徴とする病いで、根には成熟することへの嫌悪感がある。そのようなひとにものを喰えとは言えない、嘔吐するだけなのは分かっている、困しむのは本人だけである。
 友人で彼女より上背があって、さらなる痩身を知っている。その彼女Y・Nさんは摂食障害者ではない。にもかかわらず、ひどく瘠せている。従って、瘠せていることは私にとって驚きとはなり得ない。ただ、どこかしら気になるひとである。
 彼女は某大学で露文を学んでいる。そのせいか、A子さんのことを訊ねるためにいらしたようである。事情があってA子さんのことを私は掲示板では書かない。
 「どこかしら気になる」と書いた。気になる一は目のくらさにある。虚ろではなく、昏いでもなく、と言って幽い、冥い、ことごとくが外れる。やはり暗い目になるのだろうか。涼やかな眼差しだが、媚を売る目ではない。淋しげな眼差しだが、なにかを訴える目ではない。どこかを視ているようで、どこも視ていない。しかし、この稀い存在が投げかける眼差しは何故か記憶の底に刻まれてある。この記憶はどこからくるのだろうか。自分の目のなかに焼き付いたもうひとつの自分の目なのだろうか。
 見るべきものを喪ったのか、それともはなから見るべきものなどなかったのか。この病いのひとは精神的に打ちとけないというが、そのあたりの消息をいつの日か話し合える日が来るような気がする。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月27日 10:10 | 固定ページリンク




もうひとつのはがゆさ  | 一考    

 「自在力についてはまた」と書いたが、ことさら書きたいとも思わない。ただ、秋、落雁、水といった透き徹った悲しみについて触れたかったまでである。
 文章を綴るとは自分のなかにあるものを吐露するまでで、次はなにを吐き出そうかと思案する。思案できるあいだは結構なのだが、早晩ひとは吐露すべきなにもないのに気付く。そこからではないだろうか、高遠さんとこで触れられていた「はがゆいやうな透明の抒情」がはじまるのは。
 「はがゆい」はじれったい、もどかしいとシノニムであって思うままにならなくてこころがいらだつの意。もっとも、「透明の」が加算されることによって、苛立ちや焦躁よりもさらに内省的な意味合いを持つ。従って、内省が内生であっても一向にかまわない。もっとも、それは私の解釈であって、本家の中井さんはルサンチマンのひとだった。怨嗟というよりも、怨恨や遺恨が強かった。そしてその怨恨は身近なひとへと向けられた。しかし、それについて書くつもりはない。

 ものはあれどもものはなし、庵はあれども庵なしという。吐露すべきなにものもないと書いたが、それは畢竟ずるに、さびやしおりや細みのようなものであって形を成すものではない。好き嫌いは別にして、そこに日本文学の特異さがある。去来抄に「さびは句の色なり。閑寂なる句をいふにあらず。仮令ば、老人の甲冑をたいし戦場に働き、錦繍をかざり御宴に侍りても、老の姿有がごとし」とあるが、その「句の色」こそが吐露の対象たりうると思う。去来によれば「老の姿」とでもなるのであろうか。
 なにもなければ、吐露すべきなにかを仕入れなければならない。仕入れ先は先人に、書物に求めるのが無難であり博く一般的である。そして仕入れ先は歳と共に変わってゆく。仕入れ先が変わるのではない、仕入れ先の「色」合いが変わるのである。繰り返すが、表層ではなく形式ではなく色合いである。
 屈折した剥きだしのこころではなく、ひとの色に恋をする、そのような消息を人のこころに恋をするという。面白い表現であって、すこぶる抽象的である。ヘンリー・ミラーの北回帰線にさびやしおりや細みを感ずると言ったら暴論になろうか。少なくとも、「はがゆいやうな透明の抒情」を私は見届ける。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月27日 01:48 | 固定ページリンク




グレン・スコシアのことなど  | 一考    

 このところ忙しくしてい、東京の酒屋へ行っていない。従って、アイラ・ストームがどこで売られているかを知らない。私は埼玉のやまいちで贖っている。インポーターがウィックなので、目白の田中屋は間違いなく扱っている。かめや、河内屋、リカー長谷川での取扱いはなさそうである。ただ、ウィックなので酒屋で註文すれば入るはず。ただし、酒屋が面倒臭がらなければのはなし。
 昨夜は土曜日、水谷、大浦、松友さんが集まってのモルト談義となった。ニューボトルが三本開き、これで新装開店に伴って入荷した六十本のうち半数以上が開栓された。ゴードン&マクファイル社が久しぶりに出したプレイヴァル、ピティヴェアック、ロングモーンは相変わらず美味。プレイヴァルは前回は25年ものだったが、一挙に32年ものになった。そのゴードン&マクファイル社の9年ものと平行してグレン・スコシアのディスティラリー・ボトルが出た。こちらは香味にいささかの変化あり。やや辛口に振られてすっきりしたが、陽にかざすと骨まで透ける干鰈のごときデリケートなこくがさらに稀くなった。逆に、微かなスモーキー・フレーバーと芯のある甘味、フレッシュな味わいは強調された。特徴のないラベルと月並なブランドで損をしていたが、今回もずんぐりしたボトルが通常のクリアーなボトルに変わった他、相も変わらぬ特徴のないラベルを用いている。一本筋の通った貴重な味わいと絶妙のバランスを内に秘めたモルトなのだが、売る気があるのかと問いただしたくなる。旧オーナーのグレン・カトリーヌ社(ロッホ・ローモンド・ディスティラリーの子会社)のボトルがさらに値を上げることだろう。
 ロングモーン15年のディスティラリー・ボトルが限定販売された、価格は一万五千円を超える。去年ボトリングされたシグナトリーの16年ものカスク・ストレングスが九千円だったことを考えてもずんと高い、飲んでいないので何ともいえないが、さぞかし旨いのだと思う。金欠病に掛かっている方にはゴードン&マクファイル社の加水タイプの12年ものが五千六百五十円、現在の為替相場を考慮しても安い。
 このところ、ベンリアックのニュー・ボトルが続く。ロングモーンとは兄弟蒸留所で、新しいオーナーのもと、ヘビリー・ピーテッドに力を入れている。アイル・オブ・ジュラもそうなのだが、最近はピートを深く焚き籠めたモルト・ウィスキーが増えてきた。値は一・五倍から二倍ほどだが、それだけの価値はある。ベンリアックのヘビリー・ピーテッドは二種ボトリングされている。
 最後に、モルト・ウィスキーの専門店ならどこへ行かれても安い。そこいらの飲み屋はバランタインやジョニー・ウォーカーなど千円のウィスキーを一杯五百円で売っている。要はダブルで元が取れる計算である。その計算なら一万円のウィスキーの売値は一杯五千円になる。ところが専門店なら二千円までで飲まれる。もっとも、ウィスキーに二千円が高いと思し召しの方はモルト・ウィスキーの専門店とはご縁がないだけのはなしである。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月25日 19:45 | 固定ページリンク




遠に投首  | 一考    

 オープンが済んで土曜日からは通常の営業がはじまる。十二、三人は来られるかと思っていたが、その半分だった。しかし半分で佳し、中身のあるオープニングだった。松山俊太郎さんを地下鉄の駅へ見送ったが、一分の道程に三十分を費やした。心臓がおかしいとかで歩かれない、五六歩進んでは休むの繰り返しで、揚句は地下鉄の入り口で地べたへ座り込んでの晤語となった。横の手摺りを鉄棒に見立てて子供がはしゃいでいる、その傍らでの喘ぎ。存在の新陳代謝のあまりに見事な演出に応えられなくて言葉が淀む。
 先に帰られた相澤さんね、寂しいのよ、話相手がいなくなっちゃってね・・・主語はどこにあるのかわからないまま・・・末期の水はうまかったね、次は会えるかなあ・・・相澤さんとそれとも私と・・・みなで会いましょう、どこかで、きっと、いつか・・・泣き出しそうになるのを怺え、即製の吃吶を演じる。
 家に暖房がなくってね、でも着物を頂戴したから風邪はひかない・・・次回は足袋をお持ちしましょう・・・君とはずっと昔にお会いしたような・・・実はですぺらではないのですよ、遙か以前に冥草舎でお会いした、と言うか言うまいか思いがたもとおる。そんなことはどうでもよい、そんなことより、いま、いまだけだから。「いまだけ」は横須賀さんの言い種だったっけ、横須賀も種村もあなたもわたしもなにもない、思案に暮れなずんだまますべては滅び同化してゆく、涙すらも。

 手伝ってくださった方から「一考さんが敬語を遣って話すのをはじめて・・・」と。人物や事物にではなく、話題に対して敬意を払っているのです。そう、「カラマーゾフの兄弟」の新訳と米川訳についての議論が一時間も二時間もつづく、ここには相澤啓三さんの時間が在った。過ぎ去りし日々、ドイツ語が跳びかった新宿五丁目、秘かにトマス・マンの宵と名づけた一夜があった。書物を繙くことの意味と怖ろしさを彼は切々と訴える。趣味で本は読まれない、読書は命懸けの為事、滅びへの道行きだと。

 神戸の季村敏夫さんの変わらぬ厚誼に感謝申し上げる、お手伝いくださった鶴留聖代さんと田中香織さんにも。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月25日 10:01 | 固定ページリンク




アイラ・ストーム2  | 一考    

 田中香織さんが飲みにいらした。出したのはラガヴーリン12年のカスク・ストレングス、シールダイグのラガヴーリン、そしてアイラ・ストームの三点。すべてカスク・ストレングスである。まずディスティラリー・エディションの12年ものは最悪、次いでシールダイグは旨いが軟弱、アイラ・ストームがこの中ではもっとも美味しいとのご意見だった。それにしても、この三点を私のように一ミリほど飲んだだけで同じ蒸留所のウィスキーと見極めるのはむずかしいとのはなしだが、それは慣れの問題である。私が驚いたのはそれぞれのラガヴーリンに対する偏見のなさについてである。
 彼女は旧ですぺら閉店間際にいらしたお客でモルト・ウィスキーに関する意見の持ち合わせはない。なければこそ、個別の香味のみではなしをする。そしてその意見は大旨正しい。ディスティラリー・エディションの12年は味に纏まりがなく、飲み手をしてどこへも連れて行かない。シールダイグにはちょいと異なる意見があるが、アイラ・ストームの粗粗しさと海塩の香、ブレストの乱暴者を想起させるがごとき港町の無骨には「枝の無骨なるに似ず、・・・さまざまの色に透きつ幽める其葉の間々に」といった風情までをも内包している。要するにアイラ・ストームの前ではシールダイグすらが影を淡くする。
 ラガヴーリンのディスティラリー・エディションを否定するのは難しい。マッカランやボウモアやスプリングバンク同様、それなりに美味だからである。と言うよりは、蒸留所元詰めに対する信仰のようなものがわが国にはある。ディスティラリー・エディションは大量生産のため、斑は少ないかわりに品質は平均化される。この平均化を日本人は好むのである。どこそこの蒸留所の酒はこのような味であると、謂わば安心を買っている。飲む度に味が変われば安心して飲んでいられないのが本音らしい。
 ところが、カスクは均一にはできていない。レダイグのシェリーを持ち出すまでもなく、ボトリングの度に香味は変わる。蒸留所は否定しているが、ラガヴーリンの一部はリフィール・シェリーと私は思っている。これが曲者で、16年ものはこの十年で随分と味が変化してきた、当然不味い方へである。もっか生産調整中だが、このあとどうなって行くのか危惧している。
 それにしても、アイラ・ストームは旨い。それを再確認させてくださった田中香織さんに、スランジバー。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月23日 13:37 | 固定ページリンク




アイラ・ストーム  | 一考    

 先日もカリラのカスク・ストレングスやインプレッシヴのアードベッグの注文を受けたがお断りした。インプレッシヴのアードベッグとラフロイグは旧店舗では最後のサービスとして特価で提供した。そして値は元に戻った、それでも安いのだが。また、グレン・ドロナックのトラディショナルは原価でお売りした。トラディショナルはかつては安かったのだが今は高い、それを承知で仕入れてきた。要は67年や69年もしくは74年のアードベッグや蒸留所に関わりなくトラディショナルのような古いボトルは売りようがないのである。売りようがなければ置かなければよいのだが、そうもいかない。なかには金額に拘らないお客さまもいらっしゃるからである。また、カリラのカスク・ストレングスは旧店舗では切れたままだった。値がほぼ倍になり、置くのをやめたのである。新店舗ではそうもいかないので仕入れてきた。ところで、専門の業務店にはカタログは置いていない。みなさんはどうしておられるのか、不思議である。
 高いウィスキーがあるかと思えば安いものもある。例えばグレンファークラスやハイランドパークである。為替は対ポンドで三割五分ほど騰がったが、値上げはその範疇に収まっている。
 安い酒といえばアイラ・ストームとのボトルがウィックから売り出されている。蒸留所未公開のアイラモルトで、樽の種類も本数も不明である。ただ、シングルカスクで三百六十本ほどと聞く。見立てはオークカスクのラガヴーリン、香味は至って美味。加水タイプは12年と記載されているが、カスク・ストレングスは10年ものと見た。今年一番のモルト・ウィスキーである。重厚かつなめらか、ベルベットのような味わい。焦げたヘザー、強いピート香、潮、海風、海藻の香り等、一度飲んだら病みつきになる銘酒中の銘酒。強烈な個性を包むエレガントなこくとシェリー酒の妙なる甘味。フィニッシュはパワフルでスモーキー。愛惜措く能わざる逸品。と書けばモルトファンならずとも必ずや酒屋へ購入に走るはずである。兎にも角にも安い、五千円札でお釣りがくる。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月21日 11:57 | 固定ページリンク




ナオさんについて  | 一考    

 渡辺ナオさんがカウンターを仕切ってくださったので、昨日は終日厨房へ籠る。厨房のはじめての活用だったが、カウンター嬢がいなければフードは無理だと確認するに終わった。やはりひとりで両方をこなすのは無理、一部のスモークとウィンナーか肉饅ぐらいが関の山だろう。
 ナオさんにですぺらを営業していただくのも一興、飜ってなべさんを私が取り仕切る。それでは店主が交代するだけで意味がない、どうもうまくない。なにかしらの解決策はないものか。
 土曜日には合鴨スモークの註文があった。はじめての依頼であり、他に客がなく、その心配もなかったので作る。「他店のスモークは食べられなくなった、やはり旨い」と言われて喜ぶ。以前と違って、原価で難儀させられる要もなく、しかるべき厚みで提供できるのが嬉しい。赤坂の鮨屋のネタのようなことは今後はしたくない。
 食器へのこだわりをナオさんから指摘される。わずか半年ですべて無くしたが、最初に用意した四十個の箸置きは備前の灰焼き、一箇三千円の品物だった。値打ちを知っての盗みなら納得がいくが、どうもそうではなさそうである。今回の猫の箸置きは百円、こちらの方が受けは良い。フードがはじまれば徐々に差し替えてゆくつもりだが、高価な食器は家で出番を待っている。
 ナベサンについてはかつて書いたので、ナオさんについて一言。襟を抜くのを去なすというが、年長者のしたり顔をあしらうときの軽みには色気すらある。三十路前半ながら、おそろしくきめの細かい人生を送っている。きめが細かいとは気配りを指し、気配りとは存在の相対化を言う。まるで安保の時代が今様の服をまとって顕れたようで、ある種の懐かしさを憶える。遅れて生れてきた人種のひとりで、時代を取り戻そうとして気を揉んでいる。「遅く生れた」ひとはみな生き急ぐ、その困しみは一種のはがゆさに色彩られている。彼女もまた、あきらめを嘆きの霧の道しるべとするのだろうか。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月19日 14:48 | 固定ページリンク




芳賀啓さんについて  | 一考    

 看板が完成。私のような日陰者に看板を背負込むような商売ができるのだろうか、嬉しいと同時に一抹の不安がよぎる。

 分かってはいたが、文学散歩へですぺらからの参加はなし。皆さん自分への興味はあっても文学への興味はお持ちでなさそうである。今回の参加はいつもより少なくて十四名、少なくても十四名集まるところにナベサンの底力がある。
 前回は山王・馬込文士村散歩だったが、コースは大森八景坂(別名薬研坂、薬師坂、池上道、現池上街道)、天祖神社(八幡太郎義家鎧掛の松跡、俳人景山の大森八景碑など)、山王二丁目遺跡、「日本帝国小銃射的協会跡」碑、大森テニスクラブ(旧小銃射的場)、闇(くらやみ)坂、大森ホテル跡、望翠楼ホテル跡、薬師堂・「桃雲寺再興記念碑」「仙元大菩薩」碑(冨士講碑)、大田区立山王会館・馬込村文士資料展示室、熊野神社、善慶寺・都旧跡新井宿義民六人集の墓、片山広子・旧宅跡、山本有三・旧宅跡、倉田百三終焉地、磨墨塚(平家物語宇治川の合戦の梶原景季の愛馬)、萩原朔太郎・旧宅跡、川端康成・旧宅跡、三島由紀夫旧邸、衣巻省三・稲垣足穂住居跡、宇野千代・尾崎史郎・旧宅跡、大田区文化財・冨士講灯籠、今井達夫・三好達治・標識、山本周五郎・旧宅跡、慈眼山満福寺(梶原景時墓、磨墨像、室生犀星坪庭・句碑)、室生犀星終焉の地、小林古径・旧宅跡、区立郷土博物館、蘇峰公園・大田区山王草堂記念館だった。

 それにしても、芳賀さんの博聞彊志に驚かされる。あれだけ仕事をし、浴びるほど酒を喰らい、そして歩く、ただただ歩く、二十キロでも三十キロでも歩くのである。歩くから多識になるのか、それとも見聞が彼を歩かせるのか、ひょっとしたら、彼は生まれ落ちたときから学芸万般に通じていたのでなかろうか。
 彼にとって文学は喋るものではない、要は自己主張のネタにはならないのである。このあたりから並のひとではない。現場での叩きあげとは彼のようなひとを言う。彼はひたすら歩き、ひたすら書く、そして沈思黙考のあとふたたび歩く。「現場のない文学なんて」との呟きが聞こえてくる。
 蘇軾に「三杯卯酒人径酔、一枕春睡日亭午」とあるが、卯酒は彼のもっとも得意とするところで、私も何度かお付き合いいただいた。卯の刻(午前六時ごろ)に飲む酒とは申せ、はじまるのは宵の口に決まっている。あの小さな体躯のどこに多量の酒の処理器官が秘められているのか、不思議である。
 それとカラオケがある。もっとも、彼の唄は郁乎さんのそれにも似て、がなり立てるのみ。ひとには叫声としか聞こえないのだが、全身を振るわせての熱唱にみなは圧倒される。阿鼻叫喚の巷を表現する第一人者とでも言っておこうか。これは既に巧いとか下手とかいう問題を超えている。文学同様、歌にあっても彼に手抜きは許されないのである。久しぶりに彼の唄が聴きたくなった。明日はお共させていただこうか。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月18日 02:19 | 固定ページリンク




ナベサン文学散歩の会  | 一考    

第21回ナベサン文学散歩の会

急ですが、ナベサン文学散歩07年11月は18日(今度の日曜日)です。
集合時間は14:00
集合場所はJR総武線「飯田橋駅ホーム」御茶ノ水寄り。
案内者は芳賀さん。
健脚向き長距離ですが、最後は「プレ・オープン中」の「ですぺら」で打上。
日曜日でお休みのところ一考さんは5時には開けてくれるそうです。ちなみに新
デスペラのオープニングは23日と。
参加者の人数把握のため16日までに返事を下さい。(世話人渡辺ナオ)

コースは以下の通り。
[外濠をあるく]飯田橋・歩道橋・船河原橋→神楽河岸公園→牛込見附跡→外濠土手→
新見附橋→
市谷見附跡→南北線市ヶ谷駅江戸城歴史コーナー→市谷八幡→長延寺谷跡→外濠
公園→四谷見附跡→外濠土手→尾張徳川屋敷跡→喰違見附跡→紀伊国坂→赤坂見
附跡→赤坂プリンスホテル旧館前→清水谷公園→弁慶橋→赤坂見附駅(→ですぺ
ら)

ゴールデン街の飲み屋「ナベサン」恒例の文学散歩です。案内者は地図出版の之潮(コレジオ)の芳賀さん。参加をご希望の方は一考まで連絡をください。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月14日 06:34 | 固定ページリンク




自在力  | 一考    

 店に飾った吉岡実さんの詩に「来てみれば秋 ここは落雁の見える 寂しい水の上の光景」がある。飛び立つ鳥ではなく舞い降りる鳥、行き場を喪った苛しいやるせなさがここにはある。先日、落魄と魚卵について書いたが、あれはそっくりそのまま吉岡さんの詩の、そして死のモチーフでもあった。
 かつては大槻鉄男さんを懐うて涙したが、近頃は理由もなく泣き出すことが多くなった。さなくとも夥しい先達を友を喪ってしまった。今や、生き残りを数えるが易くなった。

 ですぺらが再開されてから一日一食が続く。自宅での朝飯か、それを逃すと松屋での牛丼。そもそも料理人の沽券にかかわるとしてファーストフードの店は敬遠していた。抵抗がなくなったのは四国でマクドナルドへ入ってからである。これが滅法旨かったと記憶する。それからあとは雪崩れ式で、沽券などという見体(みてくれ)を構う要はなくなった。赤坂の松屋で牛丼を頬張る横須賀さんを想い起こす。そういえば、彼も一日一食をきまりとしていたようである。もっとも、彼は調法の心得あり。蛸、藻屑蟹、鮟鱇などを買ってきて手料理で持て成すのも屡々だった。
 松山でのファーストフード店初体験は四十路を超えてのはなし。爾来私はみさおを見失うが、これは大きな影響を及ぼした。沽券に限らず、ありとある見てくれからの解放を私にもたらした。見てくれからの解放とはアナロジーの活性化を意味する。
 他人の目に立つような言動や服装、もしくは自己主張の顕れとしての見体、見栄、外見、見かけ、見場、体裁を構う、まるでそれが人の値打ちや品格の証明であるかのように。要するに、大した意味もなくひとは刷り込みに汚染される。そして最大の誤謬は「見られている」との意識である。言い換えれば、ひとは皆「見られてい」そして誰も見ていない、見ているのは自分だけ・・・と言った自意識の検証ではなく、それらを一挙に跳びこえるのがアナロジーである。特定のものになろうとするよりも何ものにでもなりうる、そうした自由を手に入れたのである。これは一種の八方番で自在継手のようなものと思っていただいて不具合はない。
 時として、ひとは秋になり、落雁になり、そして水に成り代わる。この自在力についてはまた。


投稿者: 一考      日時: 2007年11月13日 19:57 | 固定ページリンク




オープニング  | 一考    

 六月二十二日で閉鎖を余儀なくされた「ですぺら」ですが、この度、おなじ赤坂でモルト・ウィスキー専門店として再開することになりました。コンクリートで囲まれた小さな窩主のような店で、小村雪岱から西脇順三郎、永田耕衣、吉岡実などの書や色紙に飾られた空間です。前店同様、ご贔屓のほど、どうかよろしくお願い致します。
 店はすでに細々と営業をはじめておりますが、オープニングは十一月二十三日金曜日、午後四時から十時です。
 赤坂見附から徒歩二分、青山通りからみすじ通りへ入って五軒目、白木屋の向かえです。もしくは赤坂見附のべルビー赤坂口を出て真ん前の田町通りを右へ、坐和民が入っている扇屋ビルを抜けると目の前が白木屋です。こちらだと所要時間は一分。
 前の店より一筋、見附の駅に近くなります。見附へ近くとは申せ、この一劃はひとけも疎らで喧噪から取り残されて、まるでゴーストタウンです。赤坂の北端に位置し、青山通りを挿んでサントリーのビルがあります。

 ですぺら  渡辺一考
 東京都港区赤坂三丁目九の一五 第2クワムラビル三階
 ☎〇三‐三五八四‐四五六六


投稿者: 一考      日時: 2007年11月13日 12:17 | 固定ページリンク




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